思えば、その違和感はわりと早い段階で頭の中をチラチラとよぎっていた気がする。
たとえば朝一番、普段「汚れるの嫌なんで」と絶対に賭朗勝負に私用車を使わない弥鱈さんが今日は何故だか自分の車でホテルに登場した。低リスクなつまらない勝負を「堅実な勝負運びでしたね」と好意的に捉えてみたり、勝ったからってわざわざコンビニに寄ってコーヒー奢ってくれたり、まるで南方さんや門倉さんだ。勝負帰りに一緒に飯を食べることは今までにあっても、こんな風に弥鱈さんから褒美を賜るなんて初めての経験である。ホットコーヒーを助手席で啜りながら、僕は訝しむように眉を寄せた。
「どうしたんですか今日は。そんな気のいいお兄さんってキャラじゃないでしょ」
「はぁ。いつも素っ気なくてすいません」
嫌味にも素直に謝罪が返してくるし。何だろう。顔だけ弥鱈さんな別人を相手にしている気分になる。
滅茶苦茶変なことが起きてるわけじゃないけど、いつもと比較して微妙に変な場面が車に乗っている間だけでも何度もあった。『調子狂うなぁ』なんてボンヤリと思っていたところで弥鱈さんの車が都内で一番凄い高級ホテルの駐車場にハンドルを切ったもんだから、僕はいよいよ革のシートの上で、『おいおい何か様子がおかしいぞ』と身構えてしまった。
「弥鱈さん、ここってすごく高いホテルですよね?」
「貴方が住まいにしているホテルもグレードが高いでしょう」
「いや、あそこは貘さんの家で、僕は間借りしてるだけなんで……というかあの、僕、あんまりテーブルマナーとか良くないんですけど、こんな良いところのレストラン入っちゃっても良いんですかね……?」
「はぁ……レストランが嫌ならルームサービスを取れば良いだけですから」
やたら階を飛ばすエレベーターに乗って、耳がキーンってなりながら質問した僕に、弥鱈さんは何でもないことのように言った。宿泊者用のラウンジでも食事は出来ますし、と丁寧に付け加えてくれる弥鱈さんに「そうなんですね」と普段通りっぽく返しつつ、僕は内心『あっ、何にも聞いてなかったけど今日って泊まりなんだ』と滅茶苦茶にテンパりはじめる。
着替えも何も持ってきてない。というか普通に賭郎勝負のあと直帰だと思ってたからポケットの中には携帯と財布しかない。そしてついでに言うとその財布でさえ、ホテルの近くで下ろしてもらった後ラーメンのつもりだったから二千円しか入っていなかった。
僕でさえ名前を知ってる高級ホテルに二千円で突撃。全然状況が把握出来てないなかで、とりあえず僕に防御力が全然無いことだけは確かだ。
弥鱈さんの私用の携帯から連絡があったのは昨日の晩だった。電話を取った直後、明日で付き合ってちょうど一週間ですね、なんて会話のキッカケ作りに僕が切り出したところを「その件なんですが」と弥鱈さんの硬い声が遮った。
『明日の勝負が終わったあと、お時間を頂けませんか? 出来たら一晩空けておいてもらえると』
弥鱈さんの誘いが唐突なのは今に始まったことじゃないけど、“一晩空けてほしい”と時間の指定までされたのは初めてだった。
曲がりなりにも恋人が夜に会いたいと言ってきたにも関わらず、昨日の僕はそれはそれは呑気なもので、「あ、はーい」と軽い返事をして電話を切った気がする。
いや、実際、めちゃくちゃ軽く考えていたのだ。夜を開けといてくれって言われた時も、僕の頭には『飲みたい気分なのかな』と『あのアプリゲーって今イベント中だっけ』の二つしか浮かんでなかった。付き合い始めて一週間目の夜とは言ったけど、付き合ってから今日までの六日間に何があったわけでもない。だから勝負終わりに車に押し込まれて、あれよあれよという間に高級ホテルのエレベーターに乗り込んでも、僕の頭には『宿泊』っていうホテルの一番基本的な使い方さえ浮かんでこなかったわけだ。
普通恋人がわざわざホテルに泊まるってなったら、そのままの意味でヤることは一つだと思う。
けど、相手は弥鱈さんだし、僕はなんていうか、僕だし。普通がどこまで通用するのか見当もつかないから、出来るんなら直接弥鱈さんに「泊まって何するんですか?」って聞きたかった。でも、どんな目的だったとしても、僕が聞いたんじゃぁ弥鱈さんは「実際に行けば分かりますよ」とはぐらかしてきっと終わりだ。だから僕はキーンとなりっぱなしの耳を抑えながら、エレベーターの階がどんどん上がっていくのをただ眺めて続けた。
何処にも止まらないまま四五階まで登って、ようやくエレベーターが開いたら、分かっちゃいたけど扉の向こうは別世界だった。大きなシャンデリアが上の方でギラギラしていて、見るからに金を持ってそうな中国人団体客がロビー横のソファで喋っている。大体みんなスーツに高そうな装飾品をジャラジャラつけていて、黒一色でまとめた飾り気のないスーツの僕は少しだけ浮いていた。ただ、同じようにシンプルなフォーマルスーツを着崩している弥鱈さんは、その中に居ても何だか様になってるから不思議だと思った。
何かのオブジェの向こうでニッコリ笑ってる女性スタッフの方と目が合って、あぁあっちでチェックインするのか、とフロントに足が向かいかける。
「どちらに行かれるんです?」
弥鱈さんに声をかけられて、え? と間抜けな声が出た。
「まだチェックインの時間じゃないんですか?」
「チェックインはしますけど、そっちじゃないです」
そっちじゃないと言われても、じゃぁどっち? と首を傾げるしかない。突っ立ったままの僕に肩をすくめた弥鱈さんは、ロビーから伸びる廊下を指さして「こちらに」と歩き出した。
廊下の先にはまた別のエレベーターが設置されていて、やっぱり一度乗ったら途中階には止まらなかった。チーンってベルが鳴る音がしてゆっくりと扉が開く。次に着いた先は、豪華だけどさっきのロビーよりは狭くて、一周まわって金持ちの家の玄関みたいな造りだった。
貘さんみたいに高級ホテルを自宅扱いしてる金持ちは一定数いるみたいだから、もしかしたらここは本当に誰かの家かもしれない。室内に一歩足を踏み入れると、スーツを着た中年の男の人が「お待ちしておりました」と弥鱈さんと僕を出迎えた。
「弥鱈さん、ここって誰かの家なんですか?」
「はぁ?」
「ようこそお越しくださいました弥鱈様、梶様」
「もしかして新たに賭けの予定が入ったとか?」
「はぁ?」
「どうぞごゆっくりお寛ぎください」
弥鱈さんは露骨に面倒臭そうな顔で「部屋に入るまで静かにしていただけますか」と僕に釘を刺した。スーツの男の人に一言二言声をかけ、僕の方を見ないで歩き出す。
男の人は「何かございましたらお申しつけください」と僕に笑いかけたけど、僕は部屋に入れるまで喋れないから、軽く会釈だけして弥鱈さんに続いた。
弥鱈さんの後ろにピッタリとくっ付いて自動ドアをくぐる。何でかもう一つ玄関があって、また廊下があった。何だこれ? 迷路か? って疑問が頭に浮かぶ。弥鱈さん、って口を開きかけて、今自分たちが居る場所が弥鱈さんの言う「部屋」な自信が無いことに気付いて、言葉を飲み込み黙って弥鱈さんについていった。
五歩くらい行ったところでもう一つ扉が現れて、弥鱈さんが体をするんと中に滑り込ませる。また玄関と廊下があったらどうしよう、とちょっと不安になりながら僕も入る。今度はちゃんと部屋だった。けど、ど真ん中に謎のグランドピアノがある部屋だったから、どっちみち僕が知ってる一般的な『部屋』ではない気がする。
「弥鱈さん、なんかピアノがあるんですけど」
「弾かれます?」
「僕猫ふんじゃったしか弾けません」
「私もラ・カンパネラくらいしか弾けませんよ」
知らない曲名だけどこの場で言うくらいだから猫ふんじゃったと同レベルの曲なんだろう。
ピアノを弾いてる弥鱈さんはちょっと見てみたかったけど、それより聞くことが山積みだったから一旦「キラキラ星も弾けますよ」のレスポンスで場は流すことにした。
入ってすぐの部屋はソファセットとテレビとグランドピアノがあるリビングで、その隣には六人掛けのテーブルがドーンと置かれたダイニング、更にその隣には馬鹿デカいベッドの寝室があった。やっぱり家じゃない? って感じの間取りだったけど、僕の反応を見越した弥鱈さんが「個人宅じゃないですよ」と否定して、そのあとなんちゃらスイートだって教えてくれた。なんちゃらの部分は横文字が長くて聞き取れなかった。
寝室の奥には泳げるくらい大きな湯舟が付いた風呂とシャワーがある。髭剃りから何に使うかも分からないアメニティまでやたらめったら揃った洗面台が横に取り付けられ、その斜め向かいにはトイレがあった。リビングの近くにあるトイレは部屋の隅っこに隠すように置いてあるのに、風呂場にくっ付いてるトイレは何故か扉がガラス張りで、高級ホテルでもこーゆーとこは生々しいんだな、と妙に感心する。
「これだけ広いと逆に落ち着かないですね」
「貴方って変な人ですねぇ。普段寝泊まりしてるホテルも十分広いでしょう」
「あそこに慣れるのだって一か月かかりましたよ。六畳くらいが身の丈に合ってるんです、本当は」
「六畳って犬小屋じゃないですか」
「弥鱈さん、いま都民の七割は敵に回しましたよ」
入って三秒で部屋の家主と化した弥鱈さんは、そのまま自宅よろしく冷蔵庫からビールを取り出すと窓際のソファに座り込んだ。僕がそわそわしてる間に一缶飲み終えて「来るときにもう一本お願いします」と自分の隣のスペースを目配せしながら言う。骨の髄まで下っ端根性が染みついている僕は弥鱈さんの一言ですぐに足が動き、未だに何にも理解していない頭で自分と弥鱈さんの分のビールを持つとソファに近づいていった。
まず弥鱈さんにビールを手渡してから「失礼します」と一言入れて弥鱈さんの隣に腰を下ろす。広い部屋の広いソファセットなのに肩を寄せ合って座っている。チラッと後ろを振り返ればあと五〇人くらいは入れそうなスペースがグランドピアノの周りに出来上がっていた。
いくら僕と弥鱈さんが成人男性だからって、たかが人間二人には、この部屋はどうも広すぎる。
「この部屋、いまデッドスペースだらけですね」
「二人ならこんなもんでしょう」
「この部屋に泊まるのって、本当はもっと大人数の方が良いんですかね」
「はぁ」
「だって二人には広すぎません?」
「セックスって二人でやるものじゃないんですか?」
サラっと。
あんまりに普通のトーンで言うもんだから、僕は聞いた瞬間「あ、すいません。そりゃ二人ですよね」と滅茶苦茶普通に返答してしまった。
そしてビールを飲みながら、弥鱈さんの言葉をゆっくりと噛み砕く。
ふーんそうかセックスかぁ……………セックスぅ?
「ぶへあっ!!」
理解してからは早かった。
僕はあまりの衝撃に、形容しがたい悲鳴を上げて噴水よろしくビールを口から噴き出した。
「え、えー……ちょっと、いきなり何してるんですか」
「嘘でしょ本当にヤるの!? 今日!? ここで!? 僕と弥鱈さんが!?」
「はぁー? 旅先でもないのにホテルを取るってそういうコトと相場は決まってるでしょう。ピヨピヨ付いてきといて何を今更……」
ビールまみれになった僕から離れて、眉間に皺を寄せまくった弥鱈さんがやれやれ、と肩をすくめるジェスチャーをする。備え付けのティッシュでビールを拭いながら「ハァ!?」と僕は思わず喧嘩腰な声を上げた。
「そもそも最初はホテルに行くって言わなかったじゃないですか!」
「そーゆーのは駐車場で言ってください」
「言えませんよそんなの! レストランに飯食いに来たのかなって思うでしょ普通!」
「ただ食事に来ただけなら『一晩空けといてくれ』なんて言い方しません」
「ゲームのイベント始まったのかもしれないでしょ!?」
「だったらそう言いますよ」
「でも、だってその……もー!!」
「え、それ怒ってるんですか? うっわあざと……梶様ちょっとこっち向いてください」
「もー!!」
「いやぁ凄いですね梶様。俄然抱こうって気になってきました」
「えっいやこの流れでいきなりそっ……ねぇー!! もーー!!」
賭郎会員の矜持と立会人の敬意がここぞとばかりにベロッベロに剥がれ落ちる。僕の言い方の何が気に入ったのか弥鱈さんは不気味なほど上機嫌だったけど、僕の溜飲はそんなもんじゃ下がるはずもなかった。
のこのこホテルに付いてきといて何を今更。その弥鱈さんの言い分は理解出来る。出来るっちゃ出来るけど、行き先も言わずに所持金二千円の僕を車に押し込んどいてその言い方はないでしょ、とも正直思った。
濡れたティッシュ達をゴミ箱に放り込み、缶の中に残っていたビールを思い切り一気飲みする。弥鱈さんに意見するなんて素面で出来るはずも無く、グビグビと炭酸で喉を刺激して、プハーと吐き出す息に任せて「ていうかぁ!」と叫んだ。
「今まで何にもしてこなかったのに、まさかいきなりヤるためだけにホテルとるとか普通しないでしょ!! ヤリモクじゃんそんなの!!」
珍しく反論した僕にちょっとだけ目を見開いて、弥鱈さんがニヤニヤしていた口をへの字にし、キュッと眉間の皺を深くした。
すぐに言葉を返してこないのはそれなりに痛いところを僕が突いたからだろうか。机に置いていた缶ビールを持ち、一人分距離を開けたところに座りなおした弥鱈さんは、面白くなさそうに舌打ちして「別に良いじゃないですか」と子供みたいなことを言う。
いや、良くないでしょ。
ソファの上で体操座りする弥鱈さんをうっかり可愛いと思ってしまいつつ、口を尖らせた弥鱈さん同様、僕も口をムッとさせてベッドの背もたれに顎を乗せた。
噴出したビールは服にも跳んでいたようで、しみたビールで腹辺りがちょっと冷たい。
いやまぁ、ね? 僕だって別にヤるのが嫌なわけじゃない。むしろ願ってもないことだし、それなりの段階を踏んでの高級ホテルなら大歓迎だ。
けれど、けれどだ。いきなり唐突にヤりましょうって言うのなら話は変わってくるのだ。
だってである。弥鱈さんと僕はまだソレっぽいことを何もしていない。付き合い始めて今日までの大体一週間を僕と弥鱈さんがどう過ごしてきたかといえば、それはもう健全に、身も蓋もない言い方をすれば『恋人なんて肩書でしかありませんでしたね』というくらい代わり映えもせず日々を送ってきたに過ぎない。ギャンブラーの日常を賭郎会員と立会人として、淡々と過ごしてきただけなのだ。
ヤるヤらないどころか恋人って胸を張って良いのかも怪しい。キスもまだならハグもないし、というか手に触った記憶さえない。多分覚えてる中だと一番最近の触れ合いは一週間前の告白の時だ。賭郎本部の給湯室で、ポテチを食ってた僕に弥鱈さんが「好きなんですけど」と唐突に言ってきて、てっきりポテチのことを言ってるんだと思った僕が「あっ、そうなんですね! 食べます?」とポテチを渡してデコピンされたのが最後な気がする。
『なんでココでポテチが出てくるんです?』
『逆にポテチ以外何が出てくるんですか!?』
僕他の菓子持ってませんよ! と叫ぶ僕に舌打ちをして「良いからとっととご自分を差し出したらどうです」と胸ぐら掴んだまま睨んでくる弥鱈さんは、今思い返しても、どこをどう切り取ったところで告白してる時の人間には見えなかった。
あのですねぇ弥鱈さん、掴まないんですよ普通、告白中に相手の胸倉は。僕なんて一瞬『僕弥鱈さんに今何言われたんだっけ? 落とし前つけろだっけ?』って考えたんですから。
そんなこんなあって、ただ最終的にはどうにか状況を理解した僕が「棚からぼた餅! むしろよろしくお願いします!」と九〇度の真礼をかましてスタートした交際なわけだけど、まぁ何も進展がないまま時間だけが経過して、それでもって一週間後の今日に突然の高級ホテルとヤる宣言。展開が早いというより、映画の冒頭三〇分くらいを飛ばしてる気がする。
「だって僕らこの一週間何しました!? 勝負と勝負と勝負ですよ!?」
「働き者ですねぇ」
「そうですけどぉ! 恋人っぽいこと何もしてないですよ!? 早くないですかヤるの!? 順序とかあの、守った方が良いと思います!」
「失礼ですが梶様、掲載紙をお間違えでは? 私達りぼんの住人じゃないんですよ?」
「ヤングジャンプにも純愛ものはたくさんありますぅ! ていうかりぼんとか知ってたんスね弥鱈さん!」
この一週間。弥鱈さんとの進展は全くなかったけど、僕個人の成長はそれなりにあった。男同士でそういうことをするために、本屋でゲイ用の雑誌を買って勉強したり、ネットで情報収集なんかをしてみたのだ。
男同士のセックスにはタチとネコがあって、ネコって言うのがいわゆる女役として尻の穴を差し出さなくちゃいけないらしい。弥鱈さんが僕にお尻を預けてくれる想像が付かなかったから、まぁ多分僕がネコ側だろうなと思って、そっちの方向の覚悟も少しずつ持ち始めていた。
初めてどころか慣れてきても前準備が無いと出血は当たり前。切れ痔に脱腸・不意打ちの腹下しなど、ネコ側の壮絶な体験談は読むだけで怖かったけど、読めば読むほど『弥鱈さんにこんな可哀相なコトさせたくないな』って気持ちが強くなっていった。
ちなみにレポは色々と怖かったけど、特にちんこを初めてお尻に入る時の話は大体みんな怖かった。ちくわに無理やりキュウリを入れるときの感覚って書いてあったから、実際にちくわとキュウリを買ってどんなことになるのかも試してみた。半分も行かない所でちくわが裂けた。僕はガタガタ震えながら裂けたちくわとキュウリにマヨネーズをつけて食べた。
「大体順序ってなんです? 手を繋いで上野動物園行くとこから始めろとおっしゃるんですか? 面倒ですねぇ。スキップ機能ないんですか?」
「いやチュートリアルはちゃんとやりましょうよ!」
「いい年した成人男性二人ですよ。会員と立会人という立場で幾度となく生死を賭けた場面だって共有してきたんです。実質チュートリアル終わってるでしょ」
「そ、それ言われると弱いですけど……あ、でも! 立会って僕の勝負を見届けてもらってただけで、二人で何かをした訳でもないでしょ!? ただの立会はノーカンですよ! 好きになってからがチュートリアル開始です!」
「じゃぁ出会った瞬間に一目惚れしたことにするのでチュートリアル終了で」
「後付け設定止めて!」
体操座りのまま弥鱈さんが小学生みたいなごね方をする。いや、むしろ話に聞く幼少期の弥鱈さんは年齢不相応に聡明な子供だったらしいから、実年齢だった時よりもっと小学生っぽいかも。
身体を丸めてビールの淵をガジガジと噛んでいた弥鱈さんは、未だに乗り気じゃない僕を見てもう一度「別に良いじゃないですか」と言った。
全身真っ黒で手足の長い格好の弥鱈さんが身体を丸めると、なんだか猫が甲箱座りしてるような妙な愛嬌がある(猫っていうか弥鱈さんはクロヒョウとかの方がイメージに合うかもしれないけど)
ちょっと可愛いな……なんてムッとした顔は継続したまま頭の隅っこで追っていたら、僕の顔をジッと観察していた弥鱈さんが抱え込んだ膝に口元を埋めて、さらに丸っこくなった。
そうして真っ黒な目だけこっちに向けて、こてんと首を傾げる。
「そんなに私とのセックスは嫌なものですか?」
どこで習ってくるんですかそのあざとい仕草。
「弥鱈さん自分が可愛いと思ってやってません? 死ぬほど可愛くて僕いま死んじゃいそうなんですけど」
「可愛いとは思ってませんが、貴方なら殺せると思ってやってます」
全力無抑揚なダウナーボイスが言う。すげぇや流石弥鱈さん。まさにその通りだよ。
僕はきゅぅぅんと締め付けられる胸を抑えて「えぐぅ」ってカエルが潰れた時みたいな声を出しながらソファの背もたれに沈んだ。目的のためなら結構何でも淡々とやる人だけど、まさか僕を倒すために淡々と可愛くなってくれるなんて思ってなかった。ハイ今のは全部演技です、って感じで僕にダメージを与えた途端普通にソファに座り直すのもまた良い。ソファにふんぞり返って涼しい顔で「で、結局嫌なんですかぁ?」と聞いてくる弥鱈さんに、『これ以上あーだこーだと言っても無駄だぞ』って経験が僕に語り掛けてきていた。
いや、分かってるよ。最初から弥鱈さんに僕が勝てないことくらい。
分かってる。分かってるけどさぁ。
「……そんなに上野動物園に行きたかったのですか?」
ソファにもたれかかったまま何も言わない僕を見て、弥鱈さんが改まった口調で聞いてきた。
口元にビール缶を押し当て、流し目でこっちを見てくる弥鱈さんはなんか色っぽくて格好いい。
「そうじゃないですけど……」
「じゃぁサンシャイン水族館?」
「いやあの、場所はどうでも良くて……」
首を振る。素直に「もっと付き合ってからを大事にしたかった」と言ってしまえたらそれなりに楽なんだろうけど、僕は言っちゃいけないタイプだよなぁ、と自分で蓋をしていた。
言うのが可愛い女の子とか、せめて貘さんみたいに女の人に負けないくらい綺麗な顔の人だったら良かったんだろうけど、僕はそのどちらでもないし、さすがに絵面がキツいことは分かってるし。
弥鱈さんだってそんなの望んでないというか、むしろ僕がそんなこと言おうもんなら盛大に顔を歪めてホテルから追い出すかもしれない。弥鱈さんが何を思って告白したのかも、今何を思いながらソファの上でふんぞり返ってるかも分からないけど、「そんなに面倒な方だとは思いませんでした。萎えました。よく考えたら嘘喰いの方がタイプです。やっぱり別れましょうサヨウナラ」とか言われたらそこの窓を突き破って飛び降りるかもしれない。いきなりヤるのは違う気がするけど、ヤらなきゃ別れるっていうなら順序とかケツの穴とか気にしてる場合じゃない。
「いや……なんでもないです。そうですよね、僕なんかが弥鱈さんに注文つけるとか、そんなのってナシですよね。ちょっとビビッて色々言っちゃいました。すいません。気にしないで、弥鱈さんのしたいようにやってください」
「……はぁ。じゃぁ、まぁ。したいようにしますけど」
はい、と頷いた途端、弥鱈さんが身体を乗り出して、にゅっと僕の方に腕を伸ばしてきた。
首を傾げた僕の顔をひっつかみ、弥鱈さんが僕の方へと顔を寄せてくる。
うっすらピンク色の弥鱈さんの口が近づいてきて、弥鱈さんって唇荒れてそうなのに実際はツルツルだよなぁ、なんて思ってる間にやたら柔らかくて暖かいものが自分の口に触れた。弥鱈さんにキスされてると分かったのは、離れていった弥鱈さんが「けど今からでも踏める段階は踏みましょうか」と意地悪く笑った時だった。
「へっ……は……え、今、弥鱈さん……キス……?」
「反応悪いですねぇ。貴方がやれとおっしゃったんじゃないですか」
ベッと弥鱈さんが舌を出す。「いやそりゃそうなんでけどぉ」ともごもご言ってたら、もう一度ダメ押しみたいにキスされた。
意外と柔らかい唇がむにぃ、とただ押し付けられる。二回目は少しだけ長く押し付けられていたから、弥鱈さんの匂いとか体温が少し伝わってきた。
唾液でシャボン玉を作れるような人だから、実はちょっとだけ唾液に洗剤の成分が混ざってるんじゃないかとか、口の中が石鹸の味したらどうしようとか、そんなことを考えていたんだけど、どうやら全部杞憂だったみたいだ。弥鱈さんの口からはいまビールの味しかしない。体臭は服の洗剤と整髪料と、あとやっぱり今飲んでるビールが混ざった、わりと素朴な匂いがする。何となくイメージで、弥鱈さんって僕とキスした後口元拭いたりしそうだなって思ってたけど、そんな素振りもなく、離れていった後はいつもみたいムッとした口に戻るだけだった。
「あ、あの……」
「はい」
「あの、僕今日ヤるとか思ってなかったから……その、準備が全然間に合ってなくて……」
「風呂もトイレもありますよ」
当たり前のように言われて、弥鱈さんも男に準備が要るって承知してるんだと少し驚いた。
それと同時に、『やっぱ僕の尻使うのは大前提なんだ』とも思った。
「いや、それ以前に……後ろをその……まだ一回も触ったことが……」
「それは、えーと、感謝を述べればよろしいので?」
「へぇ?」
「お伝えしてなかったかもしれませんが、私、少々潔癖のきらいがありまして」
「はぁ」
「なのでまぁ、ありがとうございます」
「あ、ど、どうも」
二本目のビールを飲み干し、弥鱈さんが空き缶をグシャッと握り潰す。他の立会人の人に比べると大分細身な人だけど、この人もれっきとした“暴”の人で、握力の強い弥鱈さんにかかればアルミ缶なんていろはすのペットボトルみたいだった。ところで一瞬でペチャンコになったアルミ缶に、僕は若干弥鱈さんのテンションが上がってることを悟る。
面倒臭がられると思ってたけど嬉しいんだ。あれか、僕が処女(っていうのはすごく抵抗あるけど、それ以外言い方が分からない)だからか。まぁ僕も男なんで彼女が処女だって分かった時にグッとくる気持ちは分かるけど、それ僕相手でも有効な感性なんだ。えぇ本当に? 気を遣ってるとかじゃなく? 言っときますけどね、僕だってせめて三日前に言われてたらそれなりに努力したんですよ。キュウリが入るようにちくわだって品質改良できたんです。
ペチャンコになったアルミ缶をゴミ箱に放り投げ、おもむろに弥鱈さんが「車に物を忘れたので取りに行ってきます。その間に気持ちの整理を付けといてください」とソファから立ち上がった。丁寧な言葉だけどつまりは『腹をくくれ』ということらしい。それって要は、車から戻ってきたら問答無用で抱くつもりってことだ。
マジで抱かれると思ったら部屋の入口へと歩いていく後ろ姿にカウントダウンタイマーが浮かんで見えて、一気に不安になってきた僕は、猫のように丸まったその背中を呼び止めた「弥鱈さん!」
「すぐ帰ってきますよ。五分くらいのことです」
振り返った弥鱈さんの顔には『早く行きたいんで呼び止めないでもらえますか』って書いてある。いや五分て。思ったより短かった気持ちの整理タイムにビビる。五分で男に抱かれる覚悟持てって言ってたのか。分かっちゃいたけどこの人無茶苦茶だ。
「えと、あの、げ、玄関にいた人に頼んだらどうですか? 用があったら何でも言ってくれって」
苦し紛れに頭に浮かんだスーツ姿の男性を引き合いに出す。弥鱈さんは数秒考えた後「玄関ではなくフロントです」としっかり訂正し、口から器用にシャボン玉を飛ばして言った。
「車の中のコンドームとローションを持ってきてくださいって言うんですか? どういうプレイです、それは」
コンドーム。ローション。
身体が跳ねて、何も言えなくなる。ビールを持つ手が急に汗ばんできて、顔にも熱が集まってくる気がした。自分を抱くための道具があの車に一緒に乗ってたんだと思ったら、何も知らずに車に乗っていた時間が途端にエロいものに思えてくる。
固まった僕を見て、弥鱈さんが一回だけこっちに戻ってきた。かぶっと僕の口に噛みついて、頭をさわさわと撫でる。骨ばった手が思ったより優しくてちょっとビックリした。
弥鱈さんは思う存分僕の頭を撫でまわしたあと、何も言わずにまた扉の方へと歩いていった。今度は一度も振り返らず、なにも喋らず、少し乱暴に扉を閉める。
高い部屋らしくゆっくりと戻っていく扉が音もなく閉まったのを確認して、僕はまたソファに奇声と一緒に沈み込んだ。