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 あっ終わった、と思う瞬間が人間にはいくつかある。ボールを追いかけて公道に出る。学校で先生をお母さんと呼ぶ。明日だと思っていた面接が今日だったと面接官からの電話で気付く。「ここ前一緒に行ったよね」と恋人に笑いかけて、氷の微笑を湛えた相手に「誰と間違えてるの?」と言い放たれる。
  
 梶隆臣の「あっ終わった」は、それらと同じように唐突に、藪から棒に、青天の霹靂として、自業自得の結果梶の前に繰り広げられることとなった。

 
 
「門倉さんモテそうだから教えてください! 良いなって思ってる子をデートに誘うときってどうしたら良いですか?」
「では梶様もいい人止まりが多そうなのでご教示を。自分が良いなと思っている人物に恋愛相談されたらどうすれば良いんです?」

 門倉の隻眼が笑っていなかった。瞬間、梶は『あっ終わったな僕』と反射的に悟ったのだった。
 つい五秒前まで胸にあった浮ついたピンク色の空気は突風に攫われ、直後にビュウビュウ冷たい木枯らしが、『童貞成人自営業男性』と書かれたノボリを思いきり梶の寒空にはためかせ始める。お前そんなんだから童貞成人自営業男性なんだぞ、と言わんばかりの空っ風が梶の頬をビンタし、『うるせぇ! なんでこんなことに!』という梶の叫びは風の音に掻き消されてしまった。
 梶は恋愛経験が皆無に等しく、相手の好意にも鈍感だ。しかし決して地頭が悪い人間ではないので、学生時代はそこそこ国語の成績が良かった。文章問題も得意な方である。文章中の下線部を読み、登場人物の感情を読み取ることだって人並みに出来た。というわけなので、ただいまの門倉の発言が文脈的にどう考えても梶に向けられたものであることは梶にだって分かってしまう。良いなって思ってる人に恋愛相談されて『アハハマジかこいつよりにもよってワシにそれ言うんかい冗談きついぞも~~~~殺したろか』と門倉がバチ切れていることにも、残念ながら梶は一瞬のうちに考えが及んでしまったのだ。
 
(ヤバい。どうしよ。無理。終わった)

 良い人止まりで終わりそうと断言されたことに突っ込みを入れて「ちょっと門倉さぁん、そりゃないっスよぉ」と流すことも考えたが、相手がそんな生温い対応を許してくれないことくらいは短い付き合いの梶だって承知している。
 倶楽部賭郎が誇る百八人の精鋭。完璧の傍らに立つ彼らの、門倉は上から数えて三番目に序列される強者である。
 逃げ道が無い、解決策もない。梶は硬直した体をどうにか動かし、目の前の巨体からゆっくり視線を外した。
 先ほどまで梶の視線が置かれていた場所には、当たり前だが変わらず門倉の姿がある。恵まれた体格にいつもの腰元を絞ったロングスーツを着用した門倉は、何故だか今日に限って真っ当に美しい笑みで、梶の前に立ち続けていた。

「……あ、」
「あ?」
「あ、あは……あはは……」

 虚空を見つめる梶から乾いた笑いが出た。どうにか無音を埋めたくて、全くもって笑っている場合でも笑える状況でも無いのだが記号的な爆笑が梶の口をつく。

 えへへ。あはは。

 形だけでも笑っていると、梶の気持も少しは上を向────

「おや梶様。随分とご機嫌でいらっしゃる。僭越ながら、私も。ふふふ、あはは」

 ────かない。全然向かない。気のせい。もう地面か虚無しか見たくない。
 
 梶に合わせるように向かい合った門倉も笑い声を発語し始めた。低く深みのある門倉のバリトンボイスが笑うと、空気が心地よく揺れ、腹の奥まで振動が響いてくるように思う。

「へ、へへ。あははは」
「あはは。あはは」
「あははは」
「あはははは……ハァ。で、何でしたでしょう? あぁそうでしてたね、良いなと思っている人間を、デートに誘う方法、でしたか」

 口火を切ったのは門倉だった。今までのわざとらしい表情を払拭し、素の表情で胸ポケットから煙草を取り出している。
 さすがは数々の修羅場を乗り越えてきた立会人だけあって、門倉の持ち直りの速さには目を見張るものがあった。手袋に包んだ指でトントンとソフトボックスを叩き、門倉は顔を出した一本を器用に抜き取って着火する。
 地獄の刑罰かと思うほど息苦しかった笑いの応酬が止んだことは有難かったが、紫煙をくゆらせた門倉が「私の拙い経験から申し上げるもので宜しければ」で話を始めようとすると、梶は相変わらず合わせられない視線の中で「ひぃっ!」と悲鳴を上げるしかなかった。

「いや……あの……すいません! 教えてくれとは言ったけどあの、無理にとは言いません! ていうかもう大丈夫です! 自分でどうにかしますんで、はい! ナマ言ってすいませんでした! あの、忘れてください。聞かなかったことにしてください。何も無かったことに……」
「梶様は覆水盆に返らずという言葉はご存じですか?」

 梶の言葉をぶった切って門倉が言う。
 存じているが受け入れたくない時だって人にはあった。

「すいません許してください見逃してください殺さないでください」

 最終的に梶は神頼みに縋る。

「早口言葉ですか?」
「許してください見逃してください殺さないでください」
「三回噛まずに言えたからと言って事態は好転しませんよ」

 とはいえ門倉は無慈悲な夜の帝王なので、若造の敵前闘争をそう易々と許してくれるはずもなかった。
 門倉が話題を続行させる気だと悟り、ぶわりと湧き上がってくる冷や汗を梶は手の甲で拭う。勝負の場であれば会員を立て一歩後ろに下がってくれる門倉だが、残念ながらただいまは勝負中ではない。門倉と梶の関係性は現在一個人と一個人に過ぎず、更に言えば強者と弱者、年長者と年少者、捕食者と非捕食者、広島産伝説的ヤンキーとナチュラルボーンいじられキャラの間柄だった。どの角度から攻めても勝てるわけがない。本能が梶に『いやこれ絶対逃げられないよ』と告げ、やるしかないと強制的に梶の腹を括らせた。

 二、三度煙を吐き出した門倉はすっかり平素の空気を取り戻していて、ツンと澄ました顔で梶の蒼白した顔面をただ眺めている。
 先ほどの会話が梶の聞き間違いで無いのなら、門倉自身も話題の当事者なはずである。なんだったら失恋まがいの事実にぶち当たった門倉のほうが傷心は深いはずだが、彼は威風堂々としており、ダメージを被った気配も微塵として感じられなかった。これほどまでに『ブロークンハート』という表現が似合わない男が居るだろうか。梶の言動が門倉のハートをブロークンさせるより、梶のハート(別名心臓、ハツ、急所ともいう)を門倉が物理的にブロークンさせるほうがよほど簡単そうだし、実際現実的ではないかと思われた。
 話を続けるしかないと覚悟を決めた梶ではあったが、ではどのようなアクションを起こせば良いかなど見当もつかない。カタカタ小刻みに体を震わせる梶に、門倉は煙と一緒に苦笑を吐き出す。

「………そう怯えられるといじめ過ぎてしまいます。私と貴方の立場は同等だ。貴方だけが何か悪いことをしているわけでもない。堂々と立っては如何です?」

 呆れたような口調が続く。青い顔で俯きっぱなしの若者に、飽きたのか情を移したのか、門倉はわざとらしく肩を上下させてみせた。
 倶楽部賭郎二號立会人は己にも会員にも厳しい非情なルールの番人だが、こと賭郎から離れた場合の門倉雄大という男は、存外とっつき易くて気さくな“あんちゃん”である。下から慕われる機会が多いからか面倒見も良く、困っているガキを見るとどうにも放っておけない情に厚い性格をしていた。ただし一方で、人格形成において胎教から横浜銀蝿を聞いていたのかというほどヤンキーの根が深い門倉には少々悪ノリが過ぎるきらいもある。特に梶のように打てば響くビビリなど、門倉からしたら格好の遊び道具だ。
 ふと、自分が門倉のお気に入りであると自覚する梶は『もしかしたら僕、茶化されてるだけじゃない?』という考えに少々寄り道をする。分かっている。多分違う。多分違うのだが、可能性がゼロでないのなら一縷の望みを賭けたいのが恋愛弱者こと梶隆臣だった。いきなりお気に入りのオモチャが人並みに色恋を口にしたものだから、面白がった門倉が悪ふざけを敢行した。仮説としてはそれなりに筋が通っているし、何よりそうであったら梶は大変嬉しい。
 
 梶はもう一度額を拭い、意を決して門倉に視線を戻した。
 隻眼が梶を見止める。にっかりと笑い、門倉は口でも「弐っ」と言った。

「おや。久しぶりに目が合いましたね、人の心を弄び隆臣様」

 あっダメだ完全にクロだこれ。
 
 
 
 
 ※※※
 
 
  
 二週間ほど前のことである。賭郎の関係者に連れていってもらったガールズバーで、梶はとある女性と連絡先を交換した。僅かばかり梶よりも年上で、鋭い目つきと全方向に尖った言葉遣いが特徴的な女性だった。

「女慣れしてないね」

 席に着いた瞬間女性は梶にそう言い放ち、初手でボディに一撃入れられた梶が体勢を立て直そうとおしぼりで手を拭くよりも早く「つうか童貞だよね」と顎にもアッパーをかましてきた。
 なんでも女性は毒舌が持ち味らしく、弱そうな男に毒舌を売りつけることで自身の売り上げを保っているらしい。『それは毒舌ではなくてイジメでは?』と梶が思ったが、店側からすればどんな手法であれ財布から金を巻き上げられる女性の手腕は重宝するのだろう。梶には以降女性以外のキャストがあてがわれず、その後もしっかり女性の標的にされ続けた。
 梶は買う予定のなかった毒舌を売りつけられ、言われるがままボトルを入れ、何故かは知らないけど「待て」と命令されて犬のように三〇分間待ての姿勢をとった。膝の上に手を置いたまま微動だに出来ない梶の前で、梶が入れたシャンパンが届き、梶が参加しないシャンパンコールが鳴り響き、梶が味わうことなくシャンパンが女性によって全て飲み干された。とんでもねぇ話である。世の理不尽には大抵慣れている梶でさえ、このガールズバーでの一幕はシンプルに「なにこれ」と思った。

 言うまでもなく梶は場内で楽しい時間を過ごすことが出来なかったし、初めてのガールズバー体験は失敗どころか『ここはガールズバーではなく特殊なSMバーではないか』と途中から疑い始める始末だった。強い女性の尻に敷かれることは良い。数十万をいたずらに失うことだって人生長けりゃ一度くらいはあるだろう。だが、強い女の尻に敷かれて数十万を失うのはいくらなんでも梶側に旨味が無さすぎた。言いたかないがこちとら客だぞ。 
 散々たる初対面だったにもかかわらず、それでも連絡先を交換しようと持ち掛けてきた女性に梶は応じた。仕込み用ではなくわざわざプライベートのスマホを開き、片手ほどしか知り合いが入っていないメッセンジャーアプリに女性の名前を追加した。あんな仕打ちを受けておいて、何故梶は女性と連絡先を交換したのか。単純明快である。なぜなら彼女はとんでもない巨乳だったのだ。顔よりデカい球体を二つも胸にくっつけた女性は、顔立ちも性格も全く梶の好みというわけではなかったけれど『巨乳』というだけで梶の好感度をどこまでも釣り上げた。梶は根っからの巨乳好きである。おっぱいがいっぱいなら梶はもうわっほいだ。

 ガールズバーで初対面を果たした後、毎日一,二回の頻度でメッセージが二人の間を往復した。女性は酒が好きらしく、特にドンペリのピンクを愛してやまないらしい。とりあえず巨乳と物理的なお近づきになりたい梶はどうにかアルコールをダシに彼女をおびき出せないものかと二週間考えあぐねてきたが、まぁ何度も言っているように梶には圧倒的に経験が不足しているので、未だ最初の一歩が踏み出せないままでいたのだった。
 無い袖は振れないし無い恋愛経験は有効打など生み出せない。でもおっぱいにはどうにかにじり寄りたい。そのためなら周囲の男の胸筋にいくらでも泣きついてやる。梶の一連の行動は、つまりはそういうことだった。
 
 
 
 
「別に体目当てとかそういうのじゃないんですけど、どうせなら良い印象もってもらいたいじゃないですか。門倉さん格好良いし女の人にモテそうだし、だから助言を頼もうと思ったんです。ほら、スマートにエスコートしたいじゃないですか男なら。体目当てとかそういうのじゃなくて男ならホラ当然の気持ちとして。ね? 分かってもらえますよね?」
「なるほど体目当てではない。なるほど。まずその舐め腐った言い訳を否定するところから始めた方が良いですよ。人として」

 梶の言い訳じみた言い訳を一蹴した門倉は、己が頑として梶の相談を聞くと言い張ったにも関わらず、梶の相談内容を聞くや「しょーもなっ」と吐き捨てて新しい煙草を取り出した。
 相談しろというから従ったのにあんまりな態度だ。一応下心満載の体目当てクソ野郎の負い目がある梶は何も言い返さないが、『どうして門倉さんに相談しようなんて思っちゃったんだろう』という後悔は梶の中に着実に膨らんでいった。
 とにかく様々な意味でタイミングが悪かった。賭郎勝負の直後に女性から連絡が返ってきたこともマズかったし、どう返信しようかと悩んでいる時にパッと門倉が梶の視界に入ってしまったことも宜しくなかった。ある程度親しい口が聞けるようになった今でも、普段だったら門倉に恋愛指南なんて梶は怖くて頼めない。なのに今日は賭郎勝負の内容が良くて、梶は門倉をそれはそれは上機嫌にさせていたのだ。いかにも気が強い女からウケが良さそうな門倉が、ニッコニコの笑顔で「おうなんぞ相談事か? なんでも言うてみい」と親しみやすさ全開のあんちゃんスタイルで聞く姿勢に入ってくれたのである。そりゃ相談するだろうという感じだし、梶からしたら『そこから修羅場になるとは思わなくない?』という感じでもあった。

「女性など適度に会話に相槌を打っておけば勝手に食事に誘ってくれると思いますが」
「それは門倉さんだからですっ。僕が相槌を打ち続けたって、愚痴を言う時のサンドバッグに使われるだけ!」

 何気なく呟かれた門倉の言葉に思わず梶が噛み付く。モテ男とは違うんだ、というやっかみがどうしても言外に滲み出てしまって悔しかった。
 切れ長の瞳に嫌味なく通った鼻筋に適度な厚みのある唇と、門倉の顔面は万人受けのする涼やかな印象のパーツで全体が形成されている。顔だけでもなかなか居ない美形だというのに、その顔に日本人離れした恵体が組み合わさっているとくればモテないと思う方が難しかった。 
 梶は件の女性以上に門倉の私生活を知らないが、外見等から想像して(モテない理由も無いでしょう)と断言できる程度には門倉に対する評価が高い。ここだけの話、恋愛相談に踏み込むキッカケだって大部分は門倉の外見によるところが大きかったのだ。見るからにモテそうな門倉なら、仮に具体的な解決に至らなかったとしても、モテ男の責務というか喜捨の精神というか、とにかくそんな感じで洒落た店の一つくらい教えてくれるだろうと梶は考えたわけである。
 結果的に平地に大津波を起こす顛末となってしまったわけだが、梶の予想はあながち間違っていたわけでもないらしい。嫌そうに眉を寄せた門倉は、梶の姿を頭からつま先まで見回し釈然としない顔で言った。

「そもそも良い格好をしようと張り切ることが梶様には悪手ではないでしょうか? 同じ男として気持ちが分からなくもないですが、梶様の武器はその温和な姿勢と素直な物言いです。誰かを模倣して鼻につく言動を取るより、本来の誠実なお人柄を見せた方がよほど女性から好感を得られると存じます」

 すぱすぱと煙草を吸いながら、門倉の口から今度は意外なほど真っ当なアドバイスが飛び出した。先ほどまでの反応を見て、ただ童貞を扱き下ろされるだけになるだろうと覚悟していた梶は突然開けた視界に目を白黒させる。
 そういえばヤンキーだし喧嘩っ早いし諸々思想の癖は強いが、門倉雄大はどんな環境であっても最終的には責任ある立場に回ることが多い男である。なんだかんだいって真面目な性格の門倉は、今にも人を殺しそうな表情はともかく、梶の質問に真摯に回答するつもりはあるらしかった。

「奇をてらった方法やサプライズには頼らず、貴方とお話がしたい、ご都合のつく日に食事でもいかがですか。そのようにやや下から、懇願するようにお誘いするのが最適かと」
「な、なるほど」
「話を聞く限りお相手の女性はとても自己主張の強い方のようですが、梶様はそのお優しさから初回のイニシアチブを譲りがちなだけで、場をコントロールする技量は既に賭郎勝負で十分に培われているはずです。そうですね、例えばコース料理のみを提供しているホテルのレストランなどいかがでしょう? コース料理は時間配分が読みやすいうえ、常に理性的な人間の目があるホテルであれば女性も横柄な態度は取りにくい。現地集合にして二人きりになる瞬間を極力減らさえおけば、梶様ならスムーズに場を掌握出来ますし、フラットな関係でお食事を楽しめると思いますよ。貴方は若く金もある。冷静になればお相手も貴方が好物件と気付くはずです」
「すごい! 僕のことめちゃくちゃ分かってるじゃないですか!」
「えぇ。貴方をお慕いしておりますから」
「ひょえっ!!!」

 突然の直球的な告白に梶が鳴き声を上げる。いやさっきからそういうコトってのは分かってたんだけど! と誰にいうでもなく弁明して、梶は大きく体を仰け反らせた。
 隙あらば藪をつつく自分の迂闊さもどうかと思うが、好き勝手爆弾をぶち込んでくる門倉についても梶は頭を抱えたくなる。今の瞬間まで巨乳への活路が拓けてきた気がしていたのに、たった一言のせいで梶の頭の中は門倉だらけだ。あたふたする梶の姿は、傍目には滑稽であったし、門倉の溜飲を下げたし、何より一回り年下の男に恋慕しているアラフォー男の庇護欲を掻き立てた。
 門倉はしてやったりといった表情を浮かべ、次には口の端を歪に釣り上げると体を ぐるんっ! 勢いよく丸めて自分よりも低い位置にある梶の顔を覗き込む。百面相する梶と強引に視線を合わせた門倉は、梶が「うひゃぁっ!」と叫ぶんでも気付かない素振りをした。

「では、次は私の側がアドバイスをいただいても?」

 顔と慇懃な物言いが一致しない。梶は高速で瞬きをし、カラカラになった口で聞き返す。

「アド、バイ、ス?」

 門倉が頷く。伏し目がちにすると途端容姿に本来の美しさが戻るので、梶は何とも言えない気持ちで唾を飲み込んだ。

「お恥ずかしい話なのですが初めての経験なのです。良い人止まりで終わるのは」

 自虐するような言葉は、やはり門倉から滲み出る威圧感には不釣り合いだった。
 口元は不自然なまでに吊り上がっているが、ようよう間近で捉えた門倉の瞳の奥、梶は明らかな苛立ちを読み取っていた。いや、苛立ちなどという言葉では生温いかもしれない。この赤々と燃える炎は憤りだ。『おどれようも舐め腐った真似をするのぉ』と、目の奥が梶を責め立てていた。
 何度目かも分からない悲鳴が梶の喉を震わせる。極度の緊張だかストレスで梶の脇からは止めどなく汗が流れ、当の梶本人でさえツンとした汗の臭いを知覚した。常人の梶でコレだ。脳の損傷により後天的に嗅覚が異常発達している門倉などさもありなん、と梶は思った。

「は、初めて……」
「えぇ、初めてです。なので現在私は大変困惑し、瞠目し、心労がたたっております。梶様は私などとは違い経験豊富でいらっしゃいますから、きっとこのような首を括りたくなる状況であっても乗り越え方をご存じなのでしょう?」
「ひっ……!」
「本部で姿を見つけるたびに話しかけ、指名だけでなくフリーの立会もどうにか己が入れるよう根回しをし、好みそうな飲み屋や食事処など、細々と調べては足繁く現場に通ったのち素知らぬ顔して意中の相手に提供してまいりました。以前は警戒して常に怯えていたような方が、己に懐き、微笑みかけてくれるようになりましたので、あぁやっとここまで来た、あと一息だと安堵の息をついていたところでございます。なのにそれは、全てこの門倉の思い違いだったようで、お相手様からすると全く眼中にない男の行いだったのです。いかがでしょう梶様? このような状況下でお相手様に他者との恋愛相談などされますと、私のように経験が浅く未熟な人間などは、今この場で相手の身体を引っ掴み己のねぐらへ引きずり込んでやろうかと思ってしまうのですが────どうかご教示ください。梶様、このような場合、門倉は如何様に行動することが最適なのでしょう?」

 門倉の鼻がヒクンと動く。男の汗臭さなど不快でしかないはずだが、門倉は続けざまに鼻を引く付かせ、においで梶の存在を味わっているようだった。

(───い、如何様にと、言われましても……!!!)

 梶はサァっと引いていく己の血の気を感じつつ、必死に頭を動かしてみる。
 最適もなにも、梶の経験上そんな状況に置かれてしまったなら「残念だけど諦めてください」としか言えない。門倉の言うように梶は良い人止まりで終わることが多く、最近けっこう話しかけられるな、もしかして相手も僕のこと……! と思えば大抵、その数日以内に切羽詰まった様子で食事に誘われ、「実は私〇〇くんのことが……」とその場に居ない男の名前を出されるのが常だった。
 良い人止まりの残酷さは、進展はないが後退は存在するところにある。例えばここで相手の思わせぶりを指摘しようものなら、その瞬間梶は『相談しやすい良い人』から『信用して頼ってきた人間を裏切った思い込みの激しい人』に成り下がってしまい、そうするとこの評価の下落は、ほぼ確実で周りの人間関係にも余波を及ぼすのだった。
 良い人止まりの玄人こそ梶隆臣の対処法はこうだ。まずはどうにかその場でへたくそな笑顔を作り、〇〇くん良い奴だよね、応援するよ! などと心にもないことを言う。そして自分が相手に行った下心ありきの親切などは一切無かったことにして、自分が相手としたかったこと、良いなと思うに至った相手の些細な仕草や長所をいじらしく上げ連ねたのち「絶対うまくいくよ! 頑張って!」で場をまとめるのだ。そう、良い人止まりで終わった場合の最適解とは、『良い人を持続したままフェードアウト』、それだけなのである。
 どうせ良い人などというのは正式名称を『どうでも良い人』といい、本命を手に入れてしまえば使い終わった紙ストローのように使い道が無いものだ。良い人側はただ最後の瞬間まで良い人を貫いていれば、別段努力しなくとも気付けば女の中で居ないもの扱いされる。「あぁ梶くん? 良い人だよ。絡みやすいし」 そんな風に周りの友人に風潮してもらえたえあ良い人としては御の字だ。
 梶の用意出来る回答はこのような調子だった。これ以上のベストアンサーは梶の中に存在しないわけだが、しかし、こんなことをよりにもよって苛烈で有名な弐號立会人に言って良いものか。
 自分に向けられた言葉ならともかく、これらは今から門倉本人に向けられるものである。結構しょっぱいシチュエーションの話になってしまうし、何だったら話の中で梶は堂々と門倉のことを『どうでも良い人』とか『勝手に居ないもの扱いされる』などと言ってしまっている。大丈夫だろうか。これを言って社会から居ないもの扱いになる人物は自分では無いだろうか。物理的に。

 様々なことを考えたのち、梶はおずおずと挙手し「御進言しても?」と控えめに切り出した。

「どうぞ」
「ええっと……まずは応援してるよって言ってあげることですかね」

 おっかなびっくりの梶が言う。決して門倉が本気でアドバイスを求めているだなんて思ってはいないが、やっぱり聞かれた以上は何かしら答えを言わなければ後が怖かった。

「応援などさらさらしたくないのですが」

 ところが門倉は梶のアドバイスを初っ端から否定してくる。さらさらしたくないと言われ、ひぃっとまた梶の喉がひきつった。
 そんなの分かってる。自分だってかつて相談された時は本心から応援する気になどなれなかった。けれど、一先ずは応援しなければ前に勧めないのだ。
 梶は深呼吸して気を取り直す。酸素が意識の表面を上滑りしていく感覚があったが、『大丈夫深呼吸したし気は取り直せたうん!』と己に言い聞かせて鼓舞とした。

「その、相手のことを良いなって思ったってことは、それだけ自分がその子の長所に気付けてるってことじゃないですか。だから、相手に自分が良いなって思った相手の性格とか行動を教えてあげるんです。そうしたら相手は自分の武器が分かって、より効率の良いアタックが出来るでしょう?」
「なるほど……梶様の長所は、先程も申し上げましたがそのお人柄と真っ直ぐな発言ですね」

 聞いてるんだろうかこの人は。
 間違ってはいないが、何かが違う。梶は言った傍から還元されていく己のアドバイスに困惑し、答えを求めるように門倉の隻眼をまじまじと見た。相変わらず目の奥は怒っていて、一向に引いてやろうという気配が見当たらない。変な話だが、こんな強い瞳を持った人間に良い人止まりが務まるとは梶には到底思えなかった。

「梶様は素直な性格でありながら分別があり、相手を尊重して一定の距離を保つ忍耐強さもある。選ぶ言葉は耳に柔らかく、けれどしっかり芯が通っているので信頼が出来ます。あぁ、貴方の少しだけ鼻にかかった声も、甘ったるさが可愛らしくて私は好きですよ」
「あ、うぅう……」

 いたたまれなくなって梶は顔を覆う。意趣返しだとは分かっているが、こうもはっきり褒められると気恥ずかしかった。
 門倉とはそれなりに砕けた話題で盛り上がるような仲になっていたが、勿論相手の長所だとか、好ましいと思っている点をお互い挙げ合って褒めそやすことなどしたことはない。門倉に自分が優れた点を見出し憧れることはあっても、その逆など、完璧の傍らが駆け出しギャンブラーに長所を見つけるなど、梶は想像することもおこがましかった。

「僕、そんな大層なもんじゃないッスよ」
「何を謙遜なさいます。貴方は今や誰もが認める優れたギャンブラーで稀有な青年です。惚れた欲目が無いとは言いませんが、“大層なもの”に決して過言はありません」
「………」
「えぇそうです。己の好意が一方通行なものだったと分かり、私はいま不機嫌というか、なんと無様だろうと激しい自己嫌悪に苛まれています。けれど今梶様に向けた言葉は、その感情とは無関係です。なんの誇張も、嫌味も全く含まれてはいません。この門倉、立会人としての在り様に生涯の誇りを持っております。どのような理由があろうと、己を偽って勝負師を称賛するようなことだけはしない」

 門倉が口を真一文字に結んだ。歪めていた眉を解き真顔に戻ると、今までの不気味さや不穏さが嘘のように立ち消え、梶の前には涼やかな美形が現れる。脈略もなく至近距離にやってきた美しさに、梶は輝きをモロに浴びて目をチカチカさとせた。
 隙あらば下卑た笑みを浮かべているので忘れそうになるが、門倉という立会人はひどく整った容姿をした男である。梶の周りには斑目貘を筆頭にマルコや切間創一などそうそうたる美男子が揃っており、日頃から彼らと接することで梶の審美眼も養われていたが、それでも門倉のことはふとした拍子に(格好良い人だなぁ)と見惚れることがあった。これは恋愛感情云々ではなく、素直な造形美に対する賛美だ。門倉は斑目たちに混ぜても全く引けを取らないどころか、時には彼らを牽引するほどの造作を有していると梶は個人的に思っている。
 貘のような華やかな美貌とも、マルコのような活力に満ち溢れた健全な美しさとも少し違う。凛々しく堅実な整い方をした門倉の容貌は絢爛豪華というより理路整然と表現した方が正しく思え、“これ”という絶対的に優れたパーツがあるわけでないが、良品が指定の場所に寸分の狂いなく配置される一種の心地よさがあるように思えた。斑目貘が足し算の美貌であるなら、門倉雄大の美貌は引き算だ。崩れが無いということも一つ、美形の絶対的な条件なのだと門倉を見ていると思い知る。

「そ、んな目で……見られても、困ります」

 梶はゴクリと生唾を飲みこみ、自分でも予期しない一言を発した。
 そんな目、とは何を表現した言葉だろう。門倉の隻眼そのものなのか、その隻眼が放つ熱を帯びた眼差しなのか。

「この目は生まれついてこの形ですし、もし私が梶様に向ける感情についておっしゃっているのであれば、私も止め方など分からないのです。私とて言われても困ります」

 門倉は淡々と返し、へた、と眉を下げて見せた。少し気弱そうな表情も様になっている。門倉が気弱である時など世界滅亡の瞬間にだって存在しえないだろうに、色男はこれだから罪だった。

「それと、梶様の相談を聞いて強く思ったのですが。この案件、どうも私が身を引いてやる義理は無いように思うのです。梶様のお気持ちと私のソレで、さすがに大差が無いとは申し上げにくいし、言いたくもない」
「あ、ぅ……」
「お相手の体目当ての貴方と、己の全てを貴方にくれてやろうという門倉。どちらが我を通して然るべきか、お優しい梶様なら分かってくださいますでしょう?」

 門倉の隻眼が、勝負だと言わんばかりに柔らかく細められた。今までとは明らかに使っている表情筋が違う門倉に、梶は『あ、仕掛けられてる』と何となく察する。
 絶対的な強者で男らしい門倉は、きっと意中の相手を口説くときも男らしく強引に行くのだろうと思っていた。黙って俺のものになれと命令口調で、有無を言わせぬ態度で押し切るのがヤンキーの求愛行動だと梶はボンヤリ想像していたのだ。
 けれど、どうやらそれは違うらしい。現在門倉の口もとには緩く弧が描かれている。万人受けするクセの無い笑みが、梶だけに向けられていた。(アンタそういう顔やろうと思えば出来るんかい)と失敬スマイルしか知らなかった思わず梶は突っ込んでしまうが、門倉からすれば単なる贄にわざわざこの顔をしてやる理由もなかったのだろう。
 正しく美しい人が、正しく美しい顔で自分を見つめている。梶の身体に甘い痺れが走り、今日まで頭の中を占めていた意中の乳房が、急に薄ぼんやりと、輪郭を曖昧にしてただの盛り上がった小山と化していった。

「梶様のアドバイスを聞いて痛感したのです。私のような未熟なものにはとてもとても、良い人止まりなどという高尚な行いは出来そうにありません」

 なんとも嫌味たらしい台詞である。梶は己を律してどうにか門倉を睨みつけようとするが、門倉は目を合わせてきた梶に嬉しそうにゆっくりと瞬きしてみせるので、梶の少ない恋愛経験では善戦のしようもなかった。先述の通りである。無い袖は振れないし、無い恋愛経験は有効打など生み出せない。

「梶様……」
「ひっ、やめ、そんな声で呼ばないでっ」
「無理です。貴方が良い人止まりにしかなれぬように、私ももう貴方にはこのような声で語りかけることしかできない。各々の行動範囲の限界がここなのです。どうかご容赦を」
「そ、そんな言い方ズルい! だ、だって良い人っていうのは、存在してたら勝手にフェードアウトするもんなんです。アドバイスをするだけしたら、やっぱり貴方は良い人だねありがとうって、感謝されて、そこからその子の視界に入れなくなる。だから頑張らなくても、本当は良い人止まりなんて……」

 簡単で、までは言葉が続かなかった。まごついた発言の最中から、既に梶の視線は門倉から離せないでいる。しどろもどろで答える梶を見つめて、門倉は変わらず緩やかに微笑んでいた。目の奥の炎はすっかり沈静化しており、今は炭のようなものが燻って、梶を、じんわりとした熱を孕んで見つめている。
 門倉の足が動いた。一歩梶の方へと踏み出した門倉が、梶の手を取って、ゆっくりと己の手袋でそれを包み込む。

「本当に? 私のように図体も態度もデカい男を、視界に入れないほうが、よほど大変ですよ?」

 あ、仕留められる。
 今度ははっきりと梶も分かった。
 肉食動物の牙が首にかかった獲物は、きっとこんな気持ちなのだろうと思う。どうにもならないと全身が悟り、食われる準備を本能が始める。性別がどうとか門倉さんのこと僕今までどう思ってたっけだとか、簡単なことにまで頭が回らなくなっていた。ただ体がふわふわとしていて、梶はどこか夢見心地な気分で言う。

「……そう、ですね」

 門倉が一瞬歯を見せた。勝利を確信して、ギラリと犬歯が光る。

「えぇ。だから諦めて、この門倉をご覧あれ」

 門倉の顔が梶に近付いてくる。
 全てが狡かった。結局経験の差というより、二人の勝敗を決定づけたのは種族の違いだったのかもしれない。『なんだよ。こんなの、だったら最初から勝てないんじゃん』梶はそう恨み言を頭に浮かべながら、観念して目を閉じる。唇に押し当てられる熱と勝利の報酬として回された門倉の腕に、半ばやけになって体を預けた。
 二つの小山が頭の中で逞しい男の胸筋にすり替わる。まぁこれも、おっぱいっちゃぁおっぱいだから目標達成? 梶はそう考えを改めて、いつかの良い人止まりだった自分がやったことと同じく、女性におこなった下心有りきのあれそれをついぞ忘れることに決めた。