貘さんは。
僕の誕生日を知っている。僕の前のバイト先も、得意なギャンブルも、苦手な食べ物も、突かれて気持ちが良い場所も。
貘さんは。
僕が誕生日に欲しいプレゼントを知らない。応募したバイト先の志望動機も、趣味で調べてるカードゲームの種類も、こうすれば苦手な野菜が食べられるって克服方法も、痛いと言いながら首に手を回す理由も。
貘さんは、
斑目貘という人は。
僕のデータを知っている。僕の中身を知らない。
※※※
空が光っている。雷鳴が轟いている。近くに落ちたらしい雷が地響きを起こす中、ぁん、という上擦った声が自分の口から洩れた。
「あ、ゃ、ぁ、うぅ……」
「梶ちゃんは声が小さいねぇ」
覆いかぶさった貘さんが、楽しそうに笑って胸を触る。止めて。そこ弱いんです。そう言って身を捩らせると、貘さんは意地の悪い表情で「知ってる」と呟いて、胸の突起に吸い付いた。ガリ、と甘噛みと呼ぶには少し乱暴な力で歯を立て、同時に僕の中をグンと押し上げる。
「っ、アァッ! やぅっ……!」
途端に大きな声が出る。
少し痛いくらいが好きだ。鋭い痛みを瞬間的に感じたあと、じわじわ波紋のように薄い痛みが広がっていくあの感覚が気持ち良い。頭の中に火花が散って、そのたびに脳細胞が何個かダメになってんだろうなって思うのも、変な話だけど気持ち良さに拍車をかけてきた。この瞬間快感を得たいが為に、浅はかにも商売道具の頭脳を劣化させようとしている。そんな背徳感が、多分癖になってしまったんだろうと思う。
「今度はおっきい声が出たね」
「は、ぅ、……んっ」
「梶ちゃんは、痛いことと気持ちいことを一緒にされると大きい声を出すね」
貘さんは偉大な方程式を発見したような口ぶりで言って、そのあと緩く首を傾げた。
「何でだろうね?」
何でって。
知らないだろう。だって貘さんは僕に聞いてこないから。
※※※
「はい、これ」
プレゼント、と渡された箱に目を見開いた。前々から欲しいと思っていたイヤフォンだ。音が良くて持ちが良いってテレビで家電大好き芸人がオススメしていて、カラーバリエーションが豊富だから自分にピッタリの色が選べるっていうのも売りらしい。たしか全72色展開だったはずだ。そんなに色が多かったら店の在庫管理は大変そうだなって思ったけど、選べる楽しさがあるのは客側からしたら嬉しかった。
貘さんから贈られたのはブラックだった。全シリーズ共通のシンプルな黒い容器の中に、これまた真っ黒なイヤフォンが入っている。普遍的って言葉を使えば多少耳障りは良いけど、つまりは何の変哲もないイヤフォンだ。全72色展開。始めて聞いたような珍しい色だってあったのに、72色もあって、貘さんが選んだのはブラック。
「梶ちゃん黒い持ち物多いからさぁ」と言われて、途端に僕の身体から力が抜けていった。
「……なんでブラックなんですか?」
「え? いや、好きかなって……」
「僕、ビリジアンって色が欲しかったんです。変わった緑色のやつ。次の賭けで勝ったら買おうと思ってた」
「あれ、そうだったの? わーミスった。ゴメン、前に熱心に店頭で見てたからメーカーまでは分かってたんだけど、カラーまでは分からなくて」
「どうすれば良いんですか。僕この商品は絶対にビリジアンが格好いいと思って、ずっと欲しかったのに。なのにこんな、ブラック。全然色が違う」
真っ黒な容器を握りしめて言う。日頃黒い服ばかりの僕に黒い製品はとてもよく馴染んで、前々から僕の持ち物のようで、それもまた何だか虚しかった。
せっかくのプレゼントに文句ばかり垂れ流す僕を、けれど貘さんは気分を損ねた様子もなく、ただ申し訳なさそうにして頭を下げる。
「本当にごめんね。んーそうだ、じゃぁビリジアンを改めて俺がプレゼントするっていうのはどう? 俺がブラック使うよ。お揃いにしよ!」
妥協案まで出してくれる。柔軟で平和的な解決策だ。貘さんの対応にちっともマズい所なんて無いのに、一度ヘソを曲げてしまった思考は『そんな風に臨機応変に動けるなら、そもそも何も聞かないで勝手に買ってくるなよ』と相手の好意をうがった方向でしか受け取れなかった。
「別に良いですよそんなの」口から硬い声が出る。「せっかく貰ったんだし僕がブラックを使います。貘さんあんまり音楽聞かないじゃないですか。それに持ってるイヤフォン、まだ新しいやつですよね?」
「いや、まぁそうだけど……」
「何で買う前に聞いてくれなかったんですか? そしたら僕は欲しかったビリジアンのイヤフォンが貰えたし、貘さんだってプレゼントにケチをつけられなくて済んだのに」
「それじゃサプライズにならないでしょ」
「アンタこの手のサプライズで成功出来たことないでしょ。いい加減学んでくださいよ」
あえて尖りを持たせた言葉を投げつける。ツンケンした物言いの僕が珍しいらしく、貘さんが目を白黒させていた。
貘さんが驚いてる。そりゃそうだろう。いつもだったら僕は色の違いくらいでワーワー言わないし、貘さんが僕の視線をちゃんと観察していて、メーカーまで特定してくれたってところで既に飛び上がるほど喜んでる。あの貘さんが僕にプレゼントを! しかも僕が欲しがってるだろうものを推測してわざわざそれを贈ってくれた! 普段の僕ならこれだけで有頂天。元々自分で買うつもりだった商品だとか、欲しかった色と全然違うとか、72色もあるとかやべ~絶対今回は安牌の黒だけは止めとこって思ってたとか、そんなの全部無かったことにして貘さんに感謝を伝えていたはずだ。
相手は善意で黒を選んでくれたのだから、その気持ちを汲み取って喜んだって本当は良かった。でも、今日はなんだかそんな気分になれない。不満が腹の奥から湧いてきて、外に出たいと食道をせり上がってくる。多分気付かない内に、色々と積み重なっていたのだ。神様みたいに思っている人がせっかく品物を僕に下賜してくれたのに、僕は口をぐいっとへの字に曲げて、気まずそうにしている貘さんを睨みつけた。
「いっつも色違いとかメーカー違いとか、そんなのばっかりですよね。聞いてくれたら教えるのに、貘さんって絶対僕の好みや考えを聞いてくれない。毎回自分で勝手に判断して、勝手に自滅してる」
この前買ってきてくれた缶チューハイもそうです、とついでに三日前の出来事をぶり返す。お家居酒屋しようと貘さんが思い立って、僕が食材、貘さんが飲物を調達してくることになった。はいコレ、と手渡された冷やしアンズ味の缶チューハイは僕が毎年コンビニで確認しても毎年スルーしていたもので、『これ飲むんだったらライチが良いなァ。なんで毎回この味が分かりにくいやつ販売するんだろう』って毎度ドリンク棚の貴重な一列を占領することに違和感を覚えていた味だ。一応飲んだら甘酸っぱくてそれなりに美味しかったけど、僕はやっぱりライチが良かった。多分貘さんが買い出しに使っただろう近所のコンビニを覗いた時、冷やしアンズの隣にライチがあったから、余計に歯痒い気持ちになったことを覚えている。
「僕から発信したことは忘れないでいてくれますけど、そういえば貘さんって、仕事以外で僕の意見聞くときないですよね。僕の好みとか、今思ってること、プレイベートじゃ絶対聞かない」
「そうだっけ?」
「そうですよ」
あ、えっちしてる時に「ここ気持ち良い?」は聞いてくれるか。
言いながらそう思い直したけど、口には出さなかった。普段僕の好みや考えてることを慮ってくれないくせに、セックスの時だけは積極的に意見を聞き入れてくれるだなんて気付きたくない。指摘して、『うわ、バレた』なんて顔を貘さんにされた日には立ち直れる自信が無かった。
「貘さんはどうして僕に何も聞いてこないんですか。僕に興味が無いんですか」
体目当てなんですか、と続きかけて慌てて口を閉じる。瘦せっぽちだけどしっかり成人の体格をした男が、たとえ比喩でも、自分の体に性的な魅力があるなんて自惚れたくなかった。
「貘さんが興味あるのって僕のギャンブルとアナルだけなんじゃないですか」
一縷の望みを託して、貘さんに利用価値がありそうな僕の他の要素も加えて声に乗せる。
「おおっとぉ?」
貘さんの目が見開かれる。冴えた青色がキラキラと輝きを放っていて、本当に嘘みたいに綺麗な人だと場面違いなことを思った。
「梶ちゃんそんなコト言うんだね。あ、アナルって……いや言い方ビビったァ……」
見事にギャンブルの部分は聞き流されてしまった。本当にこういう時ばかり察しが悪い人だ。
「言えますよこれくらい。これも知識です」やっぱり僕の声はツンツンする。
「でも梶ちゃんって、ドストレートな下ネタとかはダメなタイプじゃ……」
「どんなイメージ持ってんのか知りませんけど、AV見まくってる二十歳越えた男に恥も何も無いですよ。何とも思いません。何とも……もっとはしたないことだって僕は言える」
「わーお……」
貘さんが両手を広げてオーバーなリアクションを取る。自分が知らない僕を見つけて、嬉しいような、ちょっと残念がるような微妙な笑顔を浮かべた。その表情がなんだか凄くイヤだった。貘さんが知らない僕が居るっていうのも、知らない僕を貘さんが許容してるっていうのも、なんだかイヤ。メンヘラってこういう感情を指して使う言葉なのかもしれない。
「どうしちゃったの梶ちゃん。自暴自棄過ぎでしょ」
「貘さんのせいですよ」
「俺の?」
「貘さんが僕を所有しきってくれないから」
ダン、とわざとらしく足踏みをしてみせる。
地団駄を踏んだ革靴の底には、貘さんによってGPSが仕込まれている。あとスーツの首の裏と、ポケットに入ってる携帯電話の内部にもGPSが入っていた。僕の一挙手一投足は全部貘さんに把握されている。手元にある端末で梶隆臣の動きを逐一確認してるっていうのに、梶隆臣の内心には全く踏み込んでこないって、どういう心境なんだろうか。
「ねぇどうして全部把握しようとしないんですか。何にでも頭突っ込む何なに星人の獏さんが、人にGPSまでつけて過保護にしてくれる貘さんが、僕が本当に欲しいものとか知らないままで放置してるんですよ。何で最後だけ干渉しないんですか。この最後だけ突き放されてる現状が、どんだけ不安か、貘さん分かりますか?」
自由っていうのは本来好ましいものであるらしい。趣味に干渉されず、嗜好に言及されず、言ったら覚えているけどむやみやたらと聞いたりしないのは、大人の境界線としては正しくて、個人を尊重する本来なら有難い距離感だ。でも、僕はあまりその類の感覚に共感できない。人に無関心でいられる時代が長すぎたのか、近しい人には全部把握していてもらいたいと思ってしまう。僕がいま居る場所、僕が好きなもの、好きな人。知っていて欲しい。知ろうとしてほしい。体に持ち主の名前を書かれて、いざとなったら使用しますと約束をされるだけじゃ、もう悲しいのだ。
成人した男がねだるものとしては幼稚で重いのだと思う。貘さんの気遣いを無下にするような要求だったかもしれないのに、貘さんは僕をジッと見つめたあと、「梶ちゃん。まずは謝罪と訂正をするね」と丁寧に宣言して僕の頭を撫でた。
「梶ちゃんを不安にさせてごめん。梶ちゃんに興味が無いとか、そんなことは全く、本当に全然ないからそこだけは分かってね」
ちょっとそこに座らない? と貘さんが僕をエスコートする。根城にしてるホテルの大きな備え付けソファに二人横並びで座って、目の前に先ほど貰ったイヤフォンの箱を置き、貘さんの白いけどしっかり太い指が、同じく無骨な男の手を緩く握りしめた。
「梶ちゃん、ちょっと俺の話していーい?」
返事を待たないで貘さんが話し始める。「俺ね、知識を得るって好きなの。知りたいの。無尽蔵に」という唐突な切り口で始まった貘さんの演説は、今までに教えてもらったことがあるような、教えてもらったことが無いような、底が見えない斑目貘という人物を潜水艦に乗って少しだけ探検している気分になるものだった。
「何でもさ、知ることって楽しいよね。無知でいることは性に合わないし、そもそも世界の色んなことを知って無いと俺の夢って叶わないの。分からないとか、知らないって思ったら、俺はそれを徹底的に潰したい。俺の夢とプライドにかけて」
「だから」話を遮って、僕は貘さんの手を握り返す。「僕を知らないままで居て苦じゃないのは、俺に興味が無いからでしょ」
「んー、ちょっと先にそれの否定だけして良い?」
ちゅ、って小さな音がした。触れるだけのキスが似合う人だと思う。「俺、梶ちゃんを見つけてから今まで、梶ちゃんのことピッカピカに磨いてきたつもりだよ。こんなに大好きで興味が無いって、そんなわけないでしょ」。言葉にされると確かにその通りで、これだけ大切にされてて『興味が無いのでは』なんて言い出す僕のほうがよほど非常識にも感じるけど、でも聞かずにはいられなかった僕の気持も本物で、どうして良いか分からないで下を向いた僕の額に、貘さんは唇に落としたものと同じキスを繰り返した。
「表も裏も手に入れたいの。いつか。世界の全部を。俺の壮大な夢」
ただ繋いでいただけの手が、気付いたら指を絡めとられていた。貘さんの真っ白な手のひらに、僕の黄みがかった指が差し色のように入り込んでいる。異物だ、と僕は反射的に思ってしまったけど、貘さんはそんな異物を愛しむように見て、もう片方の手で優しく包み込んだ。
「ギャンブラーにとってさ、『まだ手にしてないもの』って宝物だと思うんだよ。何かを勝ち取って所有欲や支配欲を満たした時、俺達は生きてて一番の充足感を得る。だから闇に挑むし、隠されたものを知ろうと躍起になる。求めて、奪って、折角手にしたのに潰す。それはさ、梶ちゃん。優しい君さえ持ってるギャンブラーの業だ」
滔々と語る貘さんは、口調は柔らかく温かいのに、何だか世界中を突き放しているようだった。
僕はいま斑目貘の深淵に普段より三メートルくらい近づいたところに居て、もうそろそろ底が見えてくるはずだとぬか喜びするも、まだまだ真っ暗闇しか広がっていないそこに少しだけ絶望している。もっと深く潜りたいけど潜水艦の強度はここが限界で、ここから先は船を飛び出し、水圧でぺっしゃんこになる覚悟を持ちながら下へと沈んでいくしかない。
許してくれるなら僕はリュウグウノツカイみたいにぺっしゃんこな体になって貘さんの深淵へと潜っていきたい。でも貘さんはそんなの許してくれなくて、『梶ちゃんにはお日様が似合うよ』とかなんとか優しい言葉を与えた上で、陽の光が届く浅瀬へと僕を戻してしまうんだろう。
「俺はまだ手にしてないもの、まだ得体が知れないままでいる謎のものが好きなの。でも知らないままでいるのは嫌い。だから徹底的に、中身を全部見ようとする。そうして俺の好きだった得体がしれなかったものは、知ることで名称が付いて、賭けに使われる様々な仕込みの一部に成り果てる」
そこまで言って、貘さんは僕の方に体を向けた。
底が見えない深海を腹に抱えた人なのに、僕をみる瞳は南国の海みたいに青く澄んでいる。繋いだ手に添えられていたものが、僕の頬に移動していた。
思春期に出来たニキビ跡が点々と残っている僕の頬に、貘さんの陶器みたいな白い手が覆いかぶさっている。掌の形に感じるであろう熱が、でも普通だったらあるはずの部分に一部熱が無い。貘さんの欠けた小指分、触れられなかった肌が悔しがっていた。その穴を埋めたくて、するりと頬ずりする僕に、貘さんはどうしてだか「大好きだよ、梶ちゃん」と告白をする。
「梶ちゃん。あのね梶ちゃん。俺の中で特別で居られるのは、“俺のものじゃないもの”だけなんだ」
「僕ってもう貘さんのものじゃなかったですっけ」
「体はね。でも梶ちゃんの心は梶ちゃんのものでしょ?」
「心もほぼほぼ獏さんのものになってますけど」
「いやまぁそうなんだけど……愛されてんね俺。 でも違うんだよ。何ていうのかな、ここで言う『俺のもの』ってさ、ちょっと具合が違うんだよ。覚えてないの。俺は、自分が何を持ってるのか」
貘さんが言葉を区切る。澄んでいた瞳が少しだけ伏せられて、海に影が落ちた。
「大切な人のこと───それこそ梶ちゃんとかマーくんとか伽羅さんとか、俺のものだけど何もかも覚えてる人たちだっているよ。でも他の大抵は覚えてない。引き出しとしてすぐ取り出せるようにはしてあるから、見えてない、のほうが正しいかもしれないけど」
「難しいですね」
「梶ちゃんになら分かるよ」
だってギャンブラーだもん、と貘さんは言う。確かに感覚的に分かる部分はあった。
覚えてないのは多分、『得る過程』が貘さんにとっては高揚の全てだからだ。ギャンブルの醍醐味である魂がひりつく瞬間は、例えどんなゴールが設定されていても結局は勝負の最中にしか存在しない。例えば500億とかお屋形様の地位とか、勝負の末に得られるものがどれだけ大きくて、どれだけその品を日頃渇望していたとしても、ことギャンブラーの『高揚』という視点においては全部はひとまとめに『景品』だ。景品の貴賤はあまり意味を成さない。ギャンブラーにとって、景品は勝負のエッセンスでしかない。勝って、得たら景品としての付加価値は終わり。あとは何かしらの手段として、新たな利用価値を付加させて運用するだけだ。
貘さんの演説を、僕は少しずつ『あぁなるほどな』という視点で噛み砕けるようになっていた。
頭が良くてすごく冷静に世界を見てる人ではあるけれど、貘さんには一方で少し子供っぽいところもある。欲しいと思ったものが偶然手に入らないのではなく、貘さんは“手に入らないから欲しい”と思ってしまう人なのだ。それってすごく残酷な思考回路で、つまりは欲しいだけなので、手に入ったら何の魅力も無くなってしまうということである。
貘さんはゆくゆくは世界を全て手に入れてしまうかもしれない凄い人。それは事実。でも、生憎世界はまだ貘さんのものではないので、未だ沢山の『斑目貘の手に入らないもの』が世界には溢れている。普通の人間なら手に入らないものがある人生は当たり前で、だから手に入らないと思ったものから本能的に目を背けたくなるものだけど、貘さんはそれらにどうしても目がいってしまうし、決して視線を外さなかった。
今ももう抱えきれないくらい沢山の物を持っているにも関わらず、そんな訳で貘さんは今もずっと欲しがって、今もずっと歯痒そうだ。
とんでもなく強欲な人だと思う。ここまでくると才能だ。
こんな桁違いの欲を持てる人だから、貘さんの語る『世界平和』は夢物語に聞こえないんだろう。
「このまま俺がたくさん賭けに勝っていくとするじゃない? そしたら俺はたくさんのものを得て、たくさんのものをどうでも良いと思うようになっていく。世界に俺のものじゃないものが減っていって、目に見えない俺のものだけが増えていく。俺の世界は、きっとどんどん殺風景になっていくんだろうね」
貘さんの言葉を聞きながら、僕は貘さんがこれから見るであろう世界を想像していく。色とりどりだった世界からどんどん建物が消えて、物が消えて、色が消える。残ったのは真っ暗闇だった。貘さんに見た深海と同じ、底が見えない暗闇が頭の中に縦横の概念なく広がっていく。貘さんの言葉を借りるなら、その深海こそギャンブラーの業だった。
「ねぇ梶ちゃん。梶ちゃんは確かにもういくらかは俺のもんかもしれない。でも、俺のものじゃないところもある。缶チューハイの味が好みじゃないとか、欲しいと思ったイヤフォンが違うとか。俺にはどうにも出来ないところ、梶ちゃんだけが生み出せる梶ちゃんだけの部分をまだ抱えてる。梶ちゃん、どうかそれを、まだ俺には明け渡さないで」
貘さんが繋いだままの手を持ち上げて、ちゅっと僕の手にキスを落とした。あの貘さんに懇願されるなんて、僕の人生はとても数奇だ。有難いようで、少し荷が重い。優越感と同じくらい責務感が生まれる。
(貘さんが欲しいと思い続けてくれる人間なんだろうか本当に僕は)
缶チューハイの味の好みが分からないとか、欲しいイヤフォンの色が見当もつかないとか、そんな些細な『知らない』に一体どんな価値があるんだろう。世の中にはまだまだ貘さんが得てないものは沢山あるけれど、毎日膨大な質量を自分の引き出しに仕舞い込み続けている貘さんが手に入っていないものというのは、もうそろそろ、凡人が一生かけても得られない巨大な存在ばかりになってきている。世界をひっくり返す機密情報。国が滅ぶくらいの圧倒的な軍事力。そんなとんでもないものと肩を並べる『今日の夕飯をラーメンか豚汁定食かで悩んでる梶隆臣』───冗談でしょって感じ。世界を何だと思ってんですか、貘さん。
皮膚一枚挟んで触れるだけのキスを貰ってるうちは、きっと僕には貘さんが思う梶隆臣の価値なんて分からない。こんな僕で良いんですかって気持ちを抱えたまま、貘さんの役に立てるように働きながら貘さんに把握してもらえないモヤモヤを原動力に僕を重ねていくしかない。
そうやって貘さんの隣で貘さんの知らない僕を成長させながら、貘さんが僕を手に入れて爪や歯で僕を覆う包み紙を開封してくれるまで、僕は多分、これからもがむしゃらに生きていくのだろう。
「いつか俺が世の中の全部を手に入れた時に、殺風景な世界を見回してみたい。何にもなくてつまらない場所に梶ちゃんだけが残ってる。梶ちゃんだけが手に入らないままそこに居る。
きっとその瞬間がやってきたら、ねぇ梶ちゃん。
俺の世界は梶ちゃんのものになる」
けっこうクラクラくるお誘いでしょう? 貘さんはそう言って、もう一度僕の手にキスをする。
唇を押し当てて、僅かに開けた口の合間から舌が僕の肌を舐めた。
「……突拍子もないこと考えますね、貘さんも」
「熱烈って言ってよ。それくらい梶ちゃんに夢中なの」
「気が遠くなっちゃいます。僕はいつまで待てば良いんですか?」
「なるべく早くしようとは思ってんだけどねー。けどまぁ、世界は広いから」
「もう良いです。言い訳は十分」
僕は貘さんの手を振りほどいてソファから立った。机のイヤフォンをポケットに入れて、貘さんの前に立つ。僕の前には貘さんしか居ない。貘さんの前にも僕しかいない。いつかこの光景が、もう一度繰り返される日が来るんだろうか。心臓がドクドク鳴っている。今この瞬間この人が欲しいと思う。でもこの気持ちを抱えて、欲しいまま歯痒い思いを続けていくのも、きっとギャンブラーが抱える業の一環だ。そんでもって、きっとこれも恋だ。
「今は貘さんの無関心を許してあげます。せいぜい貘さんのものじゃない僕を隣において、歯痒く思いながら過ごしてください」
どうだろう、これって貘さんが好みそうな台詞なんだろうか。
内心ドキドキしながら、僕は神様みたいに思ってる人にそんな生意気を言い放つ。貘さんは真っ青で海みたいに綺麗な瞳を細めて、勝負と日常のちょうど合間にある笑顔を浮かべた。
「良いね。最高。早く世界が欲しくなる」
貘さんは気付いているのだろうか。貘さんには僕と二人きり、僕を見つめる時だけに浮かべる表情がある。優しくて、甘くて、でも底が見えない魅力的な顔。
気付いているなら教えないでほしいし、もし気付いていないのなら、悔しいから、僕はこれを一番最後に教えてやることにしよう。
そうさ。こんな強欲なギャンブラー、さっさと全部教えて無欲にしてしまうなんてちょっと勿体ない。
今すぐにでも喉から飛び出しそうな『僕を貴方のものにして』なんて、彼が野望を叶えるまで、絶対、絶対言ってやるものか。