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「生命線短いっすね」

 ようやく伽羅の逞しい肢体に触れる資格を得たにもかかわらず、言うに事欠いて梶は伽羅の掌だけを見やりそう言った。
 別に腕でも腹筋でも何でも、触りたいと言われたら伽羅はとうに「好きにしろ」と言ってやる算段でいた。信じられないことに最近触れられても良いと思うようになっていたし、時には自分から手を伸ばしたいと思うようにもなっていたからだ。

 なので梶が「あの、ちょっと手ぇ借りても良いですか」とおずおずと己に手を伸ばしてきた時、伽羅は黙って組んでいた腕を解き、相手の行動に任せることにした。だというのに、梶ときたらこれである。伽羅の無骨な甲をくるりと返して、掌に刻まれた皺をまじまじと観察するだけだった。
 生命線といえば親指の上から手首の方へと伸びる線のことだったか。伽羅が自分の手を覗き込んでみると、なるほど確かに親指と人差し指の中間から生えた線は掌の中央を過ぎた辺りでふつんと切れてしまっている。手首まではシワのない皮膚が張り、厚みのある掌は光が反射して少し光って見えた。ただまぁ、だから何だ、という話である。

「俺に生命力が無いように見えるのか」

 ギロリと睨めば梶からヒィッと悲鳴が漏れる。その程度で怯えるようなら無礼な物言いをそもそもするなと伽羅は思うが、梶からすれば前提として伽羅に喧嘩を売ったわけではないらしかった。自分が多少何かを期待していただけと悟り、伽羅は人知れず居心地を悪くする。

「いやあの、生命力はあります。迸ってますっ。で、でもあの、意外と短いなぁって……」

 前置きをし、梶は伽羅の掌を両手で包むように持った。つるりとした親指の付け根、生命線が立ち消えた辺りにオドオドした表情を浮かべたまま己の爪を喰い込ませていく。

「なんだ。良い度胸だな。死ぬか?」

 ピリ、と僅かばかりの刺激を感じて伽羅が片眉を上げる。攻撃といってやるような痛みではないが、意味も色気もなく爪を立てられる謂れもなかった。
 凄んだ伽羅に、やはり梶はヒィッと鳴く。見開かれた目を右に左に忙しなく泳がせ、しかし爪を押し付けている自身の手は伽羅から離そうとはしない。ぐぐ、と爪を押し込み、数秒維持したあと梶はようやく伽羅から手を離した。梶の爪に圧迫されていた部分の皮膚が凹み、伽羅の掌には新たな手相が刻まれる。よくよく見れば、本来の生命線に接ぎ木するようにして、短かった伽羅の生命線が少しばかり延長されていた。

「え、えへ、へ。生命線、伸びた」

 笑い方こそぎこちなかったが、梶は声色に安堵と満足を滲ませていた。

「だからどうした」梶を一蹴し、強制的に生命線を伸ばされた右手を伽羅は梶に押し付ける。「こうすれば俺は不死にでもなるのか? 訳分からねえことばかりしやがる」

 押し付けた手の向こう、伽羅は梶の額や鼻に皮脂を感じていた。二十代そこそこの男の肌なんてものは脂が浮いていて当然だが、他人の顔の脂など不愉快には違いないので、伽羅は比較的乾燥している部分を選んで梶の唇を掌底でぐりぐりと弄ぶ。梶は困り顔をして伽羅の嫌がらせを受けていた。

「ぷあっ……! いや、不死とかそんなの、ならないことは分かってるんですけど。でも生命線が伸びるのはなんか、縁起良いかなって。ほら、伽羅さんって危ない仕事も多いし。長生きの願掛けは何個あっても良いじゃないですか」

 ようやく口から掌が退くと、梶の口元は唇の周囲がほんのり赤くなっていた。そこまで力を加えた覚えはないが、貧弱な人間は皮膚まで薄いのだろうか。

「きっと五年は寿命伸びましたよ」

 梶が得意げに胸を張る。(そんなんで寿命伸びたら苦労しねぇよ)と梶の手によって少しだけ伸ばされた生命線を見下ろし、伽羅は思い切り右手を握りしめた。
 開いた掌には梶のつけた痕など既に掻き消えていると思っていた。しかし実際には案外しぶとく痕は残り、伽羅の元からある生命線に続いてくっきりと、梶がつけた延長線はさも最初から伽羅に刻まされていたかのような顔をして掌に居座り続けている。

「消えねえが」
「消えなくて良いじゃないですか。生命線ですよ」
「虚偽の線だろうが」
「でも、嘘でも長生きできたら儲けものじゃないです?」

 ビビリの癖に生意気な物言いだけは減らない男である。伽羅はほんの数秒思案を巡らせ、今度は手を緩く握りしめた。
 縁起物と梶は言ったが、所詮皺が数センチ伸びただけの代物である。手相なんてものは迷信の類で、無くて困るものでも無ければ、あって損をするものではない。
 別に他意はないのだ。梶がつけた皮膚の凹みが、思いの外消えないのだから仕方ない。

 ふと気になって、伽羅は梶の手を掴むと彼にされたように梶の手を裏返した。細かい線が無数に走る掌で、生命線が手首まで細く長く伸びている。伽羅の手相に色々と文句をつけたわりに、梶のソレも随分心もとない線だった。一本線だが所々溝は浅くなり、場所によってはほぼ消えかけている部分もある。

「お前も似たようなもんじゃねえか」

 伽羅が鼻で笑う。梶はキョトンとしたあと自分の手相を確認し、「わー、今後も順調に何度か死にかけそう」と他人事のように言った。

「濃い線にしてやろうか?」
「伽羅さんが?」
「骨が折れるまで深く爪を喰い込ませてやる」
「そ、そこは骨が折れる“くらい”で止まらないんでしょうか!?」
「骨を折るまで食い込ませてやる」
「目的が骨を折るになってる!」

 遠慮しておきます! と梶が手を引こうとする。「まぁまぁ」とわざとらしい笑顔を浮かべる伽羅からは、浮かんだ手を離す気配が微塵も感じられなかった。