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「────び、ビックリしたぁ……!」

 梶が目をぱちくりさせている。驚きに心当たりのない弥鱈は、訝し気な視線を梶に向けた。
 美味しいか美味しくないかで聞かれたら美味しいと答えるが、絶品か否かで聞かれては否と答えるほかないコンビニの菓子パンを一口、弥鱈は数回咀嚼して小麦粉の塊をゴクンと無感動に飲み込む。正式な夕飯が後に控えているが現在小腹がすいている。そんな状況下において、とにかくこの一瞬だけ腹の虫を黙らせたい時にコンビニ飯は便利だった。昨今どんどんと内容量が減っているので、痩せの大食いである弥鱈には小腹満たしにしか使えなくなったともいえる。

「なにか私驚くようなことを言いましたかね」

 回答を待たずに弥鱈が次の一口に齧りつく。
 肉付きの薄い頬がパンで膨れていく様を見届け、梶の目が再度ぱちくりと瞬いた。

「えっそりゃぁ。だって、弥鱈さんはどうせ『普通です』とか、そんな言い方すると思ってたから」
「何の話です?」
「今ですよ。『貴方のことは好き』なんて、普段そんなハッキリ言うキャラじゃないでしょ。だからビックリして、ちょっと……いや、けっこうですね。テンション上がりました」

 梶の耳がじわじわと赤くなっていく。説明している内に実感が増したのだろう、「別に不安だったとかそんな面倒くさいこと言わないですけど」としょっぱい前置きをして、梶は少々幼さの残る、先日は男子高校生役を見事に演じきった顔に手をやって「へへっ」と笑った。
 耳から帯状に熱が伝播し、梶の頬がほんのり色付き始めている。角度のついた眉をへにょりと下げて元々タレ目気味な目尻を一層柔らかくすると、ただでさえ騙されやすそうな顔をした青年はことさら透明の純度を増した。
 別に弥鱈は清純派アイドルが好きというわけでもないが、梶のこういった表情は毒っ毛が無くて素直に可愛いと思う。(イチゴジャムみたいだ)なんていうガラにもない甘ったるい例えは、現在弥鱈が咥えているパンがジャムパンなことに由来していた。
 砂糖と熱が加わって、グズグズに煮崩れたイチゴは不格好だが甘くて万人受けする味だ。口の中の水分を全部奪っていってしまうような素っ気ないハードパンとは特に相性が良いが、なんだかこう言ってしまうと自分と梶の自己紹介をしているようなので、弥鱈は途中で思考を遮断し、自虐気味に残りのパンを口の中へと放り込んだ。

「スンッとした顔してるなぁ」

 梶がぶー垂れる。先ほどまで桃色程度だった顔は真っ赤に染まり、いよいよイチゴジャムの顔だった。仕返しとばかりに梶の指が伸びてくる。少しかさついた弥鱈の、膨らんだ頬を梶の指が気安く突っついた。
 他愛もないちょっかいだった。制止をかけても良かったが、弥鱈は口に物を含んだ状態でお喋りをしたくないし、それに梶のこういった命知らずな行動は案外嫌いじゃない。ビビリのくせに変な所で肝が据わっている梶の言動は見ていて面白いし、懐かれていると思えば気分も良い。梶の隙まみれで迂闊な所もいじり甲斐があって弥鱈は気に入っていて、だから総括すると近付けば近づくほどに梶は楽しい生き物で、だから弥鱈は梶をだいぶ構いたがって、なので先ほども、妥協してるだなんてトンチンカンなことを言われたものだから弥鱈は思わず────

 ここで弥鱈の動きが止まる。散々不満に思ってきた小さくなり続けるパンが、途端にぐんと質量を増した気がした。
 
 
 
「………あれ?」

 梶が不思議そうに声を上げた。
 パンを頬袋に押し込んだまま弥鱈が突然フリーズしてしまった。ほっぺを突いたから怒ったのだろうかと不安になって弥鱈の目の前でヒラヒラと手を振ってみるが、弥鱈は微動だにしないまま数秒経ってむぐむぐと咀嚼だけを再開する。なんだかこういうハムスターの動画をネットで見たことがあるなぁと梶は思って、掌で頬の熱を冷ましながら、梶はついに弥鱈をハムスターに例え始めた自分を(ずいぶん遠くまで来たな)と冷静に分析した。
 むぐむぐ。良家の出身らしく食べ方が綺麗な弥鱈は、大口を開けて物を齧ったり、口に物が入ったまま喋る無作法を行わない。
 口に入ったパンを粛々と処理しながら、次第に弥鱈の顔が、内側から火で炙られているように徐々に赤くなり始めていた。

「んんっ? 弥鱈さん?」

 梶が首を傾げる。ごくんと喉を動かした弥鱈は、そのまま発言などしないで固まったままでいる。弥鱈に変動はない。ただし顔は変色していく。そっぽを向いたまま天井知らずに赤くなって、気付くとその場には、梶よりも赤面した弥鱈が出来上がっていた。

「え、なんでそんな顔するんです?」

 聞いてみる。と、ようやく弥鱈が梶を向いた。口をパクパクさせたのち、何かを諦めたように顔を両手で覆う。手で隠せていない耳まで赤かった。
 はたと、梶は今までを思い返して気付く。

「まさか自分が好きって言ったこと気付いてなかったんです?」
「…………」 
「えっマジで? あんなはっきり言ったのに?」
「………………ゔぁ」

 指の間から何か漏れる。声というよりは音だった。喉を震わせ、苦し紛れの一音。
 それが世にも珍しい弥鱈悠助の鳴き声で、自分の目が初公開となる彼を今この瞬間収めているのだと、キモ冴えで知られる梶は瞬時に悟った。

「ええええ!? なにそれ!」
「ゔぁ」
「なにそれ!! やったぁ!!!!」

 思わず梶は雄叫びを上げる。何故だかヤッターという気分になって、両手を握りしめると勢いよく空へ掲げて梶は「ヤッター!!」と叫んだ。弥鱈は顔を覆ったまま訳の分からない歓声が上がったのでこてんと首を横に傾けてみせる。それが一層ヤッターだったので、もう一度梶の拳がヤッター! と突き上がった。

「えっ!? 本当に!? さっきの無意識!? えっえっ!?」
「いや、あの……」
「何ソレ可愛いじゃないですか! えっ、そんなん大分好きじゃないですか僕のこと! わぁ、コレあれだ、萌えって感情だ!」
「ちょ……もう良いじゃないですか……」 

 梶が騒ぎ、弥鱈が狼狽える。普段なら「黙ってください」などといって早々に場をおさめるはずの弥鱈が、そんな余裕もないのか、顔を隠したままヤメテヤメテと首を振っていた。

 『皆様ご覧ください! 偶然にも梶隆臣内蔵の視界カメラが撮影いたしました、こちら爬虫類系男子と名高い弥鱈悠助が己のポカに素で恥ずかしがって体裁を取り繕えなくなっている貴重映像でございます!』 そう梶は声高に叫びたい気分である。鬼の首を取った、などという意地悪な意味ではなく、ただ純粋に皆にこの弥鱈を見てほしくなった。
 なんてったって梶の相手は泣く子も黙る倶楽部賭郎立会人だ。何事も完璧にこなして当たり前の超人が、よもや恋人に好きだと口走ってしまっただけで慌てふためいているなんて、そんなの堪らなく愛しいではないか。

「ていうかヤってる時は普通に色々言ってくるのに素面じゃ照れるってなに!?」
「セックス中の発言なんてそもそもノーカンじゃないですか……情事下における言動は射精したらリセットがかかるという法則が……」
「……いやそんなルール無いよ!? アレですかツンデレってやつなんですか!? ちょっと! 何のゲームでそんなの覚えてきたんですか弥鱈さん!」

 可愛いが有り余って梶のテンションが妙なことになっている。何故だか詰問口調になった梶が尋ねると、指の間からは「ゲームというか貴方だと思います」という予想外の解答が返ってきた。

「僕にそんなモテテクニックがあるわけないでしょ! 濡れ衣!」

 梶は弥鱈の肩をガクガク揺さぶって言う。パッと顔を上げた弥鱈は「そんなわけはありません」と反論した。顔の熱に比例して、三白眼にはうっすら涙が浮かんでいる。

「うわ、やっぱ照れてる! 顔真っ赤! 弥鱈さんそんな顔出来るんだ!」
「やめてください」
「もっと見せて顔! ひええ、すごい! 弥鱈さんがまるで恒温動物!」
「まるでって何だ。元から私は哺乳類です」

 ぎゃーぎゃーワーワー言い合う。成人男性が二人して何をしているのだ、という話だが、梶は真面目に弥鱈の始めて見る一面に興奮していたし、弥鱈は真面目に自分の恥部を晒したのが屈辱過ぎてどうにか梶の記憶を消せないかと思案に暮れていた。
 そうして思う存分赤面する邪悪魔女を可愛いと褒めそやした梶は、普段の意趣返しをこれでもかと喰らいぐったりしている弥鱈をひとしきり笑ったあとススッと体を弥鱈に寄せる。ぴたりと腕同士を合わせ、少し高い位置にある弥鱈の肩に頭を傾けた。
 弥鱈が目を合わせると、梶は「ひひっ」、いたずらっ子のように鼻を掻く。

「ねぇ、夕飯までもう少しだけ時間ありますよね? ちょっとどっか入りましょうよ。人目が無いとこ。いちゃいちゃしましょ」
「少ししか時間が無いのでダメです」

 弥鱈がスパッと断る。またイニチアチブを握られそうな気配があって、弥鱈はそっと梶から視線を外した。

「そこをなんとか」
「じゃぁ飯キャンセルして良いですか。昨今のラブホテルの食事はなかなか侮れないらしいですよ。ステーキ丼頼んであげます」
「えぇそれは……佐賀牛……」

 本日はこれから鉄板焼きの予定である。少々値が張る店を予約しているので、肉食な梶は朝からずっとそわそわしていた。無論梶が今日の店を楽しみにしていることは弥鱈も承知しているので、弥鱈のステーキ丼の提案は、本心というよりは佐賀牛を牛質にとった冗談だった。
 恋人関係の二人が人目が無いところでいちゃいちゃしてちょっとで済むわけがないし、相手がノリ気なら尚のこと弥鱈はちょっとで済ませたくもない。
 さっさと肉食べて速やかにそういう場所に引き籠って寝るまでグチャグチャになることをしようと三大欲求に誠実な計画を立て、そうと決まれば早速弥鱈はスマホで近隣のホテルを物色し始めた。顔に似合わず弥鱈は行動力があるほうだし、おかげさまで金と体力には人並み以上に恵まれている。

「終わったらここなんてどうですか」

 近くて綺麗ですよ、と今しがた見つけたばかりの部屋を弥鱈が梶に見せる。スマホ画面に移った部屋は確かに鉄板焼き屋から近く、オープンから日が浅いようで設備も整っているようだった。ベッドはどの部屋も大きくて高級感があり、スイートなんて露天風呂に岩盤浴付きだ。まぁ風呂場の壁はなぜか、軒並みガラス張りだけれども。

「肉食った直後にヤるってなんか露骨っスね」
「ラブホ街の近くって焼肉屋多いじゃないですか。そういうことですよ」
「ラブホって単語には照れないんですね」
「そんな普段から照れません」
「じゃぁ好きって言ったくらいで照れないでくださいよ」
「別に私はその単語に照れたわけじゃないです」
「えぇ?」
「思っていても言うつもりは無かったのに、なんだか勝手に口をついたから」

 溢れたから焦ったのだと弥鱈は言う。職業柄、あるいは性格上自制が習慣化した弥鱈からすれば、制御が効かなかった言動は総じて恥扱いになるらしかった。
 ただ、逆を言えば管理下であれば何を言っても平常心でいられるようだ。赤面の余韻が残る顔で弥鱈はたった随分熱烈なことを梶に告げたが、表情はいつも通りスンとしていて、今度は発言を撤回しようという素振りもない。

「……変な人」
「そうですか?」
「変ですよ」
「はぁ。まぁ別に変でも生きていけるので良いんですけど」

 弥鱈はさして気にも留めていない様子だ。変人だと言われ慣れているんだろうか。言われ慣れていそうだ。梶は目立つことが苦手で、集団から弾かれることに恐怖を感じながら生きてきたが、弥鱈はその限りでは無いのかもしれない。

「他人事に思っていませんか? 多分ですけど、変な人に寄り添ってる貴方も傍から見たら既に十分変な人ですよ」

 思考を読み取ったように弥鱈が言う。そんな馬鹿なぁ、と軽口を返す梶に、弥鱈がケケッと彼なりにリラックスしている時の笑顔を向けた。紐が付いた風船のように、弥鱈の舌から生まれたシャボン玉が、彼の中から柔らかな言葉を引き連れて空に上がっていく。

「良いじゃないですか。仲良くやっていきましょう」

 
 不意に。
 先程弥鱈は“情事中の台詞は無効”と言ったけれど、もしかしたらベッドの上でやたらめったら口にする「愛しています」も、この人はどれか一つくらい無意識に口走っているのかもしれないな、と梶は思い始めた。

 愛しています、可愛い、俺のあなた。

 夜の弥鱈は饒舌だ。あんまりに饒舌で、普段全く甘いことを言わない人が夜ばかり別人よろしく睦言を垂れ流すから、梶は弥鱈のソレを房中術の類か洗脳に近い甘言だと推していつも心半分に聞くようにしていた。
 あの言葉たちが、もし弥鱈が日頃押し留めている感情の決壊だとしたら。それはちょっと、梶にとっては怖いことかもしれない。(これが本音だと思ったら痛い目見るぞぉ)と自分を戒めて聞き流していた弥鱈の台詞が、いずれも漏れ出た彼の心だったとしたらどうしよう。そんなのビックリして嬉しくて愛しくて、梶は背骨まで蕩けて、きっとくにゃんくにゃんになってしまう。

「……なんで貴方照れてるんです?」

 言われて梶は頬を押さえた。熱い。きっとまた性懲りもなく赤くなっているのだろう。今照れたり恥ずかしがったりしなくたって、近々どうせ全身火照ってしまうのに。

「誘発されました。悠助の誘惑に誘発。なんかギャグみたいですね。ウケますね」
「ウケませんけど」
「あ、はい」
「まぁたしかに貴方は悠助に受けますけどね」
「やっぱノリ良いんだよなぁこの人」

 夕飯までまだ少々時間がある。「もう一個パン食べて良いですか」と尋ねてくる弥鱈に、梶は「そういうところですよ、弥鱈さん」と悔し紛れに苦言を呈した。