青年はおそろしく凡夫の見た目をしていた。ハリのある肌は美しかったが、それは単なる若さの象徴に他ならない。顔立ちも背格好も十人並みで、ともすれば後ろに控える専属立会人のほうがよほど見栄えした。
青年は梶隆臣と名乗った。なんて記憶に残らない声だろうと思った。
「はじめまして梶隆臣くん。ゴーネンだ。なんと呼んでくれても構わないが、パパは遠慮させてくれ。その他大勢に紛れてしまうのは嫌だからね」
習慣的に手を差し出すと、梶は一瞬たじろいで、それからそろそろと俺の手を握った。戯れに指の腹で梶の甲を撫でてみる。「わっ」 臆面もなく声を上げて、梶はアジアで多数派を占めるこげ茶色の瞳を左右に揺らめかせた。ギャンブラー梶隆臣の武器は闇に染まらない感性と素人然とした立ち振る舞いらしい。それを聞いた時にはつい『清楚系AV女優みたいな話だな』と率直な感想を口にしたが、確かにここまで平凡が服を着て歩いていると、一周回って稀有な存在かもしれなかった。
「出会えてとても嬉しいよ。証拠にほら、」
握手で奪ったままだった梶の手を自分の胸元に引き寄せる。若くしなやかだった“あいつ”から奪った健常な心臓が、布一枚を挟んで梶に振動を伝えた。「ここもこんなに跳ねてる」
トットット。わずかに速く、けれど統一の間隔を守って心臓が鼓動を刻む。梶は突然のことに目を見開きはしたものの、先程のように声を上げたり、手を払うようなことはしなかった。
場を飲まれないよう気を張っているのか、それとも今や彼の素は『こちら』であるのか。
先ほどのオドオドとした青年が無性に恋しくなって、俺は一層梶の手を胸に押し付けてしまう。若者らしからぬ皮膚の厚さだった。苦労の多い半生だったのだろうと邪推して、梶の年齢不相応に荒れた手のひらを己の内側から叩き、言う。
「あぁ、それとも……君と出会ってる時の心臓はこうかな?」
ドグン、ドグン。
故意的なものであっても大きく心臓を動かすことは苦しい。体温がグンと上がり、駆け抜ける血潮に指先が震える。頬に熱が集まり、口が乾き、なのに目は涙の膜を張った。
己の追体験とするにはあまりに青く遠い感情が、己の体内で生まれ興味と嗜虐を孕んで伝播する。あいつの心臓が跳ねる。大きく、速く、まるで初めて恋を知った少年のように。
「………」
梶は無言を貫いていた。表情を取り繕うことはある程度諦めたらしく、俯いた顔に少々の朱が差している。暴かれた関係を恥じているのか、うるさいほど脈打つ心臓に情人の姿を見ているのか。残念ながら詳細は分からなかったが、梶は赤くなったその顔を隠そうとはしなかった。どころか逆の行動を彼は取った。うっすら色付いた頬を持ち上げ、邪気のない微笑みを俺に向けてくる。愛はこうやって伝えるのだと教えるかのように、梶には情を剥き出すことに一切の躊躇がなかった。
「心臓って、生物によって脈打つ回数が決まってるらしいですね」
梶の特徴のない声が口火を切る。どこぞの高級車のようになめらかに走り出した音は、気付けば鼓膜の横にピタリと寄り添っていた。
「ネズミとか小動物は凄く心臓が早くって、逆に長生きする動物はゆっくり心臓が動くそうです。人間は中間くらいだったかな。僕はギャンブルをしてる時いつも心臓が飛び出そうになってるから、きっと普通の人より沢山心臓を動かしてるけど」
えへへ、と笑い声を上げた梶は微笑んだまま俺と自身の手を視界に収めた。相変わらず過剰にポンプしている心臓を手のひら越しに見つめ、愛おしげに目を細める。愛情を錯覚するほどの熱視線だったので、「貘さんの心臓で遊ぶの、やめてくれませんか」という梶の鼓動に対する拒絶の言葉を俺は一寸理解出来なかった。
「この心臓は、いつか貘さんに帰るものです。無駄遣いしてほしくないんです。貘さんのものを、貴方に減らされたくない」
梶の手が俺から離れていく。再び捕まえることはせず、梶の指先がどこに着地するかを見届けた。俺から離れた梶の手は、そのまま指先を揃えられ、梶の胸元に収まる。ボウ・アンド・スクレープ。箸の持ち方もろくに知らない青年が、貴族風の美しいお辞儀をしてみせる。アンバランスで不釣り合いで身の程知らずなその姿が、しかしギャンブラー梶隆臣が何より得意とする領域の言動であることを、俺は制御できなくなった心臓の音で思い知った。
「また会いに来ます。今度は勝負と覚悟を持って──それまで心穏やかな日々が、あなたに続きますように」