「門倉さんに屋形越えの協力をしてもらいたいんです」
秋だった。ギャンブラーのくせにおべっかも袖の下も壊滅的センスな梶は、何を思ってか三十代独り身男への手土産にアップルパイを持参した。
「有名なお店らしいんです」
「はぁ」
「門倉さんっていったら僕の印象はリンゴなんです。島で剥いてくれたリンゴ、凄く嬉しかったから」
言葉と共に受け取ったアップルパイはズシリと重く、聞けばリンゴを丸ごと二つも使って作られているらしい。「ホールですか」「ホールです!」のやり取りをこなして、辛党の門倉は「ありがとうございます」を冷めた声で口にした。「で」
「はい」
「屋形越えですか」
「はい」
突然掘り返した会話だったが、梶は真っ直ぐに門倉を見た。
「失礼ですが、何故私なのです?」
梶は稀有な会員だ。運が良いと言い換えても良い。彼の専属立会人は先の順から零號と一號が占め、門倉は三番手だった。たしかに門倉の號数も相当な上位だが、梶の手元には既に零號のカードが揃っている。いわば屋形越えにおいて梶はシード権を得ているような状態で、本来遠回りをする必要が無い人間のはずだった。
「嫌ですか?」
「嫌というより、理解しかねます。夜行立会人も能輪立会人も貴方の手中にあるはずです」
「夜行さんは貘さんの専属でもあるし、能輪さんはその……すごくベテランじゃないですか」
「ほう、我が賭郎が誇る一號立会人を梶様は老いぼれだと」
「ちょっとぉ」
「屋形越えには若い男を連れ込みたいとおっしゃる」
「勘弁してください門倉さん。僕そんなことが言いたかったわけじゃないです」
当たり前じゃボケ、と門倉が突っ込む。じゃぁなんでそんな意地悪言うんですかぁ、と唇を尖らせ、梶は気安い調子で門倉をなじった。初めて専属立会人として梶の勝負に立ち会ってから数年が過ぎた。会員と立会人の間柄である以上『苦楽を共にした』などという表現は間違ってもするつもりはないが、門倉は窮地に苦悩する梶も、勝利して安堵の笑みを浮かべる梶も知っている。いつまでも心を凍てつかせておくなど土台無理な話だった。
「……梶、五百億は途方も無いよ」
無意識に口調が崩れる。いつからか梶と向き合うとき、門倉の口は故郷の言葉を紡ぐようになっていた。
「はい、分かってます。改めて凄い条件ですよね、五百億と国家機密レベルの秘密持ってこいだなんて。同列で語られてる僕の命だけ何だかすごい浮いてる」
「浮いとらんわ」
「そうですか?」
「浮いとらんよ」
梶が百億の賭けに勝ったことは、賭郎本部でも一日の話題をさらうトップニュースとなった。金額や勝敗が直接的な驚きになったわけではない。あの金に頓着しないお屋形様の腹心が、自ら大金を賭けたことが様々な憶測を呼んだのだ。
お屋形様にせっつかれて作ったオーダースーツを数着持っているだけの彼は、今日も賭郎本部をGUの黒シャツで闊歩し、無料だからという理由で休憩室の自販機にコーヒーを飲みに来る。一日の出費を五〇〇円で抑える方法さえ知っている彼に、一体百億はどんな恩恵をもたらせるだろうか。
人の好い笑顔を浮かべる一方、梶はその実、なかなか本心を外に晒さない人間だった。周囲は梶が密かに持っているだろう様々な思惑を邪推して、御屋形様に従順に付き従う彼にあれやこれやと好き勝手な憶測を立てる。百億は裏社会においても勿論大金だ。百億あれば何が出来る。島が買える。銃器が揃う。世界一の女を口説ける。屋形越えの条件の一つ、五〇〇億の準備金が五分の一埋まる。
あれだけ溺愛されてて屋形越えなんかするかよ、という人間もいた。外から見ても二人の関係は極めて良好であり、激務の斑目を「貘さん無理しちゃだめですよ」と気遣う梶の横顔には常に親愛が浮かんでいる。
言わんとすることは分かる。だが門倉は、梶が斑目を心酔するからこそ屋形越えを決意するのだろうと理解していた。屠ることは常に憎しみを伴っているわけではない。若いライオンが老いた父を群れから追い出すように、ギャンブラー同士にしか分からない恩返しの方法があるのだろう。
「まぁ金はな、天下の周りもんじゃし穏便に集めることも出来るかもしれん。けど搦手を得るためには人の弱みを食い物にせにゃいかんし、號奪戦はどうしたって人が死ぬ。梶が知っとる人間と梶が知っとる人間とが殺し合うんや。梶のせいで」
言葉を躊躇はしなかった。選び抜かれた鋭利な刃が、梶の柔い心を切り裂いていく。可哀相だと思ったし、可哀相と思うことが既に手遅れなのだとも思った。
「……」
梶が唇を噛む。ぐらりと揺れた瞳に、己が招いた結果ながらつい『門倉雄大』の胸がざわつく。今は勝負中では無いし、フォローしても良いはずだ。そんな甘ったれた思考がすぐに欠けた脳内を走った。
理解していると先ほどは言った。
けれど実際のところ、門倉は梶の屋形越えを『納得』はしていない。
「のう梶。お前がひゃっぺんお屋形様に勝てるようになっても、ワシはな、お前が屋形越えを出来るとは思えんのよ」
立会人が命を賭ける場面は多い。屋形越えに必要な資金と情報を集めようとすれば自然と鉄火場の周辺は苛烈で残酷なものとなり、それに連なって会員は勿論、会員の傍らに立つ立会人に降りかかる火の粉も熱を増していった。
特に専属立会人は、担当会員の賭郎勝負を最優先とする決まりがある。会員が屋形越えに備えるならば専属立会人も相応の覚悟を持たなければならず、勝負と粛清は増える一方、命を守る手立ては如実に減っていくのだった。
屋形越えに伴う者として、高齢の能輪や先の戦いで多くの暴を削がれた夜行はきっと肉体が耐えきれないだろうと門倉も分かっている。おそらくソレは梶も同意見で、だから梶は、これ以上ない手札を伏せたまま門倉に協力を仰いだのだと思った。
門倉が傷を付けたばかりの梶の心には、以前から深く打ち込まれ抜けない楔がある。先代屋形越えに際し、梶の知人でもあった斑目の“暴”は命を落としていた。最強と謳われた男だった。頭が良く情にも厚い好漢で、きっと死んではならない人物だった。でも死んだ。
梶の唇がわなないている。悔しいのか、全て図星なのか、とにかく下を向いたまま沈黙していた。
反論も出来ないような方に屋形越えが果たせますか、と叱責したかったが、門倉の喉は引き攣って声が出ない。今追い打ちをかけんでもええじゃろと、忌々しくも『門倉雄大』が邪魔をする。
門倉は視線を自身の手に移す。たっぷりと蜜を含んだリンゴの焼き菓子が、門倉でも知っている高級なパティスリーの包装紙で包まれていた。島で剥いてやったリンゴ何個分の価値かのぉ、と口には出さずに試算し、喉の奥で腹の底、『門倉雄大』が顔をしかめていた。
体調が悪い時にリンゴを食べるなんて誰でも簡単に思いつくことだ。あの島にはリンゴが多く流通していたし、器用な門倉は果物など一分程度で剥いてしまう。門倉がやってやったことなど、たかだかその程度の施しだった。大切な思い出にするものでも、エピソードに絡めて贈り物にするようなものでもない。アップルパイを見て己を思い出す必要なんて、本当は無いはずなのだ。
小さな思い出を拾い集めて、せっせと柔い心に運んで後生大事にしているような男だと門倉は梶を見て思う。
そんな男に、梶隆臣に、どうして悪魔と同じ戦い方が出来るだろう。
「最高の舞台を見届けるためなら命なんぞ惜しくもない。零號の称号もそそるけんね、獲ってええなら喜んで獲るよ。そんでも……梶、おどれに、己が私欲でワシを殺す覚悟は本当にあるんか」
梶になら命を賭けても良い。それは二號立会人、あるいは門倉雄大としての総意だ。
けれど。
血にまみれた門倉に縋りつき、ごめんなさいと泣きじゃくる梶にもし出会ってしまったら。震える手で門倉にリンゴを剥き、嬉しかった思い出を罪悪の泥で梶自らが上塗りすることになるのなら。門倉は自分がどうなるかもはや想像が付かない。ギャンブラーとしての梶に失望するなら良いが、涙で濡れぼそった顔を拭って「そんなに泣くなら屋形越えは、」と切り出すようなことがあれば、その瞬間に死ぬのはギャンブラーの梶隆臣だけではない。立会人門倉雄大も同時に死ぬのだ。
門倉は梶の返答を何分だろうと待つつもりでいた。
だが実際の無音はほんの三秒ほどで、金色の沈黙を止めたのは、梶の放った銀色の雄弁だった。
「その覚悟が一生持てない臆病者だから、僕は門倉さんを選んだんです」
拳を握りしめた梶は、門倉の予想よりずっと真っ直ぐな声をしていた。言葉が持つ自虐の空気など意に介さず、梶はそれが誇りであるかのようにはっきりと門倉に告げる。地面を見つめていた梶の視線がせり上がってきて、門倉の隻眼とかち合った。きらきら光る梶の瞳がどうしたって眩しくて、門倉は残っている右目を耐えきれず細めた。
「僕が賭けているのは金でも命でもない。貴方だ。門倉さん。僕は、貴方にだって賭けてる」
だって貴方は強い、と梶が言った。瞳を矢じりのようにきらめかせて、梶の視線一つ、言葉一語ずつが銀色の矢となり門倉に突き刺さる。自分が強いことなんて門倉は己が一番理解している。頭の出来も良い。克己心が強く、理性的に振舞え、善悪に立ち向かう度胸だって門倉にはある。全て梶の言われるまでもない。なのにどうして、初めて与えられたように門倉の胸に響くのか。
マズいことになっていると門倉は矢を引き抜こうとしたが、手に持ったアップルパイが邪魔で、なかなか思うよう手は矢に届かなかった。そうこうする内に矢の銀色はすぅと門倉の中に溶けこんで、内側から鈍く光る。門倉が随分昔に捨てたはずの弱弱しい光が、もう一度、門倉の胸に灯る。
じわじわと銀色が浸食して、矢だったものは遂に門倉の鉄で固めた心臓にまで到達した。鉄が溶ける。心臓がむき出しになる。梶とお揃いになってしまった柔い心に、再び放たれた梶の矢が、まっすぐ突き刺さった。
「貴方だけはこの賭けに勝てると思ってる」
死ぬな、殺すな、何も失うな。
つまりこの甘ったれのギャンブラーは、門倉にも自身と同じ甘さを求めているのだ。この二號立会人門倉雄大に対して、奪うより守る方が難しく、死ぬより生きる方がずっと苦しい賭け事の世界で、命令しようとしている。僕と同じように貴方も戦え、と。
手のアップルパイが重みを増した。
お前が見せてしまったあの甘さを忘れるなと、誰かに言われているようだった。
「──立会人が一介の会員に肩入れするなど言語道断。例え梶様の屋形越えを支持していようと、二號立会人がギャンブラー梶隆臣の利として動くことはありません。我々倶楽部賭郎は、ギャンブルの公正を守ることが使命なのです」
つらつらと門倉の口から言葉が紡ぎ出された。優秀な立会人は、いつ何時も毅然とした態度を演じることが出来る。これが出来てしまうから門倉は梶の標的にされてしまったのだが、生き様を曲げるくらいなら門倉は茨の道にだって素足で踏み入れる。あるいはそれさえ、梶は読んでいるのかもしれなかった。
「はい、承知してます。凄い人たちです。立会人の方々は」
「立会人の私が会員たる貴方自身に誓えるものは何もありません。なのでこの忠誠は、貴方のご武運にお誓い申し上げる」
ちょっと持て、と門倉がアップルパイを梶に戻した。襟元を正し、手袋をわざわざ一度脱いで着衣し直す。身だしなみを整える門倉を見て、梶は「そんな大袈裟な」とあわあわした。おどれ人の気も知らんと、と門倉はため息を吐き、髪を抑えつけながら「立会人に大袈裟は無いんよ」と言う。
「あとホールのアップルパイを一人で食う気力もない」
「あ、はい」
渾身の恨み言はサラリと流された。絶対梶本人には言わないが、胃は一番年齢がくるんじゃ、と内心で門倉は付け加える。カッコ悪いから言えない、の方が本当は正しかった。
少々大袈裟に買い被られている気もする。門倉は優秀だが、世界には門倉が遠く及ばない暴が居る。理解できない頭脳がある。手のひらの上で転がされ、地獄の釜に突き落とされる未来が無いとはいえなかった。
けれどそれらの一切は、いま門倉が居住まいを正さない理由にはならない。何故なら門倉は倶楽部賭郎の立会人である。完璧の傍ら。勝敗の番人。倶楽部賭郎の立会人が、臆するときは、死ぬ時だ。
「同胞を倒し零號となりましょう。己の金にも糧にもならぬものに命を賭け、血反吐を吐いて得た千載一遇の機会を差し出し、私の力が及ばぬところで私の結末を決めていただく。その非道な所業全てに歓喜する生き物に、専属立会人に、この門倉、今日をもって成り上がることを宣言いたします」
そして門倉は頭を垂れた。
近くなった包みからふわり、甘いリンゴの香りがした。
「これより門倉は貴方の歯車。どうぞ、運命を狂わせる際にはご活用を」