「いやまたお前かよ! いらっしゃいませ!」
「うわああまたチャンプさんだこんにちは! 前も言ったけどやっぱりもうこの店に住んでません!?」
「今日で一九四連勤目!」
「本当になんで辞めないんですか!?」
「流石にそろそろ俺もそう思う!」
アダルトショップのレジには良くも悪くも相変わらずチャンプが居た。嬉しさと同情が入り交じる複雑な心境で梶はカゴを手渡し、鬼出勤チャンプは数か月ぶりに手渡されたカゴを「久しぶり」ではなく「いつもどーも!」で迎え入れる。
冬場でも胸元が空いた黒シャツで来店していた梶は、初夏を迎える今、ゆったりとしたオーバーサイズのパーカーを着用している。「普段の恰好じゃないから一瞬分かんなかった」と言いつつ、チャンプは梶の服装がガラリと変わったことも、常にカゴに入っていたコンドームが消えたことも、理由を聞こうとはしなかった。
「ん? なーコレさ、棚のどこから取ってきた?」
代わりにチャンプが尋ねたのは、カゴに入っていたミルトンの以前の所在地だ。
「え、右側ですけど……」
梶が数分前を思い返す。どぎつい性具が所狭しと並ぶ店内で、隅っこにひっそりと設けられた特殊プレイコーナー。乗馬鞭、拘束プレイ用ラバースーツ(まず商品としてあるのが驚きだ)などが取り揃う中に、赤ちゃんプレイ用の哺乳瓶やスタイが固められた棚があった。流石にプレイ用なだけあり、衣服やオムツの類はどれも成人サイズだったが、唯一消毒液は乳児用と同じものだ。こんな所までプレイごときで再現するのか、と梶は呆れたが、有難く恩恵に授かり右側の商品をカゴに入れていた。
「あー待った。そっち側古いわ」
聞いたチャンプがミルトンを手に奥へと引っ込む。段ボールを開けるような物音がして、返ってきたチャンプの手には、包装袋に包まれたままの同商品があった。
「これ昨日来たばっかだから。えーせー的」
「え、まだ在庫有るのに良いんですか?」
梶が聞き返す。アダルトショップのミルトンが回転率の速い商品だとは思えない。
「良いんだよ別に。ここに買いに来る奴らにとっちゃ所詮雰囲気づくりの為のアイテムだし。大人は殺菌消毒がちゃんと出来てなくても腹なんか壊さねえって」
含みのある言い方に梶が瞠目した。普段おちゃらけた調子のチャンプは、おちゃらけているようで、思ったより多くのこと梶から感じ取っていたらしかった。
「今後もこういう……その、プレイ商品みたいなのって、増えるんですか?」
鼻歌混じりに袋詰めするチャンプに、おそるおそる梶が尋ねる。ピタリとチャンプの手が止まり、信じられないものを見るような目が向けられた。
「別に増やしても良いけど、ここで買うのかよ」
何か他のことが言いたげだが、チャンプは確信に触れないよう言葉を選んでいるようだった。
さっさと袋を整え、ポイントカードにいつもより多くハンコを押してから、レジより身を乗り出したチャンプが「この角が薬局、中心街にはでっかい西松屋っていう店があって……」と自発的に周辺施設を教えだす。梶がこの辺りの地理に疎いと思ったのだろう。心遣いはとても有難いが、単純に気まずさからこの店を自分好みに改変しようとしている梶には優しさが苦しかった。
アダルトショップへの来店頻度が増すことに対しての気まずさは無いのかと各方面から指摘が起こりそうだが、その段階はコンドームを購入していた頃にとうに過ぎ去っている。今は気心知れたチャンプが、事情も聞かずに買い物をさせてくれるこの環境を得るメリットの方が大きい。
元々打たれ強さには自信があった梶だが、ここ数か月は一層精神面に磨きがかかっていた。
理屈ではない。何とかは強しだ。
「他の店じゃなくて、ここで買いたいんです」レジ奥から周辺地図まで引っ張りだしてきたチャンプを制止し梶が続ける「この店はエグいくらいクーポン効きますし」
チャンプは一瞬キョトンとして、それから耐え切れないというように「性具店でエグいくらいクーポン使うなよ!」と突っ込む。くつくつと笑いだしたチャンプにつられ、梶も肩を揺らして笑った。振動が腹に響き、少し突っ張って苦しかった。
大通りを風が吹き抜けていく。季節に先駆けて真夏日となった今日は立っているだけで額に汗が滲み、門倉は隣の青年によって満足に当たらなかった風を残念に思った。
「まさか体質変化とは」
季節を問わずダブルスーツを愛用する切間は、今日も変わらず仕立ての良いスーツを完璧に着こなしている。湿気の多い日本の夏とスーツは相性が悪いはずだが、クールビズなど何処吹く風だ。
「世の中って不思議だね。でも何にせよ祝い事だ。貘さんの浮かれっぷり、既に凄いもん」
「存じております」
連日連夜二人の新居には貘からのプレゼントが届いている。大抵は今後に使える有難いものだが、いくつかは貘やマルコが寝泊まりするときのグッズも含まれていた。梶が無事一仕事終えたあかつきには、貘とマルコが住み込みを開始しそうで今から門倉は憂鬱である。
「ていうか、よく殺されなかったよね門倉さん。貘さん自分のものに対しての執着凄いのに。ましてあの“梶ちゃん”だ」
「憎いけど父親を奪う訳にはいかない、と御屋形様に恩赦を頂きまして。ただまぁ数度、死んだ方がマシ、という思いはしておりますが」
「でも死んでない」
「死ねませんよ。成人するまでは責任がありますので」
「父さんみたいなことを言う」
「御屋形様の御父上など、私などとは比べようもありません。ですがまぁ、立ち位置は同じですね」
風がまた通りを吹き、今度は門倉に当たり彼の汗を乾かしていった。良い風だと目を細めた門倉に、ふわり、すっかり馴染んだ匂いが届く。花と、果物と、これは彼に宿るもう一つの存在に機縁するのだろう、海の生き物のような独特の生臭さが混ざった匂いだ。アンバランスな三つが絶妙な配分で構成しているこの匂いが門倉はたまらなく好きで、サヴァンになって良かったと、ここのところ特に思っている。
おーい、と二人の会話を遮る声がした。視線を向けると、通りの端から黒いビニール袋を携えた梶がやって来る。汗っかきの梶に日本の夏は鬼門で、見ているだけでも数度、額の汗を鬱陶しそうに拭っていた。
「相変わらず暑そうな格好させてるね。過保護すぎるんじゃない?」
ダブルスーツが何か言っている。見た目よりは涼しいらしいです、と返した門倉を、じぃ、と凝視した切間が唐突に切り出した。
「僕の両親さ、α同士の夫婦ってことは知ってたんだけど、あの人たち普通に恋愛結婚だったんだって」
「はい?」
門倉が聞き返す。いきなり何を、という困惑の一言だったが、切間は気付いていないのか、気にしていないのか、門倉の反応には無頓着に続けた。
「なんか、それ知ったら力抜けちゃったんだよね。じゃぁ僕も良いだろうそれでって。君達みたいな事例もあるし、世の中は不思議なことで溢れてる。僕は運が良くて、相手は親の立場がよく似合う。だから僕は好きにやることにした」
会話というよりは宣言だった。言いたいことを言い、切間は満足したようにネクタイに指をかける。「夏にスーツは合わないね」と首からネクタイを引き抜いた切間は、そのまま上着を脱ぎ、シャツの袖をめくった。
頂点たる宇宙人はやはり頂点たる宇宙人で、勝手に敵を倒し勝手に立ち上がった彼は、今までよりもずっと息がしやすそうに夏の熱気を胸に吸い込んでいる。
「はぁ……ははっ。宜しいのではないでしょうか。そのような賭けに御屋形様が負けるとは、この門倉、到底思えません」
「うん、僕も負けないと思うよ。当たり前だよね。でもそう言ってくれてありがとう」
「貴方にも人の親は似合いますよ」
「そうかな。門倉さんも、まぁ、きっとこれから似合うようになるよ。きっとね」
うわっ、と向こう側から声がする。店の前で打ち水をしていた店員が、うっかり梶の足に水をかけてしまっていた。恐縮して何度も頭を下げる店員を穏やかに許し、梶がまたこちらに歩みを向ける。水のかかった梶の靴が、初夏の太陽に照らされてキラキラと輝いていた。眩しく反射する靴で、梶が門倉の元へとやって来る。せかせかと歩く梶の足元で、決して割れないガラスの靴が、躊躇うことなく地面を蹴る。