もしもし? フロイド?
反射的に二コールで取った電話口から、若者らしいハリのある声が聞こえてきた。
『今大丈夫?』と聞く青年が『寝てました?』などという確認をしてくることはなく、フロイド・リーはベッドの上で「おう」とだけ返答する。ベッド脇で時計は午前三時を指していた。分刻みのスケジュールをこなしたフロイドが、ベッドに倒れ込んでからまだ二時間ほどしか経過していない。
『明日のことで話があって……資料って手元にある?』
「あーちょっと待て」
『早くはやく』
「そう急かすなよ」
『早くはやく』
フロイドがベッドから起き上がる。数歩先のリビングまで進み、テーブル脇にある金庫のダイアルを回した。乱雑に詰め込まれた機密文書の中から該当の書類を引っ張り出し、ついでに隣の小型冷蔵庫からはペットボトルに入った水も取り出す。寝起きの目元にはまだ熱が籠っていた。氷嚢代わりに冷たいペットボトルを押し当てると、ロクに開かなかった瞼が軽くなる心地がする。
「何か急な変更が?」
聞きながら今度は首筋を冷やす。フロイドが覚醒するに従い、寝起きの彼から熱を引き受けたペットボトルは表皮に汗をかき始めていた。
世の中は常に等価交換で回っている。フロイドを冷やしたペットボトルの水が温くなるように、梶がフロイドとの通話時間の持つとき、フロイド側は睡眠時間を手放す必要があった。梶はそんな等価交換の重みを知ってか知らずか、無邪気な声で『あ、そんな大それたことじゃないんだけど』と二時間睡眠のフロイドに言う。
『資料の三枚目、取締役の潜伏先になってる別荘なんだけどさ? 住所を確認すると別荘は二日前に引き払ったことになってるんだけど、これって情報の更新必要?』
電話の向こうから紙同士の擦れる音が聞こえる。きちんと書類をめくりながら情報を確認しているだろう梶の勤勉さを好ましく思いつつ、フロイドは早々に書類から目を離し、キッチンへと歩き出した。
書類の三枚目には要人の諸情報が載っている。所在地の住所や連絡先など流石のフロイドもいちいち数字を記憶しているわけではないが、梶が指名した人物の動向は幸い記憶に新しかった。
「あの売買は書類上だけのもんだ。土地屋とグルになってるらしい」
手にあったペットボトルの水をケトルに移す。スイッチを入れ、カップにインスタントコーヒーの粉を用意した。
『そうなの? え、でもそんな情報どこにも……』
「開示されてる情報だけで世の中回ってたら俺なんか要らねえだろ」
陰謀王が揶揄ると、電話の向こうからは青年の『た、確かに……!』という素直な感嘆が聞こえてきた。闇社会に身を置いているにも関わらず、梶には妙にスレた部分が無い。一種の才能ともいえるその真っ直ぐさは、フロイドを筆頭としたいわゆる“悪い大人”に殊更重宝され、また大層贔屓されていた。
結局闇社会に居ようと泥濘に塗れようと、人間の根本には手放しの称賛に対する欲があるのだ。陰謀の渦中に居るフロイドを心底尊敬し、あまつさえ無意識に『やっぱフロイドってすげぇ……』と独り言を言ってくれるような人間など、可愛くないはずがないのである。
フロイドは一旦電話から顔を離し、こそばゆくなった耳介を手で揉んだ。ピィ、とケトルが鳴く。体質的にカフェインがよく効くと分かった上で、フロイドは用意したカップにお湯を注ぎ、二時間睡眠の身体にコーヒーを流し込んだ。
「この話はもう良いか? 他に質問は?」
欠伸を噛み殺したフロイドが尋ねる。一方の梶は呑気にふぁ、と電話口で欠伸をして、『んーん、無い』と砕けきった口調で言った。
「そうか。どうする、電話切るか?」
『えー……んー……そうですねぇ……』
途端に梶の歯切れが悪くなる。あぁ可愛い。フロイドはまたコーヒーを一口啜った。
「お前、本当は話したいこと別にあるんだろ」
フロイドに年下をいじめる趣味は無い。早々に助け舟を出してやると、電話の向こうで梶が『へへっ』とくすぐったいように笑った。
『もう聞くことはないけど、ちょっと貴方と話がしたいです』
「ほーぉ? 情熱的なこと言ってくれるじゃねえか」
『マルコがね、今日も絶好調に面白かったんだ』
そんなこったろうと思った、とフロイドは苦笑する。電話口ではフロイドが自分の話を聞いてくれると信じて疑わない梶が、親に今日学校であった出来事を報告するかのように声を弾ませていた。
フロイドは現在ヨーロッパの某国に滞在している。水の質は悪いがそれを補って余りあるほどに料理が美味で、治安もほどほどに良く、見目麗しい女性が多い地域だった。世界の人口のうち八割は好ましく思うであろうこの国は、案の定リゾート地として古くから栄えている。
バカンスに多用される土地には束の間の解放感を求めて多くの人間がやってきて、羽目を外した人間の近くには大抵タカが外れた情報が転がっている。遊びにきた人間から様々な情報を掻っ攫い、自分の遊び場に持ち帰るのがフロイド・リーのライフワークだった。日夜数多くの情報と陰謀を仕入れ、己の中で取捨選択し、あぁ楽しかったと遊び疲れて泥のように眠る毎日は心地よい。
フロイドはこの国を気に入っている。欠点が一つあるとすれば、日本との時差が一〇時間もあることくらいだろうか。
『今日ね、マルコが急に料理したいって言い出して』
今日というのは一体何日に当たるのか。時差計算が面倒になったフロイドは、特にそこには触れずに「大丈夫かよ、あのでっかい坊主に料理なんて」と合の手を入れた。
『いやぁ僕も不安で。だから一緒にやろうねって、僕もキッチンに立ったんだけど』
「大丈夫かよ、タカ坊に料理なんて」
『ちょっと、なんでマルコに対する反応と同じなのっ』
梶が不服を唱える。甘え下手な梶にこうして噛み付ける人間が少ないことを、他でもないフロイドは十二分に把握している。
『言っとくけどね、僕わりと前までは自炊してたんだから。金無いし、結構カップ麺だって続くと負担半端ないし』
「ふぅん。だから袋麺?」
『そ……え、なんでそんなトコまで調べてんの?』
「調べるまでもねぇよ。ま、ネギ切ってモヤシ茹でりゃギリギリ自炊かもな」
『調べなくてそこまで把握できるの? アンタ何者?』
「陰謀王」
『エスパーの間違いじゃない?』
エスパー伊藤ならぬエスパーフロイドだ! と電話口の梶が囃し立てる。確かにフロイドは古今東西の情報に精通しているが、残念ながら梶の言うエスパー・イトウなる人物には心当たりがなかった。日本のサイキッカーだろうか。マジシャンかもしれない。どのみち異国人であるフロイドが知っている保証はない人物である。
日本のエンターテインメントは世界的にガラパゴス化が進んでおり、その殆どが国内消費に留まっている。梶はその事実を知っているのだろうか。知らないか、仮に知っていても『でもフロイドなら知っているでしょ?』というスタンスなのかもしれない。
梶にとってフロイドは年上のビジネスパートナー兼悪友で、この世の酸いも甘いも知り尽くしたような、歩く百科事典のような存在であるらしい。フロイド本人にその自覚がなくても、梶にはそのように見えている節がある。
(随分と買われたもんだ)
フロイドは口元を緩ませ、寝不足で凝り固まった身体を軽くストレッチして伸ばす。フロイドの姿が見えていない梶は、そんなことはお構いなしに『もしもーし、フロイドぉ?』と無言になったフロイドをせっついた。
「聞いてる聞いてる。で、マルコがどうしたって?」
『いや、マルコってポテチがすごく好きなんだけど、なんかテレビで? ご家庭でも気軽に作れます、みたいなこと言ってたらしくて。ご家庭でも作りたい! って言いだしたんだよ。テレビって本当無責任だよね』
「まぁテレビだからな」
どこの国でもそんなもんだとフロイドが言えば、梶は肯定されなかったことが気に入らなかったのか『すぐそうやって達観したこと言う』と僻みっぽい言葉を漏らした。フロイドは見えないことを幸いと苦笑して、(お前その達観したところに甘えてんじゃねぇのかよ)と内心で突っ込む。
『僕は思いました。こうやってテレビ離れは進むんだなって』
「そうか? 俺は好きだぜ、日本のテレビ」
『どういう所が?』
「鹿臣高司出してくれるとこ」
『言うと思った』
呆れたような口ぶりだが、梶の小さな笑い声を機器はしっかりと拾う。
褒められることに慣れていない梶は、好意を向けられると大抵狼狽えるか、謙遜するか、フロイドを相手取った時に限っては今のようにつれない態度を取った。過去はともかく、現在梶隆臣の周囲には彼に攻撃的な態度を取る人間の方が少ない。称賛だって浴びるほど得ているだろうに、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、いまだに梶は他人の好意や好感を持て余しているようだった。
『自分のことだけど、鹿臣高司のどこにそんな好かれる要素あったか分かんない』
「おい俺の天使に文句付けんなよ」
『いやどこが天使だよ。止めてくださいその外人語録』
ただそんな中でも、梶がまだ素直に享受出来ているのがフロイド・リーの好意である。普段のオープンな物言いも受け入れに一役買っていたが、どうやらフロイドが外国人であることが、ガラパゴス・ジャパンに住まう梶には大きかったらしい。『外人って本当に全方向に愛情表現するんですね!』というのはかつて発言された梶の言葉だったが、今日も鹿臣高司への天使発現を呑気に受け止めている梶に、カップに半分ほどになったコーヒーを覗き込んで二時間睡眠のフロイドは思った。
全方向に愛情を向ける人間なんか居るわけねぇだろ、馬鹿。
『はーいじゃぁそろそろ、本物の天使の話題に戻りますけども』
「本物って? タカオミ・カジのことか?」
『いやマルコですよ。いい加減そのジョーク良いってば』
身に覚えもないがフロイドは今ジョークを言っていたらしい。世界的陰謀王を諫め、梶は一転して軽やかな声で同居する弟分の話に戻った。梶は交渉術こそ近年腕を上げてきたが、元々は特筆したトーク力を有する男ではない。そんなわけなので、意気揚々と話し始めた梶のマルコトークは、マルコには悪いが、ちょっと退屈なものだった。
『────で、結局マルコったらジャガイモを一〇センチ……いや、あれは一五センチくらいあったかな? もうほとんど四等分くらいっていうか、すんごくデカくて。もう揚げる段階から全然ポテチっぽくなくて。でもこれ以上包丁使うと危ないしなーって、そのまま油に入れたわけ』
「おいおい保護者が居ねえのに油使ったのか? あぶねえだろ」
『何でだよ僕は保護者側でしょうが!』
フロイドは根気強く相槌を打っていたが、途中からはトークの内容というより、弟分の可愛さをどうにか伝えようとする梶の声に耳を傾けていた。ふんふん鼻を鳴らしながら徐々に大きくなる梶の声は、寝不足なフロイドの頭にビッグベンやノートルダム大聖堂の鐘が如く晴れやかにけたたましく響き渡っている。その大音量はフロイドに頭痛と僅かな吐き気をもたらすわけだが、フロイドは気付かないフリを決め込んでいた。
『出来上がったもの見るじゃないですか、もうね、全然ポテチじゃない。ただの素揚げしたジャガイモ。でもマルコはね……ふふ、マルコは、「カジ! マルコすごい発明したよ! じゃがいもを分厚く切ってあげるとフライドポテトみたいなポテトチップスが出来るの!」って……!!』
「おう」
『めちゃくちゃ面白くないですか? フライドポテトみたいなポテチ……ふ、フラ……いやマルコ、それもうフライドポテトだよって……!』
「な」
面白いだろうか。フロイドと梶に年齢差があることや、生まれ育った環境に違いがあるため一概には言えないが、多分だがコレは万国共通の認識として特に面白くない話題な気がする。
微笑ましい家庭の話題ではあるものの、正直二時間睡眠を叩き起こされてまで聞く話ではなかった。けれど電話口、楽しそうに弾む梶の声はフロイドの耳に暖かい。くだらない時間だと別の人間相手には無下にすることも出来ただろうが、事実愛しいのだから止むを得なかった。惚れた弱み。つまりはこれが、フロイドを動かしている行動原理の根本である。
気付けば手元のコーヒーが尽きていた。梶の話はまだまだ続きそうなので、フロイドはもう一度ケトルのスイッチを入れた。
『それで出来たフライドポテトチップスを貘さんも加わって三人で食べててっ……! いや、美味しいんだよ? 美味しいの。そりゃあの、揚げた芋だから! でもさ、あと一口で完食ってとこで、マルコ、何て言ったと思う?』
「なんて?」
『めちゃくちゃ神妙な顔してっ……『……これ、もしかしてフライドポテトなんじゃない?』って……! ぷふっ!』
「オーマイガー」
梶いわく、その時のマルコといったら、本当に真理に気付いた人間の顔というか、見たことはないがニュートンが万有引力を思い付いた時の顔に似ていたそうだ。それが本当に面白くて、梶は斑目と一緒にゲラゲラと笑い転げたらしい。
この話題で笑い転げる白い悪魔の姿がフロイドにはどうにもイメージ出来ないが、それはフロイド・リーが斑目貘しか目にしたことがないからで、梶やマルコと暮らす“貘さん”はきっと笑うのだろう。
『フロイドに見せたかったー、マルコのあの顔!』
思い出してまた吹き出した梶に、フロイドは「そうだな」と柔い声で賛同した。
どちらかといえばフロイドはマルコの顔より笑い転げる梶の顔が見たいのだが、そんな風に思っているなど、梶は想定もしていないかもしれない。
話をしながら軽くカップを水でゆすぎ、片手は電話を持ちつつ、空いている側で先ほどと同じようにコーヒーを用意していく。
梶の話題は彼が心酔する人物、斑目貘に移っていた。
部外者であるフロイドに、倶楽部賭郎について梶が語れることはそう多くない。必然的に話題はホテルの日常に集中し、そうすると梶の話に登場する斑目貘というのは、倶楽部賭郎のお屋形様でも稀代のギャンブラーではなく、根城のホテルで朗らかに暮らす“貘さん”を指すことが多かった。
フロイドの知る斑目貘は世界を舞台に暗躍する悪の権化であり、ビジネスの面で言えば時に上客、時に天敵となる人物である。梶やマルコの兄と父を兼任している好青年とはあまりに印象がかけ離れているので、フロイドの中で“貘さん”は空想上の生き物に近かった。
『この前貘さんが時計くれたんだけどさ、文字盤見たら、二人が初めて出会った日の日付が入ってんの。格好良くない? 覚えてくれてるだけでも嬉しいのに、そういうのサラっとしてくれる人なんですよ、貘さんは』
「俺もプレゼントしてやろうか? 時計だと被るから、そうだな、ジュエリーでどうだ?」
『あはは、なんで対抗するの。それに貘さんと初めて会った日のことは良い思い出だけど、フロイドと初めて会った時って僕ら敵同士だったでしょ? 腕めちゃくちゃ痛かったし、あれが記念日って、ちょっとなぁ』
「グサッとくること言うじゃねえか。じゃぁあの日は? 二人で初めて共闘した日。俺がお前を病院まで迎えに行った日だ」
『えーあれって何日だっけ? フロイド覚えてる?』
「勿論」
『どうなってんのその記憶力……貘さんもだけど、やっぱ凄い人ってさ、凄いや。全然かなわない』
梶は無邪気に貘さんの話題を出し、フロイドが睡眠を削って捻出した時間で、彼の神を無邪気に賛美する。若者の若者らしい残酷さを、フロイドは目を細めて聞いていた。
あと一〇年梶に会うのが若ければ、嫉妬の炎でいつか自分の身体は燃え尽きていたかもしれない、とフロイドは思う。
おい今お前と話しているのだ誰だと電話口で問い詰め、ようやく自分の神様に出会えた梶に、信仰を手放せと心無い言葉を吐いたことだろう。
梶と出会えたのが今で良かったというのがフロイドの本音だった。円熟した身には愛情の区別がつき、貘さんやマルコから梶へと向けられる愛を、フロイドは素直に有難いものとして見守ることが出来る。愛の種類は多種多様だ。慈愛や友愛といった尊いものから、愛憎などの薄暗い感情もひっくるめて世界はそれらを愛と呼ぶ。フロイドは人間としてある程度の成長を修めた人物であり、だから己が梶に向ける愛が、一般的に可愛い年下の友人に向けるものとは一線を画す、生々しい情愛の類であることをきちんと受け止めていた。
世界を股に掛けるフロイドに、性別や年齢をはじめ二人の障壁になり得る諸々は初めから単なる情報でしかない。偏見に怯えているようでは陰謀など暴けないし、元来一度抱いた情をなかなか捨てられない性分のフロイドは、『条件』が自分を止める理由に成り得ないことを知っていた。
この情念を止められるのは条件ではなく感情だし、キーマンとなるのは情念の所有者であるフロイドではなく向けられる対象の梶だ。彼がフロイドを失望させるか、心の底からフロイドを拒絶しない限りは、フロイドは今後もこうして深夜だろうが電話を取り続けてしまう。
フロイドは情に厚い人間だが、同時に裏社会を渡り歩く中で情を忘れる術も手に入れていた。ただの一回でも人間の底を見せてくれたら、梶のことだってフロイドは失望することが出来るのに。
歯痒いことに、梶はどんな窮地に立ってもフロイドの思う底面を見せてはくれなかった。むしろ地獄の底に落ちれば落ちるほど、彼は上を見つめ、着実に這い上がろうと藻掻いて輝いて見せる。そもそもフロイドが梶に惚れたのは、梶がどん底の淵に指先一本でぶら下がっている時だった。そう思えば、元より失望することすら、フロイドには難しいのかもしれない。
恋なんてするもんじゃねぇよなぁ、とフロイドはここのところ常々痛感している。こんなに真剣に恋について悩むなんて、ティーンエイジャー以来のことだった。
今まで好き勝手に喋り続けていた梶が、いきなり『あ』と声を上げた。そういえばフロイドっていま日本じゃないよね? などと今更すぎる疑問を向けられて、フロイドがそうだと肯定すれば一転梶の声色が曇る。
『ちょっと待って、国際電話って普通の電話より大分高いよね? 普通に喋ってたけど、通話料どんだけかかるんだろ……国際電話って一分何円くらいですか?』
「国による。なんだ、小遣いじゃ足りないか?」
他愛もない内輪話をするだけして、話し終えれば今度は電話料金の相談。
つくづく勝手な奴だなァとくつくつ笑い、フロイドは「小遣いカンパしてやろうか?」と総資産数百億の青年に冗談を飛ばした。
『いや、お金は……大丈夫だと思うけど……え、ちなみにフロイドって今どこにいる?』
「梶のピンチにすぐ駆け付けられる場所」
『分かんねー。フロイドって火星からでも呼んだら三〇分で来てくれる気がするもん』
冗談か本心か計りかねる口調で梶が言う。一分一秒の行動に値が付くフロイド・リーが、随分と買い被られた、あるいは軽く見られたものだった。
「流石に火星から三〇分は無理だろ。三時間は欲しいとこだ」
『で、どこに居るの。当てましょうか? きっとアジアだ。それかオーストラリア』
「範囲が広いな」
『時差が無い国のどっかだと思う』
梶は電話越しにふふんと鼻を鳴らす。推理を披露する探偵のように得意げな梶の台詞を聞いて、フロイドの目が梶に見えない場所でぱちくりと瞬きした。
(時差が無い国ぃ?)
フロイドはリビングに備え付けられた時計を覗き込む。ノスタルジックな振り子時計が、規則正しい速度で秒針を動かしていた。短針は三から四の中間を指している。空は薄暗く、朝と呼ぶにも少し気が早かった。
『フロイドっていつもすぐ電話取ってくれるけど、今日なんて二コールだったでしょ。多分仕事中か、家でのんびりしてたんじゃない? だから、今日は日本に居る僕と同じ時計軸で生活してるのかなって』
梶の言葉と、ケトルの吹き出す音が同時にフロイドの耳に届いた。ケトルのスイッチを切り、コーヒーを用意していたカップへ熱湯を注ぐ。本日二度目の眠気覚ましのコーヒーだ。深夜に突然テレフォンコールで起こされたフロイドが、電話口の相手に眠気を悟らせないよう粛々と入れたものである。
夜を溶かしたような液体がカップの中に出来上がり、気泡が表面でパチパチと弾けた。ズズ、とワザと音を立てて啜り、フロイドは内心(やっちまったなぁ)と苦笑する。
恋は盲目というが、良くも悪くも自分のことさえ見えなくなってしまうものらしい。フロイドは隠し上手だ。あんまりに隠し上手だから、相手側はフロイドが何かを隠していることにさえ大抵気付かない。わりと梶相手にはそこまで本腰を入れて隠し事をしたつもりもなかったが、それでも、だったのだろう。
まったく自分の有能さが恨めしい。どうやらフロイドは、今まで何もかも上手くやりすぎていたようだ。
「おぉー……そうか。梶お前、本当に悪気無かったんだな」
「へ?」
「いや、そうだな。俺がスマート過ぎたのが悪い。すまん、自分が何事も器用にこなせる万能人間だってこと、ここんとこお前に浮かれてたもんだから、すっかり忘れてた」
「なに、え? フロイド、何の話?」
電話の向こうで梶がまごついている。状況が飲み込めないなりに、なんだかマズいことをしてしまったと察したらしかった。
世界が自身の遊び場兼庭となっているフロイド・リーに定住という概念はない。今日はここに居るが明日は隣国に足を伸ばしているかもしれないし、明後日には更に別の国に行って、その後公海をクルージングする可能性だってあった。梶のように一つの国を拠点とする感覚がないため、電話の向こうに居る相手が自分と違った時間を過ごしていることもある種当然で、だから時差など、わざわざ口に出さずとも“ある”前提で話を進めていた。
これはフロイドの失態である。梶が日本というガラパゴス化した国家の住人であることを、フロイドは本当の意味で理解できていなかったのかもしれない。
「梶、そっちは今何時だ?」
『え、二〇時……』
「そうか。あのな、梶。いまこっちは現地時間で午前三時」
電話の向こう、梶が息を呑む音が聞こえた。え、あぇ、だって、と電話越しに意味を成さない梶の声が続く。随分と甘えるようになってきたと思っていたが、なんてことない、本当に気付いていなかっただけらしい。
捲し立てるように謝罪を口にし始めた梶に愉快な気分になって、普段は梶を手放しに甘やかしたがるフロイドに、今日はちょっとした悪戯心が芽生えた。
「なに、責めようってわけじゃねえ。出来たビジネスパートナーだって称賛されようとも、不眠症を抱えた哀れな男だって同情されようとも思っちゃいないさ。ただ、午前三時に電話が鳴った。俺は就眠中だったにも関わらず二コールで飛び起きて、今まで眠そうなそぶりも見せずにお前と他愛もない話を続けてたわけだ。眠気覚ましのコーヒーをおかわりまでしてな」
淡々と状況を説明する。電話越しに「ぴえ」と梶の鳴き声が聞こえた。
「意味が分かるか?」
あ、う、と梶が呻いている。テレビ電話じゃないことが惜しかった。鈍いが、冴えたところのある男だ。フロイドの言わんとすることは分かっているようで、けれどその手の経験が浅い青年は、次に続けるべき言葉が見つけられず狼狽えているようだった。
フロイドは淹れたばかりのコーヒーを啜り、更に畳みかける。
「これに懲りるなよ梶。電話が来なくなったら俺は悲しくてきっと泣いちまう。これからもお前は好きな時間に好きなことで電話したら良い。俺が明日どこに居るかなんてお前は分からねぇだろうし、三日後自分がどこに居るかなんて俺だって知らない。いつでも電話してこい。些細な質問を、なんてことねぇ家族の日常を、聞かせてほしい。いつでもきっと二コールで取るから」
フロイドは繰り返す。
「なぁカジ。俺の気の抜けた天使様。信じてるぜ。意味が分かるな?」