ノックを三回、「どうぞ」の声を聞いて門倉は引き戸を開ける。ベッドで上半身を起こしている梶と、その隣に同じ高さで設置されているミニベッドを一度に視界に収めて、思わず息を呑んだ。
「……お疲れさん」
「やーホント疲れました。死ぬかと思った」
「おん、ワシも。梶が死ぬんやないかと思って、怖かった」
「だからって騒ぎすぎですけどね」
「うっ」
「門倉さん今までに何度僕のこと殺そうとしてきました? 賭郎勝負で。今日だけあんなに慌てるんだもん、ビックリしてラマーズ法一瞬飛びましたよ」
「うぐっ。うっ」
痛いところを突かれて門倉が顔をしかめる。確かにそれはそれは処置の邪魔をした自覚があった。
「だってその、別にワシ今日立会人として立ち会ってたわけやないし……」
病室の入り口に突っ立ったまま、門倉はもごもごと言い訳をする。
ロクに役に立たなかった医療用エプロンはいたたまれなくなって即座に脱いだ。手に持ったビデオカメラは今日の為にと新調した最新機種だったが、結局撮れていたのはトータルでも三〇分程度であり、肝心なシーンは全く撮れていない。
こんなはずではなかったと居心地が悪そうにしている門倉に、「へーぇ?」と顔をニヤつかせた梶は嬉々として追い打ちをかけた。
「だから分娩室追い出されても仕方ないって?」
「ちょ、」
「黒服の人たち爆笑してましたよ。あの弐號立会人が立会失敗した! って」
「いやあの、ほんとに、勘弁して」
門倉が顔を覆う。最初は立ち会うつもりで分娩室に入室した門倉だったが、脂汗を滲ませて呻き続ける梶を見ている内にパニックになり、普段の彼からは想像もつかないほどの醜態を晒した。作業している医療従事者に詰め寄り、本当にこれは安産なのか、何か処置は出来ないのかと捲し立て続けていたら、ついにはベテランの看護師に「お父さんもう外で待っててください!」と分娩室から追い出されてしまい、そうこうしている内に梶の出産が終わってしまったのだ。
“お父さん”という言葉の響きに一瞬頭が花畑となった門倉は、次の瞬間【使用中】と赤いランプが点灯した鉄の扉に阻まれ、漏れ聞こえる梶の微かな絶叫に「え、あ、え、ワシ、だんな、たちあい中で、父ちゃん……あれ? え、え?」と意味のない言葉を扉に向かって投げかけていた。状況が理解出来ないまま立ち竦んでいた門倉は扉越しの産声と歓声をポカンとした表情で聞き届け、分娩室から出てきた看護師に「あ、お父さん生まれましたよ。元気な男の子です」と伝えられてようやく「あ、はぁ」と反応した。待ちに待った我が子の誕生に対しての第一声が「あ、はぁ」である。これをもって漢門倉、人生初の立会失敗が決定付けられたのだった。
ビデオカメラ片手に分娩室の入り口で放心状態に陥っている門倉を、周囲の人間は物珍しそうに、しかしばっちりとその目で確認していた。おそらく門倉の一連の奇行は既に賭郎にまで話が回っているだろうし、本部は今ごろ完全無欠の弐號立会人が晒したポンコツっぷりに沸いていることだろう。
“そんなこと言ったって父親としては新米なんじゃから仕方ないやろ”と門倉は言い訳しようとするが、そもそも自分の人生、『新人』と肩書が着く何時いかなる時代であっても目立った失敗は無かったように思う。考えれば考えるほど、本日のポンコツさだけが門倉雄大の人生史に燦然と輝いていた。
一連のダイジェストを頭に流し終え、門倉は再び顔を覆う。絶対にイカした父ちゃんになってやると意気込んでいたのに、初手から門倉は大型獣の鳴き声に似た呻きを上げる始末だった。
「穴があったら入りたい……」
「門倉さんでもそんな風に思う時あるんですね」
「だってワシ、今までに意図せず失敗するとか無かったもん。こんな挫折知らん……」
「わーすげぇ。一度で良いから言ってみたいやそんな台詞」
カラカラと笑い、梶が隣に置かれたベッドを覗き込んだ。中に寝ているであろう生き物に微笑みかけるその表情があまりに柔らかく、指の隙間から梶の表情を見た門倉はドキリとする。梶は元々屈託なく笑う青年ではあったが、いま彼が浮かべている表情は、これまでの笑みとは種類が違うように思えた。
今後はこの微笑みが梶の当たり前になるのだろうか。感慨に浸りかけたところで、梶が門倉に手招きする。
「まぁ後悔はそれくらいにして。顔見てやってくださいよ。良い子で寝てますよ」
言われて門倉はパッと顔を上げる。入口にあった消毒席を手に出し、念入りに己の手に刷り込むと室内へ一歩踏み出した。
技術躍進により、昨今のエコー写真はかつてに比べ随分と鮮明に映るらしい。胎児の顔も事前に分かるとのことだったが、門倉と梶はあえて子供の顔は見ないようにしていた。実際に会って顔を確かめたかったし、腹の中の子供だって生まれるまでは親の顔を知らないのだから、それならどちらも顔を知らずにいた方が、共にスタートを切れると思ったのだ。
小っこい梶、ちっこいかじ。
鼻歌交じりに新生児用のベッドに歩み寄った門倉は、深呼吸を一つしてそろそろとベッドの中を覗き込む。清潔な布に包まれ、新生児は穏やかな寝息を立てていた。初めて我が子の顔を見た門倉は、瞬間、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出す。
「ちっこいワシや!」
「そうなんですよ」
「えっ梶どこ!? ワシやんけ!」
「いやもう、本当にね? 僕の遺伝子どこ行ったの? って感じですよね」
門倉さんの遺伝子強すぎですよ、と梶が苦笑交じりに言う。一足先に赤ん坊との対面を終えていた梶は、おそらく門倉の反応を見越していたのだろう、目を白黒させる門倉に『ドッキリ大成功』とでもいいたげな表情を向けた。
近くで大声を出されたにも関わらず、新生児は変わらず健やかに眠り続けている。既に大物の風格漂う赤ん坊は、なんと顔立ちも王者の風格に相応しく、要所要所に“門倉雄大”を滲ませていた。
赤ん坊というのは通常、鼻ぺちゃで顔が浮腫んでいて全体像はほとんど球体に近い、という姿がセオリーなはずである。いつかは人間になるにせよ新生児などはとくに大人とは異なった見た目をしており、なので門倉も我が子との初対面は、猿か大仏との面会に近いものだろうと思っていた。だというのに、目の前の赤ん坊といったらどうだ。新生児どころか乳児としても顔が出来上がり過ぎている。門倉の想像を大きく外れ、初めて相見える我が子は門倉が思い描いていた以上に門倉そのものであった。
(子供って親の遺伝子を半分ずつ貰うもんじゃないんか…!?)
確かに長らく羊水に浸かっていただけあってふやけた皮膚と赤い顔はしているものの、鼻には最初から鼻梁が存在し、顎のラインは余分なモタつきもなくスッキリしている。瞑った目元はスッと直線が長めに伸びており、目を開ければ赤ん坊特有のくりくりした目ではなく、切れ長のサッパリした形をしているだろうと予測出来た。
門倉に似ていると言うより、門倉の特徴をただ列挙しただけのような仕様である。目の前の赤ん坊に異なる二つの遺伝子が流れているだなんて到底思えない。どうにも自分自身が三十余年あまりを経てカムバックしているかのようで、門倉はうっすらと『ワシ、タイムリープしとる?』と己を疑うほどだった。
「のぅこれ本当に梶が産んだんか? 本当に? ワシのクローンみたいになっとるけど」
頭蓋の先端から顎先まで赤ん坊を凝視し、門倉はどうにか我が子に梶のエッセンスを見つけようと試みる。だが耳は尖っているし髪は黒々とした直毛だし、見れば見るほどただの自分だった。そりゃαとΩの間に子を成した場合一般的にαの遺伝子が顕性傾向にはあると言われているが、これでは顕性というより侵略の類だ。
「産んでますよ失礼な」
訝しみ続ける門倉に流石の梶も呆れてきたのだろう。少々ムッとした表情を浮かべ、梶はベッドの上で胸を張った。「僕の股から出て来たんで間違いないです。門倉さんはその瞬間を見てなかったわけですけど」
「うぐっ」
そこを突っ込まれると門倉は何も言えない。
「なんか信じられんわ……本当にあの腹に人間が入っとったんか……」
「それ僕も思いました。そりゃ動いてたし生き物なんだなぁとは思ってたけど、本当に人間の形して出てくるんだ、って」
「凄いもんやね」
「不思議ですよね」
「よぉ腹の中でこんだけ上手に作れるわ。尊敬するよ。本当にお疲れさん」
門倉の手が梶に伸びる。頭を撫でられた梶はくすぐったそうに目を細め、頬に移動した手を愛おしげに両手で包んだ。まろやかな視線が二人の間で交差する。どちらともなく唇を重ね、門倉はキスの合間に「よォ頑張ったね」と梶を労った。
今日はやることなすこと上手くいかないし、頭の中も混乱ばかりだ。梶に触れている時間だけは何時もと変わらず平穏に甘いので、門倉はしばらくのあいだ、労いという大義名分を掲げて梶を満喫した。
ついばむようなキスを繰り返していると、脈略もなく小さなベッドから「ほにゃ」と声が上がる。どうやら寝言のようだったが、『お前は何しに来たんだ』と言われた気分になって、門倉は意を決してミニ雄大に手を伸ばした。
「触ってええかな?」
「えー、さっき寝たとこなのに」
門倉の手がピタリと宙で止まる。「あ、そうなん……」とすごすご退散しかける手に驚いたのは梶だった。
「嘘ですよ嘘!」慌てて取り繕い、引っ込もうとする門倉の手を梶が掴む。すっかり感触に慣れてしまった門倉の素手を、梶が撫で、ゆっくりと我が子の元へ導いた。
「触って良いに決まってるじゃないですか。お父さんなんですから」
お父さん。
先ほど分娩室を追い出されるときにも言われた呼び名が門倉の体を走り抜けていく。お父さん、お父さんか。未だ実感の湧かない肩書を、門倉は頭の中で何度も反芻した。
恐る恐るで伸ばした指先に眠っている赤ん坊の頬が当たる。自分を父にした物体。自分と自分が愛してやまない人間の丁度半分ずつで作られた、自分と瓜二つの自分ではない混合物。
摩訶不思議な存在に、門倉の指が触れた。皮膚の薄さにまず驚き、熟れたリンゴのような頬が程よい弾力で指を押し返してくることにも驚く。温かかった。はち切れんばかりに張っている薄い薄い皮膚の向こう、命が流れ、呼吸をしている。
「ほぁ……」
門倉の口から感嘆が漏れた。
本人も意図しない気の抜けた声は、門倉本人には気付かれず、隣で目を細める梶にだけ届いていた。
「抱っこしてみます?」
「だっ……!」門倉が硬直する。「大丈夫、なん? その、初心者が抱いても……?」
「あはは、初心者。なんスか初心者って。そんなの、僕もさっき初めて抱っこしたばっかりですよ。看護師さんに正しい抱き方教わったし、大きく動かさなきゃ大丈夫です」
梶がさっと赤ん坊に手を伸ばす。体の下に手を差し込み、ゆっくり持ち上げると自分の胸元に赤ん坊を寄せた。
頭と首を支え、空いている左手でおくるみの乱れを直す。先ほど初めて抱いたというわりに梶の抱っこは堂に入っていて、もう門倉は自分と梶との間に経験値の差を感じ取っていた。
「はい、手で抱っこの形作って。上に乗っけますから」
「え、こ、こうか?」
「そうそう。門倉さん手が大きいから安定感あって良いッスね」
見よう見まねで梶の手を再現し、ピタリと固定された門倉の腕に梶が赤ん坊を移す。「手ぇ離しますよぉ」と梶の手が引き抜かれると、門倉の腕に重みが乗った。
普段ジムで持ち上げている重りはウォーミングアップから二〇キロを超えていて、百キロも二百キロも、門倉が本気を出せばそれほど重さは感じない。
けれどいま、腕に感じる三キロ程度が門倉には重かった。途方もなく重く、身体が緊張して動かなくなる。命の重みだ。たった三キロ程度に、脳みそと心臓と人間一人分の未来が入っている。ダンベルなどとは比べようのない密度の重さを、門倉はじんわりと噛みしめた。
「……なんかこう、ぐにゃんぐにゃんやね」
「まだしばらくは首も据わらないですよ」
「こうやってみると本当に凄いわ。同じ種族には思えん。頭と体の比率えらいことになっとるし、この、におい何じゃろコレ、羊水の匂いが染みついとるんじゃろか。生臭いっていうか、でんぷんのにおい? 赤ん坊って別に最初から甘いにおいするわけやないんやね」
「赤ん坊の甘いニオイってミルク由来じゃないです? 母乳なー。出るのかな僕。けっこう絵面がキツいんだけど」
うへぇと梶が顔をしかめる。何となく気まずくて門倉にも見せていないが、Ωの体というのは出産だけを可能にするものではないらしい。実はここ一週間ほど、服の下で胸が妙に張っていた。
梶の葛藤など知らない門倉は、赤ん坊の顔を見つめたまま「はぁあ…」と感嘆を漏らす。
「面白いもんやね。ワシの顔しとんのに、なんも強くなさそう。わ、見てこれ梶。手ぇ、ちっこいのに爪まで一丁前にあるわ。作ろうとしたら大変そうじゃ。細かいとこまで仕事が行き届いとる。爪がこんなにちいこかったら歯はどんだけ小さいんじゃろ。ねぇ、歯ぁどうなっとるん? お口開けれる? や、寝とるけぇ無理か。あ、ていうか歯ってまだ生えとらんわ………なぁワシ、もしかして今すごい馬鹿っぽい?」
「さっきからずっとぽわっぽわって感じですよ」
「ずっとぽわっぽわ」
門倉が言葉を繰り返す。梶のことなので相当オブラートに包んだ上でのぽわっぽわ発言だったと思うが、語感の可愛らしさと自認している自己が一致せず、門倉は何とも言えない気持ちになった。
『大きく動かさなければ』と前もって言われてはいたが、大きくどころか一ミリ体を揺らすことさえ恐ろしく、門倉は赤ん坊を抱っこしてから微動だにしなかった。自分の呼吸に合わせて赤ん坊の体が上下するのも不安で、持ち前の筋力を駆使し、腕を体から少し離してキープしている。
結果として門倉の腕の中は、赤ん坊からすれば寝心地が良い揺り籠となっていたのだろう。ふいに目を開いた赤ん坊は、特に不機嫌を訴えることもなく、突然目の前に現れた巨人をジッと見つめた。
「お、わ、起きた」
「あ、起きましたね。おーい見える? 君いまお父さんに初抱っこされてるよー」
横から梶がツンツンと赤ん坊の頬を突く。赤ん坊は一瞬顔を歪ませたが、すぐに真顔に戻って門倉をまた見た。肝の据わった新生児である。生まれて初めて据わったものが度胸とは我が子ながら大したものだ。
生まれたばかりの赤ん坊は視力もほとんど無いらしいが、自分を見上げる赤ん坊の瞳に、門倉はいつかの梶の姿を重ねた。黒々とした瞳には光が入り込み、青みがかった白目とのコントラストでより一層輝いて見える。梶の瞳が輝いているかについては賛否両論あるし、実際門倉の欲目かもしれないが。門倉はそれでも良かった。ようやく見つけた梶の要素に胸中で明かりが灯る。自分と、梶。二人の間に間違いなく生まれた子供なのだと、門倉は口元を綻ばせた。
「はじめまして。父ちゃんよー。似とるから説得力あるじゃろー?」
「それ言うと似てない僕は説得力無いみたいじゃないですか」
梶が頬を膨らませる。産んだ人間と生まれた子供の親子関係を疑う人間は殆ど居ないと思うが、門倉は梶の狭量を微笑ましく思い「母ちゃんは絶対じゃろ」と梶を宥めた。
「ちゅうか十月十日も一心同体だったわけだし、説得力もくそもないやろ」
「まぁ確かに」
「すごいねぇ、こんなぐにゃんぐにゃんで狭い梶の道通って出てきたん? キツかったやろ。あそこなぁ、何度通っても狭いんよ」
「ちょっとぉ! 下ネタ! はじめましての我が子に何言ってんだアンタ!」
油断も隙もねぇな! と梶が赤ん坊を奪い取る。
ひしと我が子を抱き門倉を威嚇する梶は子を守る母猫のようだった。『父猫ワシなんじゃけど』と門倉は敵意剥き出しの梶に突っ込みたくなるが、まぁ猫科の父親なんて居ないに等しいので口には出さないことにする。
梶に抱き締められた赤ん坊は、心なしか気が抜けた様子で口元をむにゃむにゃと動かしている。あれだけ門倉に抱かれている時は視線を外さなかったのに、梶の腕の中で赤ん坊の目は次第にとろんと蕩けていき、しまいにはまた閉じられてしまった。
ずっと近くで感じていた体温はやはり分かるのだろうか。それとも梶という人間を、赤ん坊は読み取ったのか。この人は大丈夫と、無力な生き物の本能で。
「……ええ人んとこに来たね。おどれの親、ええ人やよ。可愛くて、優しい御人や。大事にしてもらえるわ」
見ていたら堪らなくなって、梶の腕の中、門倉は寝ようとする赤ん坊に語りかけた。
すると目を閉じたままの赤ん坊がきょろきょろと周囲を見回すような素振りを見せるので、梶は感慨深そうに「門倉さんのこと探してる。お腹に話しかけてくれてた声、ちゃんと聞こえてたんですね」と言う。門倉の自己満足でおこなっていた日課にも、あれはあれで意味があったらしい。心臓がこそばゆくなり、門倉はにやけが止まらない口元を手で隠した。
「……まぁなに、もう片方の奴もそれなりに面倒見良い方やし、弱い者いじめとか嫌いじゃし。悪いようにはせんと思うから、安心してくれてええよ」
どうにもダメだった。柄にもなく浮かれてしまい、門倉の顔からはニヤケ笑いが一向に引こうとしない。
気恥ずかしさを隠すように我が子に手を伸ばし、門倉は赤ん坊にしては高い自分譲りの鼻を先の方だけくすぐった。
寝入りかけの赤ん坊が嫌そうな顔をして、「ふにゃ」とぐずりそうな気配を出す。すわ大号泣かと思われたが、梶が二,三体を揺らしてあやすと、また表情を和らげ入眠の準備に入っていった。
「こら」
「すまん」
素直に門倉が頭を下げる。唇を尖らせてみせた梶だったが、すぐに我慢できなくなり、門倉と同じようなニヤケ笑いを表面に出した。
赤ん坊と二人きりだった室内は、嬉しかったが少しだけ緊迫していた。(いまこの子には僕しか居ないんだ)と思うと、幸福よりも命を生み出した責任がずしりと肩に圧し掛かり、梶の顔は自然と強ばっていた。門倉がやってきて赤ん坊を愛おしそうに見つめた時、ようやく梶も本当の意味で子の誕生を喜べたのだ。赤ん坊の親は自分だけではない。この子には自分だけではなく門倉も居る。日頃の完全無欠を忘れてポンコツのぽわぽわ思考になってしまうくらい、生まれてきた命に心を砕いてくれる人も同時に、梶の子の親だった。
浮かれて、ふわふわとまあるい高揚感が自身の体を満たしていく。梶は寝息を立て始めた我が子に顔を寄せた。
「聞いた? 安心して良いよだって。自分じゃあぁ言ってるけど、実際は多分めちゃくちゃ門倉さん子供好きだからさ。君もだいぶ可愛がられると思うよ。体がでっかいから最初は怖いかもしれないけど、大丈夫だよ。優しくてあったかい人だからね」
梶の手に少し力が籠もる。体を丸め、抱き締めるように赤ん坊を包み込んだ梶が、意気込みのような、誓いのような。そんな言葉を口にした。
「みんなで幸せになろうね」
幸福を絵に描いたら今の光景となるのだろう。
月並みだが、門倉は目の前に広がる二人の姿を見てそう思った。
自分によく似た赤ん坊が梶の中から出てきた。梶の腕の中で安心しきった様子の赤ん坊に、梶が微笑みかけ、言葉ではなく眼差しで愛を伝えている。眩しくて、愛しくて、ただただ貴かった。心の奥が締め付けられて痛いくらいなのに、一方で心が海となって広がっていく感覚もある。
なんと表現したら良いのだろう。どうしたらこの気持ちが伝わるのだろう。門倉は様々な表現を頭に浮かべて、結局とてもシンプルな言葉に戻ってくる。二人を、二人と歩む自分を内包した日々を、守っていこう。愛していこう。
きっと幸せになるのは門倉自身が一番最初だろうと思うのだ。
だからせめて、二番目三番目に幸福を噛みしめる人が、自分より多くの幸福を感じられるよう努めていきたい。
何事も人並み以上に要領よく出来るタイプだが、門倉は意識的に『頑張りたいな』と思った。
二人のために、頑張りたい。努力したい。
そうやって積み上げた努力の名も、また幸福というはずだ。
「……ダメじゃ、泣きそう」
視界がじんわりと滲んできたので、門倉は慌てて上を向き、しきりに隻眼で瞬きをした。
端的に言うと幸せすぎて感極まっていた。元々人情家の気質がある門倉は、こういった愛情や絆の類にとんと弱い。次から次へと湧き上がってくる涙を水面張力でどうにかやり過ごし、そのまま引っ込むのを待っていたら、下の方で梶の「ししし」という笑い声が聞こえた。
あ、これはマズい。門倉は上を見上げたまま冷や汗をかく。梶のこの笑い声は、厄介な悪戯を仕掛けるときの合図だ。
「泣き虫で困った父ちゃんだねー? どうするぅ? ……ふふ、そうだね。しょうがないから僕達で、父ちゃんのこと守ってあげよっか。大好きだよってたくさん言ってあげよう。大好きだよ、父ちゃん、門倉さん───……ねぇ門倉さん。僕いま、とっても幸せです」
「ちょぉおお! 待てって! 本当に! ワシ弱いんよそういうの!!」
パタパタと門倉が目元に風を送っている。それでもダメだったのか鼻水をすする音が聞こえてきたので、今度こそ梶は大きな声で笑った。
赤ん坊は梶の腕の中、健やかにすよすよ眠っている。