「じゃぁ入れますよ」弥鱈が言った。
「もう入ってますけど」梶も言った。
普段なら「上手に飲み込めましたねぇじゃぁ動きますよ」と続くはずの場面まできて、何故か梶は脚を抱え直され、改めて挿入の姿勢を取られていた。先述したが弥鱈の性器は既に梶の中に埋まっている。いつもならここから……と普段を想像して、梶の口内にじゅわっと唾液が滲み出た。
ギャンブラーにはその性質上快楽主義者が多い。危ないことと悪いこと、それに加えてはしたないことは博徒どもの主な娯楽だった。梶はそこまで博徒らしい博徒ではないが、最後の娯楽は他の同業者たち同様にお気に入りだ。『このまま遊びたいなぁ』と熱っぽい上目遣いで己を見る梶に、弥鱈は苦笑して、ローションで滑りやすくなった腸内を戯れのように緩く出し入れしてやった。
「んっ、ぁ、ちょ、弥鱈さんっ……!」
今しがた弥鱈を誘った目が見開かれ、欲がナリを潜めた梶は今度は青少年の顔で突然の快感に戸惑っている。
一緒に『遊べば』梶の娯楽好きなんて一発で分かってしまうのに、本人にその自覚は無い。罪な人だな、と弥鱈はつくづく思う。
「負担ばかりでは嫌になるでしょう。先に少々は楽しみましょうね」
「んぅっ……弥鱈さん、ぁ、このままっ、ね、えっち、このまま、んっ、しませんかっ? 僕ちゃんとあとでやるからっ……あっ、いっかい、このまま……ゃ、はぁ、あンっ、あ、そこ、すき……!」
「魅力的なお誘いですが今回はご遠慮させていただきます」
絶対そのままナシ崩しになってしまいますから。
色を孕んだ溜息を吐き、弥鱈はちゅこちゅこと出し入れしていた性器を一旦奥で止めた。腰を動かそうとする梶を片手で制し、空いている側で皮膚の上からを前立腺がある部位をぐりぐりと押してやる。繰り返し教え込んだ快楽に梶は従順で、身じろぎをしていた彼は「くぅ」と喉を鳴らしたきり動きを止めた。そこを触ってくれるなら動かなくても良いですよ、といった様子だ。
(このむっつりスケベ) 弥鱈は内心でそう揶揄した。
ここくらいで止めておいた方が良いだろうと、初めて梶と繋がった時に決めたラインがある。前立腺を抉って少し先、梶が最も気持ちが良く、弥鱈も及第点の快感が拾える位置だ。以降何度も穿って形を教え込んだものだから、梶の体内は今はもうすんなりとここまでは広がってくれる。自分は雄の欲を受け入れる存在なのだという自覚があって、挿入されると弥鱈の性器に媚びるように絡みついてきた。
梶がここを最奥と錯覚していたのは、弥鱈がそれより先を暴いてこなかったからだ。そう考えてみると、今まで弥鱈は梶の腸内に疑似的な膣を再現していたことになる。それはそれでクる話だった。
「ここから先にもう少し踏み入ってみようと思います」
腹を押していた手が離れていくと、梶の喉が寂しそうに「くぅん」と鳴く。「このむっつりスケベ」 今度は音になった揶揄が弥鱈から漏れた。
「うぅ……ね、ねぇ。本当にこの先なんてあります? 体感は行き止まりだよこんなの……」
「ありますあります。というか、貴方のここは腸ですよ? 行き止まりなわけがない。高速道路並みに道は続いていますよ」
「いやでも、それを言ったら普通腸って一方通行……」
「さぁ元気に張り切ってまいりましょー」
「す、すごい似合わない台詞……!」
うるさいですよ、と弥鱈は腰を進め始める。道を割り入っていくような感覚があり、異物を押し返そうと蠢く肉が先端をきつく締めつけた。案の定、狭い。でも熱くてぬめっている。やっぱり気持ちが良かったと弥鱈は生唾を飲み込んだ。
「い゙ッ! ……たァ……!」
一方で、今までトロンとしていた梶はやってきた衝撃に仰け反り、低い声を上げた。
やわやわと緩い力で弥鱈を受け入れていた肉が、ある一点を越えてから急に強張りだした。全身が硬直し、サァっと血の気が引いていく。圧迫感と鈍痛が代わりに押し寄せ、内側から胃や肺に負担を強いた。
呼吸が浅くなってはくはくと細切れの息継ぎをする。そんな梶の目に飛び込んできたのは、気持ちよさそうに眉を寄せている弥鱈の姿だった。梶自身は苦しくても、梶の体内を満喫している弥鱈は気持ちが良いらしい。不思議だなぁと他人事のように梶は思った。
腸は内臓である。それ自体に筋力はなく、だから弥鱈の挿入も、少々の痛みこそあれ何だかんだすんなり済むとタカをくくっていた。梶は痛みに強い方だったし、弥鱈は乱暴な人間ではない。『最初に我慢したらすぐ気持ちよくなれるんでしょ』なんて、弥鱈の説明を聞いてるあいだも梶の頭はほとんど後に来るご褒美にばかり気を取られていた。にも拘わらず、現実はどうも想像より数段厳しい。梶の身体は過剰なほど弥鱈の侵入を怖がり、痛覚の無い腸を代弁するかのように容赦なく脳に危険信号を送り込んだ。
梶の額から脂汗が噴き出し、歯がカチカチと鳴る。早くも梶の身体はギブアップを宣言しているが、弥鱈の性器はまだまだ外に残っている。
「い゙だっ゙……待って待って弥鱈さんすごい痛い。え、入った? 全部入った?」
「アハ体験レベルにしか変化ありません」
「う、ぉ……待ってください、ちょっと想像以上に最悪」
「最悪……」
念願の挿入を最悪と切り捨てられて弥鱈は困惑する。が、梶はそんな弥鱈を気遣っている余裕もなく、無理、きっつ、うへぇ、と独り言を繰り返した。弥鱈も困っているだろうが、それより受け入れる側の梶は何倍も困っていた。だって痛いのだ。まだ挿入途中らしいけど既にめちゃくちゃ痛い。どの部位が痛むのか正確には分からないが、今まであんなにふわふわしていた下腹部が、今は石を抱いているかのようにずぅんと重かった。
「どうでしょう、いけます?」
「いや、うーん……どうでしょう……」
「分からないならいってみましょう」
「は、はい……」
まぁ確かに進まなければ終わらない。半ば弥鱈に押し切られる形で梶は気合を入れ直した。危険な賭けに挑む前のように、過剰なほど深呼吸を繰り返して心に踏ん切りをつける。弥鱈の腰が動き出すと、梶は自然と唇を噛みしめた。弥鱈の性器がまた梶の知らない所に到達する。怖くて痛い。圧迫感も相変わらずひどかった。
これが体の奥を暴かれる恐怖か。弥鱈の下で忙しなく視線を泳がせながら、梶は今更ながらに自分たちが行っている行為の難しさを思い知る。正規の使い方をしていないのだ。不具合が生じることは当たり前だけれど、それにしたって何だろう、いやに心がざわざわした。
「そんなに痛いですか。ままならないものですね」
「す、すいません……」
「いえ、梶さまを責めているわけではありません。無理を通しているのは私なので」
言葉ではそう言うが、弥鱈を見ると彼は不満げに唇を尖らせていた。無意識下のクセだろうが呻いている梶の眼前に二つほどシャボン玉を飛ばし、梶の性器をいたずらに扱いて、どうにか梶を脱力させようとする。ほんの少し力が梶の弱まるとすぐに腰を進め、痛いと言えば必ず止まるが、そのたび弥鱈からは不満を吐き出すようにシャボン玉が飛んだ。いつもより弥鱈の態度が荒い気がする。普段が丁寧すぎるのだろうが、よほど自分の中が気持ち良いのだろうと梶は肯定的に捉えることにした。
ぐぐ、とまた少し弥鱈が入ってくる。梶は痛いと言う。弥鱈はまたキチンと止まって、シャボン玉を飛ばす。梶には気付いたことがあった。そういえばさっきから、弥鱈はキスをしてくれていない。
「あ、あの」
「はい」
「き、キスしてくれませんか。その、気が紛れるので……」
おずおずと梶が手を伸ばす。普段なら頬を寄せてくれるはずの弥鱈が、今日は無表情に頭を振った。梶の手を捕まえ、シーツに沈むほど強くその手を押し付ける。ならば手を繋いでほしいと指を絡めようとした梶に、「かじさま」、弥鱈の声が制止をかけた。
「申し訳ないですが私も色々と耐えていまして……いまそんなコトをしたら力任せにぶち抜きますよ」
「ひえっ」
怖すぎることを言う。弥鱈の表情を見れば冗談でないことくらい一目瞭然なので、梶は大人しく弥鱈の手を開放し、手持ち無沙汰な右手はまたシーツを握りしめた。
こんなに余裕が無い弥鱈さんって珍しい。でも、それだけ僕の具合が良いってことだよね、それって光栄なことだよね、うん、身体の相性が良いって幸せなことだ、僕は今たまたま痛くて苦しいけど。
ざわつき始めた梶の心の中に風が起こった。ざわざわ、台風が近付いているときのような、あの水気の多い不穏な風だ。風は威力を増し、吹き荒び、徐々に心の湿度を高めていく。まとわりつくような重たい空気が梶の心に充満する。水分を多く含んだ空気は梶に圧し掛かり、少しだけ彼の背中を丸くさせた。
「いっ、いた、いててっ……」
「そこまで痛いって不思議ですね。貴方、普段はアナルであんなに喘いでるじゃないですか」
「そ、そんなに明確に言葉にされると困りますけど……でも本当ですね、こんなに痛いなんて」
「初めての時より痛がって見えますけど」
「そうなんですよ。初めての時より痛いんです」
「以前より気合が足りてないんじゃないですか」
「え」
「はぁ。さっさとヨくなって、思い切り突けるようになったら良いのに」
何気なく呟かれた弥鱈の一言。思慮深い彼ならきっと普段は声に出さなかったであろう本音が、梶の丸くなった背中に積み上がった。重さが増す。体が折れる。心の中の梶が、何かに謝るように頭を垂らして立ち竦んでいた。
突く。突くのか。いやまぁ、突くよねそりゃ。だってこれはセックスだ。弥鱈さんは突かなきゃ気持ちよくなれない。突く。そうか。僕のお腹の中を、内臓を、こんなに痛がってるのに気持ちよくなりたいからって、弥鱈さん突くのか。そうか。……そうか。
弥鱈を悪く言うつもりなんて梶には毛頭ない。知らず知らずの内にずっと我慢させていたのは自分の方で、悟らせないよう気を遣ってくれていた弥鱈を、梶は『申し訳ないことしたなぁ』と本心から思っている。
それに、今だって梶は自分が乱暴を受けている認識はないのだ。痛いことをしますよと事前に言われて、分かりましたと梶は返した。ふかふかで清潔なベッドの上、コンドームをしっかりとつけた弥鱈に合意の挿入をされている。ちょっと言葉に棘を感じたとしても、それは痛いと繰り返す梶同様、弥鱈個人の感想なので指摘するのはお門違いだった。梶は総合的に考えてこう結論付ける。自分は十分優しくて幸せな目に合っている。不満を感じる箇所なんて無い。無いはず、なのに。
(僕が初めて弥鱈さんとこの体を使った時って、ハジメテの時って、どんな感じだったっけ)
梶の脂汗を見逃し続ける弥鱈を眺め、梶はふと、二人が初めてセックスをした日を回想した。
こんな所に入る訳ないと怯える梶に、弥鱈は「まぁ気長にいきましょう」と根気よく付き合ってくれた。弥鱈の指は細いが骨張っていて、挿入すると関節が少しだけナカで引っかかる。中指さえ怖いと言うので、弥鱈が最初に埋め込んだのは小指だった。直径など座薬と対して変わらない太さだ。それでも最初の頃は梶にとってヒドイ違和感だった。
「指がデコボコしてるのが気になります」半ばパニック状態で叫ぶ梶を、弥鱈は「些細なことに気付けて偉いです」と褒めてくれた。今にして思えば完全にギャグだが、当時の二人は真剣だったし、何より梶は弥鱈の気遣いが嬉しかった。
初めて性器を押し込まれた時、未経験の穴には痛みより違和感の方が目立っていた。中が押し潰されるような、ぐえっとした感覚。痛かったら言ってくださいと言われて、でも痛かったわけじゃないから何も言えずにいたら「大丈夫ですか? 大丈夫ですね?」としつこいくらいに確認して弥鱈がピストンに移行した。弥鱈の性器が体の中を行ったり来たりするあいだ、梶は羞恥と下半身の感覚にむちゃくちゃになって、こんな風になるんだったら痛い方がマシだったかも、とさえ思った。今だったら当時の自分に梶は張り手でもかましてやりたいところだ。何言ってんだよ馬鹿、最初が痛くないとか、本当はすごく有難いことなんだぞ。
初めてのセックスは気持ち良かったか。正直いうと微妙だった。でもこの行為が梶は好きになると思った。
『愛されてるってこんな全力で分かることあるんだぁ』と、何も知らなかった当時の梶は浮かれた頭でぽやぽやそんなことを考えていた。破瓜の痛みを“優しい痛み”だとか“嬉しくて切なくなる”だとか、そんなどこぞの携帯小説のような語句で表現する気はなかったけれど、それでも『こんなに幸せにしてもらえるなら僕あと三〇回くらいは内臓がぐえってなっても良いや』と穿つ弥鱈の背中に手を回した。
ハグをする、キスをする。一つずつ与えられるだけで途方もなく幸福になる行為が、セックスの間は絶え間なく弥鱈から与えられた。たまらなかった。幸せだった。自分の排泄器官が性器として書き換えられるくらい、当時の梶にはもうどうだって良かったのだ。
それから数え切れないくらい回数を重ねて、セックスが苦しい行為だとすっかり忘れるまでに梶の体は慣らされていった。あんなに戸惑っていた弥鱈の骨張った指もいつからか好きになって、関節が引っかかるたびナカが疼き、勝負が立て込んでセックスの日が空いた時には、弥鱈の少し伸びた爪に何となく歯痒い気持ちにもなった。
唇も、舌も、弥鱈自身の形も好きになった。ベッドの上で暴かれて、恥も外聞もなく声を上げて乱れて、今日しませんか、もっとしませんか、もっと触って、あなたがほしい、みだらさん、弥鱈さん。
予告なく弥鱈がまた少し進んだ。痛くて思わず舌打ちが出た梶に、チッ、と舌打ちが返される。どちらも無意識だ。故意はない。悪気もない。弥鱈はまたキスをしてくれない。
初めて弥鱈としたセックスは幸せだった。
では今日は、今はどうだろう。きっと幸せだけど、どうしてか梶は、弥鱈がひどく恐ろしい。
ようやっと、弥鱈の性器が七割ほど埋まった。弥鱈も梶も抱く感想は「まだ七割か」だったが、意味合いは両者で大きく異なっている。弥鱈はじれったさからそう感じていたが、梶の胸中にあるのは絶望一色だ。
「狭いですねぇ」
「上手く、やろうとはしてるんですけど」
「埒が明かない」
弥鱈が頭を振った。玉の汗が滴り落ちて、一粒がたまさか梶の目に入る。
咄嗟に目をこすった梶を食い入るように見つめ、弥鱈は知らず知らずに舌なめずりをしていた。涙で汗を洗い流そうとする梶の姿は、彼が涙を堪えている時の姿に酷似している。『梶様』には涙が似合うのだ。大切に扱うべき人だから普段は意識して考えないようにしているが、本性の弥鱈は、梶の笑った顔より泣いている顔を見た方が「ラッキー」と内心歓喜していた。
悲しい思いをさせたいわけではない。弥鱈は梶が辛くて泣くから嬉しいのではなく、単純に記号化したパーツとして、梶の充血した目や鼻水を垂れ流す鼻や戦慄く唇が好きなのだ。好みの問題である。梶は特に可哀相な表情が似合う人なので、眼前に差し出されると弥鱈の高揚はどうしたって加速した。
人間・弥鱈悠助は基本的に理性的な人物である。だから平素立会人が務まるわけだが、服を脱ぎ素肌を晒し、劣情を注ぐ相手に欲をぶつけているこの瞬間。弥鱈は立会人でも一社会人でもなく、ただ欲情し相手に盛っている生き物だった。
早く挿れたい。
もっとこの人の中を自分で満たしたい。
本能が膨れ上がり、思考するスペースにまで欲が浸食する。挿れたい、挿れたい。もう既に大部分が埋め込まれているはずなのに、弥鱈の中で焦燥感は増していく一方だった。汗でへたってる髪をぐしゃぐしゃと掻きまわし、弥鱈は彼としては随分らしくない、ことを急ぐ提案を焦って切り出す。
「……やっぱり力技でいきましょうか。ここまできたら、まぁどうにでもなるでしょう」
「ヒッ」
しかし弥鱈の性急さは、今の梶にとって脅威でしかない。
とんでもないことを言われて梶は思わず息を呑む。力技。今この限りは『恋人の弥鱈さん』でなく、『立会人弥鱈悠助』の肩書が梶の前にギロチン台のようにそびえ立った。力技なんて、軽々しく暴の精鋭が“力”という言葉を使わないでほしい。弥鱈に少しでも力で制圧されたら、ギャンブル以外はそこらの一般人と変わらない梶なんてひとたまりもない。梶の体内がどれだけ必死に押し返したところで、純粋な力勝負で梶が弥鱈に勝てるわけがないのだ。
「み、弥鱈さんそれは……僕頑張るんでっ、強引に行くのだけはどうか……!」
「今だって頑張ってるじゃないですか。頑張って、これでしょう」
ぴしゃんと切り捨てられる。言葉自体は柔らかいのに、声色の冷たさは正しく「切り捨てる」だった。
(この人本当に力で押し切る気だ)
確信が持ててしまい、梶の身体がカタカタと震え始める。
痛みは百歩譲って我慢すれば良い。しかし繊細な内臓を傷つけられた後の処置や、今まで自分を甘やかすことしかしてこなかった弥鱈の豹変が梶は怖かった。腸というものはどれだけ無理をしても大丈夫なのか。仮に出血したら弥鱈はどんな顔を梶に向けるのか。本当は弥鱈はもう梶のご機嫌取りが面倒になっているのではないか。無理に押し込んで、梶が自分にとって興醒めな反応とったら、弥鱈はいったい、梶をどうするのか。
ねぇ弥鱈さん。こんな貴方久しぶりで、僕どうしたら良いのか分からないんですけど。言うこと聞くのも言うこと聞かないのも怖いんですけど。貴方が怖いんですけど。どうしたら良いですか。ねぇ弥鱈さん。僕いま貴方が怖いんです。みだらさん、弥鱈さん。
「おや梶様、随分と怖がっていらっしゃる」
震える体を見止め、弥鱈が久しぶりに梶へと手を伸ばす。撫でてくれるかもしれない。そう一縷の望みを託して梶が目を閉じると、瞼を下ろした拍子に溜まっていた涙が頬を流れていった。
弥鱈の頭を撫でようとした手が止まり、猫がボールを追いかけるように弥鱈の注意が涙に逸れる。ちょうどいいタイミングで、なんの反応も降ってこないことを不安がった梶が目を開けた。
視界を覆うように弥鱈の手のひらが間近にある。ひぃっ、と引き攣った声を出した梶に、当初の目的を忘れた弥鱈の手が遠のいていった。
「久々に見ますねぇ、貴方が私に向けるその表情」
後ろ手に梶が後退る。内臓ごと性器が抜けていくようで怖かったが、とにかく今は弥鱈と距離を取りたかった。が、すかさず弥鱈が梶の腰を捕まえる。あまり筋肉が発達しているようにも見えない弥鱈の腕は、実際に触れると驚くほど肉の密度が高かった。掴まれてもなお距離を保とうとする梶を、弥鱈の片腕がさっさと引き戻した。
「ぎゃうっ!」
引き抜いた五センチとお仕置きのプラスアルファ分を一気に打ち込まれる。ピン、と足が痛みによって伸び、背中は反射的に海老反った。被虐じみた梶の声に、弥鱈は一言、
「蹴られた犬みたいですね」
と、どこか嬉しそうに笑う。
ふと、梶は弥鱈の笑顔に既視感を覚えた。痛がる自分の反応を見て満足そうにする表情。懸命に怯えて『止めてほしい』と訴える梶の姿に、むしろ助長されるように、より加虐的になっていく梶よりもずっと強い人たち。
心がずっとざわついている。胸中風が激しく、そろそろ雨も降りそうだった。
空気が重い。重力に逆らい立っていることが辛い。背中を丸めたまま直立できないでいる梶の頭上で雷が鳴った。ドォン。ゴロゴロ。驚いて梶が顔を上げる。雷だと思った轟音はお父さんが壁を殴った音で、後に続いたゴロゴロは母さんが旅行用のスーツケースを引く音だった。重く淀んだ梶の心の中で、母親たちは他人事のように軽々と立ち振る舞っている。ロクに立ててもいない梶に向かって、一週間の日程でバリに行きたいのだと梶の母さんは言った。
バリの開放的な空の下、ゆっくりスパでエステを受けたいわ。だから、分かるでしょ、隆臣。
「いぎっ、みだらさ、みだらしゃん、おねがい頑張るから、ぼく頑張るから……!」
「だから、さっきから頑張ってますねって言ってるじゃないですか。梶様が頑張り屋さんなことは存じております。でも自力じゃ難しいようだから、私がお力添えしますと、そう言ってるんです」
「ひっ、ひィっ。でもこわ、怖い、よぉ……」
「大丈夫です。あとは私が動くだけですから。梶様は脚を開いていれば良いだけです。閉じてはいけませんよ」
「こわい゛よぉ゛……!」
「閉じるなっつってんだろ」
「ぎゃんっ」
ずぶ、とまた知らないところに弥鱈が入ってきた。痛みで視界が白くなる。言うことを聞かなかった梶が気に食わなかったのか、単に反応が見たいのか、弥鱈は途中と分かっていながらそこで律動を始めた。梶からひっきりなしに悲鳴が上がる。到底快楽など拾ってなさそうな、「がっ、おごっ、ぇ、お゛っ」という汚い声が部屋に響いて、弥鱈は満足気に梶を見下ろした。
「あぁ可愛い。本当に、なんて貴方は可愛いんでしょう」
恍惚とした表情を浮かべ、弥鱈が梶の性器に手を伸ばす。すっかり萎びて縮こまっているソレを、弥鱈は扱くのではなく強い力で握り込んだ。潰しきるようなことはしないが、明らかに快楽を生む触り方ではない。急所を握られた恐怖で梶がオーバーなほど狼狽える。
「ひぃい゛!! それやめてっ゛! つぶれぢゃう! ぼくのちん゛ちん!!」
「だって要らないじゃないですか。梶様は誰にもコレを使わないんですから、可愛い貴方に似合う、クリくらいの可愛らしいサイズにしてしまいましょうよ」
「ああ゛あ゛あ゛」
「いや嘘ですよ。流石に冗談です。そこまで真に受けなくても」
「みだらさん゛っ、みだら゛さん゛っ」
「はい、弥鱈です。どうしましたか、梶様」
「ナカ我慢しゅ゛るから゛っ! ちゃんと挿れてもら゛うから゛っ! いぎっ! あ゛、がっ…! ピぢゅ、ぴぢゅとん゛っ……ちんちんも゛っ…! ッ、ぉ゛、ァ、あ゛、ぁっ、止め゛てっ……!!」
「あぁ、進んで良いんですね? ありがとうございます。では遠慮なく」
まるでさも梶の意志を尊重しているかのような口ぶりで、弥鱈が前後の動きを止め、またゆっくりと奥へ進みはじめた。
勢いが無い分先程よりはいくらかマシだが、それでも新しい場所を踏み荒らされて、梶の体が再び悲鳴を上げる。
「あ゛っ、はい゛、るっ……! が、ぁう゛……み、だらさ……!! あ゛、ぃっ…!」
「なんというか、やっぱりやろうと思えば簡単に入るものなんですね。最初からこうしていたら、梶様も長く苦しくなかったのに。私の見当違いでした。すいません」
簡単だと弥鱈は言う。梶は全身の筋肉を強張らせ、反射的に弥鱈を押し返そうと何度も体内が奮闘しているのだが、弥鱈には全てあってないような抵抗らしかった。弥鱈の言う通りだ。彼が『やろうと思えば』、梶の体を開くことなど簡単だった。ただ弥鱈が耐えていたから表に出ていなかっただけの力関係は、こうして弥鱈の気持一つで軽々と表面化し、易々と梶を蹂躙していく。
今日は弥鱈が怖い。いや、本当は最初からずっと“弥鱈さん”は怖い人だった。梶のために怖い人にならないよう振舞ってくれていただけだ。実力行使すれば三秒で終わるようなことを、梶の為に引き延ばして引き延ばして、我慢して我慢して、梶のペースに合わせていた。飄々としながら、梶に何もかも晒したフリをしながら、弥鱈はずっと強い者の責務を果たしてくれていた。それが今日、どんな理由であれタカが外れたのだ。弥鱈は気付いてしまったし、梶は思い出してしまった。弥鱈の強さも怖さも、梶は思い知ることは出来ても、拒絶は出来ない。
弥鱈さんが怖い。
弥鱈さんからされるコトは痛い。
そう思ってしまった梶の頭の中で、ふいに、
カチン、
スイッチが入る音がした。
痛みが遠くで響き、身体から抵抗する意思が抜け落ちていく。久々の感覚だった。とくに弥鱈に出会ってからは忘れていたものたちだった。
心の中、謝るように腰を曲げていた梶が膝を折る。地面に膝をつき、空気の重さに逆らうことなく体を沈めた。
そうだ。立っているから辛いのだ。重いものが圧し掛かってきたときは抵抗するだけ無駄で、そういう時はさっさと負けを認めて倒れ込んでしまったほうが賢い。額をべたりと地面に押し付け、這いつくばって許しを乞えば、乞うている間に嵐は過ぎるはずだ。
壁を殴るお父さんとスーツケース片手の母さんが梶の元へ近付いてくる。一から十までお父さん達と母さんに教えてもらった処世術を、梶はようやく思い出して実行した。小さい頃から周りの大人が身をもって教えてくれたことなのだ。せっかく丁寧に教えてもらったっていうのに、それを少々の日々で忘れてしまうだなんて、僕は本当にこれだから。
梶の身体が従順になると、弥鱈の声色が「おっ」と明るいものになった。
より弥鱈を飲み込む動きがスムーズになる。偉いですね、と久々に梶の頭を撫でた弥鱈に対して、梶は口元だけを動かし、
「えへへ」
と笑い声の記号を出した。
何してるんだ僕は―――ダメだ、“いい子”にしてなくちゃ。