せっかく庭があるのに勿体無いと片方が言ったので、家を造る際に生垣の近くには季節の花や実のなる低木を一緒に植えてもらった。男二人の家に花なんてあってどうするんだと悠助は当初思っていたが、小さな人間が家族に増えてみると、案外自然は子供たちの良い遊び相手になってくれるのだと知る。
草木は四季を呼び、四季は命を呼ぶ。花が咲けば花粉を求めて虫が来訪し、実が成れば鳥や小動物が庭先におこぼれを貰いにきた。
家を建てて一年もする頃には、弥鱈家の庭には立派な世界が形成されていた。気が付けば庭の地面に根付いていた蟻の王国。気が付けば軒先に作られていたツバメの巣。
一日が終わるごとに美しかった新居は所帯じみていき、比例するように弥鱈悠介の浮世離れした雰囲気も日々の喧騒に霧散していった。
自分はシャボン玉みたいに生きるのだと悠助は思っていた。ふわふわと地に足付かないまま自由気ままに気持ちを上下させ、どこまでも昇っていきそうな顔をしてある日前触れもなくパチンと消える。
だというのに、現実はどうだ。悠助は今朝がた娘がぶちまけた牛乳を拭きながら、ギャン泣きする娘を小脇に抱え「ごめんなさいいいいいいいあとよろしくううううううううう」と叫ぶパートナーに「やっておくから早く行け」とおざなりに手を振った。
歯医者を悟られないようあんなに細心の注意を払っていたのに、最後の最後で「歯医者頑張ったら夜はお外ご飯だよ! あっ!」なんて相手が口を滑らせたものだから出発前は地獄絵図。元々散らかり気味だった部屋は娘の大暴れによって一層荒れ、ここで號奪戦でもあったかというほどに衣服とオモチャが散乱していた。
悠助は牛乳を拭いた後これを片付け、四人分の食器を洗い、『ピーーーー!!!』……洗濯が終わったので、そのあとは休みなく洗濯物を干さなければならなかった。
もはや弥鱈悠介にシャボン玉の儚さなどどこにもない。悠助の足は地面に根付き、コンディションは自分の心持ちではなく子供たちの機嫌によって左右された。
死ぬにしたって最近体調がすぐれないパートナーを一人残しては死ねないし、彼をシングルファーザーにしたが最後、彼の周りには悠助の後釜に嬉々として座りそうな奴らがわんさかいる。しかもそいつらは、悠助を悼んでやろうとか子供たちから本当の親を奪わないでやろうなんて思いやりを一切持たない人でなし共だ。揃いも揃って後釜に座ったらさっさと悠助の存在を徹底的に消し去って「元から旦那でパパでした」みたいな顔をしていけしゃあしゃあと生きるに決まっている。冗談ではない。死ねるわけがない。百歩譲って死ぬとしたって、パートナーの尻穴にコンクリートを流し込んで操立ての強制取り立てを行った上じゃないと絶対に嫌だ。
シャボン玉は消え、後に残ったのは家庭というコロニーだった。騒がしく煩わしいソレは、悠助の蟻の王国でツバメの巣である。