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「梶、賭けをしないか。お前が俺に惚れるかどうかの賭けだ」
「嫌だよ。賭けが成立してない」

 
 恥ずかしながらポカンとした。世界の闇を暴いてきフロイド・リーともあろう者が、ケツの青いガキの心一つ暴けていなかったと瞬間的に悟る。思わず顔を覆った俺に、梶は「しっかりしなよ国際指名手配犯」と言った。

「………いつから?」
「え、それ本人に聞いちゃうの? 気付いてなかったのもビックリだけど、フロイドって『勿論俺は知ってたぜ~』って空気出すと思ってた」
「俺は誠実な男だぜ梶。テメェがポカやらかした時には正直に言うさ、『あぁ俺はなんとマヌケで滑稽な奴だろう! 女神よ、どうかこの愚鈍な男に君の愛を教えておくれ!』ってな」
「それってドラマのセリフ?」
「そりゃ俺が詩人だっていう褒め言葉か? お前のために考えたオリジナルだよ」
「ひえっ、女神!」
「モナリザでも良いぜ。陰謀論が多くて俺の好みドンピシャだ」

 趣味悪いなぁ、とふにゃふにゃ笑いながら梶は洗濯物を畳んでいる。梶のサイズより二回りほど大きいトレーナーは同居人マルコのパジャマらしく、デカいキャンパスの上には日本の幼児アニメのキャラクターが所狭しと印刷されていた。優に一〇〇体はいる。それでも登場キャラの全てではないという。日本のアニメカルチャーはやはり桁違いだ。

「三ヶ月前に会いに来てくれたでしょ。あの時好きになった」

 誰のものだろうか。下着の束に手を伸ばしながら、梶が自分の恋を暴いた。

「あぁあの時か。ん? だが俺はあの時、何か特別なことをしたか?」
「特にはしてないよ」
「そうだよな」
「でも会いに来てくれたし、また会いに来るって言ってくれた」
「そうか」
「うん」
「多分だがお前はその前から俺に惚れてたぞ」
「うん、そうだね。きっとそうだった」

 今日も今日とて捜査網の隙を縫って決死の思いで会いに来たわけだが、梶は出迎え時に僅かに微笑んでハグに応じただけだった。「会いたくなかったか?」と聞くと「会えたことは嬉しいけど、タイミングが悪いよ」と渋い顔をする。洗濯物を取り込んだばかりだという梶は、そこからずっと家事の片手間に俺の相手をしていた。梶が家事。これがジャパニーズジョークってやつだろうか。なるほど。二つの意味で面白くない。

 仕方なしに世間話をしながら梶の家事(本当に面白くない)を見届けている。洗濯物を畳む手が随分と手馴れていて、こいつの生育環境のどこで洗濯物をきちんと畳めるようになったのか不思議に思った。暴けていない過去など無いはずだが、クリーニング屋のパパでも居たか。そう思い尋ねてみると、なんてことはない、小学校の授業で覚えたのだと言う。

「家庭科の時間にやったんだ。時間内にわざわざテストがあったから、覚えといた方が良いと思って練習した」

 そう答える梶は環境こそあれ幼少期から頭が回る子供だったのだろう。発芽する機会がなかっただけで、この子供は本当は最初からずっと聡明だった。結局干乾びかけの根に水を与えてやったのは闇の住人だったが、根腐れをギリギリのところで食い止めて続けてきたのは、それでもこの国の福祉と良心だ。

「すごいな日本の教育は。よく行き届いてる」
「うん、良い国だと思う。学校で教わったことだけでどうにか生きていけるし」

 栄養素の重要性も割引の計算の仕方も梶は学校の授業で学んでいた。この国では義務教育が子供たちの最後の生命線としてきちんと機能しているらしい。喜ばしいことである。梶はこの国が好きだと言った。
 良い国。確かにそうだ。問題ごとも多く抱えてる国だろうが、世界中を見回った人間からしても生きていくにはそう悪い場所じゃない。

「なぁ梶。お前、この『良い国』を捨てることは出来るか?」
 たが同時に、この国は窮屈でもある。いつまでも時代錯誤な因習が蔓延って、はめる指輪の場所も選べない。

 唐突な提案だった。先程恋の始まりを教えてもらった男が言うべきものではなかった。承知はしていたが、何せ我々には平穏な時間が少ない。梶が家事を出来ている、この退屈すぎるほど穏やかな時でないとまとまらない話だってあった。
 キョトン顔の梶は、相棒を見つけきれずにいる靴下片手に首を捻る。

「お、うー……亡命しろって?」

 伺うようにこちらを見る梶の顔は赤い。どうやら既に察しているようだが、一度は予防線を張らないと気が済まない性分らしかった。乗ってやろうか。いいや、こんな回り道に付き合ってやる義理は無い。

「お前が本当にモナリザだったら良かったのにな。絵画には国籍がない」
「わ」
「だが代わりに、お前には自己決定権がある。自分で選べる。国も、相手も」
「わ、わ」

 洗濯物を畳む手がようやく止まる。腹立たしいことに違う男のシャツを畳んでいた梶は、真っ白なシャツを膝に置いてその上に自分の手を重ねた。リングピローのようにも見えるその上で、梶が己の左手をさする。

「うぅん……国は捨てられるけど、人は捨てられない。貘さんの服って置いとくとすぐシワになっちゃうし」
「おーおーお前って本当にそういう奴だよな。愛してるぜ畜生。一週間嘘喰いには同じシャツでも着せとけ。その間に手続きくらい終わる」
「うーん、すごい展開の速さ」

 パスポートどこにあったかなぁ、と梶が立ち上がる。俺に負けないくらい展開が速い梶に吹き出して、パタパタと小走りになった梶の背中を追った。