17852

 
 
 ※※※

 
「好きです」
 
 そんなわけで晴天であった。
 
 
 過ごしやすい気候に春の日差しが降り注ぐ昼下がり。マルコが歯医者に行ってたまたま二人きりになった定住ホテルのダイニング。
 梶隆臣による斑目貘への告白は、坂を転がり落ちる握り飯の如く、それはもう容易く軽やかに迂闊にコロリンと、他でもない梶本人の口からまろび出た。
 
「…………んんー?」
「ああああああああああああああああ」
 
 言われた斑目は首を傾げ、言った梶は即座に顔を手で覆って絶叫する。ソファの上でゴロゴロと暴れながらなお「あああぁぁあああぁもおおぉおおぉおお」と叫んでいる梶を見下ろし、顎に手を添えた斑目は、目をしぱしぱと瞬かせて言った。
 
「梶ちゃん、今俺に告白した?」
「しましたよぉ!!」
 
 ソファに大の字になったまま自棄になった梶が吠える。髪は振り乱れパーカーは腹までめくり上がり、ついでに履いていた靴下は、何故か片方脱げて行方知らずになっていた。
 あまり見る機会のない成人男性の醜態に、斑目は「やっぱりしたんだぁ」と言いながらスマホを取り出す。カシャ、と無慈悲な音が鳴り響いたのち、斑目は静かにスマホをポケットに戻した。
 そうして再び梶を見下ろし、大きく息を吸う。
 
「いや梶ちゃんだっっっっっっさ!!」
「普通そんな改めて言いますー!?」
 
 斑目が梶を指差して笑う。そんなに大声で笑って心臓は大丈夫なのかと梶が不安がるほどの大音量で爆笑する斑目は、梶の素肌になっている片足を突っつき、武士の情けとばかりにパーカーを整えてくれた。一連の善意に裏は無かったが、追記しておくと梶の服装を整える間もずっと斑目は笑い続けていた。
 あまりに笑いすぎて途中激しくむせる一幕もあったものの、斑目はぜぇぜぇと荒い呼吸をしながら爆笑を止めようとはしなかった。(いやそこまで面白いです?)と梶は顔を引きつらせて思う。自身がやらかしの当事者だからだろうか、梶には今の状況が全くちっとも面白くは無い。まぁ当然である。むしろこれは悲劇だ。梶は今めちゃくちゃ泣きたい。願わくば今日一日の記憶全てを吹き飛ばしてもらいたかった。
 
「えっ、や、なんで、うそ、僕、ぼくぅ……!」
「言ったね。間違いなく。なんていうか、とりあえず“事故”っていうのはすごく伝わってくる告白だったよ」
「うわあああああああ」
 
 身体を起こした梶が再び顔を覆う。今度はソファの上で膝を立て、痩せ気味だが平均身長はある体を体育座りの要領で縮めていた。
 相変わらず靴下は片方脱げていて間抜けである。斑目はニヤつきながら梶の髪に手を伸ばし、手櫛で簡単に整えてやり、その内にやっぱり爆笑がぶり返して、「ふはははは!」と魔王のような声を上げてまた梶の髪を撫でまわした。
 
『台無し』という言葉がこれ以上似合う場面があろうかという状況だった。今までの念密な準備期間をものの見事に無下にして、このシチュエーションでの告白だけは避けたい、の最たるシチュエーションの中で梶は本心をゲロった。
 吐き出した、などという表現さえ上品すぎて不適当だった。ぽかぽか陽気の明るい室内にて、春の日差しを受け眩しそうに目を細める斑目の横顔を見ているうちに、『あぁ好きだなぁ』と気持ちが込み上げてきて、ただ込み上げるだけなら良かったが、そのまま梶は感情を外にぶちまけてしまったのである。
 感情の出現から発露までの唐突さは、正に吐瀉物のソレであった。曲がりなりにも人への好意を吐瀉物に例えるのはどうかと思うが、梶にとってフリーター時代無理やり飲まされた酒で二日酔いになった時以来の唐突な嘔吐感だったので、こればかりは許されたい。
 梶は斑目への気持ちを盛大にゲロってしまったのだ。
 
「いやぁあの、ホント僕、えー嘘……いや、嘘じゃない、貘さんは大好き……いやっ、ていうか、あーいや、えー?」
「うん、一旦落ち着こっか梶ちゃん。俺日本語で会話がしたいし」
 
 言外に日本語を喋れと呆れられている。梶は膝を抱えたまま何度も深呼吸し、宇宙空間に疑問符がいっぱいの脳内が早く現実に戻ってくるよう願った。
 梶が呼吸を整えている間、周辺を見回していた斑目が梶の行方不明だった靴下を拾い上げて戻ってくる。
 手渡された靴下を履き直し、梶は両足ともに靴下が揃った状態で、一先ず消え入りそうな声で「お手数おかけします」と頭を下げた。
 
「ごめんなさい、ちょっと取り乱して……」
「あぁうん、ちょっとではなかったけどね」
 
 斑目が冷静に突っ込む。腕を組みかえ、もう一度「ちょっとじゃなかったよ」と念を押した。
 
「ごめんなさい、その、貘さんが外を眺めてる顔が、光が当たって儚い感じで本当に泣きそうになるくらいすっごく綺麗で……」
「おーい待った待った。ストップ。ロクに今まで日本語喋ってなかったのに、いきなり俺の顔のこととやかく言わないでよ」
 
 ビックリするでしょ、と斑目が言う。軽い口調の割に眉間の皺が深く刻まれており、気付いた梶は慌てて謝罪した。
 見目美しく生まれた斑目は近しい人間からの容姿賛美を嫌う傾向にある。「俺さァ、頑張って色んなことを獲得しながら生きてきたけど、顔は最初からコレなんだよねぇ」というのが斑目の主張で、つまりは自分を良く知ってる人にくらい、先天的なギフトではなく後天的な獲得物を認められたいということらしかった。
 今まで楽しそうに笑っていたのに、己の価値観を侵されてもう斑目は不機嫌になった。今の一言も意訳すると『梶ちゃんまさかずっと俺の隣で俺の勝負を見てきたのに顔がタイプだったから惚れましたで片付けるつもりじゃないよね? え、絶対ヤなんだけど。ソレほんと無理なんだけど。梶ちゃんのキモ冴えってこういう時は効かないの? そんなこと言うなら俺だって梶ちゃんの愛されたくて必死に媚び売ってる顔がそそるから好きとか言うけど良い?』くらいが妥当だろうか。これ以上下手を踏みたくない梶は、わたわたとして斑目に弁解する。
 
「ち、違うんです貘さん。いやあの、違わないんだけど」
「どっち?」
 
 斑目の声が硬い。梶の頭の中でまた宇宙が広がった。
 
「その、確かに結果として貘さんの横顔がトリガーにはなっちゃったけど、そこまでの過程は、勿論あの、貘さんの性格だったり勝負師としての姿に惹かれたわけで……」
「つまり?」
「つまりあの………えと、あ、あの、好きです。貘さんのことが僕、その、すごく好きです」
「それだけの文字数を使って何の情報も増えないってどうかなぁ」
 
 斑目が『変な生きものだなぁ』といった顔で梶を見るのを、梶は内心(おっしゃる通りです)と同調しながらぼんやりと眺めていた。
 ここまでポンコツになった自分に再会するのは梶としても久々だった。最近ではお屋形様の快刀、賭郎の良心兼残酷の元とまで称されている成り上がり者の、決死の覚悟でついた告白の言葉が「好きです」のたった四文字である。シンプルで男らしいと言えばそれまでだが、あまりに梶のプランでも、斑目の好みでもない。
 
「逆に俺って今すごい場に立ち会ってるのかもしれない」ソファに腰を下ろした斑目が、流れるように足を組んだ。「最近すっかり凄腕ギャンブラーになっちゃってた梶ちゃんがこの体たらく。恋って本当に人を馬鹿にするんだね」
 
「貘さん、ちょっと面白がってません?」
 
 ソファの端から恨めしそうな声が上がる。一見すると同性からの告白にも斑目は嫌悪している様子が見受けられないが、単に誤爆と自爆を繰り返す梶が面白くて野放しにしているだけかもしれなかった。
 迂闊に喜んでいる場合では無い。梶はソファから足を下ろし、肘置きにもたれる斑目に体を向けた。
 
「何言ってんの。今をときめくギャンブラー梶隆臣が暴れて絶叫して靴下片方脱ぎ散らかしてんだよ? だいぶ面白がってるに決まってるでしょ」
「じゃぁ僕と付き合ってくれますか?」
 
 言って梶は後悔した。斑目の顔が盛大に歪み、憂鬱そうにこめかみを抑え始める。
 
「……梶ちゃんのそういう素直なとこ普段なら長所だと思うけどね? 梶ちゃんはさぁ、チャップリンの映画を見てチャップリンにプロポーズしたくなったことある?」
「せ、せめてもう少し新しい人と比べてほしいです。ミスター・ビーンとか……」
「じゃぁミスター・ビーンに告白しようって思ったことは?」
「……」
「えーちょっと、大丈夫なの梶ちゃん。なんか本当にお馬鹿キャラになってるよ?」
 
 本当に心配するような声色で斑目が言う。
 違う、なんか全体的に思っていたのと違う。梶は二人の間に出来たソファのスペースに突っ伏し、「ううううう」と言葉通りの呻き声をあげた。
 家族同然の存在で同性相手への告白だ。『何キモいこと言ってんの』くらいの返答は梶だって想定していたが、発言の正気を疑われることはあっても、人間自身の正気を疑われるとは流石に思ってもみなかった。まして気は優しいが根っから頑固な斑目に「ねぇ俺の発言って辛辣すぎ? だから立会人の人も俺とLINEをすると既読無視するの……?」などと闇発言を誘発させるなんて、最早梶の告白ハプニングが新しいハプニングを産んでいる。
 というか立会人たちよ、お屋形様相手に既読無視は止めてさしあげろ。
 
「……ちょっと信ぴょう性ないですけど、僕、本当は告白の準備それなりにしてたんです」
 
 頭上から斑目の『ハル相手と皆対応違い過ぎない? 我お屋形様ぞ?』という独り言が降り注いでいる。斑目のネガティブと自分の思考停止を断ち切るように、梶は勢いよくソファから立ち上がると上記のように言った。
 今も大分情けない顔をしているだろうとは思ったが、うだうだと女々しく悩んでいても埒が明かない。
 ソファに縋り付いていたい気持ちをこらえ、梶は硬い床に正座する。
 
「貘さんに似合うかなって、雰囲気のあるシチュエーションとかその、僕なりに色々と考えてたんです。良い感じのサプライズに出来たらなって、思ってて……」
 
 しょぼんとした顔で梶が白状する。梶の計画を正しく伝えるならば『雰囲気のあるシチェーションでサプライズ告白』ではなく『逃げ道のないシチュエーションでサドンリー告白』だったが、そこは腐ってもキモ冴えの梶隆臣なので、無意識の内に当り障りのない表現に変換していた。
 
「サプライズ要素は十分あったよ?」
 
 自虐を止めた斑目がフォローの口調で言う。
 フォローになっていないことは斑目本人も勿論分かっているだろう。
 
「違うんですって。こんなゲリラ豪雨みたいなサプライズじゃなくて、もっとちゃんとしたやつ用意してたんです」
「ゲリラ豪雨とは上手く言ったねぇ」
「ここが上手く言えたって仕方ないんですよぅ」
 
 梶がため息を吐く。斑目が「そりゃそうだ」と手を叩いた。
 
「でもさぁ、俺と梶ちゃんってAVの趣味以外はあんまり合わないから、逆にこれが正解だったのかもしれないよ? こういう時さ、梶ちゃんって変に張り切ってはローマの休日の再現とか考えそうだし」
「貘さんとオードリー・ヘップバーンは結びつかないですよ」
 
 梶は辛うじて嘘をついた。DVD片手の自分をこき下ろした妄想の斑目が現実とリンクする。
 変なところばかり自分たちは思考が合うものだ。
 
「なら良かった。そんなの持ってこられても、梶ちゃんセンスねぇなぁって突き返すだけだったからさ。俺は恋愛映画ならヤン・シュヴァンクマイエルが好きだなぁ」
「想像の更に上行くじゃないですか。無いですよ恋愛要素、あの監督に至っては喜怒哀楽もあるか分かんない!」
 
 あとそのボケ絶対立会人の人に振らない方が良いですよ皆さんポカンとするから! と続け様に突っ込む。想像上の斑目は自身の発言をボケ扱いされて気分を害していたが、現実の斑目は「あっはっは!」と朗らかに笑うだけだった。
 革張りのソファに、斑目がお気に入りらしいベージュのカーディガンを着て座っている。窓の外は新緑豊かで、視界の上部は自然界で最も鮮やかであろう青色が一面に敷き詰められていた。
(綺麗だなぁ)と懲りずに梶は思う。今度は口に出さなかったが、態度には出ていたのだろう。足を組み替えた斑目が「見すぎ」とカーディガンの袖口で自身の顔を隠した。
 
「正直言うと、俺と梶ちゃんはいつか付き合うと思ってるよ」
 
 カーディガンの向こうから唐突に斑目が切り出した。
 
「そうなんですね」
「え、なんでそんな白々しいの? 梶ちゃんも同じ見解でしょ?」
「僕のは希望的観測を含んでるので」
「ズルい言い回しだね」
 
 斑目がカーディガンから顔を覗かせる。『それを言うならさっきから告白の返事をしない貘さんだって十分ズルいでしょ』と、梶は口を横一文字に結んだまま緩く微笑んだ。
 思っても口には出さない。本日の勝敗が決まるまで、梶はもう斑目の機嫌を損ねたくはなかった。
 
「いつかは絶対付き合うよ。梶ちゃんは俺が貰う。それがいつかは分からないけど」
 
 斑目が言う。和歌でも詠みあげているかのような柔らかい声だ。
 
「それって今日はもう望みがないってことですか?」
 
 梶が聞き返す。振られるかもしれない事実に手が震え、どうにか声を震わせなかっただけ褒めてほしかった。
 
「そんなこと言ってないよ。いつかっていうのは、今この瞬間より先の未来を大きくとらえた言葉だから」
「つまり、一秒先の未来も『いつか』って言うと?」
「そうそう。要はコレもルールだよね。ルールの裏をかくのが俺たちの十八番でしょ」
 
 なぜ告白の返答までルールの裏を読まなければならないのだろう。梶はわななく唇をグッと噛みしめ、さも考えがある風を装って腕を組む。
 
「僕が今後正解続きの行動をとれば、今日この場で貘さんへの気持ちは成就するってことで良いんですね?」
 
 まるで賭郎勝負を行っているかのような、神妙な面持ちで前提条件を確認する梶を、斑目は苦笑して「梶ちゃんって案外せっかちだよね」と評した。
 自分はせっかちなのだろうか? 告白をしたら『一秒後に付き合う可能性もある』と言われたので頑張ることにしたというのは、梶からするとごく普通の行動で、そこに性格の差異は無い気がする。
 
「梶ちゃんは何だかんだ器用すぎるんだよ。失敗もするけど、何倍も大きく取り返すでしょ。人間たまには失敗で終わるのも良いもんだよ」
「告白で失敗して良いわけないでしょ」
「そう? 恋愛の大一番で失敗するあたり梶ちゃんらしいと思うけど」
「それ褒めてます?」
「今って褒める場面だった?」
「あ、ストレートに貶してたんだ」
 
 外は風が出てきたらしい。ビョウ、と強い風の音が窓越しに聞こえ、街路樹の枝が揺れているのが見えた。
 春一番には遅いが、強い東風だ。『こんな風が吹いたら花が全部一気に落ちちゃってただろうから、先に桜の季節が終わってて良かったなぁ』と梶が思う横で、斑目は残念そうに「桜吹雪見たかったなぁ。桜が咲いてる時にこういう風が吹くと良かったのに」と漏らしている。
 梶と斑目は何時もこうだ。着眼点は同じなのに、結論がまるで正反対になる。
 斑目を崇拝する梶はその自分とは異なる思考回路に神秘性を感じて夢中になってしまうが、才ゆえの孤独から人一倍共通意識に敏感な斑目が、家族として扱っている梶との『異』を良しとしているのかは分からなかった。
 
「というか、今更なんですけど、あの、戸惑いとかって無いんですか?」
「戸惑いって言われてもなぁ。性別なんてメジャーどころは二種類しかないんだから、組み合わせによっては性別が被ることもそりゃあるでしょ。俺と梶ちゃんの場合は偶然性別が被ってたってだけ。単なる確率の話じゃない?」
「そんなもんですかぁ? 僕は貘さんに気持ち悪いって思われなかったの、人生最大の幸運で運命だって思うんですけど」
「キリンの交尾は九割がオス同士だよ」
「なんて例え出すんですか」
 
 斑目とパチンコ店で偶然巡り合えたあの日から、梶は常に斑目を視界の中心に据えてきた。かつては愚図・今となっては宝物と持て囃される頭脳と感性で、梶はいつも斑目を眺め、悪魔のようだと揶揄される斑目が一方で柔らかな人間である証明を絶えずおこなった。
 長く斑目を見つめてきた梶の見解としては、斑目は変わり者かもしれないが、その実決して異端ではないと思う。楽しければ笑うし、悲しければ当然下を向いて涙を流す。案外笑いのツボは浅く、AVの趣味も童貞の梶と似たり寄ったりだ。
 つまるところ、少なくとも梶が恋をした斑目貘という男は人間なのだ。ことギャンブラーの嘘喰いが人智を越えた才を見せつけてきたとしても、斑目貘はごくごく普通に人間。梶となんら変わらない。独りを寂しいと思い、気の合う誰かを見つけたら寄り添って生きていきたいと願っている。
 だから、自分も斑目に寄り添って生きたかったから、梶は告白することにした。両者の利害は一致しているはずなのに、何故だか二人は先程から平行線の上でタップダンスを踊っている。
 
「僕のさっきの告白、どう思いました?」
「え、『すげー失敗かますじゃん』意外に思うコトあると思う?」
「うぅっ」
「嘘だよ嘘。いや、全部嘘ってわけじゃないけど。『すげー失敗かますじゃん。可愛い。こういうとこがたまんないなぁ』って思った」
「可愛い」
「うん」
「可愛いって思ってくれるのに、付き合ってくれないんです?」
「俺ハムスターもモルモットもファンシーラットも可愛いって思ってるよ?」
「なんでげっ歯類限定?」
「チンチラも可愛いよね」
「追加したのになんでやっぱりげっ歯類?」
 
 斑目はふふっと笑い、またカーディガンで顔を隠す。
 一つ好意を教えてくれたら、三つの余計な挙動で好意をうやむやにされてしまう。斑目の意図が分からず、それでも嫌われたくないから、梶はまた同じ場所でステップを踏む。
 
「僕も、僕もね。貘さんのこと可愛い人だなって思ってるんです」
「そうなの?」
「けっこう陽気じゃないですか。人懐っこいし、ノリも良い」
「梶ちゃん根暗だもんね」
「今までの人生考えたら、これでもけっこう前向きな方だと思うんですけど」
「それはそう。偉いよね梶ちゃん。そういうとこ、大好き」
「ねぇ」
「んー?」
「だから、どうして付き合ってくれないんですか」
「好きと付き合うってイコールじゃ無くない?」
「あれ、僕いま振られましたか?」
「えっ何で? イコールじゃないって言っただけじゃん」
「それって、付き合えないってことじゃなくて? 分かんないです。僕はどうしても、本当は貘さんが僕の告白を気味悪がってて、どうにか拒否したいんだとしか思えない」
「そんなことないよ。でも……そっかぁ。そう聞こえちゃうんだぁ」
「はい、そう聞こえちゃいました……ごめんなさい、全然見当違いでしたか? 考えが浅い人間だって、僕の嫌になっちゃいます? ごめんなさい貘さん。ごめんなさい。僕のこと見捨てないで」
「えっなにいきなり? 何の話? 俺いつ捨てる捨てないの話した? 捨てないけど」
「本当に?」
「本当だよ。絶対捨てない。なに、何の話してるの梶ちゃん」
「好きです貘さん」
「あぁうん。俺も梶ちゃんのことは好きだよ。で、今なんの話をしてたの?」
 
 斑目がキョトンとしている。梶はまた唇を震わせ、『なんの話もナニもないんですよ』と胸中で斑目に訴えた。
 梶は斑目が好きで、好きだから告白して、付き合ってほしいと頼み込んでいる。梶の主張は何も変わっていない。斑目が愉快犯のような頑なさでその場を動こうとしないから、二人の距離が変わらないだけだ。
 悪気なんてものを斑目は持ち合わせていないだろう。可愛い梶ちゃんと駆け引きを楽しんでいたいという遊び心と、どうして梶ちゃんは俺が期待する答えを勿体ぶっているのだろうという純粋な疑問が斑目の表情からは透けている。斑目は、梶が既に答えを掴んでいると信じて疑っていないようだった。両者納得の上で告白ゲームを楽しんでいると思っている。そんな訳は無いのに。斑目の頭の中で展開される複雑な哲学など、梶は到底推し量ることが出来ないというのに。
 
「貘さん」
「うん」
「好きです。大好き」
「うん」
「好き。好きなんです。何でですか。それじゃダメなんですか。好きです。どうして」
「うん。あのさぁ、梶ちゃんが分かんないように、俺も梶ちゃんが分かんないんだよ。好きなんだよね? 俺が。だったら、ねぇ。どうして?」
 
 何の話だ。どうして。どうして、とは。
 斑目貘が分からない。自分に斑目貘の何が理解出来ていないかも、斑目貘が自分の何を理解出来ていないのかも、梶は分からなくて、正座した太ももの上で握りこぶしをふたつ作りあげた。
 分からないなんて、本当はこの人に言ってやりたくはないのに。
 情けなさと悔しさが梶の中に渦巻く。薄暗い感情は雨雲のように心を覆い、梶をどんよりと重くさせた。
 
 世界は斑目貘を『白い悪魔』と呼ぶ。畏敬を込めてそう呼ぶなら別に良いが、世界が斑目を悪魔と呼ぶとき、人々の胸にあるのは拒絶だということを梶は知っている。
 正直、斑目を異端視する人々の気持ちが梶も分からないわけではないのだ。斑目貘という強烈過ぎる存在が自分と同じ生き物と思うのは精神衛生上よろしくない部分は確かにあると思う。斑目は賢く美しい。斑目が自分と同じ種族だと思うだけで、時に梶だって矮小な自分が惨めになる。自分を含め世界において圧倒的大多数を閉める凡人たちが、己の立場を守るため、人間から斑目を引き離そうと悪魔の名を借りる心境も悔しいが梶には理解出来た。でも先述したように、斑目貘は人間なのだ。悪魔のようだし神のようでもあるけれど、悪魔のような人で神のような人であるだけだ。ような人。人。悪魔でも神でもない。
 
 例え話が続くので、ついでにもう一つ梶の見解を話そう。
 
 梶は斑目のことを悪魔とも神とも思わないが、ただ、例えるなら『月のような人だ』とは思っている。
 なにも手が届かないという意味ではない。月の場所も名前も古来から人々は知っているが、その場所と名前というのは、地面から空を見上げた人間が月の了解も取らずに勝手に定めたものである。誰も、月が本当に浮かんでいる住所も、月が自分で名付けた名前も知らない。ウサギだのカニだの何か住んでいると決めつけることだけは何千年も前から行っておいて、水や空気が無い、という大変基本的な性質を知ったのはここ数百年の話だ。
 梶にとっての斑目もそうだ。隣で見る彼は賢く、温かく、時々奇天烈で、何より美しいが、梶の知る斑目貘はあくまで梶が勝手に想像して作り上げた姿であり、斑目が本当に梶の思う人間なのかは分からない。話しているうちに新しい事実がポンポン飛び出してくるし、「そんなの聞いてません」と梶が言えば「これ以外の事実を言った覚えはないけど」と言われる。梶と斑目は違う存在だ。梶は斑目のことを観察は出来ても理解することは出来ない。彼の哲学は難解で、同じ場所からスタートしてもゴールで出会えることは稀だ。だけど梶は愛してしまう。斑目が自身の外見に頓着しなくても、梶は斑目の姿を見止めるたび綺麗な人だと思ってしまう。
 
 考えるに、梶が斑目を好きになった過程に厳密な理由はないのだ。ただ、空に浮かぶ月が綺麗だったから足を止めて眺めている。美しい星はその実情を知れば知るほど幻想を打ち砕いていくし、ウサギも住んでいなければ不思議な力も綺麗な景色も本当の天体にはきっと無かった。でも事実を知ってなお、空に浮かぶ月は美しい。満月の際は完全無欠を纏ってハッタリの光源として夜空で輝き、時には欠けている風を装って哀愁や親近感を誘う。人や道を眩しいくらいに照らしてくれる時もあれば、頑として真っ暗闇に世界を放り込む夜もある。長らく地球の凡人共を翻弄してきた神秘の星は、けれど実際は酸素も生命もない穴ぼこだらけの身体で、広い宙を一人きり、ずっと賑やかな地球を羨ましそうに見下ろしていた。
 
 月が綺麗だと思った。今も月が綺麗だと思う。
 梶の恋は、突き詰めるとただそれだけだ。
 
「貘さんは、僕と今日から付き合うってなったら、どう思いますか?」
「どう、っていうのは?」
「考えてもらえませんか?」
「考えてるし答えも出てるけど、言いたくないよ。恥ずかしくて死んじゃう。ほら、これが答えになるでしょ。だから許してよ」
「そんなの酷いです」
「なんで?」
「曲がりなりにも、僕は好きですってちゃんと貘さんに伝えたじゃないですか。そしたら、返事に時間がかかっても、すごく面倒で鬱陶しくて気持ち悪いと思っても、せめて喜怒哀楽どれを感じたか位は声に出してほしいです。僕が得た貘さんの情報、今はまだ皆無ですよ。フェアじゃない」
「いや、勝手に押し付けておいて代金だけ請求するってネガティブ・オプションだよ。そう言うんなら、せめて俺に購入方法くらい選ばせたら?」
「嫌です」
「なんで?」
「僕は貘さんと違って何も持ってないから、貘さんに好きって言うことしか出来ない。拒絶……は、悲しいけど。でも僕のカードはこれしかないから。戦うしかないんです。これだけで」
「そのカードは弱いの?」
「分かりません。僕にとっては渾身のロイヤルストレートフラッシュでも、貘さんにとってはワンペアかも」
 
 いやワンペアって! 俺すっごい悪い男みたいじゃん!
 珍しく斑目が声を張り上げる。パタパタとソファの上で手を動かし、彼なりの地団駄を踏んでいるらしかった。
 梶には抱っこをせがむ幼児のようにも見えるが、どうやら斑目の気持ちは梶に傾いているらしいけれど、ここで無邪気を装って彼に引っ付いても斑目は許してくれるだろうか。
 間もなく斑目の地団駄は終わった。梶が抱きつこうか考えあぐねているうちに体力が尽きたらしい。ふぅ、と一仕事終えてソファにもたれ掛かる斑目は、顔にかかった前髪を払い、次の瞬間信じられないことを口にした。賭郎会議でまとまらない議題に直面した時と全く同じ態度を、斑目はこの局面で梶にとったのである。
 
「今日は価値観の相違があったってことにして、結論はまた今度にしない?」
 
 梶はギョッとする。ここまで来て、なぜ結論を後回しに出来ると思うのか梶には理解できなかった。
 
「嫌に決まってるでしょ!」
 
 弾かれたように叫ぶ。突然の大声に斑目が驚いて、呆気にとられた表情で「嫌なんだ」と口にした。
 
「我慢なんてもう無理ですよ」
「そんなに?」
 
 斑目の反応があまりに他人事で、梶の頭にカッと血が上る。そんなに、とは何だ。あと一歩で付き合えるという場面で結論は次回に持ち越そうと言われ、「はいそうですね」と答える人間がどこに居るのか。斑目とは考え方が違う。それだけは散々理解してきたつもりだったのに、やはり梶は、斑目のことが何も分からない。
 思考の違いを愛していると言った傍から、相手の悪意のない言動に自分の価値観を押し付けてこのザマだ。
 自分がひどく浅ましい人間に思えて、梶は耐えきれず目から大粒の涙を零した。今のは――というか最初から。斑目は何も悪くない。ただ彼は、普段通りの言動で梶に接しているだけだ。それに梶が一人でテンパり、追い詰められ、感情が決壊しただけである。
 梶が突然泣き出したので、ソファの斑目はオーバーなほど体を強張らせた。元々斑目の周辺には理性的な人間が集まっている。その中でも飛びぬけて己を隠すのが梶で、飛びぬけて隠された感情に過敏なのが斑目だ。(逆に梶ちゃんが俺に愛想を尽かす未来があるんじゃね? )と浮かんだ仮説に目を泳がせ始めた斑目に、梶は申し訳ないと思う反面、(まだ貴方を嫌う僕が居ると思ってたんですか)と裏切られた気持ちになった。
 恋愛感情を抜きにしても斑目に盲信している自覚がある梶は、フラれそうだし忠誠心は疑われるしで人生で一番くらいに悲しかったが、泣けば殴られる環境で育ってきた経験則からそんな場面でも涙を堰き止める方法を実践しようとする。
 握りしめていて少し赤くなった右手で梶は顔を覆う。
 ぐちゃぐちゃと入り混じった感情をどうにか吐き出そうとするが、結局口から出たのは、
 
「本当に大好きなんです」
 
 という聞き飽きたフレーズだった。」
 
 
「梶ちゃん、梶隆臣くん。俺は別に、梶ちゃんの気持ちを疑ってなんかいないよ」
 
 斑目の声が降って来る。なだめるような柔らかい声に、梶は自分の声が震えていたことに気が付いた。
 手を退かし、斑目を見上げる。既に斑目の表情に不安は無く、細められた目がしっかりと梶を見つめていた。梶の口が開き、自然と言葉がこぼれだす。
 
「好きなんです。貘さんの、白いスーツ着ても着膨れの余地が無いガリッガリな体も、顔が良いから気付かないけどもはや教科書に載ってる文豪の作者近影みたいじゃない? ってくらいの無造作ヘアも、優しい人なのに感性がズレすぎてて人間関係にことごとく問題が生じてるところも、回転が速すぎて時々日常生活でスリップかまして壁に激突してる頭脳も、がちがちの頭脳派なのに雰囲気ばっかり顔だけが良い人間性ペラッペラのホストみたくなってるところも。大好きなんです。全部ぜんぶ、好きなんですよ」
「梶ちゃんって本当に俺のこと好きなの」
 
 躊躇いがちに、けれど我慢ならなかったようで斑目が指摘する。舌の根も乾かない内に疑ってるじゃないですか、という突っ込みは梶の中でもみ消された。
 
「大好きです」
「全然伝わってこないけど。俺が自殺を選んできた歴代の文豪みたいな無造作ヘア変人ってことしか伝わってこない」
「自殺なんて縁起の悪いこと言わないで」
「いやそういう意味じゃなくて」
「本当なんです。大好きなんです。あぁもうダメだ、練習したのになぁ、全部飛んじゃった。頭真っ白で何も良いことが言えない。でも本当に好きです。僕は貘さんみたいに神様にもホストにも月にもなれないけど、貘さんのために一番命を賭ける人間にはなれるし、気の利いた言い回しとかは出来なくても、勉強して世界中の言葉で貘さんを褒められるようにはなれます。好きです。貘さん。大好き。愛っ……ぅ、ちょっとそれはまだスムーズに言えないけど、でも代わりに、大好っ」
「ちょ、ストップ、ストーップ!」
 
 耐えきれない! とばかりに斑目が梶に制止をかけた。いよいよ情熱的な愛の告白が始まって、最初あれだけ茶化していた斑目も、さすがにストレートな好意を投げ込まれ続けると具合が悪くなるらしい。あぁもう、と嘆息する斑目がじわじわと顔を赤らめていく。気まずそうにパタパタと顔を扇ぐ斑目がたまらなく嬉しくて、梶はもう一度「好きです」と声に出した。斑目が恨めし気にギロリと睨む。梶は謝るつもりが、やっぱりダメ押しに言ってしまった。「貘さん、大好き」
 
「梶ちゃんってどうしてそう、ムゥドが掴めないの」
 
 斑目が唇を尖らせる。意識してなのか、発言だけ聞くと本当に無造作ヘアの文学者のようだ。
 
「むーど」
「うん。言ったじゃん、駆け引きとハッタリの中で生きてきたからさ、素直に言うって恥ずかしくて死んじゃうんだよ。死ぬくらいなら言わないけど、死なない程度なら茶化してだって梶ちゃんにちゃんと言うの。分かってよ。俺を無造作ヘアの文豪だの月だのって例えるなら、ちょうどお誂え向きの告白があるでしょ。好きとか愛してるとか、純粋だけど賭け師は息が出来なくなる言葉だよ」
 
 あれ、と梶は思う。斑目は相変わらず気まずそうな顔で、カーディガンの袖をぐいぐいと引っ張っては手元を隠そうとしている。ベージュカラーが柔らかなカーディガンの下で、男にしては華奢な斑目の手が、本心を隠すようにちょこんと重ねられていた。
 
「嘘喰いとその相棒だよ。もっと芝居がかった恋をしようじゃないですか」
 
 斑目の提案は、それが既に物語中のセリフのようでもあった。
 
「……それはビジネスライクな、節度のある恋をしようってことですか?」
 
 言葉を噛み砕き、梶が尋ねる。胸がツクッと痛くなっていた。
 そんな恋を斑目が望むなら、それが斑目の思う理想的な恋なら、協力するしかないけれど、でも最初から賢い恋をしましょうだなんて梶にはあまりにも寂しい。
 はたして梶の問いに、意外にも斑目は「えぇっ?」 と素っ頓狂な声を上げた。目をパチクリさせて、心底驚いた様子で梶を見る。
 
「そっか、梶ちゃんはそう訳すのか」
 
 呟いた斑目は、おもむろにカーディガンから手を出し、ぺこりと頭を下げた。ごめんね、と自分の言葉選びを素直に謝罪し、訂正する。正しく梶に伝わるように。
 
「俺ね、今のは『夢みたいな恋』って言ったつもりだった」
 
 斑目の口から出てきた言葉は、ビジネスライクから程遠い甘さのものだった。
 こんな砂糖菓子のような口説き文句が、梶には最初、ビターテイストで伝わってきたのである。やっぱり二人は、真逆の世界で生きている。
 
「……夢、みたいになりますか? 貘さんは、僕と一緒に居て」
 
 夢みたい。梶にとっては今が既に夢の中だが、こんなふわふわと浮ついた気持ちを斑目が持つのか、梶にはイマイチ想像がつかなかった。何だか自分には不相応なものに思えて、梶はつい、躊躇いがちに斑目に聞いてしまう。
 
「梶ちゃんは俺を買いかぶりすぎなんだよ。俺はそりゃギャンブルに関して言えば格上かもしれないけど、フッツーに生きてる分にはフッツーに一般人だし、高嶺の花とか花屋の店先に並んだ選りすぐりの一輪ってわけでもないの。人間としての俺なんてね、そこら辺の花壇で運よく咲けた有象無象だよ。伽羅さんが俺を鉢に移し替えて、ハルが俺に水をくれた。あとはお人好しな梶ちゃんが俺を気にかけて、自分の部屋の、一番日が当たる窓際に俺を置いたんだ。綺麗に咲いて見えるなら、それはね梶ちゃん、梶ちゃんのお世話が良かったんだよ」
 
 また外でビョウ、と強い風が吹いた。木々を揺らし、せっかく芽吹いた新緑が風に巻かれて地面に落ちる。勿体ないけど、わざわざ間引く手間が省けて街路樹側は有難いのかもしれない。甘ったるい恋の話題の最中、梶は不意にそんな所に思考が移る。今は関係ないだろ、と自分を叱責しようとしたところで、斑目のほうから「全然関係ないけど、こんだけ風が強いと、街路樹も余計な葉っぱが振り落とせて有難いだろうね」と声が聞こえてきた。どうでも良い所でばかり、どうでも良い考えが一致する。梶と斑目は何時もこうだ。案外それは、二人がお似合いの証明なのかもしれない。
 
「もう少し自惚れてよ梶ちゃん。梶ちゃんが思ってるより、世間も俺も梶ちゃんが難しい恋をしてるなんて思ってない。妥当だよ。収まるところに収まったって感じ。今だってもう、俺は夢の中に居るんだ」
 
 ハッとして梶が斑目を見る。どこぞの文豪よろしく難しい顔をして顎に手を置いた斑目は、梶と視線がかみ合うと、その手を自身の頬に当てた。少しうつむいた斑目の、白い顔に先ほど引いた赤が戻ってきている。にやける顔を手で隠して、ふふ、と笑い声が漏れた夢見心地の彼に、梶はそっと語りかけた。
 
「……あの、貘さん」
「なぁに? 俺の可愛い梶ちゃん」
「ぅ、あの……月が、綺麗ですね」
 
 なんて陳腐な台詞だろう。散々物語のネタに使い古され、人々の手垢に塗れている。それに今は真昼間だ。太陽光が眩しいなかで月の話をするのはとても滑稽で、急に気恥ずかしくなった梶は、つい耐えきれずに「……まだ月出てないけど」と付け加えた。
 
 斑目は少しムッとして、「やっぱり梶ちゃんなんだから」と梶を小突く。
 そうして噛みしめるようにふわりと笑い、もしもここに明治の文豪たちが居たなら語句の全て使って褒め称えるであろう美しい顔で、斑目は答えた。二葉亭四迷の言葉だった。
 
「俺、今なら死んでもいい」