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 問題のSNSにはまた無断撮影された梶の後姿が投稿されていた。写真が宿泊先のホテルや賭郎ビルでなく、コンビニに入ろうとする瞬間を捉えたものである所に僅かばかりの良心や倫理観が垣間見えて梶は複雑な気持ちになる。最低限のプライバシーが守られたと安堵するべきか、最低限のプライバシーしか守られてないと恐怖するべきか。
 
 明らかに盗撮と分かる為かコメント欄は投稿者への糾弾で埋め尽くされており、「何がしたいの?」「ストーカーは犯罪です」「写真の子が可哀相」といった良識的な意見がずらりと並んでいる。投稿者は相変わらずその手のコメントには反応を見せず、唯一「黒シャツがえちちです」というコメントにだけ「ですよね」と返答していた。
 
【気付いてないのかな? 後ろに寝癖。可愛いすぎる】
 
 写真の投稿はおよそ三時間前だ。投稿者が添えたメッセージを確認し、梶はおそるおそる己の後頭部に触れた。ぴょこんと跳ねた寝癖を今更撫でつけ、顔を上げる。
 
「今日はありがとうございます弥鱈さん。面倒毎に巻き込んですいません」
 
 スマホをポケットに仕舞い、梶は気を取り直して正面の人物に言った。弥鱈さんと呼ばれた青年は、ひょろりと細長い体を丸めて「いえ、これも一つのおしごとなので」と丁寧な口調で返す。口からシャボン玉が空に舞い上がっていた。相変わらず器用な人だと感心した梶は、一向に視線が合わない気まずさを打ち消すように自販機へと小銭を投入する。
 缶コーヒーを買い、「弥鱈さんも何か飲みますか?」と問いかける。
 
「あぁ、はい」
 
 気怠げな肯定が返ってきたので、梶は続けざまに五〇〇円を投入した。と、弥鱈がおもむろに釣り銭レバーに手を伸ばし、今しがた梶が入れたばかりの五〇〇円玉を返却する。
 
「あれ?」
 
 ポカンとする梶の前で、弥鱈が自身のスマホをかざして商品を購入する。
 釣り銭口の五〇〇円玉を梶に手渡し、弥鱈は悠々とした態度で自腹のコーヒーに口を付けた。
 
「ええっと……?」
 
 反射的に受け取った五〇〇円を握りしめ、梶が困惑した声を上げる。偶然にも梶と同じ微糖コーヒーを購入した弥鱈は、首を傾げている梶に「なんですか」と相変わらず怠そうな声で聞いた。
 
「あの、何か飲むんじゃ……」
「はい。だから買って飲んでるんですが」
 
 弥鱈が手元の缶を振る。ちゃぷちゃぷと軽い水音が立ち、梶は(そういう話じゃないのでは)と更に首を捻る。
 
「その、今の流れは僕が奢る感じじゃ……」
「貸し借りって嫌いなんです。缶コーヒー一本くらい自分で買えますし」
「いや……」
 
 そりゃそうでしょうけども。
 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、梶はへんにょりと眉毛を下げて「コーヒーなんて迷惑料だと思ってくれたら良いのに」と言い換えた。
 ロクに縁もゆかりもない弥鱈を、今回一方的な我儘で駆り出したのは梶の方だ。形式上賭郎会員である梶は立会人の弥鱈に丁重な態度を取られているが、明確な主従関係があるわけでもないし、何より暴の精鋭たる弥鱈を怒らせては梶の身に何が降りかかるか分かったものではない。
 
「ほんと、立会人の人をこんなことに巻き込んで申し訳ないなぁって思ってるんです。あの、次に喉が渇いたり小腹が空いたりしたら、僕ほんと全額出すんで、遠慮しないで言ってください」
「はぁ」
「借りとか思わなくて良いんで。さっきも言ったけど迷惑料として受け取ってもらえれば」
「迷惑とか、別に無いんで。自分で納得して受けたことですし」
「いや、でも……!」
「迷惑だっていうんなら、そう食い下がられる方が迷惑です。要望があれば遠慮なく言います」
「あ、そ、そうです……?」
「はい」
 
 取り付く島どころか船を寄せる浜さえ見当たらない。頑なな、且つやはり視線を合わせてくれない弥鱈に辟易しつつ、梶は縋るようにコーヒーを啜った。
 

 梶が住処にしているホテルから徒歩一〇分程度。繁華街の明かりが少しだけ届かない場所に光源然として立つ自販機の前で、梶は賭郎所属の立会人・弥鱈悠助と共に缶コーヒー片手にとある人物を待っていた。約束は取り付けていない。待ち人は今日、梶と弥鱈が己を待っていることも知らない。
 いささか奇妙な待ち合わせだが、そうせざるを得ない理由が二人と待ち人の間にはあった。
 
「しかしまぁ、会員が会員にストーカーですか。命を付け狙う類の話は聞いたことがありますが、色恋の沙汰は始めて聞きます。しかも同性」
 
 弥鱈が呆れ口調で言う。組織の中枢に名を連ねる人物に改めて明言化されると胸にクるものがあり、梶は泣きそうな心持ちでコーヒー缶を握りしめた。

 そう、ストーカー。梶隆臣二×才、ロクな恋愛経験もなければこの人と決めた想い人も見つけられないままに、何故か現在、彼は同じく賭郎会員である某人に付きまとわれ、あまつさえ身の貞操を狙われていた。
 行く先々を尾行され、ゴミを漁られ、ホテルのフロントには最近では三日に一度怪文書に近いラブレターが預けられている。
 言うまでもないが、冒頭のSNSアカウント運営もその某人による仕業だった。
 
「なんで男が男にストーカーされてるんでしょう。せめて女の人だったら……」
「喜んだんですか?」
「いや、喜ぶかは分かんないですけど」
「ストーカーに性別とか無いと思いますよ」
「ご、ごもっとも……」
 
 ストーカー犯の身元は割れている。相手は梶より二回りほど年上の、賭郎会員の肩書意外ことごとく平凡な男である。数カ月前に当人同士で賭郎勝負を行ったことがキッカケで知り合い、なんやかんやあって梶のストーカーになってしまったのだ。なんだなんやかんやって。何度思い返しても現状に至った理由に納得がいかず、梶はげんなりとした気分で自虐気味に笑った。
 
「命狙われるんならまだ分かりますけど、ケツ狙われてんですよ僕。ウケますよね」
「全然ウケませんけど」
「あ、はい」
「まぁ梶様は本当の意味でケツ狙われてウケそうになってるわけですが」
「あれ、もしかしてノリが良いのかなこの人」
 
 とはいえ、マジで何が何だか当人の梶だって本質は理解できていない。
 これはストーカー犯の専属立会人から梶が聞いた話だが、男は梶との賭郎勝負に挑んだ際、梶の泥臭いながらも力強い手腕に圧倒され、凡庸な青年が場を支配する空気感に深く深く心を酔わせてしまったそうだ。ギャンブラーがギャンブラーに惚れ込むというのは別段珍しい話ではなく、伝聞の通りであるなら梶だって事を荒げるようなことはしなかった。問題は、男の視線が持つ粘着性と生々しさだ。梶自身も己をギャンブルの世界へと引き込んだ斑目貘に信仰に近い敬愛を寄せているので分かるが、男のソレは梶が斑目へ向ける感情とは明らかに質が異なっている。
 勝負師が勝負師に恋をした、なんて華やかな表現ではとてもじゃないが説明出来ない。現実はただ、一人の男が性欲を向ける先を見つけただけだった。
 梶はSNS上の文言を脳裏に思い起こす。『黒シャツがえちちです』『ですよね』。画面の向こうに少なくとも二人、自分を性的に消費する人物が居ると思うと寒気がした。
 
「お相手の会員様と私は面識がありませんが、勝負の時はどのような様子だったんです?」
 
 早々に缶コーヒーを飲み終えたらしい弥鱈がまたシャボン玉を飛ばす。カフェインの混ざった唾液でも作れるんだと梶は上空に浮かぶシャボン玉を見つめ、あのシャボン玉はコーヒーのにおいがするのだろうかと興味本位で鼻を引く付かせた。
 東京の夜はアスファルトと油のにおいがする。鼻の奥で微かに香ったコーヒーは、多分弥鱈のシャボン玉ではなく、自分が飲む缶コーヒーの余韻だった。
 
「いやぁ普通ですよ。よろしくおねがいしますって二人とも会釈して初めて、勝負は途中まで僕の方が劣勢だったんですけど、どうにか最後でまくってギリギリ僕の勝ち」
「ほう」
「そしたら『君の気持ちは分かったよ梶きゅん、分かった結婚しよう』って言われたんです」
「説明だいぶ端折りました? なぜ最後だけそんな急展開になるんです」
 
 思わず弥鱈が責めるような口調になる。気持ちは分かる、と梶も苦笑した。
 
「何にも端折ってないです。時系列そのままお伝えしてます」
「分かったよって、私何も全然分からなかったんですが」
「ビックリしますよねぇ。その場も今も、僕だって何にも分かってないです」
 
 弥鱈が盛大に顔を歪める。再び自販機に手を伸ばし上段のミネラルウォーターを選択した彼は、落ちてきたペットボトルを即座に開け、一気に半分ほど胃の中へと収めた。不快感を飲み下すような仕草で、「きついですねぇソレ」と結局不快感を隠さずに言う。梶はもう一度苦笑し、「きついんですよこれ」と引きずられるように缶コーヒーの中身を減らした。
 先の勝負で資産の大半を失った男に、再戦に耐えられるだけの体力はもう残っていなかった。男が今後賭けられるものといえば賭郎会員権と己の命しかなく、しかし会員権は梶と男を繋ぐ唯一の手段であったため、男は頑としてその所有権を固持し、命を賭けの場に上げさせてほしいと梶に懇願したのである。
 
「絶対嫌です、そんなもの貰っても何の意味もない」
 
 そう梶が拒否すると、男は躊躇いなく梶の足元に土下座した。
 
「じゃぁ勝負は無しで良いよ! 代わりに付き合ってくれたら!」
 
 言いながら、男は梶の足に中年の筋張った手を絡みつかせた。
 じゃぁとは何だ。何故そちらなら要求が通ると思うのか。
 梶はゾッとして、それこそ絶対嫌です! と足を振って叫んだ。男を振り払った際に偶然靴先が男の顔に当たってしまったのだが、あの瞬間男の顔に浮かんでいた、困難に立ち向かおうと一人燃えている決意の表情を今も梶は覚えている。まるで自分が物語の主人公だと言わんばかりの男の姿は、思い返すたびに鳥肌が立つので、最近では勝負の序盤に怯えた表情を引き出す為のトリガーに使っているほどだった。
 
「わりと早い段階から帰り道に待ち伏せとかはされてたんですけど、最初の方は適当にじゃんけんしたり、あっち向いてホイに付き合ったら満足して帰ってくれてたんですよ」
 
 自販機横のゴミ箱は満杯になっている。飲み終えた缶をどうしようか考えあぐねている梶に、弥鱈が「横にでも置いておきなさい」と言った。今更一つ増えたところで変わりませんよと、ゴミ箱の隣で縦列並びになっている空き缶を指差す。
 
「仮にも賭郎会員ともあろう方々が何をしているんです」
「仕方ないじゃないですか。賭けに発展しないゲームなんてその程度しかやることない」
「それじゃメイド喫茶のミニゲームじゃないですか」
「へ、変な例えは止めてください」
「貴方がストーカーに付き合ってやることのほうがよほど変です」
 
 刺々しいが正論である。二の句が継げない梶は、沈黙を倒すために自販機で二本目の缶コーヒーを買った。溢れかえったゴミ箱と縦列並びの空き缶たちが、仲間が増えることをなんとも言えない表情で見上げている。
 
「でもミニゲームくらいだったら別に良いかなって思うじゃないですか」
「思いませんけど」
 
 弥鱈が即答する。梶は目頭を押さえ、聞く人を間違えたとしみじみ思った。
 
「僕は思っちゃったんです。けどそうしたら段々、ちゃんとした勝負を掛け金無しでやりたいと言うようになってきて」
「でしょうね。その手の輩は施しを恩情と受け取ったりはしません。彼らの歪んだ認知によれば、己が相手に優遇されることは当然なのです。下手に優しくするから付け上がるんですよ」
 
 冷たい声が切り捨てる。梶の生温い対応が気に食わないのだろう、明らかに苛立った様子の弥鱈に、梶は「うぐ」と言葉を詰まらせた。
 立会人には自己主張がはっきりとした人間が多い。それは完璧の傍らに立つ矜持と、単純に優秀な人間として世間から評価され続けてきた自覚が彼らにあるからだろうが、短時間会話しただけでも弥鱈の我の強さは十分すぎるほど梶に伝わっていた。
 元々一癖ある人だとは思っていたが想像以上だ。弥鱈には独特な雰囲気があり、また独特な圧もある。顔立ちを見るにそれほど年齢差があるようにも思えないので、だからより一層、高圧的な同年代である弥鱈に梶は委縮してしまった。
 
「でも本当に、最初は悪い人じゃなかったんです」
 
 どうにか弥鱈を宥めたい梶は取り繕うような言葉を選んでみる。だが相手には共感性というものに疎いらしく、『だから?』とでも言いたげな顔を梶に向けた。そんなこと私の知ったこっちゃない、と弥鱈の三白眼がぎょろんと梶をねめつける。
 
「最初から悪い人なんてそうそう居ません」
「で、でもっ、待ち伏せするのは長いこと勝負の無い日だけだったし、触ろうとしてきたときも、こっちが嫌だって言ったら握手で満足してくれ……」
「はぁっ? 接触ぅ?」
 
 急に梶の声を遮って弥鱈が大声を出した。驚いて肩を跳ねさせる梶そっちのけで彼の手からコーヒーを奪い取り、弥鱈は手持ち無沙汰になった手を自らの手で抱き込むように覆う。
 身長差はそれほどないが、弥鱈の掌は梶のものより一回りほど大きかった。どうやら指が長いらしい。梶のささくれが目立つ指先を観察し、弥鱈が「この手にですか」と梶の親指の腹をふにふにと押した。
 
「そうです」
「触ったんですか。触らせたんですか」
「そう。まぁ、いい気はしなかったですけど」
「気色悪い」
 
 存外口の悪い男である。立会人の口からは洗練された言葉のみが生み出されると思っていた梶は、弥鱈の発したシンプルな暴言に面食らった。
 自分へ向けられた言葉でないにせよ、雰囲気のある弥鱈が言うとただの一言にも重みが増す。(確かに第三者が聞いたらキモいと思うよなぁ)と同意する反面、男の接触を気色悪いと扱き下ろしたくせに、やりとりの最中も何故か自身の指を揉み続ける弥鱈が梶は少々不思議だった。
 肉の厚い指先をフニフニされるたび、何となくぞわぞわするというか、居心地の悪さを感じてしまう。きっと肉球を触られる猫はこんな気持ちだろう。
 
「あの、弥鱈さん。指、もう良いっスかね……?」
「え? ……あ、あぁ」
 
 弥鱈がハッとした表情を浮かべ、いきなり触ってスイマセン、とバツが悪そうに謝罪して指を離した。無意識下の行動だったのだろうか。何故だか弥鱈のほうが踏まれた猫のようになって、梶にコーヒー缶を返したあと、弥鱈は己の指をまじまじと見つめてイーっと顔をしかめた。
 
「あー…………遠目から見ているだけならともかく、実際に接触してくるようになったら大きな事件までは秒読みでしょう。なぜその段階でお屋形様なり、誰かに相談しなかったんです」
「別に勝負中にルール違反を犯してるわけじゃないから賭郎が僕を助ける義理は無いんだろうなって思ったんです」
 
 口に出すと嫌味のように聞こえて、梶は慌てて言い直す。「最初は自分一人でどうにかしようと思ってたんです。そんなことで貘さんとか、賭郎の人たちに迷惑かけちゃダメだって思って……」
 
「それが既に認知の歪みだと思いますが」
「アハハ……けどそんなこと言ってる内に、賭郎勝負の場を突き止めてその人が出没するようになっちゃって。そしたらもう、怒っちゃったんです、門倉さんが」
「あぁ……」
 
 弥鱈が転じて同情するような顔で頷いた。
 おそらく彼の頭の中にはふんぞり返った同僚の姿が浮かんでいるのだろう。梶の専属立会人でもある門倉は中立を重んじる模範的な立会人だが、一方で独自の美学を貫く頑固者であり、加えて頭の導火線などは手持ち花火の先に付いたピロピロくらいの長さしかない男である。
 
「再三注意しても来るから、ついに勝負の妨害に当たるってことで武力行使OKになりまして。で、そこまでは良かったんですけど、門倉さんが……」
「なんです、ストーカー撃退なんてしたくないと駄々をこねましたか?」
「いえ、撃退に関してはノリノリでした。ノリノリ過ぎたんです。だって相手に『いろはす』ってあだ名付けてる人に撃退任せられないじゃないですか。門倉さん、走り去る後頭部見ながら『いろはす』って名付けたんですよ?」
「うわぁ……」弥鱈が引き気味な声を上げた「なるほど。理解しました。柔らかいですよね、いろはすのペットボトル」
「えぇはい、僕でも片手でクシャっと出来ます」
「クシャっとする気だったんでしょうねあの人」
「嫌でしょ流石に。目の前で人の頭蓋骨がいろはすされるところを見るなんて」
 
 うへぇと梶が表情を崩す。弥鱈から否定の言葉が飛んでこないあたり、組織の中で門倉がどのように評価されているかは推して知るべきだった。
 
「そんなわけでストーカー撃退作戦から門倉さんは外れてもらって、まぁ紆余曲折あって、弥鱈さんにお願いしようってなったわけです」
「紆余曲折」

 弥鱈が繰り返す。持ち前のジト目が、値踏みするように梶を見た。「釈然としない表現ですねぇ~。嫌です私、そういった曖昧な選出基準」
 間延びした喋り方は弥鱈が使うといやに脅迫じみて聞こえる。梶はまた委縮してコーヒー缶を握りしめた。
 
「す、すいません」
「いえ、謝っていただくことでは無いんですが。個人的に、梶様がなぜストーカー撃退の任に私を指名したのか理由が気にはなっています。回答は欲しい」
 
 ちろ、と弥鱈の舌が顔を出す。不眠でも抱えているのか少々赤っぽい舌が、夜にぽっかりと浮かんで見えた。
 発言の言外にあるのは『私達接点無いですよね?』という疑問だろうと梶は思った。弥鱈の思う通りで、梶と弥鱈は取り立てて親しい間柄にあるわけではない。お互いの顔と名前くらいは一致しているが、これほど長い間一緒に居るのも、会話を続けるのも今回が初めてだった。
 急に痛い所を突かれて梶の視線が泳ぐ。ストーカー撃退のため一〇八人の中から弥鱈を指名した理由は、勿論あるにはあるのだが、あまり本人を前にして大っぴらに言えるものでもないのだ。
 『謝ることではない』と弥鱈は言ったが、謝ることで場を丸く収めがちな梶には謝罪というカードを封じられたことは中々に痛手である。辺りを見回しても主だったアイテムは自動販売機しかなく、その自動販売機だってコミュニケーションの余白を埋めるため既に多用されていた。

(しまったなぁ、こんなことなら弥鱈さんの好物とか趣味とか、事前に貘さんに聞いておけば良かった……)

 いくら全知全能の倶楽部賭郎とはいえ、立会人のプライベートな好物まで干渉している余裕はないだろうことは分かっている。しかし立会人のことで困ってしまうと、梶は思わず賭郎組織の頭領である斑目に助けを求めたくなった。
 俯いてあーだこーだと非生産的なことを考えている梶を、相変わらず弥鱈は睨みつけるようにして頭の先からつま先まで眺めている。しばらく観察したのち、一向に返答がない梶に痺れを切らしたのだろう、ため息を吐いた弥鱈は梶から視線を外すと「私は純粋な好奇心から聞いているだけです」と残っていたペットボトルの水を飲んだ。
 
「それとも、言いにくいような理由があるんですか」
「言いにくいとはちょっと違うんですけど……あの、言っても怒りませんか?」
「聞いてもいないのに判断は出来ませんねぇ」
「あぅ、そ、そうですね……すいません」
「そうやってまた謝る」
「ひっ」
「いや、ひっ、て。申し訳なくなってくるから謝罪は困ると言ってるだけじゃないですか。なぜ貴方は怯えるんです。私が何かしたんですか?」
 
 弥鱈が眉を寄せる。本人としては困惑を表したつもりだろうが、その割には完成した表情がやたらめったら怖かった。
 申し訳ないというよりただ梶への怒りを募らせているだけに見える。梶はわたわたして、どうにか弥鱈の機嫌を取ろうと口を開いた。
 
「す、すいません弥鱈さんが何かしたとかじゃなくって……あっ!」
「おちょくってます?」
「ひっ、ちが、あの、すいま……いやあの! 僕のすいませんはその、枕言葉っていうか……!」
「貴方私が怖いんですか?」
「や、決して怖いとかは……!」
「では舐めてかかれますか」
「な、舐め……? いやぁそれは……」
「怖いんですね」
「えぇ……」
 
 質問に続き、あまりに不変則な弥鱈の問いは梶を更に追い詰める。なぜ畏怖と軽視の二択なのか。中間は無いのか。『怖くはないですが舐め腐った態度を取る勇気もないです』と言いたかった梶は、どちらに意見を傾けて良いか分からず「いやぁそれは……」と結局中途半端な相槌を打つに終わった。
 助けを求めて弥鱈を頼ったはずなのに、蓋を開けてみれば弥鱈の扱いのほうがよほど難しいように感じる。関係が薄いからと言ってしまえばそれまでだが、梶は内心で(早く来いよストーカー!)と本末転倒なことを願った。
 
「……まぁ怖いんなら怖いで良いんですけど。人に怖がられることは慣れてますし。別に私怖い人間じゃありませんけど」
「いやぁ……はは……」
 
 怖い人は自分で怖い人って言いません。そう言ってやりたかったが、梶は曖昧に笑って流す。
 理由は勿論、弥鱈が怖いからだ。
 
「それで、梶様はなぜ私を指名したんです?」
 
 そして梶の内心など知る由もない弥鱈は、そんな具合で早々に話をぶり返してくる。こんなにビクついてる人間によく質問できるな、と梶は弥鱈の行いにぐったりするが、弥鱈側は詰めている感覚もないのか、いつも通りスンとしていた。『この人あんまり友達居ないかもしれない』と自分を棚に上げて梶は失礼なことを考える。

「勿論主な理由は、弥鱈さんが優秀な立会人で、すごく強いからですよ」

 ていのいい言葉で躱そうとする梶を、やはり弥鱈の鋭い視線は容赦なく絡めとる。

「優秀じゃない立会人も弱い立会人も居ません」
「いやいや、その中でも弥鱈さんは特に凄いって話で」
「はぁ………で、実際は?」

 全然逃がしてくれない。知的好奇心が旺盛なのは結構なことだが、蛇のようなしつこさを見せる弥鱈に、梶は表面上友好的な笑みを浮かべつつ『貘さぁん!』と心の中で彼の神の名を唱えた。
 選ばれた理由なんてそんなに気になるのだろうか。現お屋形様の斑目いわく、弥鱈は組織の年少枠に入る年齢ながら際立って優秀な人材であり、大勝負の進行役を任せられるなど、次世代の立会人筆頭格として既に多くの期待を背負っているらしい。それだけ優秀だったら手放しに求められて当然だろうに、弥鱈は猫背をさらに丸め、まるで深淵でも覗き込むかのように梶に顔を寄せていた。見た目の印象よりパーソナルスペースが狭い人間であるらしい。瞳が少し灰色ががっており、斑目ほどではないが色素の薄い光彩をしていた。
 三白眼がじぃっとこちらを見ている。さながら蛇に睨まれたカエル。
 これはもう正直になるしかないと、観念した梶は恐る恐る弥鱈に切り出した。

「弥鱈さんに今回お願いしたのは、その、弥鱈さんが僕と面識があって、かつ、僕に興味が無さそうだから………です」
「…………ほう」
「だって嫌じゃないですか。男にケツ追いかけまわされて怖がってる姿を見せるなんて、自分に近しい人間には特に」
「興味が無い。梶様に。俺が」
「はい………えっ、おれ?」

 聞き間違いかと思い梶が繰り返した。
 弥鱈は梶の問いには答えず、「そうですね」と独り言のように呟いて口元から二,三シャボン玉を断続的に吐き出す。うち一つは童謡のように飛ばずに消えた。

「えぇそうですね。そうですか。はぁ。ひとまず納得しました。確かに私は貴方の専属でも無ければお仲間でもないので、貴方とは随分縁が薄いですし」

 わりに納得していない表情だった。名誉ある選出理由ではないことは梶自身が一番分かっているが、なんとなく傷付いた様子にも見える弥鱈に梶は対応を迷う。一体自分の返答はどこが間違っていたのだろう。どうにも弥鱈が理解できず、梶はもう美味しいかどうかも判断できない缶コーヒーに口を付けた。

「……逆に聞きたいんですが、やっぱり嫌でしたか。ストーカーの撃退なんて」
「別に私に嫌とかありませんけど」

 けど、なんだ。
 含みのある喋り方はどうやら弥鱈の癖らしかったが、いちいちその語尾が梶の心をザワつかせた。

「損な役を押し付けちゃったとは思います。けどストーカーされてる所を親しい人に見られるなんて、同情されるのも嫌だし、ストーカーを見て嫌な顔してる自分を見られるのも嫌だ。あ、コイツこんな冷たい態度取るんだとか、思われたくないじゃないですか」
「ストーカーに冷たい態度を取ることはむしろ正常では?」
「そうですけど、でも嫌悪感丸出しの顔とか、貘さんやマルコには見られたくないです」
「はぁ。私には見せても良いけれど?」
「そういう意味じゃないですけど、弥鱈さんは僕がどんな人間だろうと関係ないじゃないですか。そこまで関りがあるわけじゃないし。だから適任かなって思ったんです………言葉にするとけっこう失礼な選出基準ですよね。だからその、言いにくかったんです。不快な思いをさせてしまったのなら謝ります」
「そうですね。けどまぁ、言えと言ったのは私です。貴方が気に病むことではない」

 おや、と梶は思う。言っておいてなんだが、肯定されるとは思っていなかった。「貴方にどう思われようと私には関係ありません」くらいの素っ気なさが返ってくると予想していた梶は、先程のしつこさが嘘のようにさっさと顔を背けてしまった弥鱈をなんとなしに視線で追う。
 弥鱈が目を繁華街の方へ逃がし、梶も反射的にそれに倣った瞬間だった。

「「あ」」

 気の抜けた二人の声が、見事に被さって夜の街に浮かんで消えた。
 黒っぽい影がネオン看板の下で蹲っている。中肉中背。以前はネイビーのスーツを好んで着ていた男は、言動の雲行きが怪しくなってきた辺りからまるで梶を取り込むように黒シャツばかりを着るようになっていた。
 弥鱈と梶が顔を見合わせる。自販機のおよそ二〇メートル先、繁華街の余韻が少々残る明るさの中から、件のストーカーが息を殺してこちらを覗いていた。

「弥鱈さんっ」
「本当に来ましたね」

 梶が弥鱈に身を寄せる。こちらから相手側の表情は分からなかったが、どうやら先方は双眼鏡などを携えているようだった。時折ネオンに反射してストーカーの顔回りがチカッと光っている。まさか弥鱈が撃退を依頼されている立会人だと知る由もないストーカーは、身を寄せた梶に何を思ったのか、引き攣ったような呻き声を微かに暗闇の中から上げていた。

「予定通りお願いします。武力行使とはいっても命を奪うようなことはしたくないんです。軽く一蹴りするとか、ちょっと痛い目に合ってもらうだけで十分なんで。力加減お願いします」
「承知しています。言われなくとも私は元々平和主義です」
「なんで今いきなりジョーク言ったんです?」
「私今ジョーク言ってません」

 弥鱈が目を眇める。汚れ一つ無い革靴がトントンと地面をノックし、準備は整ったとばかりに足先がストーカーのほうを向いた。
 ストーカーの背後には夜を謳歌する人々が、煌びやかな服と笑い声をまとい時折入り込んでは足早に去っていく。外れとはいえストーカーの居る場所は往来であり、騒げばたちまちに公衆の視線を集めてしまいそうだった。

「この距離でも問題はありませんが………少し繁華街が近付ぎますね。あちらが寄ってくるのを待ちましょうか」
「あっじゃぁ───」

 弥鱈の言葉に思い立った梶が、つい、とスーツの袖を引いた。不意打ちでもビクともしない弥鱈の体幹に関心しつつ、梶は体を更に弥鱈に寄せ、そればかりか彼の腕にピタリと密着する。
 細身だがしっかりと筋肉を感じる腕に絡みつくと、無臭だと思っていた弥鱈からは微かに石鹸の臭いがした。

「は」
「ごめんなさい、少しこのまま」

 目を剥いた弥鱈を余所に、梶は二〇メートル先のストーカーへと視線を戻す。双眼鏡を覗き込むストーカーの目には弥鱈にしがみ付く梶の姿が克明に映っていることだろう。弥鱈も梶も表情は硬いし、それほど仲良く寄り添っているようには見えないだろうが、今更ストーカーの男に感情の機微を読み取るような余裕が残っているとは思えなかった。
 案の定黒い影が蠢き、ストーカーの男が何やら奇声を発しながら立ち上がるのが見える。以前は平凡ながら穏やかな性分だったはずの男が、周囲の看板やゴミ箱をめちゃくちゃに蹴散らしていた。肩で息をし、コケた頬に目ばかりがギラついた異様な顔貌が、梶と弥鱈に焦点を合わせた途端弾かれたようにこちらへ向かってくる。

「お、おれのかじくんに触るなああぁあぁあぁあ!!」

 いかんともしがたい叫び声を上げながら走り寄ってくる男に、梶は(いつからアンタのものになったんだ僕は)と呆れながら弥鱈から腕を離す。
 では弥鱈さんよろしくお願いします。そう、梶が声をかけようと思ったところで、

「───おれのかじぃ?」

 梶の頭上から冷たい声が降ってきた。
 弥鱈さん? と聞く前に、弥鱈の気配が隣から消える。おや、と感じるより先に「ごちゃっ」 何かが潰れる音が前方からした。

 音からズレること半拍、梶が前を向く。なぜか目の前には隣にいたはずの弥鱈がいた。弥鱈の細身が、シャボン玉のようにふんわりと宙に浮いている。踏み込みに使ったらしい左脚はしなやかに伸び切っており、片や右脚は、ストーカーの顔にめり込んでいた。

「…………………え?」

 ストーカーの体がスローモーションのようにゆっくりと地面に沈んでいく。一度の踏み込みで数メートルを跳べるらしい弥鱈は、瞬間後ろに飛び退いて、体勢を立て直すとまた前方に跳んだ。うつ伏せで倒れ込みそうになっていたストーカーを靴の先で蹴り上げ、無理やり仰向けの状態にして地面に叩きつける。重い荷物が地表を叩く音と一緒に、ダン! と地面を踏み鳴らす音が聞こえた。
 梶は何がなんだかよく分からないまま目の前の光景を眺めている。ハリウッド映画ばりのアクションに茫然としていると、梶が自力で理解するより早く、ポケットに手を突っ込んだ弥鱈がストーカーの顔に靴の裏をべたりと乗せて言った。

「すいません、私同担拒否なんです」
「あっれーーーーーーーーーー????????????????」

 周囲に梶の声が響き渡る。
 ようやく状況が把握でき、分かった瞬間には今止めないと全てが終わりになる危機的状況であった。

「何やってんスか弥鱈さぁあん!!!」

 数メートルの距離を全力で駆け抜け、弥鱈の背に追いついた梶はその勢いのまま弥鱈の背中に飛びかかる。葡萄酒造りの要領でストーカーの顔面を踏み続けている弥鱈は、そんな梶を支えるように後ろに手を回した。
 ありがとう気遣い! と梶は思う。でも今はそんなことに気を回してもらわなくて結構っていうかその前に止めてほしいことがあります! とも続けざまに思った。

「待って本当に待ってストップ弥鱈さん!! あれ!? どういうこと!?」
「いやぁ私推しが被るの無理なんですよ。感情なんてものは個人個人の絶対評価なはずなのに、推しが被っているだけで競合相手が出来るし私の感情も相対評価の的になっちゃうじゃないですか。嫌なんです。私は私が推してることが全てだし私の感情が誰かに評価されることも我慢なりません。どうせアレでしょう? 専属でも無ければお友達でもないし面と向かって勝負も立会もしたことのない私の愛なんてたかが知れてるとかクソみたいな判断基準で評価されるんでしょう? はぁ? なんでそんな目に合わなきゃならないんですか? 私は私なりに節度を持って行動してるんです。ルールの中で愛でて推しの世界には干渉しない、推しを推すってつまりそういうことですから。だというのにこの男は、あぁクソ、思い出しただけで鳥肌が立つし腸が煮えくり返る。己の行いのせいで相手の言動が制限されることに罪悪感とか感じないんですか? ただでさえ同担は無理なんですけど、この手の池沼はもはや駆除の対象とするべきです。しかもそのうえガチ恋って? はぁ? 人の推しで気色悪い妄想しないでもらえます? しかも接触してるし。いやもう、何なんです? マジで何考えてるんですか? 生ごみは捨てられるものであって拾っていただけるものじゃないんですよ。ゴミが自分から動くな。大人しく廃棄されていろ」
「長い長いなになになに!?!?!? なんて!?!?!? ていうか弥鱈さん平和は!?!? 平和主義はどうしたんですか!?!?」
「平和主義者が立会人になると思います?」
「チクショウやっぱりそうじゃないかぁ!!!!」

 とにかく弥鱈をストーカーから離さなくてはいけない。梶は弥鱈の背中を降り、前に回り込むとストーカーと弥鱈の間に強引に割って入った。ぐいぐいと弥鱈を押しのけ、地面に伸びているストーカーに「意識ありますか!? とりあえず逃げて!」と声をかける。久しぶりに真正面から捉えたストーカーの顔は、原型が留まっていないほど崩れ、歯も何本か折れていた。口からは涎と血がだらだらと垂れ、鼻もひん曲がっている。また、顔意外にはほとんど目立った外傷がないにも関わらず、右手だけは粉々に砕かれていた。梶に握手を求めてきた右手である。先ほど妙に握手をしたことに食いついてきた弥鱈だったので、意図的に壊したのだと分かり梶はゾッとした。

「きゃ、きゃぢくん……!」

 己を助けようと弥鱈に立ちはだかった梶に、地面のストーカーが感動で目を輝かせる。梶の背後で空気がグッと重くなり、地を這うような弥鱈の「あ゛???」が聞こえた。おい誰だヤンキーは嫌いだと公言していた人間は。本人だってまぁまぁその素質があるではないか。

「アンタ何してるんだ!! 本当に死にますよ!? 逃げて!!」
「ひんはいひて……くれうの……?」

 更に後ろの空気が重くなる。何で助けを求めた自分が奔走しなければならないのかと混乱しながら、梶は頭を掻きむしった。
 この場において一番抑えなくてはならない人間は誰か、考えて梶は即座に行動に起こす。半ば倒れ込むように後ろに体重をかけると、反射的に梶を受け止めた弥鱈の袖を、梶は先程より強い力で引き寄せた。腕にしがみ付き、キッ! とストーカーを睨みつける。

「僕は弥鱈さんの綺麗な靴を汚したくないだけです!! アンタなんてどうでも良い!! 早くどっか行けよぉ!!」

 ストーカーがハッと目を見開いた。自分が切り捨てられたと悟ったのだろう、半分しか開かなくなった目に涙が湧き、みるみる内に溢れて顔を流れ落ちていった。凹凸まみれになった顔面は山岳地帯のようであり、涙は何股にも分かれて、川の裾が広がるように涙を顔面中に広げていく。あまりにも哀れな姿だったが、ここで同情をかければ弥鱈が何をするか分かったものでは無い。梶は嗚咽を漏らすストーカーを、変わらず厳しい表情で見ていた。
 周囲の空気からストーカーの狂気が薄まり始めていることが分かった。興奮が冷めれば、次にやってくるのは骨を砕かれた痛みである。ううう、と呻き声を上げたストーカーが、茫然自失とした様子でゆっくり立ち上がった。
 幸か不幸か、攻撃が顔面に集中していたことで内臓にはダメージがいかなかったらしい。ストーカーは苦しそうに喘ぎながらも、比較的しっかりとした足取りで繁華街へと消えていった。間もなく、ネオン輝く世界から甲高い悲鳴が聞こえてくる。誰かが男を発見したのだろう。あれだけの大怪我をしていれば、意識が無くとも誰かが救急車を呼んでくれるはずだ。ひとまず男の無事が確保されたと、梶は内心でホッとした。

 ストーカーの姿が小さくなっていく間も、梶は無言で弥鱈の腕を掴み、決して体を離さないでいた。
 弥鱈は梶が触れた辺りから動きを止め、ストーカーに声を荒げる梶をしげしげと観察した後はずっとそっぽを向いていた。暴力的な雰囲気は霧散していたが、弥鱈の殺意は瞬間的に最高潮になるのだと梶は先ほど学んだばかりだ。結局ストーカーの姿が完全に見えなくなるまで梶は弥鱈の身体にしがみ付いたままで、ネオン街の悲鳴が二人の耳に届いたのち、ようやく梶は、弥鱈の腕を捕まえたまま怒りを外に吐き出した。

「弥鱈さん。話が、違います」

 そっぽを向いたまま弥鱈がシャボン玉を飛ばす。はぐらかされないぞ、という意思を込めて腕に力を加えると、弥鱈が大人しく口を開いた。

「すいません。相手に攻撃の意志があると判断したので、つい防衛行為を」

 『そんなわけがあるか』と梶は眉をしかめる。
 いくら相手に攻撃の意志があったところで、所詮素人が倶楽部賭郎の立会人に敵うはずもない。弥鱈ほどの人物であれば尚更だ。例え相手が刃物を持っていたとしても、一般人の相手など弥鱈にとっては赤子の手をひねるように容易いことだろう。それに大体、防衛でとび膝蹴りを決める人間が一体どこに居るのだ。過剰防衛もいいところの、弥鱈の暴力は素人の梶から見ても明らかなオーバーキルだった。

「ていうか、推しとか、同担拒否とか。なんか色々と初耳だったんですけど。何の話ですか」
「私、本当は梶様のファンなんですよ。貴方は私が貴方に興味が無いとお思いでいらっしゃったようですが、決してそんなことはありません。梶様のお話は人伝いにかねてから伺っておりまして、貴方のギャンブルへの姿勢やお人柄など、聞いている内にすっかり感銘を受けたのです。あぁなんて素晴らしい人だろうと、人知れず、貴方を深く尊敬するに至ったわけですよ」

 つらつらと弥鱈が並べ立てる。一連の発言と今日の出来事を振り返り、梶は眩暈を起こした。
 言われてみれば全てに辻褄が合う。貸しを妙に嫌ったことも指名理由に傷付いた顔をしたことも、弥鱈に覚えた違和感のあれそれは『弥鱈悠助は梶隆臣のファンである』の一文で全て説明がついた。弥鱈は自分に興味が無い。このそもそもの大前提が、梶の誤算だったわけだ。

「推しとかファンとかそんな……何も言わなかったじゃないですか。今まで」
「私推しのことは隠れて応援していたいタイプなんです。けれど一応、今日の最初に“推し事”とは言いましたよ」

 言っていただろうか。梶は少し脳裏を探り、すぐさま頭を振った。そんなことは今更どうでも良い。弥鱈が梶を推してるだとかファンだとか、そんなまろやかな表現は今更、返り血で汚れた靴を履いている弥鱈には不釣り合いが過ぎた。
 梶は先程弥鱈が呟いた、いやに早口だった台詞を一通り思い返す。所々何を言われているか分からなかったものの、導き出した答えを胸に、梶は深くため息を吐いた。

「こんなこと自分で言いたかないんですけど、弥鱈さん、僕のこと拗らせてませんか」
「…………」
「一般的な話をしますよ? 一般的にですね、ファンってあんな怒り方しますか? しないでしょ。僕そこまでオタクになったことないし、推し活? とかもよく分かってないですけど。でも、なんか違くないですかさっきの。僕ね、今回で男女だけじゃなくて世の中には男が男に~っていうパターンもあるって知ったんです。偏見のつもりじゃないけど、男同士だってそういうことはあるんですよ。……ええと、だからですね。言いますよ弥鱈さん。貴方が『そうじゃない』って、僕はもう自力じゃ断言出来ない」
「…………」

 弥鱈は沈黙を決め込んでいる。我の強い弥鱈は、的外れな発言をすればすぐさま反論してくるだろうと梶は考えた。少々でも否定する気持ちがあるのなら、「そんな訳無いじゃないですか」と三白眼で梶を睨みつけながら簡潔に一蹴すれば良い。だが現実は、梶が返答を辛抱強く待っても、一向に弥鱈は反論を口にしようとはしなかった。長いこと沈黙し、結局質問には答えないまま「そろそろ離してください」と梶がまとわりついている腕を軽く振る。
 明確に話題を避けている。要はそれが弥鱈の答えだった。

「……ちょっと離れますね」
「あぁはい」
「あの、これ別に弥鱈さんがキモいから離れるとかじゃないんで。普通にもうしがみ付いてる必要が無いから離れるだけなんで。そこはその、勘違いしないでください。僕はそんな所で人を攻撃したくない」
「あぁはい。存じております。だから推せるんですよ」
「はぁ………褒められてるっぽいけどピンとこね~~」
「反応全部推せる~」
「一回喋るのやめて~」

 梶は弥鱈の腕から離れ、まじまじと弥鱈の全身を観察した。スタイルが良い。顔立ちは一般的な美形とは少し違うかもしれないが、雰囲気があって好む人間は一定数いるだろうと思った。金も地位も年不相応に持ち合わせているだろうし、腕っぷしだって使い方はアレだが折り紙付きだ。性格はまぁ、応相談として。トータルすると弥鱈悠介はなかなかな優良物件である。だからこそ、だ。梶のこめかみがチクリと痛んだ。よりにもよって何故僕なのだ、弥鱈悠助よ。

 ようやく災難が去ったと思ったら、もっと厄介なものが梶のもとにやって来てしまった。負の連鎖に陥ったわらしべ長者がごとく、新たに抱えた悩みの大きさに梶は顔を覆う。
 気持ちは重く、シャボン玉は軽い。喋らない代わりに弥鱈の口から飛び出したシャボン玉は、責任を逃れるようにふわふわと上空へ上がっていった。

「………どうすりゃいいのコレ」
「今回の件、一回なかったことには出来ませんか?」
「いや無理ですよ流石に」
「困ります」
「うるせぇ僕の方がずっと困ってます!!!」