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 記憶力が悪い方ではない、という自負が梶にはある。勿論それは膨大な情報を頭に叩き込んで暗躍する周囲の大物たちに匹敵するようなものではなかったが、一般的には優れていると胸を張ったって良い。そんな風に己を評価している。
 けれど、だった。そうはいっても全てが完全な記憶なわけもない。文字としての記憶ならいざ知らず、景色や物体の面影などは気付けば梶の中で色褪せ抜け落ちていることが間々あった。
 大好きな映画のワンシーンが実際に見直すと微妙に記憶と違った、なんてことは誰しも経験があるはずだ。人の記憶は曖昧で、どの記憶が正確に残ってくれるかは残念ながら運任せな場合が多い。大切に思っている記憶ほど鮮明に覚えていらたら幸せだろうに、そう願いながらも、梶の脳裏に浮かびやすいのはいつだって嫌いだったクラスメイトや絶命の瞬間に目が合った敗者の顔だった。
 怒りや悲しみは記憶に残りやすい。多分それは、鋭利な爪が心に容易く食い込むからだろう。表面を柔らかく撫でる手より、爪を立てられた痕のほうが長く肌に残ることは梶も知っている。記憶だってきっと同様なのだ。愛は、喜びは。軽やかで温かいものだから、痕を残さずにすぐに空へと昇っていってしまう。

 梶は足元に転がったままの苦い思い出たちから目を逸らし、携帯のカメラを起動させた。

 機体の向こう側には少々年の離れた梶の恋人が座っている。
 今日もきちんと整えられている色素の薄い髪が、レンズ越しにも光って眩しかった。

「こっちむいてー」

 声をかけると、新聞を読んでいたフロイドが紙面から顔を上げる。

「ん? カメラか?」
「そう。はい、一+一はぁ~?」
「い……あ? 計算? 二?」

 カシャ、と音が鳴って、梶の携帯画面には首を傾げたフロイドが切り取られた。
 被写体はそう悪いものでもないが、カメラマンの問題だろうか。キョトンとした顔は少々ぼやけ、フロイドよりも新聞上の大物政治家にピントが合ってしまっていた。なんだか子供が親のカメラを無断で使用したような出来栄えである。

「ああっピントが! ズレた! フロイドもっかい!」
「何だ今の」
「え、言わないの海外? 一+一は二! って」
「英語圏がそれ言うと思うか?」
「あ」

 梶が口元を覆う。仕事仲間として随分頼もしい存在になったものの、未だに梶はこういった天然発言を時折繰り出してはフロイドを楽しませた。

「しまった。フロイドにはアレだね、はいチーズって言った方が良かった」
「say cheese ?」
「うわ、発音良っ!」
「そりゃ本場仕込みだからな」
「はいチーズの本場ってどこ?」
「さぁ?」
「ていうかフロイドの本場ってどこ?」
「さぁ?」

 共同戦線は滞りなく機能を果たし、一つの大きな陰謀は梶とフロイドの手によって先ほど白日の下に晒された。
 衝撃と混乱は素早く裏社会を駆け巡り、明日にはその余波が、トップニュースとして表社会にも広がるだろう。

 何度目かになる共謀はそろそろ活動もルーティン化してきて作業効率がぐんと上がっていた。以前なら夕方まで拘束されていたであろう仕事も昼前にはカタが付くようになり、余った時間を梶とフロイドは二人、昼下がりのバルコニーでこうして優雅にコーヒーを傾けることに費やしている。
 テーブルに置かれたコーヒーとスコーンはこの辺りでは有名なカフェの商品で、特にスコーンは街一番の味ともっぱらの評判だった。口に入れてみるとホロホロと崩れ、素朴ながら豊かなバターの香りがする。単体でも十分に美味しいスコーンだったが、カフェでイートインを頼んだ場合には、スコーンに無料でクロテッド・クリームを付けてくれるらしかった。テイクアウトにはないサービスだったので、そこばかりは少々惜しかったな、と梶は思う。

「朝ごはんのジャムって残ってたっけ」
「バターならあったんじゃねえか? マーマレードはお前、やたらに乗っけてお前が全部食っただろうが」
「美味しいよねぇこの国のジャム。なんでご飯はイマイチなのにジャムだけ美味しいんだろう?」
「飯がマズいからだろ」
「悲しい話」

 固形のバターは少し違う気がして、梶はそのままスコーンを何もつけずに食べ進める。「お前はあの場で食っても良かったのに」と言うフロイドに曖昧に笑いかけた梶は、「それじゃ意味無かったでしょ」とスコーンの欠片を床に払い落した。
 なにもフロイドに気を遣って持ち帰りを選んだわけではない。甘くて濃厚なクリームも、一人で食べるならきっと味気なかった。
 イートインの誘惑を断ち切った理由には梶のパートナーが世界的な鬼ごっこの標的であることも多少噛んでいたが、今日ばかりはそれも梶にとってついでの理由である。フロイドは夕方にはこのホテルを発つ予定らしかった。だったらイートインなんて、単独行動なんて、残り時間も少ないのに勿体ないと梶は思ったのだ。
 スコーンの入った包みを片手に持ち、もう片方の手は男の無骨な指と絡ませながら、梶はホテルまでの帰り道を往来の真ん中を選んで歩いた。異国の街は男二人がどう生きようとまるで興味が無いようで、梶とフロイドが鼻歌交じりに歩いていても、誰も一瞥くれようとさえしなかった。誰の目も気にせず、大声で喋って笑って、気が向いたらすぐに大好きだと言い合うような空間が梶は心地良かった。次に梶がフロイドと会えるのは早くても三か月後とのことで、それも世界の動きによっては延期がかかるかもしれない。最短で三か月。嫌な話だが最長を考えれば永遠も有り得る。命の炎が常に窓際で風に揺られていると知る二人は、いつからかどんなに些細な共有時間も大袈裟に謳歌するようになっていた。

 払い落したスコーンの欠片に、遊びにきた小鳥が飛びついている。微笑ましい光景を写真に収めたあと、梶はまたレンズをフロイドに戻した。

「さっきの写真はぼやっぼやだったんで、気を取り直してもう一回撮りたいと思います。はーいフロイド、視線お願いしまーす」

 梶が業者のような口ぶりで再びフロイドにピントを合わせる。動かないよう念を押して、今度は事前に新聞を畳ませることも忘れなかった。

「はいチーズ」
「cheese」

 顎に手を当てたフロイドが表情を引き締める。彼お得意の表情だ。

「なんか腹立つなその発音」

 カシャッ。梶が覗き込んだ画面には、先程とは打って変わって克明に写されたフロイドの姿があった。
 今度は往年の銀幕スターのブロマイドみたいな一枚だ。したり顔でこちらを見つめる表情も見慣れたもので、梶は携帯内にアルバムを作り、フロイドの写真を移動させる。

「おい俺は正式な発音をしてるだけだぜ? 差別だぞ差別。国際問題だ」
「歩く国際問題が何言ってんの」

 言いながら再び梶がカメラを向ける。お前何枚撮るんだよ、とフロイドの声がそろそろ呆れを含んでいた。

「まだ二枚でしょ。それに一枚目は失敗したから」
「そんなに撮ってどうすんだよ。俺のファンに売る気か?」
「ファンが居るかは知らないけど、市場価値は高そうだね。この男を知っていますか? って世界各国で張り紙がされそうだ」
「ファンが増えちまうな」
「ていうか元々ファンなんて居るの?」
「居るだろ。こんなに男前だぜ?」
「ははっ」
「おい。失笑。おい。そりゃねぇだろ」

 気負わない相手との軽口は楽しいものだった。横目に時計を見ればアフタヌーンティの時間もそろそろ過ぎる頃合で、ともすれば梶とフロイドの時間にも終わりが近付いている。この瞬間二人はこんなに楽しく穏やかなのに、別れの気配が立った途端、梶はまだフロイドが目の前に座っているにも関わらず物悲しさを覚え始めた。

「もうすぐ時間だね」
「お、もうそんな時間か」

 フロイドは梶に比べると随分あっさりしている。年齢や考え方の違いだろうか。想いの差だ、などと言われてしまったら立ち直れないので、梶はあえて聞かないことにする。
 時計を確認してから、一分一秒がじわじわと梶を萎ませていった。秒針が一つ進むたび、時間が重さを伴って梶の背中に圧し掛かる。めっきり口数が減ってしまった梶を、フロイドはテーブルを挟んだ向かいから見つめた。

「一人寝が寂しい時でもあるのか?」

 しっとりとした声が梶に問いかける。普段のフロイドなら決まって茶化すような場面だろうに、微妙な空気の違いを読み取って対応を変えてくる辺りは流石としか言いようがなかった。
 梶は視線をフロイドからフォルダ内の写真に移し、電子画面を愛しそうに撫でる。

「ホテルに帰れば僕には貘さんもマルコも居る。独りじゃないから、フロイドが居ないからって寂しい夜は無いんだ」

 ただ、と梶は言葉を続ける。写真のフロイドはどれだけ撫でても表情を崩すことは無くて、当たり前だが、それが少し寂しかった。

「……ただ時々、フロイドを忘れそうで怖い夜はある。だから貴方の写真が欲しかった」

 正直な言葉が梶の口をついた。フロイドは珍しく感情を吐露した梶に驚いたあと、そうか、とだけ返してコーヒーを飲む。
 日頃から人を食ったような態度を取るフロイドは、恋人に対して「忘れそうになる」と言った梶を咎めなかった。そういう人なのだ、と梶は噛みしめるように思い、フロイドに倣ってコーヒーに手を伸ばした。

 自分がフロイド・リーの存在を忘れることは生涯を通したってきっと無いだろうと梶は確信を持っている。
 けれど存在と実像は違って、忘れないことと思い出せることは似ているようで違うのだとも、同時に感じていた。
 
 
 
 
 きっかけは今回の待ち合わせだった。数カ月ぶりの再会に胸を弾ませフロイドの姿を探しながら、ふと、『フロイドってどんな耳の形をしてたっけ?』という疑問が梶の頭に湧いた。
 フロイドの耳の形を思い出せない。いや、正確には耳だけではないのだ。額の広さもホクロの位置も、そういえばどうだったか記憶にない。その場にいる人間の中からフロイドを見つけ出すことは出来ても、“フロイドをそっくりそのまま再現しろ”と言われたら、きっと梶は完璧な彼を作り上げることが出来なかった。それに気づいた時、梶は急に足元がぐらつくような感覚を覚えたのだ。
 どれだけ好きでも、人生において強烈な存在であっても、会わなければ人は人を忘れてしまう。自分の頭の中に居るフロイドが所詮不完全な状態でしか無いことを梶はこのとき思い知った。大切であるほど鮮明に覚えていられたらどれほど幸せだろう。もしも想いの深さが記憶に直結してくれるなら、梶はフロイドの写真なんて要らなかったかもしれない。いつだって梶の頭の中に鮮明なフロイドが居て、三カ月でも永久でも、会いたい時に目を閉じれば彼に会えたかもしれない。けれど残酷なことに、人は優しい記憶や嬉しかった思いにこそモヤをかけるのだ。
 忘却を一概に悪だとは梶も言わない。楽しい思い出の詳細を忘れるからこそ、人はまた新しい記憶を求めて外に飛び出していくのだとも思う。
 思い出が上書きされ続けていくならそれでも良い。明日も会えるなら今日を少しくらい忘れたって良い。ただ梶のフロイドの事情はそう簡単なものではなかったし、梶はフロイドの姿と記憶を、そのままを心に留めておく術が欲しかった。
 だって梶とフロイドの明日は不安定すぎるのだ。三か月後の再会は必ず三か月後にしかやって来ないが、永遠の別れは明日突然訪れるかもしれない。縁起でもない話だが現実味のない話でも同じく無い。命を賭けるギャンブラーと命より重い陰謀を取り扱う情報屋の明日など、必ず来ると盲目的に信じるほうが難しかった。
 明日が来ないかもしれない自分たちなら、せめて迎え終えた昨日くらい胸に抱えて今日を生きたい。
 フロイドの姿を見つけて足早に駆け寄りながら、梶は今回の逢瀬の内にフロイドを写真に残すことを決めた。外部記憶に頼ってでも、梶はずっとフロイドを覚えていられる確証が欲しかった。もしも彼を失ったらフロイド・リーの欠落は深く梶隆臣の心に傷跡を残す。一生涯、梶はフロイドを失ったことだけは鮮明に覚えているだろう。喪失の記憶は仕方のないことだとして、失ったことだけを覚えて生きていきたくはないと梶は思った。手を絡めて歩いた。沢山喋ってキスをした。梶はもうフロイドの笑顔のほうが人生で多く目にしている。だったらその記憶を忘れたくない。喪失よりも深く、克明に覚えておいてみせる。

 
  
 
「フロイド」

 三度目の正直だった。梶がカメラを向ける。フロイドはカメラ越しに梶を見て、ニカッと笑った。
 はいチーズの声を梶は忘れ、脈略もなくカメラの撮影音が響く。
 いきなりシャッターを押したにも関わらず、フロイドの写真写りはバッチリだった。目を細め、口角を上げたフロイドが画面から梶に笑いかけている。写真をフォルダに移し、梶は前を向いた。写真と同じ笑顔を浮かべたままのフロイドに、負けじと梶もニカッと笑い返す。

「色男に撮ってくれたか?」
「んーいつも通りの顔」

 梶がほら、と携帯の画面をフロイド側に向ける。フロイドが画面をのぞき込み、笑顔の自分と液晶越しに対面した。ジッと画面を眺めていたフロイドだったが、ふいに「ふはっ」と笑い声を上げる。

「俺が正面向いて笑ってる写真持ってるの、世界でお前だけだぜ」

 普段オーバーなほど言葉を重ねるフロイドは、今日はそれきり、自分のカップを持ってバルコニーから去っていった。
 世界に轟く大悪党が、自分が使ったカップをせっせと簡易キッチンで洗う。
 きちんとシンクの泡まで流しきり、水切りラックなどは無いため、備え付けの紙ナプキンでフロイドはカップに残っていた水気を拭った。もうホテルを出る時間らしい。世界中どこに行くにも同じのボストンバックを持ち運んでいるフロイドが、今回も同じバッグを手に、梶へと向き直った。

「じゃ、またな。梶」
「え、あ、うん。またね、フロイド」

 出国口まで見送りに行くつもりだった梶はまさか部屋の前でお別れになるとは想定しておらず咄嗟に随分と素っ気ない言葉を返した。フロイドは去り際に挨拶のキスを梶に贈って、そのまま一度も梶を振り返らずにエレベーターへと乗り込んでいく。さっさと行ってしまったフロイドに力が抜け、梶はふらふらと部屋に戻ると、一人になった室内でソファに雪崩れ込んだ。
 あの調子だと梶の知らない仕事を陰謀王はこの国でもう二,三抱えているのかもしれない。フロイドのはぐらかし上手は今に始まったことでも無いが、相変わらず忙しい人だし、相変わらず一緒に過ごしても底が見えない人だった。 
 外のバルコニーにはスコーンの残りを啄もうと小鳥が何羽も襲来していた。ちゅんちゅんクルッポーと騒がしい中で、くちばしがスコーンの乗った皿をカツコツと叩く音も聞こえてくる。片付けようかと考えて、梶は鳥たちの食事が終わるまでバルコニーには出ないでおこうと思い直す。彼らも彼らの明日の為に生きている。せっかくありつけた食事を中断させるなんて可哀相だった。
 
 
 梶は携帯を開き、アルバムの一番上に表示されたフォルダを選択する。写真映えのするフロイドが二人ほど出てきて、梶はぼんやりと彼らを眺めた後、フォルダの中に最初に撮ったブレブレのフロイドを追加した。
 蓋を開けてみたらたった三枚だった。液晶の上部に画像三つが行儀よく並んでいるのみで、フォルダにはスクロールバーが付いていないどころか、画面の半分以上に空白が残っている。次にファルダに写真が追加されるとしたら三か月後だ。それまではアルバムと呼ぶには物足りなすぎるこのフォルダで、写真映えのするフロイドとピントを新聞紙に譲ったフロイドを交互に見ながら梶はやり過ごすしかない。
 フォルダは今後順調に充実していくかもしれないし、三枚きりのフォルダで終わるかもしれなかった。梶はフォルダの設定を開き、項目欄から【名前の変更】を押す。アルバム名にフロイド・リーと一旦は入れ、すぐに消して『陰謀王』と打ち直した。
 フロイド、フロイドさん、ミスター陰謀、胡散くさ男。様々入れては一人で笑い、消してまた次の名前を考える。何度か同じ動作を繰り返した梶は、最終的に一つのタイトルに決定して、アルバムの名前欄に打ち込んだ。

『世界にここだけ』

 携帯を閉じ、自分の瞼もゆっくり下ろしていく。脳裏に浮かべたフロイドはよく観察すれば輪郭などが曖昧で、実際に現物を横に並べてみれば、案外記憶のフロイドは全然別人かもしれなかった。少し切ない。だけど仕方がないことなのだと梶は思う。
 三か月後の自分は一体どんな姿をしているだろう。きっと髪は伸びているだろうし、賭郎勝負が頻発していたら今よりパーツが欠けているかもしれない。勿論この三か月後の世界に存在していない可能性だってあって、それはフロイドにも同じことが言えた。
 フロイドも髪が伸びたり、イメチェンで髭を生やしたり、謎のブームが到来して服の趣味がガラリと変わっていたっておかしくはない。今を切り取る写真とは違い、現実の梶やフロイドは変化の中を途切れず生きている。写真は増えるだろうか。変わりゆく自分たちを変わらない姿のまま留めておくことは出来るだろうか。記憶は曖昧で、思い出は忘却される。それでも今日、フロイドは梶の携帯の中に住むことを決めてくれた。世界にたった一人自分を真正面から見据える人間に梶を選んで、フロイドがニカリと笑ってくれた事実は、事実として梶の中に刻み込まれていく。

「……数独でもしてみよっかな。脳トレになるっていうし」

 ポツンと呟かれた自分の言葉に、梶はずいぶんと話が飛躍したなァ、と他人事のように突っ込んで笑う。
 梶は記憶力が良いほうで、でも詳細は忘れてしまう人だ。切ないけれど仕方ない。それでも今日からは写真という強力な味方も居るし、せめて今日の幸せくらいは、色褪せることなく覚えていたいと思った。