────お父さんが「ソレ」を出したので、息子の孝助はお約束を守り、五秒動かなかった。
最初の一瞬は怖かった。ゴキブリを掴んでいた手が震え、力加減を間違えたのか「プチッ」と手の中の質感が変わった。耐えられたのは、頭の中でトトくんが『いち、に、』と数を数えてくれたからだ。
生みの親の声は、音は低いがちょっとだけ語尾が甘ったるい。生まれる前から聞いているその温かさが孝助に勇気をくれた。汚物を見るような目をお父さんに向けられても、孝助は小さな体を奮い立たせ、ジッと父の顔を見つめることが出来た。
お父さんが怖い顔をしたら、頭の中で五秒数えるまで動かずにただ父の顔を見る。
もう一人の親であり、トトくんと呼んでいる隆臣と孝助が交わしたお約束だ。
『いーい、孝助? お父さんが怖い顔をしたら、頭の中で五つ数えるまで動かないで、ずっとお父さんの目を見るようにして? あんまり見ないお顔だから多分すごく怖いと思うけど、でも頑張って、絶対にお顔を逸らさないようにするんだ』
隆臣は弥鱈家で一番影響力のある人物だった。時々五歳の息子でさえ『おいマジか』と思うようなポカをやらかすが、基本的に弥鱈家は隆臣ことトトくんを中心に回っていて、トトくんが決めたあれそれをお父さんが査定することで家庭内のルールが決まった。
深くは知らないが、お父さんの外でのお仕事はトトくんにルールを作って守ってもらうことらしい。普段と反対だな、と孝助は思ったし、査定役といいつつ十中八九「はぁじゃぁそれで」と付き従う父がトトくんを制している姿はどうにも想像が付かなかった。
『これはトトの独り言だから聞き流してくれて良いんだけど、お父さんって本当はすごく強い人なんだよ。キックとかね、本当はすんごいの。僕らには見せないけど。で、そんな強いのに弱いふりしてるお父さんだから、たまに強いのがワーって溢れちゃって、どーしても怖い顔をしたくなっちゃう時がある。強いのを抑えとく為にはもっと強くなきゃいけなくて、でもそこま強くなれるほど、悠助くんは強くないんだよね。しょうがないんだけど、苦しい話だ。けど、その弱さはお父さんも分かってる。怖い顔してる時のお父さんを一番怖がってるのは多分お父さん自身で、だから本当は、怖い顔して強い人してる時のお父さんが一番弱っちい悠助くんなんだ。……分かんないかな? そうだね。難しいよね。うん、分かんなくて良いよ。君も娘もこれから増えるかもしれない誰かも、みーんな分からなくて良い。ただ、僕は悠助くんに対してそんな訳にはいかない。トトは孝助やめいに怖い顔したお父さんのことを、絶対に怒って、絶対にけっちょんけちょんにしなきゃいけないんだ。……何でって? うーん、なんていうか…大好きなんだよね。トトはお父さんのことが』
お約束を交わしたとき、トトくんはそう言って孝助とのお約束を締めた。
孝助には隆臣の言葉の意味がほとんど理解出来なかったし、強いと弱いがぐちゃぐちゃに混ざった構文は、本に書かれた文章のように正誤性が取れているようにも思えなかった。トトくんはお父さんの何を知っていて、隆臣は悠助の何を強さと呼ぶのだろう。幼い孝助には分からない。トトくんがお父さんを好きだということだけ、五年の経験上『でしょうね』と納得した。
いち、に、さん。
トトくんの声を聞きながらジィっとお父さんを見つめていると、お父さんの冷たかった瞳がピタリ、ある地点で温度の低下を止めた。
息子を頭からつま先まで一纏めに『生ごみ』としていた視線がきょろきょろと動き始め、孝助の顔や手、また少し窮屈になってきたナイキのキッズスニーカーを項目を拾い集めるように認識していく。
『よん』の声が孝助の頭に響くとき、再びお父さんの視線は孝助の顔に戻った。
孝助と同じ形をした眉がぐぐ、と真ん中に寄り、お父さんの顔が苦しそうに歪んだところで 『ご』 トトくんが最後の数を告げる。
お父さんが項垂れ、悔いるように顔を覆った。「ソレ」が終わった合図だ。もう大丈夫だった。
「……ごめんなさい、こうくん」
悠助はいつもの口調に戻り、まず初めに息子への謝罪を口にした。
子の身体からようやく力が抜け、小さな口がはぁはぁと荒い呼吸を再開する。手の中にいたゴキブリはやっぱり潰れていた。中身が出て、子のふっくらとした手に体液のシミがまとわりついている。
「お父さん、出ちゃいましたね」
数度の深呼吸を経て子が言った。
「はい、すいません」
「ずっと出ていなかったのに」
「ここのところ調子が良かったので油断していました。あとでトトくんに報告を。彼が帰ってきたら叱ってもらっておきます」
「はい。……あの、ちなみにこれで三回貯まりました」
「うわああ……」悠助が頭を掻きむしった。「承知しました。あちらにも自分できちんと報告します」
「言いにくいなら、僕から言いましょうか?」
子が父を気遣う。顔には不安と同情が浮かんでおり、貘おじさんがとても自分に親切であることと貘おじさんが特にお父さんに親切なわけではないこと、その両方を同程度察している様子だった。
「いえそんな。己の失敗なので、己で始末をつけます。こうくんにはご迷惑とご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「不甲斐ないです。僕という人間が浅はかなばかりに、お父さんの病気が出てしまう」
「びょッ…! ……まぁもう病みたいなものか」
悠助ががっくりと肩を落とす。愛息に言われると堪えるものがあるが、それも含めてショック治療だと自らに言い聞かせた。
今晩は報告を受けた隆臣にしこたま叱られ、明日賭郎に出向いた際には、隙あらば隆臣を子供ごと奪還しようとする目の上のたんこぶ達にネチネチネチネチやられるのだろう。制御出来なかった自分が悪いし、幼い息子が実父にかけられた心労を思えば己の憂鬱など比べるまでもない。
悠助は長い息を吐いて覚悟を決め、本家本元の唾玉を宙に飛ばした。
「……先ほど私は貴方ばかりを未熟と断じましたが、付け加えるなら、未熟の部類にはお父さんも含まれています。私にはどうにも歪んでいる部分があって、貴方たち子供らにそれを見せまいと努力はしているのですが、まだまだ完全ではありません。特に貴方は長子で、手探りな父親業の常に第一被験者だ。理不尽な思い、不愉快な事例に立ち会う場面は多いでしょう。全て私の未熟ゆえです。不出来な父で申し訳ありません」
「そんなことっ」
子が庇うように父の頬を自らの手で包み込んだ。小さな掌から子供体温が悠助の頬に伝わり、愛しかったが、それと同時に否応なしに感じる体液のぬめりが気になって仕方なかった。
左頬ですごく何かがヌルッとする。えぇっと、この子は今まで何を触っていたんだったか。
しょっぱい顔をした父に気付かず、子は瞳をウルウルさせた。
「そんなこと言わないでください。僕も子供業を始めて間もないので、お父さんのご期待に添えられないこともたくさんあると思います。こういうのを、親不孝と呼ぶんだって本で読みました。親不孝な息子で申し訳ないです」
「いえいえそんな」
「いえいえそんな」
悠助がかぶりを振ると子もそれを真似る。ふるふる揺れていた大小の頭は、今度は同時にぺこんとお辞儀をした。
二人は神妙な面持ちでやはり同時に顔を上げ、とりあえずゴキブリの体液でカピカピになった手や諸々を洗うために室内へ戻る。お外帰りの手洗いが徹底されている子はきちんと三〇秒かけて手首までを洗い、その間順番を待っている悠助は、カピついている左頬を洗面台の鑑で見ないよう努力した。
※※※
手洗いより戻ってからは残りの検証も滞りなく進み、子のノートは文字でいっぱいになり、比例して庭の隅には尊い犠牲者が小山になった。墓でも作るのかと思いきや、子はこれらをそのまま野晒しにして、虫や鳥が食べにくるかを引き続き見守るのだという。
「食物連鎖というそうです、お父さん」
「はぁ」
「僕たちが豚さんを食べるみたいに、鳥はゴキブリを食べるんです。その鳥を今度は別の生き物が食べて、それを今度は豚さんが食べて、最後は僕たちが食べます。だから僕もお父さんも、本当はゴキブリを食べているんですよ」
「言わんとすることは分かりますが、その結論にはいささか問題がある気がします」
「どうして?」
「だってソレ、トトくんが聞いたらなんて言うと思いますか?」
「ヒエッて言うと思います」
「慧眼ですね。私もそう思います」
絵日記帳片手に意気込む子を見て、悠助はやはり庭に草木を植えたことは正解だったと痛感した。低木はよい目隠しになるし、地面に広がる蟻の王国は今日も着々と勢力を拡大している。これから先一週間くらいは、庭の隅っこは生き物たちのビュッフェ会場となるのだろう。
悠助は頭の中でスケジュール帳を開き、今後一週間の外出予定と大まかな不在時間を算出する。どうやって隆臣や娘を庭から引き離すか、そればかりを考えていた。
「一〇このうち九こが終わりました。あとは火を使う検証だけです」
父の憂鬱をよそに、我が道を行く息子はふんふんと鼻を鳴らしている。
彼の中で火を使った検証は今回の目玉項目であったらしく、事前に悠助が火の特性を教え、生き物がとにかく熱に弱いこと・虫に限らず人間を含めた有機物は燃えると形を保っていられなくなることなどを伝えると、子は待ちきれないとばかりに「ケケケ」と幼児が出してはいけない類の笑い声を上げた。
「ちなみにですが、人間は燃やすと大抵骨だけが残ります」
「骨になるのは、お父さんもですか?」
「そうです。私も隆臣も、貴方もめいちゃんも燃えてしまうと骨になります」
「なるほど……ちなみにですが、貘おじさんとマルコおじさんはどうですか?」
「骨になります」
「まさか門倉さんも?」
「何故そこで別格扱いになるのかイマイチ分かりませんが、門倉も骨です」
「なんてことだ……!」
「貴方の中で門倉は一体何なんですか?」
ポケットからライターを取り出し、先のバーベキューで残っていた着火剤に火をつける。ぼうっと上がった火柱に子が歓声を上げたところで、悠助のポケットが震えた。
震源地のスマホを取り出してみる。画面には『隆臣』の字が表示されていた。
「電話が来ました。あちらの予定が終わったみたいです。通話中は何かあった時対応が遅れてしまうので、残念ですが、安全の為に一度消火しますね」
はい、と聞き分けの良い子が頷き、火は消し止められる。プスプスと燻る着火剤を物珍しそうに眺めている子を目の端に置いたまま、悠助はスマホの通話ボタンを押した。
電話の向こうからは『終わりましたよー』という朗らかな隆臣の声と、よっぽど歯医者が怖かったのだろう、娘のソウルフルな泣き声が聞こえてくる。
“人目を気にせず泣き叫ぶ”という行為になんの躊躇もない三歳児のシャウトはいつ聞いても見事なものだ。大人たちにとってロストテクノロジーに等しいソレを聞くたびに悠助は思わず感心してしまうのだが、ただ今回のシャウトに関して言えば、内容が『パパしゃんの嘘吐きいいいいいいいいいい!!!!! パパしゃん嫌いいいいいいいいいいい!!!!! うぼぁああああああああ!!!!!」という悠助に全く身に覚えのない恨み節だったので首を傾げた。
『聞こえてる通り癇癪が収まらないんで、もう少し落ち着くまで帰れないんでよろしくお願いします』
「すーごい呪詛が聞こえるんですけど」
『あぁなんか、お迎えは悠助くんが来ると思ってたから来なくて腹立ったらしいですよ。嘘吐き、ほんと嫌い、もうパパしゃんとお話しない、らしいです』
「理不尽」
嘘吐きもクソもお迎えに行く約束をした覚えはない。普段は隆臣にべったりのくせして、時に通り魔のような唐突さで悠助に白羽の矢をぶっ刺してくる娘であった。
長男がとにかく手のかからない子供だった分、弥鱈家の育児は長女から始まったと言っても過言ではない。とにかく泣くし暴れるし、かと思えば周囲の大人に天性の愛嬌を振りまいて次々と悪くて怖い奴らを陥落させていく。「見た目は梶ちゃんで、中身は俺と梶ちゃんとマーくんを足して三で割った感じだよね」というのは斑目の言だが、死ぬほど不本意ではあるものの、悠助はその表現を聞いたとき(的確だ)と思った。
『晩御飯のリクエストはくら寿司だってさ。パパしゃん嫌いだから、びっくらポンで好きなやつ出るまで許してくれないらしいですよ』
「えーまた俺何十皿も食うんですか?」
過去の記憶が甦る。二〇種類近い景品の中からたった一つを当てるため、悠助は無心で寿司メニューを全制覇していた。「そんなに回転ずしの味好きじゃないんですけどぉ」
『あとアレね、アレ。かまぼこ』隆臣が付け加える。
「出たなかまぼこ。早く去ってくれませんかねぇそのマイブーム」
『悠助くん最近どこ行ってもウドン食べてるもんね』
「正確には俺が食べてるのはかまぼこを取り出して用済みとなった残飯ですがね」
『今日はウドン担当僕がやりますよ。これからしばらくは加熱したものしか食えないし』
「加熱したものしか? え、そんなに胃腸の結果悪かったんですか。病院で医者はなんと?」
本日、娘が歯医者にかかるあいだ隆臣は隣接の病院で診察を受ける手筈になっていた。ここ最近吐き気を伴う体調不良が続いており、検査してもらうよう悠助が勧めたのだ。
食事療養など珍しい話ではないが、『しばらく』という期間の部分が引っかかる。もしや思っていたよりも重症なのかと顔を曇らせる悠助をよそに、当の隆臣はケロリとした調子で言った。
『あぁいやいや、普通に生ものは避けたいってだけ。まだ八週らしいんで、うっかり食中毒になったらヤバいかなって』
「八週?」
言い方に二児の父である悠助はすぐピンとくる。口元に手をやり、反射的に視線は長子である息子に注がれた。「え、は? 病院って内科じゃなくてそっち受診してたんですか? 聞いてないぞ」
『サプラーイズ』隆臣がネタ晴らしのように言う。
「いや要りませんよそんなサプライズ。というか待て、いつだ? あれか、前に中で破れちゃったとき?」
『時期的に多分そうですね。えぇと、予期せぬ子なわけですけど、あの……』
電話口の声が重くなる。もにゃもゃと言い渋る隆臣が後に続けるであろう内容を予見して、悠助は相手の言葉を待たないまま告げた。
「二人の時も言ったと思いますけど、俺堕ろす堕ろさないの話はしませんよ」
『あっ良かった』
「当たり前でしょ」
『いや大丈夫だとは思ってたけど、念の為ね?』
えへへ、と隆臣が電話口で笑う。良かったねぇ、と微かに聞こえた語りかける声はおそらく隆臣が自身の腹に向かって発したもので、まろやかな声には既に大海を思わせる深さと温かさが滲んでおり、表現は好ましくないがまた隆臣が『母』になる準備を始めたのだと思った。
「おめでとうございます隆臣。良い報せをありがとう」
『あぁどうもどうも。こちらこそ、ありがとうございます。色々と。おめでとう悠助くん』
悠助はスマホに耳を当てたまま頭を下げる。多分相手も画面の向こうで同様にお辞儀をしていることだろう。
和やかな雰囲気だった。しかしその流れをぶった切るように、続けざま通話口からは『パパしゃんトトとは電話するうううううううう!!! めいとはしないのにいいいいいいいいいいい!!!! 嘘つきいいいいいいいいいいい!!!! うぼわぁあああああああ!!!!! 貘おいたんのとこの子になるううううううう!!!!』という大絶叫が聞こえた。娘である。愛しくも狂おしい弥鱈家きっての理不尽が、またしても天上天下唯我独尊を示さんと烈火のごとく怒っていた。
だぁーから悠助は嘘をついていないし、電話だって普段から娘のキッズケータイに個別でかけているではないか。三歳児の癇癪に正当性を求めるなど土台無理な話だが、瞬間悠助の脳裏を白い悪魔が走り去っていったのでドキリとした。
揚げ足取りが大のお得意であるバクオジサンは、隙あらば悠助の娘に『おじさんの家族にならない? トトくんも一緒に連れて。何でも買ったげる』と勧誘をかけてくる。
おかげさまで日頃の教育が身に付いた娘は「何でも買ってあげるっていう人はさいしゅうてきにすべてをうばっていく人だからしんようしちゃダメなんだよ」とバクオジサンを跳ねのけてくれているが、この場の会話もバクオジサンによって盗聴されている可能性は無きにしも非ずなので、頼むから軽はずみな発言は避けてほしかった。
書面上はこれ以上なくクリーンに悠助と隆臣は婚姻関係にあるし、都内の区役所にはきっと今も悠助の直筆で書かれた子らの出生届が保管されている。本来ならば付け入る隙など微塵もないはずなのだが、なんといっても戦う相手が悪すぎるのだ。法もモラルも通用しそうにない奴らに、法とモラルで戦いを挑むのはあまりにナンセンスである。
たかが幼児の漫言と看過してはならない。一人インするから一人アウトしてもオーケーとか、そういうシステムではないのだ弥鱈家は。
「今めいちゃん電話出れます?」
『無理っすね。地面でジタバタしてるので』
「じゃぁ彼女に伝えておいてください。いま貘おじさんの子になったら、貴方がなりたかったお姉さんから遠ざかりますよ、と」
『了解』
とりあえずで悠助は娘に情報操作を行うことにする。隆臣との間でスムーズに引き継ぎ処理が行われ、詳細については夜にじっくり話そうという話に収まった。
子育てという共同作業をこなしていると、どれだけ性格の違う二人であっても否が応でもコミュニケーションが円滑かつ実践的になってくる。
かつて『なんか惚れちまったけど一体なんて話しかけりゃいいんだよ共通の話題なんて無いぞ』と途方に暮れていた自分から幾年、よくぞここまで成長したものだと悠助は他人事のように自分を振り返った。
「俺も貴方に話すことが……あ、あー……あー……」
『ん? 悠助くん?』
不自然に言葉を濁し始めた悠助に隆臣が不思議そうな声で呼びかける。
「……いえ、会ったら話します。またあとで」
『さては何かやったな? もう。覚悟しとけよ』
「はい」
電話を切り、そのまま悠助は地面に座り込む。「はあああああああ」と長いため息を吐く父を子は不思議そうに眺め、寿命までカウントダウンが始まっているビーカーのゴキブリたちを手に、子が悠助の元へと駆け寄った。
「何かありましたか? トトくん、病気だったんです?」
「いえ、病気ではありません。慶事です」
ひらひらとスマホを振る。ホーム画面の壁紙は子供たちに設定してあって、お気に入りの一枚だが、今後変えることになりそうだ。
「けーじ?」
「ワーイってなることです。すごく嬉しいことです」
「でもお父さん、いま溜め息を」
「いやあの、タイミングの問題がありまして。とても嬉しいんですが、『なんで今日なんだよ』って微妙な顔されるだろうなぁって」
早くも悠助の頭の中には隆臣のなんとも言えない顔が浮かんでいる。うっきうきで写真を見せる予定だった脳内の隆臣は、悠助の懺悔を聞いた途端写真を自身のポケットに仕舞い込み「ショックすぎる。流れそう」と冷ややかな視線を悠助に向けていた。
「よく分かんないですが、今日がダメなら、明日にすれば良いのでは?」
おずおずと提案してくる息子は相変わらず聡明である。(それが出来たら苦労しないんだが)と苦笑して、悠助は顎を子の頭に乗せると、ぐりぐり顎の先で子の頭を撫でまわした。
いくら飼育され衛生的だとはいえ、不快害虫に触れた手で我が子に触りたくはない。息子は「きゃぁ」と楽しそうに声を上げて、悠助の顎を自分の頭で押し返した。
「明日にしたいのはやまやまなんですが、それはそれで『アンタ増える自覚あるんスか』と怒られてしまうので無理なんですよねぇ」
「ふぅん。増えるって、何がですか?」
「有り体で言うなら宝物でしょうか」
「え、子供増えるんです?」
まさかで子は即刻正解を叩き出す。さすがの悠助も、この明晰さにはギョッとした。
「察しが良すぎません? 自分に宝物の自覚があるのは良いことです。自己肯定感が健全に育っていますね」
「お二人の教育の賜物です」
「いえいえそんな。滅相もない」
再び顎をぐりぐりする。しながら、悠助は今後自分の肩書となる『三児の父』という語の重さにクラクラした。
家庭持ちというだけでも未だ驚かれているというのに、まさか自分の遺伝子を三分配することになろうとは夢にも思っていなかった。悠助は自分のことを家庭から縁遠い人種だと長年思い込んでいたし、遺伝子を混ぜたいと考え始めた時も、元々子供が好きというわけでは無かったのでせいぜい一人だろうと想像していたのだ。それが、あれよあれよという間に三人。最新の一人は意図せず出来たとはいえ、少子化が叫ばれる昨今においてはまぁまぁ多い数である。
というか会員と立会人の組み合わせで三人。三人か。聞いたことがない。最多記録を己が打ち立てることになろうとは。
息子の頭に顎を乗せたまま、悠助はぐるりと自分の周囲を見回した。
ゴキブリの死骸の山には早速蟻が行列を伸ばしており、家の屋根にはどこから嗅ぎ付けたのか小鳥たちがとまってピチピチと鳴いている。地面を這う複数の蟻たち。どうせ来年も使われるからと壊さないことを決めたツバメの巣。立会人として見届ける華やかで危うい世界には到底及ばない、けれどあの世界でシャボン玉を飛ばしていただけでは決して見ることの出来なかった世界がいま悠助の目の前には広がっていた。
時々悠助は、自分の生きる二つの世界が同じ地球同じ時間を共有していることが不思議でたまらなくなる。
(こんなに違ってこんなに交わらないのに、どうして自分はどちらの世界にも存在しているんだろう)
あるいはどちらかが、シャボン玉に移った虚像ではないかと疑うこともあった。美しくて非日常、柔らかくて平凡。異なる二つの世界は、しかしどちらも強烈に悠助を惹きつける。危険で蠱惑的な勝負の世界と安全で普遍的な家庭というコロニーのどちらにも居場所を設けてもらえるだなんて、都合が良すぎて、悠助のひねくれた頭には何度も猜疑心が浮かんだ。
自分はシャボン玉のように生きるのだと悠助は思っていた。ふわふわと不安定に漂って、時が来たら脈略もなくパチンと消えてしまう。
だというのに、現実はどうだ。弥鱈立会人としてつま先を人にめり込ませれば人はぶちゅんと内臓を潰すし、お父さんとして息子の頭に顎を乗せれば子の柔らかな猫っ毛は相変わらず悠助の顎をくすぐってくる。シャボン玉の膜が消えても、弥鱈悠介は世界に生きている。社会に根を張り、後世に血を残し、パートナーにしこたま叱られるであろう今晩にげんなりしつつも、エコー写真にどんな影が映っているか今から見るのが楽しみだ。
「とりあえず、こうくん」
「はい」
「ゴキブリを焼くのは中止です」
「え、何故ですか?」
「縁起が悪いので」
「縁起?」
「安定するまでは命にまつわることは慎重にいきましょう」
「今は何か不安定なのですか?」
頭を顎から外し、子が不服そうな顔で悠助を見上げる。
せっかく今日の為に用意したのに、と残念がる子の気持ちも分からないことはないが、悠助は「ごめんね」と息子に謝って子からビーカーを取り上げた。
「不安定。そうですねぇ。まぁなんといいますか、幸福の礎的な?」
「今はいしずえは不安定なのですか?」
「いや、そんなことは無いです。礎は盤石です」
「うーん?」
「すいません難しいことを言って。私いま浮かれているんです」
「お父さんが?」
「お父さんが」
「そうは見えませんが」
「よく言われます。難しいですね、本当に幸福なのに」
子が不思議そうにする。ビーカーの中でわさわさしているゴキブリたちに恩赦をかけることは決定したが、さて彼らはどこに放てば良いのか。
悠助は困ってシャボン玉を飛ばす。ふふ、と漏れ出た己の笑い声がちょっとばかし隆臣に似ていて、悠助は何だか気恥ずかしいし、まぁそれも幸福の証明かと思った。