溜まっていた家事がひと段落したところで、悠助は息子の姿が室内に無いことに気付いた。
庭に目をやれば隅っこに丸まった背中があり、サンダルをひっかけて外に出ると、足音に気付いた体がビクッと揺れて勢いよく悠助の方を向く。
父親似の困り眉をさらにへにょりと曲げた子は、悠介の顔を見るや「お父さんでしたか」と分かりやすく安堵を顔に浮かべた。
「何をしてるんですか?」悠助は息子に尋ねる。
「別に。検証を少し」
言いながら子は体を横にずらす。地面に広げられた深浅様々な紙皿の中には、身体が欠損したり、液体まみれの体でのたうち回るゴキブリが居た。
「“ゴキブリ並みの生命力”」
悠助が横に座ったタイミングで子が口を開く。
「そう本に書いてあったので、実際にはどれくらいの生命力なんだろうと思って。水に入れてみたり手足を取ったりしてるんです。どれくらい生きてるのかな」
「このゴキブリは貴方が?」
「はい。あ、でも、ゴキブリはとても不衛生な生き物だから手袋をしないで触っちゃいけません。だから一番最初は虫網で捕まえて、それから何日も綺麗なお水と餌を与えて代替わりをさせたんです。今が最初に捕まえたやつらから数えて四世代目。ここまできたらきっと清潔なゴキブリになってるだろうって思ったから、今日ついに実験を始めました」
「ははぁ。だから今貴方は、素手でゴキブリを触っているんですね?」
「ハサミや包丁は子供だけで使ってはいけません。父(トト)くんとのお約束は守らなきゃいけないので、触っても良いゴキブリを待ってたんです」
「よく考えつきましたねぇ」
悠助が感嘆する。髪質は相手に似たので、頭を撫でるとふわふわとした猫っ毛が悠助の手をくすぐった。
どうにも自分の要素ばかりが強く出ている息子だが、笑顔の陰鬱さまで受け継いでしまったのは些か不憫である。父に褒められ上機嫌になった子は、「えへへ」と幼い笑い声を上げるとまた新しいゴキブリへ手を伸ばした。
皿に乗っているゴキブリは一〇匹程度だが、生垣の根本には既に死体が積み上がっており、また子の近くに置かれたビーカーには元気な個体が数十匹わさわさと蠢いている。紙皿は先日のバーベキューで使用した物を流用しているようで、シャボン玉液の入ったカップには「めいちゃん」と娘の名前が書いてあった。
おままごとや工作に使うかもしれないからと、確か紙皿やストローの類は大目に買っていたはずである。
新品を卸しても良かっただろうに、わざわざリサイクルして使っている息子の真面目さが悠助には微笑ましかった。
「モルモットがとても多いようですが、どの程度の規模で検証を行うつもりなんですか?」
「モルモット? お父さん、この虫の名前はゴキブリですよ」
「失礼、ややこしい言い方をしてしまいました。本来モルモットは特定の動物を指す名前ですが、『実験に使う生き物』という意味で使われることもあるんですよ」
「検証は全部で一〇こやろうと思っています。一匹だけじゃそれが本当なのか分からないから、一つの検証で絶対三匹は使うんです」
「大規模ですねぇ」
「お水に入れるのと、シャボン玉の液に入れるのは五匹ずつやるんですよ。だってお風呂に入って息止め大会すると、お父さんと僕とトトくんとめいちゃんで全然時間が違うでしょう? 息を止めていられる時間は、きっと人によって全然違うんです。だからゴキブリも、他の検証よりいっぱいモルモットがいるんです」
「おや、もうモルモットという言葉を覚えたんですか」
「はい」
「吸収が早いですね。良いことです」
覚えたばかりの言葉を使いたがるのは幼い子供ならではである。
異常なほどの準備の良さや幼児らしからぬ継続力は到底同年代の枠を越えているが、不思議なことに弥鱈家の長男は、非凡な才が発露した後もどこまでも子供らしさを失わない子供だった。
難解な専門書を自力で読破出来ても一番好きな本はトトくんのお膝で読んでもらうエルマーの冒険だし、入浴時に水面張力について高度な説明を求める一方、妹のめいちゃんが水しぶきを立てて遊びだすと悠助の説明を遮って遊びに加わり浴槽の水を半分まで減らす。
限りなく自分に近いが、明確に自分と違う所もある。悠助は息子の子供らしい一面を見るたび「ちゃんと貴方の遺伝子も入ってるんですねぇ」とパートナーであるトトくんに話を振るし、そのたびトトくんこと弥鱈隆臣は呆れた顔になり、「そりゃそうですよ。僕の中で人間になったんだから」と帝王切開の痕を指差しながら悠助に突っ込むのだった。
「そうだ、お父さん」
四肢を引きちぎったゴキブリを大カマキリ(たまたま見つけたので検証に参加してもらっているらしい)のケージに投げ入れ、触覚のみで懸命に藻掻く姿をせっせとスケッチしていた子が悠助を呼んだ。
「どうしましたか」
「一番最後の検証には火を使いたいんです。モルモットを焼いてみたり、お水とお湯で時間に違いがあるのかも見たい。でも、火は子供だけで使っちゃいけないってお約束です。だから、お父さんに助けてほしくって」
「そうですね。火は危ないものですから」
「はい。トトくんにも絶対にダメだって言われています」
「お約束をきちんと守れて立派です。あとでライターを持ってきましょう」
「ありがとうございます。あと、トトくんにはこのことを内緒にしておいてもらえませんか?」
「このこと、とは? ゴキブリを殺していることですか?」
「はい。きっとトトくんは、こんなにたくさんゴキブリが死んだって聞いたら悲しくなっちゃうから」
「そうですねぇ」
「トトくんは命をとても大切に思っているんです。どんな命も大事なんだよって僕に言いました。だから、大事な命がたくさん無くなるっていうのは、きっとショックです」
「えぇ隆臣はきっとそうでしょう」
「トトくんが悲しいなんて僕も悲しいので、内緒にしてください」
子は不安げな顔で父を見る。本能的にこちらの親は傷付かないだろうと察している辺り、頭が良いというか、同族の気配を感じて悠助はこめかみに鈍痛を覚えた。
隆臣の真意が全く届いていない子の心理を、悠助は残念ながら手に取るように理解出来る。子の懸念は隆臣が傷付くかどうかであり、逆を言えば、何故隆臣がゴキブリの死体を見て傷付くのかは分かっていないようだった。
実際の隆臣は、我が子が実験と称して残忍な行為を行っていること、さらに言えば殺すために周到な用意を重ねていたことの方によほど大きなショックを受けるだろうが、仮に“トトくん”にそこを指摘されても、この子はキョトンとしたままだろうと悠助は思う。
自分の目的の為に他者を虐げても罪悪の念を抱かない。心はあるが共感性に乏しく、優しさが概念ではなく知識として頭に入っている。
幼児期特有の残虐性というよりは、これが子の生まれ持った性質なのだろうと父である悠助は推測する。親想いで妹も心底可愛がっている優しい息子は、同時に腹の中、すでに化け物を飼っていた。
息子の新たな一面を知るたび、新鮮な反面、悠助は一種のノスタルジーを感じる。自分の幼少期を顧みて、『あぁ自分もこうだったなぁ』と感慨深くなるのだ。
自分に比べれば息子はよほど可愛げのある子供だが、あれほど愛情深いパートナーに育てられても、蛙の子はその血に従い、蛙に成ろうとしている。
「遺伝子は凄いな。上手く混ざるものだ」
悠助がしみじみと言う。
ボソリと呟かれた父の独り言は、大カマキリの捕食を注意深く観察している子には幸いにも届いていなかった。
※※※
「───お腹半分まで食べられても生きてましたね。ゴキブリ並みの生命力って言葉にこんなに強い意味があったなんて、僕は知りませんでした」
せっせとゴキブリの羽を千切りながら興奮気味に子が言う。今度は高いところから落下させるらしく、上手く着地が出来ないよう手の先を折っていくところも抜け目が無かった。
「殺虫剤の基本は窒息と脱水です。生き物は空気と水がないと簡単に死んでしまいますが、逆を言えば空気と水さえあればどうにか生きてしまうものなんです。ゴキブリは特に、その他の耐性が強いようですね」
「でもお父さん、人間はお腹の半分まで食べられたら生きていられないと思います」
「えぇ貴方の推測通りです。だが実際、何故か語としてゴキブリ並みの生命力という言葉はあるし、その言葉を人間に使う時もあります。不思議ですねぇ。貴方は何故だと思いますか?」
「うぅん……あ、門倉さんは脚からだったらお腹まで食べられても生きてそうだと思います」
「止めなさいそんなおぞましい想像は。大体、門倉を腹半分まで食べたらこちらが死にます」
子の中にはまだ比喩表現という概念が生まれていないらしい。知識の形成段階にはこのようにチグハグな思考回路の時期があるようで、息子の成長スピードから察するに間もなく消えるであろう今を悠助はじわりと噛みしめた。
聡明な子は「なるほどなぁ」とノートをまとめる。千切ったり潰したり浸したりして絶命までの時間を淡々と書き加えていたノートに、注釈のように『ゴキブリなみ=かどくらさん?』と書き加えられたのを見て、悠助はこのノートを隆臣に見せてやれない歯痒さも一緒に噛んだ。
「あと僕、お父さんにもう一つお話したいことがあるんです」
「なんですか?」
「めいちゃんの習い事についてなんですが」
先ほどから何度も名前が出ているめいちゃんとは弥鱈家の第二子である。
人懐っこい性格が愛らしい三歳児で、出産直後見舞いに来た斑目貘が「梶ちゃんじゃん! 梶ちゃん育成するチャンスじゃん!」と親権を奪い取ろうとしたくらいには生みの親隆臣に似た顔立ちをしていた。
「めいちゃんのお稽古がなんです?」
「創一おじちゃまのお家に行くんじゃなくて、ヤマハの音楽教室に変えませんか」
「へぇ?」
悠助から気の抜けた声が上がる。
まさか幼い息子に習い事の提案を受けるとは思わず、触覚を途中で千切るよう依頼されたゴキブリ片手に息子の顔を見た。
「ヤマハの音楽教室って、なんでまた」
「めいちゃんのお友達が何人かそちらの教室に通っているらしくて。一人だけ別のところでお稽古したら、仲間外れになってしまうかと」
女は共感性の生き物なので、と真面目くさった顔で子は言う。論としては一理あると悠助も思うが、いかにも本の受け売りらしい台詞だった。
「遊ぶために行くわけではありませんし、お稽古事の楽しさは上達の中でのみ見出すべきです。お友達がいるからとりあえず行く、というのは感心しませんねぇ」
「でも、でも、一人だけ違うことをすればめいちゃんは幼稚園で孤立してしまいます。毎日いっしょのお友達から仲間外れにされたら生きていけない」
子の顔は真剣だった。可愛い妹を守るためと信じて疑わない瞳に悠助は吹き出しそうになり、気を紛らわせようとゴキブリの触覚を途中でへし折ると、息子の計画ノートに合わせて半分になった触覚をアルコール消毒の中に漬ける。
痛覚があるとは思えないが、悠助の手の中でゴキブリが暴れ始めた。
「貴方いまいくつでしたっけ?」
「五歳ですが」
「なるほど」
どれだけ頭が良かろうと、悠助の息子の頭の中にはまだ五年分の記録しかない。五歳児にとって幼稚園や園のお友達は家庭外の世界全てを指すし、そこで問題があったら、確かに生きてはいけないのだろう。
逃げ道なんて世界にはたくさんあるだとか、誰に拒絶されたって何度でもやり直せるなんて真理は、どんな天才でも五年ごときでは掴めない。悠助や隆臣だって、その真理を実感したのは成人してからだ。責めてはいけない、否定してはいけないのだ。
シャボン玉液に落としたゴキブリは全匹絶命していたが、水に落とした奴らはまだバタバタとあがいていた。「どうしてこんなに違うんですか?」と息子が二つの皿を見比べて聞くので、悠助はゴキブリの生態と、「貴方も水と洗剤に落ちたら洗剤に落ちた方が先に死ぬんですよ」という豆知識を息子に教えてやる。
ついでに手の中のゴキブリがまだまだ元気だったので、悠助は触覚に致死性が無いことを息子に伝えた上で、了解をとってゴキブリの体にアルコールを吹きかけた。
「幼い貴方にこれを言うのは酷ですが、貴方が知っている世界は所詮この世のほんの一部分に過ぎません。貴方が最良と信じて疑わないことも、他の人間にはそうでないかもしれない」
「お父さん、“サイリョウ”とは?」
「一番良い、ということです」
「僕は今回の『最良』はめいちゃんがヤマハの音楽教室に通うことだと思います」
子が改めて断言する。
達者な口は悠助に似たが、直向きに頑固な性質は隆臣譲りだ。見事に親の厄介な所ばかりを継いでいる。
悠助の頭にチリチリと弱火で炙られるような感覚が生まれ始めていた。マズいと内心焦り、文字通り虫の息だったアルコールまみれのゴキブリを地面に擦りつける。
簡単に外れた頭から命だったものが漏れ出て、悠助に束の間の冷静を与えた。
「……貴方は確かに同世代の中では飛び抜けて優秀でしょうが、まだ万能な人間には程遠く、考え方や発言もとても未熟です。実際に幼い貴方が未熟であることは恥ずかしいことではありませんが、立場を弁える必要はあると思います」悠助は意図的に言葉をここで区切った。「お父さんの言ってること、分かりますね? 自分が己の物差しだけで他人に提言して良い人間か、今一度しっかり考えてください」
「でも、しかし」
即座に子が食い下がる。悠助の脳がまた焦れた。
「考えなさい、と父は言いました。いま貴方は己を顧みて、本当に考えましたか?」
「お父さん、僕は提案する前からずっと考えています」
やはり即座に反論が飛んでくる。脳を炙る火が次第に勢いを増し、煙と共に刺々しい言葉たちが悠助の脳内に充満していった。
相手は五歳だ。自分に似ているが自分ではなく、弥鱈悠助の子であると同時に弥鱈隆臣の───ひいては梶隆臣の子でもある。
悠助は頭の中で何度も『この御子は梶様のご子息』と繰り返し、炙りだされそうになる記憶に蓋をした。
難しい顔をして黙り込んだ父親を、子はどのように受け取ったのだろう。そわそわと視線を動かした子は、トトくんに「真似っこダメだよ」と言われているにも関わらず小さな舌先をチョロと外に出した。
今まで誰がやっても悠助のようにはいかなかったのに、何故か息子は最初から簡単に悠助の真似が出来た。唾液の粘度も遺伝するのだろうか。日頃父がやるように、子の舌先からシャボン玉がふわんと飛ぶ。
「それに、じゃぁお父さんは、めいちゃんが孤立するかどうかを考えましたか? めいちゃんはまだ幼稚園に入ったばかりの年少さんです。お友達と本当に仲良しになるのはこれからです。やっぱり寂しいって、途中で思ったらめいちゃんも創一おじちゃまも可哀相なのに。物事は起きてからじゃ遅いのに、えぇと、お父さんは、準備と想像力が足りてないと思います」
「…………」
好き勝手言うじゃないかこのクソガキ。
思わず悠助から舌打ちが出る。これが子供の物言いだろうか。自分がこの年頃のときは、父親に楯突くなんて考えもしなかった。父親は絶対であり、そう妄信出来るだけの力があった。なぜ俺の息子はこうも楯突くのだろう。かつての俺よりもよほど優れた個体だからだろうか。それとも俺に、“お父さん”のような父の素質がないのだろうか。
「親たちが話し合いの末に決めたことです。めいも創一様に教わることを楽しみにしている。子供の貴方が、口を挟むことではない」
「けどっ、」
「孝助」
硬い父の声が出た。悠助の目が、幼い息子をぎょろりと見下して教育せんとする。
「お前は親相手に何言ってんだぁ?」