世界を二つに分ける方法はたくさんある。自分と他人。敵と味方。男と女。悪と善。
では、世界を三つに分けるとしたらどうだろう。途端に選択肢は限られて、誰もが納得する三分割が意外と世の中には少ないことに気付くかもしれない。
β性・梶隆臣の頭で思いつく世界の三分割は、まさしく彼の性別を示すかのようにごく平凡なものだった。子供と大人と老人、健康な人間と病人と死人、αとβとΩ。一応回答はいくつか絞り出したが、前者二つには審議の余地があるため、やっぱり世の中を真っ当に三つに分けたらαとβとΩしかないのではないか、というのが梶の導き出した答えである。
この世界には男女という目視可能な性別の他に、α・β・Ωという見えない性別・バース性が存在している。第二次成長期に血液検査で初めて分かる第二の性には、それぞれ特徴があり、明確な力関係があり、またある意味男女間よりも絶望的な性差が壁としてそびえ立っていた。
リーダー気質で生まれながらの支配階級と呼ばれるα。最も人口が多くフラットなβ。そして男女ともに妊娠が出来る、繁殖能力にのみ特化した最下層Ω。
三つは時に松竹梅や飛行機のグレードになぞられるが、実際の格差はより顕著である。人々の感覚的には優のα・並のβ・劣のΩといった具合だった。
αは生まれつきIQや身体能力が高い傾向にあり出世しやすい一方、Ωは定期的に訪れる発情期――昨今では差別用語との指摘もあり、一般的にはヒートと呼ばれる――が社会生活に支障をきたすことから職場で冷遇されることが多い。中高学校にΩ生徒用のスクールカウンセラーが必ず常駐していることからも、Ω性の扱いの難しさは推して知るべきだろう。
いくら政治家が人類みな平等と謳ったところで、その政治家はαなのだから説得力の欠片もない。誰もがαであることを願い、βと診断されて落胆しつつも「まぁΩじゃなかったんだから良いか」と留飲を下げる。そんな世の中だ。
『βなあの子も即Ω堕ち! 新発売! コンドームα!』
とはいえ、性別というのは人類永遠の関心ごとである。
ポップに書かれた謳い文句を読み、梶は無意識に眉を顰めた。人権云々が声高に叫ばれる社会でこれは炎上案件じゃないのだろうか。
性差別丸出しの文言に呆れ、そんな文言と共に売り出されたコンドームαがツブツブタイプでイチゴの香り付きなことに首を捻る。梶の身近にも数人αは居たが、少なくとも一人は確実に、性器にツブツブはついていないしイチゴの香りもしていなかったはずだ。
開発者側は誰もαの性器を見たことが無いのだろうか。それともまさか、梶が知っているαの体が実は特殊なのか。
「……いや、ナイナイ。さすがにそれは無い」
一人で突っ込みを入れ、きっと前者だろうとさっさと結論付けた梶は、そのまま近くに並ぶ見慣れたコンドームを二つ手に取った。
某メーカーの〇,一ミリのMとXL。取り間違えではない。使用者がそれぞれ異なるので、サイズ違い二点で間違いはないのだ。
同商品のサイズ違いという男としてはなかなか複雑な買い物だが、愛しの専属様がこのメーカーのこの商品しか嫌だというので致し方ない。なんでも、装着感とゴムのテカリ具合が違うらしい。変わんないでしょたかだか一ミリ以下のゴム生地の感触なんて、と梶は常々思っているが、専属こと門倉いわく、「分からんかこの違いが。まぁ、女も知らんような子には難しいか」とのことだった。腹立たしい話である。梶から女を知る機会を奪ったのは門倉本人ではないか。
───というか、いい加減僕のコンドームメーカー縛りをどうにかしてほしい。
買い物に来るたび、自分用のMサイズコンドームの存在意義が分からずに梶はため息をつく。
いや、コンドームの着用自体は賛成だ。何故ならシーツの洗濯が楽になるから。ただ、他の商品より大分割高なメーカーのコンドームしかダメだという門倉の意見には、梶は全くちっとも爪の甘皮程度さえ納得がいかなかった。
避妊率が上がるとか性病対策に効果的とか、それ相応の理由があればまだ従うものの、自分の性器が『梶にはこれが一番似合うんよ』という理由で一つ一九〇円もするコンドームを纏うのは倹約家の梶には到底受け入れがたい。普段は門倉が用意してくれてるから良いじゃないかとか、梶が買い物代行する際もコンドーム費用は門倉が出してくれてるから関係ないだとか。反論はいくつか出そうだが、そういうことではない。そういうことではないのだ。
(とりあえず今日は商品指定されたから買っていくけどさぁ!)
二四個入りコンドーム二箱と大容量ローションをカゴに入れ、梶はそそくさと店の奥へ足を向けた。
レジは入口から最も遠い位置にある。所狭しと並ぶアダルトグッズを掻き分けて行き着くと、見慣れた顔がぴょこんとレジの向こうから頭を出した。
「おーまた梶じゃん! いらっしゃい!」
「うわあああまたチャンプさんだ! こんにちはコレお願いします!」
やけくそな態度で梶がカゴを突き出す。ケラケラと笑い、チャンプと呼ばれた青年は「えっもう終わったわけ? はっえー。お預かりしまーす!」と慣れた調子で商品のバーコードを読み込み始めた。
チャンプこと土屋剛は梶がとある賭けで知り合った人物である。わけあって非合法のゲームに身を落としていた彼ではあるが、本来はごくごく一般的な青年であり、現在は自身のゲームショップ開店を目指し資金集めに奔走中とのことだった。
「なんかいつ来ても居ません?」
レジを待つあいだ梶が口を開く。言葉の裏には『たまたま貴方のシフトと毎度合致してるだけで僕は別にアダルトショップに入り浸っているわけじゃないですよ!』という弁明が含まれていたが、チャンプは知ってか知らずか──それともそんなことどうでもいいのか──カラっとした口調で「だっていつも居るもん、俺」と言った。
「今日で三六連勤目だったかな」
聞いたことのない連勤数に梶は目を剥く。
「いやヤバいでしょソレ。お金要るっていっても、それじゃ店開く前に体壊しちゃいますよ。なんで辞めないんですか」
「いやーこの店時給よくってさァ。それにエロDVDの品揃えもヤバくて、イロモノとかエロアニメにも強いわけよ。そんで社割がエグいくらい利く」
「アダルトショップでエグいくらい社割使うのってどうかと思いますよ」
チャンプは曖昧に笑って合計金額を梶に告げる。万札と店のポイントカードを差し出すと、チャンプは「あ、前回でポイントカードいっぱいになってんじゃん。今回の買い物三〇%オフな」と梶に値引いた額を提示し直した。
コンドームやローションしかこの店では買わないため、必然的にポイントカードは夜の頻度に比例して溜まっていく。社割に突っ込んだ手前なんとなく居心地の悪さを感じてしまい、梶は一旦レジから離れると、値引き金額を帳消しにするように巨乳大作戦の新作ビデオをカゴに追加した。
「あのポップってどうなんですか? ゴム売り場のところにあったやつ、Ωが云々って。行政の指導入るんじゃないです?」
気まずさを紛らわせるように言う。チャンプはキョトンとした後「あぁ、アレ?」と梶が歩いてきた方向に視線を投げた。
「あのポップ、俺じゃなくて店長が作ったんだよ。炎上商法が好きな人でさ、まぁ分かっててやったんじゃないかな」
「えっ店長いるんですかこの店」
「そりゃ居るだろ、店なんだから」
何言ってんだよ、と苦笑する姿に梶は少しムッとする。顔馴染みの店員といえば聞こえは良いが、梶は店でチャンプ以外の店員を見たことがない。
「けど、あれくらい露骨な方がウケるっていうのは確か。この辺ちょっと治安よろしくないしさぁ」
チャンプが無視して続ける。ギャンブルを生業にしている梶はどちらかといえば治安悪化に一役買っている人種だが、行儀よくこの店でコンドームを買い続けてきた実績を買われ「梶もガラ悪い奴らには気を付けろよぉ」とごく自然に対象外にされているらしかった。
「ここらの地域なんてどこも一緒じゃないです?」
「いやぁ特にここら辺は怖いよ。なんか知らないけど、やたらにαが歩いてる確率高いし。俺βだから匂いとかはよく分かんないけどさ、妙にオーラがある奴って感覚で分かるじゃん? だからちょっと外歩くだけで、あ、アイツもコイツもαだ、とか察しちゃうわけよ」
あぁ、と梶が微妙な相槌を打つ。
一般企業に扮した倶楽部賭郎の本拠地がこの近くにある。チャンプが目撃した妙にオーラがある奴というのも、大抵は賭郎の関係者だろうと思った。
チャンプは慣れた手つきでレジを操作し、流れ作業でコンドームを黒い袋に入れる。アブノーマルな商品ばかりを取り扱う店だけあって、知り合いがサイズ違いのコンドームを定期購買しても、チャンプは一切商品に触れることはなかった。
以前違う店で買い物した際、他に客が居る中で「サイズにお間違いはないですか?」と尋ねられたことがトラウマになっている梶にはありがたい気遣いだ。「サイズは把握しています」と答えた梶に、周囲から向けられた歪んだ表情は今でも忘れられない。あんな思いをするくらいなら、鬼出勤の知人にコンドームの消費ペースを把握されるほうがよっぽどマシである。
釣銭と新しくなったポイントカードを受け取り、「またお待ちしてまぁす」という気楽な声に見送られて梶が店を後にする。一八時だというのにまだ外は明るく、歓楽街の街灯も太陽光に照らされては普段より気弱そうだった。
梶が歩くたびにコンドームとローションがぶつかり合い、ナイロンの袋をシャカシャカと鳴らしている。袋と商品の相性が悪いのか、買い物をした後はいつも袋の音が気になった。
梶が一歩踏み出すごとに、セックスの道具達はまるで糾弾するように声を荒げる。無機質な音に責められ、たまらず梶は足を止めた。
袋の中をまさぐり、音が出ないようにとローションを横に倒して安定させる。それでも一歩歩くとまた音がする。
いつまで非生産的なことをしているつもりだ、濡れない尻をローションで無理やり広げて、αの遺伝子をコンドームに吐き出させて、やっていることが無意味だと自分で思わないのか。シャカシャカ。
梶は道端の石をわざと蹴った。ナイロンの擦れる音はカァン、という石がガードレールにぶつかる音に掻き消え、道を歩いていた女が訝し気な視線を向けて歩き去っていく。
些細なことで胸をざわつかせる自分に腹が立つ。怒りの原因を探ると、梶の頭は先ほど店内で見かけたポップに行きついた。
βなあの子も即Ω堕ち。
目についたのは、潜在的に求めていたからだろうか。決してツブツブもイチゴの香りも梶は欲していたわけではないが、文言の低俗さに呆れつつも、目にした途端足が止まったのは事実だ。
倶楽部賭郎二號立会人の門倉雄大と賭郎会員梶隆臣は専属立会人の関係を結ぶ前からお互いを見知った仲だったが、αの門倉雄大とβの梶隆臣が恋人関係になったのはごく最近の話だった。
信頼関係を築いたうえで友情が愛情に変わっていったと言えたらさぞ楽だっただろうが、残念ながら二人の間に友情が芽生えた瞬間は無いし、むしろ信頼のしの字も不確かな段階でまず二人が行ったコミュニケーションがセックスである。正式に付き合おうと話し合う前から、やれ酒の勢いだ、性欲処理だと言い訳を作ってはキスやセックスを繰り返してきたので、二人の関係はどこをどう切り取っても純愛めいた話にはならない。始まりのやり取りさえ忘れた。門倉くらいは、最初のキスが酒臭かったことを覚えているかもしれないが。
便宜上は時折粘膜が触れ合うビジネスパートナーのまま、付かず離れずの関係はそれでも年単位で続いた。経験が浅く恋愛面ではめっぽう奥手な梶はともかく、“あの”門倉が恋愛面で何年も燻っていたというのは、彼を知る人間からすれば異例中の異例である。勿論本人たちも――門倉は分からないが少なくとも梶は――好き好んで中途半端な関係で足踏みしていたわけではない。ただ大小あるにせよ、お互いに性別をネックに感じていたことは確かだった。
世の中には男女という明確な性別の他に、α・β・Ωから成る『バース性』という第二の性別が存在している。男女の性別とバース性は個々によりランダムに組み合わさっており、結果世の中には、厳密にいえば六つの性別が存在していた。
決して少ない選択肢だとは言えないが、とはいえ組み合わせの豊富さで言えば、星座や干支のほうがはるかに複雑なことも事実である。
ただ性別に六種類の組み合わせがあるだけなら、また、ただバース性にそれぞれ特徴があるだけなら、梶達もここまで思い悩むことはなかっただろう。しかしバース性の厄介なところは、六つの性別における比率と、その性別が持つ社会的な責務にあった。
ほぼ一:一の割合である男女に比べ、バース性はその比率が著しく偏っている。βが総人口の九割強を占める一方、αとΩは合わせても全体の一割に満たないのだ。そのくせ歴史上の成功者のおよそ六〇%がα性だと統計が出てしまえば、いよいよ社会が歪んでも仕方のない話だった。
歴史上の偉人と呼ばれる人物の過半数がαだということは、裏を返せばαが居なければ今の世界が存在し得なかったということである。つまり人類にとって、α性の減少とは人類の衰退に直結する事態であって、その為いつの時代も、α性の人口安定化は人類の優先課題であり、α自身も、後世に遺伝子を残すことに強い義務感を感じていた。
社会はαの子作りを全面的にバックアップし、繁殖の有効手段として繁殖能力に特化したΩをαへと差し出す。受精率が高く男女共に子供を産めるΩ性は『αの子を孕める』という一点から連鎖的に重宝され、体質ゆえに軽視されているにも関わらず、Ωはまた、体質により手厚い保護の対象ともなっていた。
Ωはαに身も心も差し出すべきだし、αはΩを手に入れることができたら無条件に幸福である。
いつからか社会はαとΩが本能的に惹かれ追う『番』の概念を運命の赤い糸と同一視し、αとΩの恋愛こそ最も理想的で神聖な愛として認識していった。古今東西、恋愛作品の王道といえばαに見初められるΩの話だ。社会的弱者である一方、夢見る乙女たちにとってΩ性はガラスの靴のようなものだった。冷たく硬いが見た目に美しく、見事履ければ王子様と幸せな未来が待っている。
―――ガラスの靴なんて、落としたらすぐ割れちゃうのにな。
梶の手元ではシャカシャカと袋が鳴り続けていた。箱が軽い分、歩くと袋の中でコンドームが踊るようだ。
梶はめげずに配置を直し、次は箱の上にローションを横たえる。ガラスの靴どころかナイロンの袋一枚も上手く扱えない。自虐歴な笑いが自然と梶の顔に浮かんでいた。
王道があれば邪道がある。αとΩの恋愛が受け入れられるということは、表裏一体、その仲を引き裂く恋愛は拒絶されるということだ。
門倉と梶は現在恋人同士である。二人はαとβのカップルで、お互いの関係を誰にも伝えていない。伝えたいとも思えない。伝えてはならないと、口には出さないがどちらも悟っている。
門倉はαだ。恵まれた体格に、回転のきく頭、どんな地の底に居ても不思議と事態が好転していく強運を持ち合わせた、αの特性を色濃く発現した優秀な個体である。その強烈なカリスマ性は常に人を惹きつけ、気付けば彼はいつも誰かの上に立っていた。門倉も自身の能力は十二分に理解していているので、α性を存分に活用し、組織内でまだ若手と呼ばれるような年齢から立会人の上位號を掴みとっている。
αの門倉に対して、「貴様と俺は違う生き物だ」と常々口にしている梶は大多数の人間に漏れないβである。平々凡々、十人並などの言葉で表現されるβだが、梶は意外なことに自身のバース性を愛していた。
人類の九割を占めるβという人種は、特別コンプレックスを持っている人間も少ないが、バース性に思い入れのある人間も同じく少ない。周囲から言わせてみれば、自身のβ性を好意的に捕らえる梶は自身の性別を誇りに思うΩくらい不思議な人種だった。
「なぜ梶様はβ性に対してそうも好意的なのですか」
以前、倶楽部賭郎の飲み会で同席した立会人に梶はそう問いかけられたことがある。
能力至上主義の倶楽部賭郎には様々な選民意識が根付いており、バース性もその一つだった。梶は斑目貘の腹心であったことで組織の中核に早い段階から入りこめていたが、本来の倶楽部賭郎はβ性というだけで幹部への道は遠くなるらしい。梶に質問を投げかけた立会人も自身がβであり、現在の地位に至るまでには相応の苦労があったらしかった。
βのくせにと蔑まれたり、逆にαだったらもっと完璧だったのにと残念がられたり。無責任な周囲の声を梶は知っていて、その上で梶はケロリとしていた。飲み会当時、梶の視界の端では能輪家の人々が運命の番と出会う素晴らしさを熱弁していた。梶は能輪家のプレゼンをBGMに、声に確信を滲ませて、立会人の問いに答えたのだ。
「自由だからです」
環境の中で妥当な相手を選び、誤解と錯覚と弾みで恋に落ちるβにとって、本能で引き寄せられるαとΩの恋愛観は未知のものだ。世に生きるほとんどの人間は、αとΩの恋愛を物語の中でしか見たことがない。だから美しいものだと表面だけを見て褒める。αとΩの恋こそ王道だと疑いもなく口にし、その仲を引き裂く恋愛は、邪道だとして無邪気に拒絶するのだ。
梶隆臣の母はΩだった。そして父はαであり、二人は運命の番だった。
母を抱きしめる父の横顔を梶は今も覚えている。愛おしさに目尻を下げる姿は、子供心になんて尊いものなのだろうと感動するほどだった。“隆臣”は文字通り二人の愛の結晶であり、幼少期の隆臣は、お互いを慈しみ合う両親からたっぷりの愛情を受けて育った。隆臣は愛しいαの息子で、また愛しいΩの息子だった。番たちの間で交わされる愛に一切の濁りが無いことは、幼少期の経験から隆臣も身に染みて分かっている。
確かにαとΩの関係は強固だ。
だからαの父をΩの母は深く愛し、唯一無二とし、そして壊れてしまった。
梶の父の死因はごくありふれた病死であり、無論幼い隆臣に何の罪も無かった。だが夫が亡くなったその日から、母親の隆臣に対する態度は一変した。
ことあるごとに母は隆臣を殴り、品の無い言葉で隆臣を罵倒した。癇癪の最後が常に「何でお前が死ななかった」で締められることに気付いた時、隆臣は世界に一人きりだという運命の番が持つ危うさを知ったのだ。『愛しいαの息子』は所詮『愛しいαの息子』であり、それは『愛しい自分の息子』と同義では無かった。
たった一人が死んだだけ。持って生まれた美貌とバース性で多くの男を骨抜きにしてきたΩが、たった一人のαを失っただけだ。
それなのに梶の母親は転がるように荒んでいき、奇しくも夫の命日に初めて別の男を作った。
あまり良い出自とはいえず、ロクな後ろ盾も金も無い梶の母親だったが、彼女にはΩ性という強力な武器があった。経歴を蒸し返せばキャバレーに所属した途端彼女はあっという間に店のナンバーワンに躍り出たし、男の家を転々とする軽率な女に慣れ果てても、彼女のΩ性は花の放つ芳香のようにα性を惹きつけ続けた。
Ω性は妊娠を“得意”とする性別で、嫌な話をしてしまえば、次なる金の卵を産める人種である。差別を受けつつも現代まで劣等種が生き残り続けてこられたのは、一部の仄暗い欲が、彼女たちを保有してきたからに他ならなかった。
隆臣は当時、母親のΩ性が売買される瞬間を幾度となく目撃した。口元をぐにゃりと曲げ、「アンタみたいなβは吐いて捨てるほどいる。私は生きてるだけで人に求められるんだ」とせせら笑う母が、そのくせ自分の人生にもう何の価値も見出していないことを隆臣は知っていた。
中に出してくれと媚びるくせに、毎日必ずピルを飲み続けていた母。生理が送れると半狂乱で下腹部を殴り、『あんな男の子供なんて生みたくない』と泣き喚いていた母。強い生き物に縋ることでしか生きていけないのに、夫との日々を越える未来を梶の母親は作る勇気が最後まで持てなかった。もしかすると唯一無二が死んだ瞬間に、彼女の時計は既に止まっていたのかもしれない。
ガラスの靴は美しいが、決して強度は高くない。浮かれて飛び跳ねれば簡単にガラスは砕け、破片は自分の足を切り裂き血みどろにするだろう。
バース性の根は深い。搾取する側は、同時に搾取され続ける側でもある。
梶が幼少期を振り返ると、支配層である一方、最もα性に支配されているのもαだった。あるいはαの素晴らしさを滔々と語る立会人たちよりも、その点において梶は理解が深いかもしれない。
だから、ということもあるが。
付かず離れずのぬるま湯のような関係を続けていたある日、勝負の帰りに「そろそろ付き合わん?」と抱きしめられた瞬間、梶は咄嗟に門倉から逃げてしまった。
「なんで一線を越える必要があるんですか。門倉さんと僕は、αとβは、どうせ唯一無二になれるわけでもない」
偶然巡り合い、不思議と惹かれ合ってセックスするようになってから梶と門倉の間には年単位の月日が流れていた。
専属の関係になってからは、セックスの回数は勿論、日常の何気ない場面で触れ合う機会も増えていた。特に親しくない知人同士が触れ合う為の理由付けは日に日に適当になっていき、見つめ合ってからキスをして、数秒抱きしめあった後「すまんセフレと間違えた」「えっ最悪ですね門倉さん。けど僕も夢だと思って普通に対応しちゃったんで責めるとか出来ないです」などギャグかと言わんばかりの茶番を大真面目にやり取りしたこともある。流石に自分たちの関係が限界だとは梶も気付いていたが、まさか門倉の側から「好きだ」と真っ当に告白されるとは思っていなかった。
「僕は責任もない自由気ままなβですけど、門倉さんはどっからどう見たって凄いαじゃないですか。αとβの関係は大抵α側が運命の番を見つけて終了するって聞くし……僕は、自分に傷を残すために関係を変えるんでしょうか」
暗黙のルールで雁字搦めのα社会でβのパートナーを持つリスクを門倉は知っていたし、梶は梶で、αとβの同性カップルがどれだけ生きづらいかを承知していた。六つの性が絡み合い、大抵の人間に子どもの希望が灯る世界では、生産性のないカップルはただでさえ肩身の狭い存在である。その中でもα性を消費するだけのαとβの同性カップルは表社会にすら居場所が無く、政略結婚が横行する裏社会はさもありなん、といった具合だった。
梶は門倉と、そのまさに『居場所のない』組み合わせにリスクを冒してまで入っていく理由が分からなかった。
確かに門倉のことは当時から憎からず思ってはいたが、所詮梶の情愛はごく平凡な好意の範疇だった。両親のような、魂を削るような愛し方はとてもじゃないが梶には出来ない。
大体仮に、梶が命を懸けて門倉を愛したところで何になるのだろう。門倉はΩを見つけたら必ずそちらを選ぶ。しかも梶を門倉が捨てるとき、世界は「よくぞ目を覚ましてくれた」と拍手で門倉と彼が見初めたΩを迎え入れるのだ。αとは、運命の番とはそういうものだ。
結局「セフレにしてはお互い情を持ちすぎじゃろ。別れる可能性があるなら一層、付き合わんと別れ話もロクに出来んしのう。ちゅうかええ加減、理由つけて抱くの面倒なんよ。もうええじゃろ。『好きだから』でセックスさせぇ」と門倉に丸め込まれ、頭が蕩けそうな甘い言葉を一晩中聞かされてなぁなぁで受け入れてしまった梶ではあるが。
正直いまだに、梶は自分が出した結論に疑問を持ち続けている。
細い路地を抜け、角を曲がる。道なりに行けば落ち合い場所の駐車場が見えてくるはずだ。
遠目に門倉の愛車を見つけ、梶の足が自然と速くなる。見慣れた黒スーツに声をかけようとしたところで、その隣に立っていたもう一人の黒スーツが梶を呼んだ。予想外の人物に梶の足が止まる。待ち合わせの相手だった門倉が、げんなりとした視線を梶に向けた。
(何で来たんじゃ)と言わんばかりの表情に(そりゃ来ますよ待ち合わせしてたんだから)と視線で答える。もう一度スーツの男が自分を呼ぶので、梶はしぶしぶ男に視線を向けた。
「何ですか切間創一さん」
「どうしてそう君は毎回フルネームで呼ぶんだ。理解が出来ないな、梶隆臣」
「そっくりそのまま返させてもらいます」
上等なスーツを難なく着こなし、切間が不思議そうに首を傾げている。片手間に触っているルービックキューブが目にもとまらぬ速度で動き、一瞬で面が揃ったかと思えば、また切間の手によって色を散らされていった。
切間創一。前倶楽部賭郎のトップであり、現在は斑目貘と共に賭郎の共同運営を行っている人物である。
「一人ですか? 貘さんは?」
「貘さんは執務室。仕事を晩秋のリスみたいに溜め込んでいてね。今日明日は缶詰じゃないかな。僕は門倉さんの姿をたまたま見かけて、話をしようとここまで来た」
切間が説明する。ユーモアが滲む語り口にも関わらず、切間の口調には不思議と入り込める隙間が無かった。立場ゆえか元々の性格なのか、切間の声は一音一音が明瞭すぎるのだ。迷いなく完成した文章だけがスルスルと口から流れてくる様は、まるで用意された原稿を読み上げているかのような完璧さだった。自分の思考さえあらかじめ把握されているようで、梶は切間と会話を交わす時、いつも居心地が悪さを感じてしまう。
切間創一はα性しか生まれないと噂される頂点の血族出身である。
平均的なβ性の梶には理解できないことがあっても当然なように思えたが、時に宇宙人と揶揄される恩人の親友が、梶は前々から少しだけ苦手だった。
「門倉さんと貴方が話してるところ、あんまり見たことが無かったんですけど、仲良いんですね」
「仲はそれほど良くはない。悪くもないけど。それに話していたのは半分以上君についてのことだった」
「え、そうなんですか、門倉さん?」
「えぇ、まぁ」
門倉を見る。門倉が梶から視線を外す。それだけでどんなやり取りが行われていたか分かり、梶の胃がぎゅぅ、と縮まった。無意識に手の袋を強く握りしめた梶を、目敏く切間が指摘する。
「買い物してきたの」
「そうですけど」
「黒い袋。薬局?」
「そんなとこです」
「そう」
意味があるのかどうかも分からない会話を重ねて、切間は一歩二歩と梶の方へ歩み寄ってきた。表情から感情は読み取れないが、切間の後ろで門倉の顔が盛大に歪み始める。なんだか良くないことが起こることだけは梶にも分かった。
切間が動くたび、独特なニオイが周囲に漂う。香木と果物を砂糖で煮詰めたようなソレは、数メートル離れている段階から梶の鼻に届いていた。おそらくは香水の類だろうが、切間の雰囲気には正直似合っていない。到底本人の趣味とも思えないがなかなかに愛用しているらしく、最近の切間は出会うたびいつもこのニオイがした。
「何を買ってきたの」
切間が梶の真正面で立ち止まった。率先して世間話を振られることは珍しく、少し身構えて梶は答える「なにって、日用品です。特に面白いものじゃない」
「門倉さんを待たせて? 命知らずだね、梶隆臣」
「事前に連絡を頂いておりましたので」
門倉が助け舟を出す。切間の形の良い眉が僅かに吊り上がった。
「待ち合わせをしているようだったけど、今日は勝負か何かあるの? 僕は知らない。貘さんは知ってるのかな」
「賭郎勝負の予定はございません。この後は少々の野暮用を済ませ、私の車で梶様をご自宅まで送迎する予定です」
門倉は滑らかに嘘をついた。
本日は別の会員の勝負に門倉が立会い、梶は潜入中の組織で軽い雑務をこなしてきた。明日まで仕事の予定はなく、二人は駐車場で待ち合わせた後このまま門倉の車でラブホテルに直行する予定だ。
「そう。今から野暮用があるのに、わざわざ人を待たせてまで君は先に日用品を買ってきたのか。梶隆臣、君は人の目を気にする人間だから、なんだか不思議な行動に思えるね。それに門倉さんの車、私用車だ。野暮用に賭郎の車では目立つのかな? でも服は普段の立会に使っているスーツ。これも不思議だ。野暮用って何だろう」
まるでどこぞの探偵のような口調だった。犯人捜しの要領で矛盾点を上げ連ね、切間はワザとらしく顎に手を当てるとずい、と梶に顔を近づける。甘いニオイがより強くなり、胸やけがしそうだった。
普段梶のことなど気にも留めないくせに、今日はやけに絡んでくる。梶は寸でのところで言葉飲み込み、それでも隠し切れなかった不快感から顔を顰めた。苛立った梶を見て、不服を示すためか切間が記号的に唇を尖らせる。
「どうして怒るのかな。僕は不思議だと思ったことを口に出しただけなんだけど」
「別に思うだけにしておけば良いじゃないですか。なんで言うんですか?」
「何でかな。機嫌が悪いからかも」
「は?」
「明言しておくけど、僕はいま君達に八つ当たりをしている。だからどんな正論で向かってきたところで無駄だ」
きっぱりと切間が言い切った。あまりに堂々としているものだから、梶は一瞬八つ当たりの意味を忘れてしまったほどだ。
「八つ当たられる理由が思いつかないんですけど」
「本当に? 梶隆臣。門倉さんと仲がいい君が、本当になにも思いつかない?」
どうも機嫌が悪いというのは本当らしい。珍しく感情を表に出して、切間が責めるように梶をねめつけた。
八つ当たりをこれほど尊大な態度で認めてくる人間が居るのか。梶は口元をヒクつかせ、先程まで一人で切間の相手をしていたであろう門倉に同情の視線を向ける。
何があったかは知らないが、口ぶりからして十中八九バース性にまつわることだろう。二人の関係は誰にも言っていない。言っていないが、貘や切間といった人間を超越しているとしか思えない存在に、よもや関係を隠し通せるとは梶も門倉も思っていなかった。
「何を買ってきたんだい梶隆臣。見せてよ」
「見て楽しいものは何もありませんよ」
「楽しいかどうかは僕が決める。言ったはずだよ、僕はいま八つ当たり中だ。君の事情なんて知ったことじゃない」
言われて、梶はため息交じりに袋の口を開けた。相手の発言は暴論というほかないにせよ、事実梶に対抗手段はない。
中が見えない仕様に感謝しつつ、梶はがさごそと勿体ぶって袋を探った。中身の主体は言わずもがなサイズの違うコンドームとローションだが、まさか切間にそれを悟られるわけにはいかなかった。
門倉との仲をどこまで切間が把握しているかは分からない。ただ待ち合わせをしていた手前、中身を見れば関係の深さも今後の予定もたちまち切間に筒抜けになってしまうだろう。
本来なら何一つ見せずに切り抜けたいところだが、生憎切間相手に無傷で済むとは梶も思っていない。ここで片意地を張れば強行的に袋を奪われてしまうかもしれず、全てを見られるくらいなら自分だけが恥を晒せば良い、というのが梶の判断だった。
意を決して袋の中の一つを掴み、梶が切間に右手を突き出す。のぞき込んだ切間の瞳に肌色のパッケージが移り込んでいた。巨乳大作戦新作。濃厚七時間スペシャル。
「これで満足ですか? 僕も男なんで、これだって生活必需品です」
動揺が悟られないよう手に力を込め、梶は落ち着き払った声で言った。
切間は首を傾け、興味深そうに箱を凝視している。まさか御曹司という生き物はアダルトビデオの存在を知らないのか、と訝しむ梶をよそに、端々までパッケージを確認してから、切間は「あ、巨乳大作戦」と思い出したように手を打った。
「なんだか見たことがあるロゴだと思ったら、貘さんに進められたビデオと同じだ。趣味一緒なのか貘さんと」
正確には梶の趣味を貘が真似たのだが、わざわざ訂正するようなこともでもない。それよりも切間創一にアダルトビデオを勧める貘のことが梶は気になって仕方なかった。
「これそんなに面白いかな。金を払ってまで人の性行為見ることも無いと思うけど」
あっけらかんとした口調の切間に、梶は「嫌味ですか」と表情を険しくさせた。
優秀な遺伝子だけでも手に入れたいと考える人間は多く、αは受精前提の性交を持ちかけられることも少なくないと聞く。特に切間のような男なら、女も社会も放ってはおかないのだろう。時にはレイプ紛いの性交でさえ「ありがとうございます」と相手側から感謝される人種だ。そりゃ本来はαなんてアダルトビデオに世話になる必要もないよな、と梶は半ば自棄になりながら思った。
「もう十分でしょう? いい加減解放してくださいよ」
いそいそと袋に戻そうとする梶を、切間の「何をそんなに慌てるの」という剣呑な声が阻む。まだ何か入ってるんでしょう? と袋を指差す切間に、さすがの梶も猜疑心を覚えた。
しつこすぎる。日頃から執着している人物ならいざ知らず、自分の買い物になぜそこまで興味があるのか。
無意識に梶が一歩後退る。ザ、と土を踏む音を皮切りに、切間が間合いを詰めるように踏み込んだ。
切間のニオイが濃くなる。脚をしならせ、切間の革靴が梶の手ごとナイロン袋を蹴り上げた。予想外の力に梶は対応できず、そのまま袋は宙を舞う。乾いた音と共に袋の中身がアスファルトに飛び散る。同じパッケージのコンドームが二箱と徳用ローションボトルが夕日に照らされた。呆然とする梶を尻目に、コンドームを交互に眺めた切間は「サイズが違うようだけど、これも生活必需品?」と問いかける。
「いや、それは……」
「野暮用。そうか。まぁ、野暮用の範囲は人それぞれだ」
切間は今度は梶と門倉を交互に見る。何もかも分かっているとでも言いたげな視線に、梶の喉が痙攣した。
「サイズ違うってことは、これ片方は門倉さんの分かな。αがコンドーム使うところなんて始めて見た。知ってるかい、梶隆臣。女やΩは、ほとんどの場合αに避妊を要求してこないんだ。αの子供を孕んだら儲けものだから。これじゃ、君と門倉さんが肉体関係を持っているって一目瞭然だ。しかも各二四個入り。もう随分仲が良いんだね」
真っ黒な瞳が梶を射抜いている。蛇に睨まれた蛙というのは今の自分を言うのだろうと、強張る身体で梶は思った。
横目で門倉の姿を確認する。無表情を貫いているが、後ろにどす黒いオーラが見える気がした。多分だが怒っている。切間に対する怒りというよりは、不覚をとった梶に対してと、何よりも咄嗟に動けなかった自分に苛立っているようだった。
身体を固くしながら、梶は切間の本当の目的を察する。会話の時から違和感はあったが、わざわざ門倉に話しかけにやってきたのも、梶の購入品をやたらに気にしたのも、二人から関係の深さを聞き出すためだったのだろう。そういえば最初から切間は袋の色に反応していた。おそらく梶の姿が見えた辺りか予想は立てていたのだ。他人の性事情をむりやり暴くなど、八つ当たりにしたってあまりに陰湿ではないか。
「すごいな梶隆臣。こんなに優秀なαをβの身で陥落させるなんて。どうやったか今度教えてよ。ある男にαを骨抜きにするテクニックを伝授してやってほしい。その人もβなんだ」
切れ長の目が細められる。造形は似ても似つかないが、鋭く光る瞳が門倉を彷彿とさせて梶はゾッとした。
αの目は特徴的だ。眼光は鋭いが感情は出にくく、雄弁に見えて何も真意を伝えてくれない。こちらの全てを見透かすくせに、自分の感情はいとも簡単に隠してしまう。
言葉を失う梶に見切りをつけ、切間は無言のままだった門倉に向き直った。顔からは梶に見せた笑みが消え、ただ薄暗い羨望と嫉妬が張り付いている。
門倉は転がったローションを拾い上げ、黒い袋に荷物を詰め直していた。静かな所作だ。門倉の動きに合わせ、袋が大げさにシャカと鳴った。
「失敬」
門倉が切間の前を横切る。コンドームもすべて回収し、門倉はそのまま袋を自分の手に収める。言外に自分の持ち物だと伝える姿勢に「羨ましいな」と前置きをし、切間はさらりと言い放った。「無駄打ちを許されるサラブレッドも居るんだ」
「私は下賤の生まれです。御屋形様のように優れたお血筋ではありませんので」
「だから血を絶えさせても良いんだ。ふうん。傲慢だね」
容赦のない言葉が門倉を否定し、棘は梶にも突き刺さった。
だからバレたくなかったのだという悔しさと、自分が原因でバレたという虚しさが交互に梶を殴りつける。弁の立つ門倉が特に反論もせず「そうですね」と返したことも辛かった。何を言っても無駄、という考えが門倉の伸びた背筋から感じ取れた。
噛み締めた唇に血が滲む。悔しさと罪悪感に梶の目頭が熱くなり、涙が込み上げてきそうだった。
切間の前で感情を動かしてたまるかと意地になっている梶に、既に素っ気なくなった声が「何で悲しそうにしているの」と問いかける。
「子どもが作れないことは承知の関係でしょ。今更分かり切ってること言われて何を傷つくことがあるんだ」
切間が追い打ちをかける。芯の強い人間というのは、逆を言えば感情の機微に疎い人間だ。切間はまさにこのタイプで、αと関係を持つβの肩身の狭さは知識として察せられたとしても、では実際どれだけ日々を罪悪感に苛まれているかなど、一番触れてほしくない部分にはそもそも考えが及んでいないようだった。
目元は見上げた夕焼け空のように赤くなっているかもしれない。すぐ感情が外に出る自分が嫌になり、梶は深くため息を吐いた。耳に「泣かれると困る」と切間の気まずそうな声が届く。図星を刺されて凹んでいる自分の姿は宇宙人切間創一にとってさぞ意味不明だろうと梶は思った。
「誤解しないでほしいけど、僕は君達を否定したいわけじゃない。ただ、羨ましくは思ってる。君達だけどうして蚊帳の外に出ることが許されてるんだろうって」
取ってつけたような言葉は、それでも切間の本心なのだと分かった。頂点に君臨する一族に生まれ、その血筋の未来を一身に背負う切間創一のプレッシャーとはいかばかりだろう。世襲制は終了したものの、未だに切間は賭郎のトップに座している。彼の子が、孫が。父の背中を追って御屋形様になれば、世襲など簡単に復帰されるのだ。伝統の可能性が残る以上、また彼の存在が賭郎の象徴で有り続ける以上、切間にはαとしての責務が付いて回るのだった。
切間は続ける。梶は唇を噛み、門倉は目を伏せた。
「別に門倉さんも梶隆臣も賭郎の所有物ではないし、どう生きようと僕が干渉することではないけど。門倉さんはどう見てもαだし、梶隆臣は自分からβを武器にして賭けに挑んでる。バース性を思う存分活用して、けどそのバース性が持つ社会の役割は無視して生きてるっていうのは───あぁごめん。やっぱりこれ、君達のこと否定しているかもね」
※※※
切間と分かれ、梶と門倉は無言で車に乗り込んだ。袋は軽いが、反比例するように気持ちは重い。言うだけ言ってさっさと帰っていった切間は、結局最後も「じゃぁまた」と軽い調子で二人に声をかけていった。
あれだけ重い言葉で殴りつけてきたにもかかわらず、彼にとって一連の行動は本当にただの八つ当たりだったらしい。
竹を割ったような性格だと評さなければならないのだろうか。梶は正直、切間が【自分は宇宙人である】と証明しただけのように思った。
梶の頭の中を切間の言葉が何度も巡っている。重々承知している事実だったが、実際に面と向かって責められると簡単に心は折れそうになっていた。
αの子供を残せないくせにαを求める、身の程知らずな凡人。どれだけ当事者の門倉に関係ないと言われたところで、世間のタブーは足枷のようになって梶の歩みを阻む。特に、αとΩの絆の深さを知る自分が、門倉から番を奪っているという現実は到底受け入れられるものではなかった。
「……僕のバース性、隔世遺伝なんです。母さんに似ればΩだったのに」
無意識の内に、梶の口からそんな言葉が漏れていた。
「だからなに」
門倉が呆れたように息を吐き、それよりはよシートベルトせぇ、と梶の肩を突く「ただでさえ汗かきのくせに、Ωになったらいよいよ臭うようになるよ」
呆れた顔をする門倉に、え? と梶が反応した。
「フェロモンって臭いんです?」
「あー安っぽい香水っちゅう感じ。ドンキとかに売っとるじゃろ、悪臭じゃないにせよ鼻につく香水が。あぁいう調子じゃな。別に嫌うほどでもないが良い気もせんのよ。特に今は鼻も効くし。ニオイ強すぎるのは無理」
車体がわずかに揺れる。前方に切間の車を見つけ、門倉は即座に道を変えた。車幅ギリギリの路地を何本か経て、見慣れた大通りに合流する。先ほどあんんな忠告を受けたにも関わらず、門倉の車が辿っているのは普段のホテルに向かう順路だった。
相談等々もなく、さも当然だとばかりに凹んでいる自分を乗せてホテルに行こうとしている。助手席の梶は問題の袋を膝に乗せ、(この人本当に鋼メンタルだな)としみじみ思った。
「鼻につく香水かぁ……あ、ちょうどアレです? 切間さんの香水みたいな」
「や、すまん。それはちょっと分からん」
門倉が軽く頭を振る。艶やかな黒髪がサラサラと流れ、シャンプーを買えたのだろうか、良いにおいがふわんと立った。アラサーなのにこんなに花の匂いが似合って良いのか、と梶は鼻をヒク付かせて思う。
「門倉さんはあの匂い好きなんですね」
「いや、そうじゃなく……御屋形様、香水なんてつけてたか? 梶の言うニオイがそもそも分からんのじゃけど」
「えっ嘘でしょ!? あんなにプンプンしてたのに!?」驚いた梶がボリュームを上げる「今日とかつけすぎなくらい匂ってたでしょ! なんというかこう、香水みたいなジャムみたいな……ムスク? みたいなエキゾチックな香水と果物を砂糖で煮ました! みたいなニオイですよ。やたらに甘くて、僕もう胸やけ起こしそうになっちゃいました」
鼻腔にニオイが戻ってくる。決して悪臭では無いが、門倉の言葉を借りるなら良い気もしないニオイだった。
「ジャムぅ? 似合わんにも程がある。誰かの香水の匂いが移っただけじゃろ」
「僕もそう思ったんですけど、最近本部ですれ違うたび毎回するんですよ。ちょっと貘さんの香水に匂いに似てるからお揃いかもしれないけど、でも貘さんの趣味でもないっていうか……あぁでも、それこそ切間さんなら番とか、Ω沢山囲ってそうですもんね。その匂いかもしれない」
βには本来αやΩのにおいを感じ取ることは出来ないが、例えばヒート中のΩなど、例外的にフェロモンが分かる場合もある。
聞いたところによるとΩのフェロモンというのは形容しがたいほど甘く芳しいものらしく、若干梶の鼻に合わなかったことも梶がβ性だったからだと思えば納得がいった。
へぇ、あれがフェロモンかぁ。
一人で頷く梶に、隣から
「それはない」
と硬い声がかかる。
「御屋形様からΩの匂いなんてするわけがない」
前を見据えたまま門倉が言う。表情がにわかに険しくなっていた。
「え、でも……」
「……えらい荒れとったろう、今日の御屋形様。アレな、見合いさせられたらしいんよ」
「Ωとですか?」
「いや、α」
「え?」
「切間の家はαしか伴侶には選ばん。確実に後世にα性を継がにゃならんからな」
前零號の奥方もαだったらしい、と門倉が続ける。名門ならではのしきたりに舌を巻いた梶は、ふと、頭に浮かんだ疑問を門倉に投げかけた。
「え、でも、切間さんにだって運命のΩがいますよね?」
α同士であっても、男女であれば問題なく子孫は残せる。優秀な血統を残すため合理的なやり方だとは思うが、αとΩのように番(つがい)の関係性に至れないα同士のカップルは、伴侶を得たところで本能的にΩに性的魅力を感じ続けてしまうはずである。
たとえ本心から相手を愛したとしても、Ωを求めるαの衝動は理性で抑えられるものではない。まして世界のどこかに居る運命の番、どんなαやΩにも存在する唯一無二に出会ってしまったら、夫婦関係を維持することは本当に可能なのだろうか。
梶の素朴な疑問に、何故だか門倉は更に表情を険しくした。苦虫を嚙み潰したような顔で、唾棄するように言った。
「居らんよ」
「居らんって?」
「御屋形様の番なんぞもうこの世に。居らん。切間家の風習らしいわ。跡取りの番は見つけ次第消すらしい。邪魔じゃからな。αと子を成さにゃならんのに、運命の番なんぞ」
急に車速が増した。安全運転を心がける門倉が、珍しくアクセルを踏み込んでいる。前の車との車間距離がグッと縮まる。シートに押し付けられるような圧を感じながら、梶は目を見開き、横の門倉に噛み付いた。
「は? え、え? うそ、嘘でしょ? だ、だってそんなの……!」
梶の顔が引き攣る。脳裏に幸せそうなかつての両親の姿が浮かんだ。
お互いを唯一無二として、何時も幸福の中に居た父と母。悲しい結末は迎えてしまったが、少なくとも当時の二人の愛情は本物だった。あの瞬間を知ることもなく奪われた人間が居るなど、考えただけで梶の体から血の気が引く。もしその風習が事実ならば、そんなのあまりにも残酷だ。
「Ωはダメ、βもダメ、同性なんぞ論外。そういう中で生きてきた御人じゃから、ま、ワシのことは憎いわな」
ほぼ禁止事項フルコンボじゃし、と門倉が冗談めかして言う。梶はどうにか笑おうとしたが、筋肉が硬直して上手くいかなかった。そもそも冗談の発信源も眉間に皺を寄せたままなので、土台笑い飛ばすなど無謀だったかもしれない。
車が赤信号で止まる。広い車内がふいに無音になった。
ようやく陽が落ちた街には、夜を待っていたかのようにカップルが湧きだしていた。手を繋ぎ笑い合う人々の中に梶は男性カップルを見つける。βのカップルだろうかと視線を向けた梶は、二人の晴れやかな表情に(あ、αとΩの番だ)と確信を持った。
往来を堂々と歩けるのは社会に認められている自覚があるからだ。でなければ自分達のように、陰を選んで歩きながら、誰にもバレないことを願いつつひっそりと愛し合うしかない。そうしたってなお、自分たちは表に引き出され、一方的に責められ罵られてしまうのだけれど。
外の一点を凝視する梶に気付き、門倉が梶の頭を小突いた。バツの悪そうな顔で梶がすいません、と頭を下げるのを、門倉は眉間を揉み、出来るだけ穏やかな顔で出迎えてやる。
「αは特権も多いが面倒くさいし、Ωは他人の事情で運命を左右されるんじゃから溜まったもんやない。くだらん本能に振り回されない分、梶の言う通り、βが一番合理的で自由かもしれんね」
助手席でしょげていた梶が、門倉の言葉に若干背筋を伸ばす。門倉さぁん、と情けない声を漏らす梶の頭をわし掴み、門倉が遠慮なく頭を揺すった。
頭を撫でているにカウントして良いのか悩むところではあるが、梶はクラクラする頭を押さえて「ありがとうございます」と門倉に笑いかけた。弧を描く梶の唇に血が滲んでおり、門倉は静かにハンドルを握り直す。
信号が青になる。緩やかに発進した門倉の車は、今度こそ法定速度を守り、ゆっくりと二人を運んだ。
車はホテルへと向かっている。