梶隆臣の屋形越えは失敗に終わったが、命を奪わない勝利を模索した彼は結果として敗北が決まった瞬間も五体満足の身体を維持していた。
屋形越えに採用される勝負は基本的に命が賭けのテーブルに上げられ、その勝敗はほぼ生死の有無と同義である。今回の屋形越えも例に漏れずプレイヤーの命が削られていくゲームであったはずなのに、梶はきちんと勝敗がついてなお、しゃんと二本の足で立って、己の専属が「勝者 お屋形様」と温度の無い声で言い放つのを自身の耳で聞いていた。
「途中までは順調だったんですけどねぇ」
梶が笑い、机の上に散らばったサイコロや小道具を元のケースに戻していく。「立つ鳥跡を濁さずってやつです」とジョークを飛ばす梶に、しかし今回笑ってやる人間は周囲に居ない。梶にとびきり甘いことで知られるお屋形様の斑目貘でさえ、今日ばかりは苦々しい顔で「それ、ブラックジョークすぎ」と言った。
屋形越えの挑戦者梶隆臣は、長くお屋形様の右腕として倶楽部賭郎に貢献してきた人物である。
新進気鋭の若者はいつからか賭郎を代表する博徒になり、年々彼の元には吸い寄せられるように金と権利と縁が集まった。温厚な梶は同時に多くの人々に慕われる存在であり、梶自身もまた、組織内外の人間と良い関係を保ってきた。誰もが梶の幸福を願い、彼の未来がこれからも続けば良いと願いを重ねている。
祈りに嘘はない。
けれどルールは絶対なので、梶はもう間もなく、命を取り立てられる手筈となっていた。
「いやぁこんなに元気な屋形越え失敗者って多分史上初だと思うよ。俺二回やったけどどっちも勝負中に死ぬかと思ったもん」
「へへ、凄いでしょ。自分の命もですけど、貘さんの体も欠けることなく勝負が決まって良かった」
「あんなやり方しないで、普通に勝負してたら君が勝ってたんじゃないの」
「どうでしょう? 仮に勝ったって駄目ですよ。どっちかが死んだら、その時点で僕は僕の勝負に負けてた」
お屋形様こと斑目が歩み寄ってくる。梶の首に掛かっていたゲーム用の首輪を外し、今はまだ傷一つない彼の首に手を押し当てた。皮膚の下を走る太い血管が、どくりどくりと命を巡らせている。かつて些細なゲーム一つにも顔を土色にしていた青年は、今は死を目前にしても、脈が走るようなことはなかった。
「取り立て、どうする?」
「門倉さんにお願いします。そういう約束だから」
梶が門倉を見やる。勝者を宣言したあとも、門倉は変わらず仁王立ちで凛とその場に立っていた。出会ってから幾年過ぎ、それなりに各々年を重ねたはずだが、梶の一回り年上らしい人物は当初の男ぶりから一切の衰えを見せずに今日に至っている。
「僕が負けても、門倉さんには何のペナルティも無いんですよね?」
「うん、事前に全部決めたからね。門倉さんは優秀な人だし、これからも賭郎で働いてもらうよ」
「よかった」
「門倉さんもそれで良いんだよね?」
話を振られ、門倉が静かに頷く。今日の記念にと固めてきたポンパドールが揺れた。
通例であれば取り立ては即刻速やかに執り行われる。逃亡の懸念があることは勿論、既に当人のものでは無くなった命を、持ち主でもない人間に預けておく謂れはないからだ。
取り立ての執行人に任命された門倉は当初、勝敗が決した瞬間に自分が処刑人となることを覚悟していた。
しかし実際は、斑目は梶と何度かの世間話をし、時間を持て余した梶がテーブルを片付けている間も「じゃぁそろそろ」と号令をかけない。
訝しむ門倉がチラ、と斑目を見る。梶もゲーム前の状態に戻った机を前に、居心地が悪そうな顔で斑目に視線を向けていた。
「お屋形様、そろそろ」
「あーうん。そうだね。うん。うん……」
痺れを切らした門倉が声をかける。と、今までモデルのような立ち姿を保っていた斑目が、へなへなとその場に座り込んだ。膝を抱えた斑目は、顔を埋めたまま「うん。そうだね」と独り言ちている。
同情してやる気などサラサラ無いが、気持ちの理解はつく。門倉はそんな思いで、足に力が入らないでいる斑目を見下ろしていた。
「貘さん、そろそろ」
そんな斑目に声をかけたのは、渦中の人であり、今から死ぬ予定の梶だった。
いわば死刑宣告を待つ死刑囚の立場であるはずの梶は、遅刻寸前の子供を諫める母親のような口調で「早くしないと、お屋形様のメンツが潰れますよ」と言う。
「うん、そうだね」
「さっきから同じこと言ってるじゃないですか。分かってるんだったら、ほら」
「うん。うん」
「貘さん」
「うん……」
散々同じ台詞を繰り返した斑目は、結局そのあと、急にすっくりと立ち上がって取り立てまでに時間を設けると言った。
何日間といった纏まった話ではないが、遺言を遺したり別れの挨拶が電話口で出来るようにとの計らいだった。破格の待遇であることには変わりないものの、この場から逃走出来るほどの希望が生まれるわけでもない。お屋形様の我儘が通る、ここがイレギュラーの限界値だった。
「溺愛してたって知ってるでしょ。今までの賭郎に対する貢献度も加味したら、このくらいの贔屓は許してよ」
そう言って斑目は自分の付き人である夜行や執行人の門倉に深々と頭を下げた。
溺愛はともかく、お屋形様の腹心として梶が挙げた功績にはたしかに計り知れないものがある。夜行は粛とした顔で「異論御座いません」と頭を垂れ、門倉もそれに倣った。
「御随意に」
途端、門倉の右手が思い出したかのように震え出す。
折角気合を入れたというのに、集中を遮断され、醜態を簡単に晒す我が身が鬱陶しかった。
「さて、どうする梶ちゃん? マー君、最後に会っとく?」
「止めておきます。会ったらきっと泣いちゃうし。ずっと大好きって伝えてください」
「うん。あと連絡入れたい人は?」
「カールさんやフロイドさんには念の為別れの挨拶を済ませといたから……あとは……」
チラ、と梶が門倉を見る。何か言いかけて、曖昧に笑って終わった。
「あとはチャンプさん達ですけど……きっと本当のこと聞いたらショックを受けると思うんです。僕のことは交通事故ってことにしてもらえますか?」
「分かった」
梶が淡々と支度を整えていく。この場に及んで一般人を気遣う姿勢も、門倉に何か言いかけて押し留めた物分かりの良さも、門倉には腹立たしかった。拳を握り、砕けるほどの圧を奥歯に掛けている自分が一層惨めに思えてくる。
微笑をたたえる斑目だが、少しずつ沈黙が増えていた。梶と一言喋っては黙り、一度頷いては顔を持ち上げることが出来ずに目が床を舐める。勝負が終わり『嘘喰い』から離れてみると、斑目貘というのはただの家庭好きな男である。この男の度が過ぎた家族愛に、門倉は散々手こずらされたし、また時には感謝した。かつて梶を救ったのは間違いなくいま門倉の目の前にいる男であり、門倉が梶に向けた情熱を荒んだ家庭環境で育ってきた彼が素直に受け取ってくれたのも、きっと先に、斑目から愛情の受け取り方を教わっていたからだ。
自分の人生は嘘喰いに狂わされた。結果として梶もこれから嘘喰いに人生を喰われようとしている。梶を負かした嘘喰いのことは素直に「流石でございます」と称賛が出来るが、梶をデートに連れ出そうとする己を散々邪魔して、ことあるごとに家族マウントを取ってきた“貘さん”のことは、門倉はいま、どんな顔で見たら良いのか分からなかった。
「……梶ちゃんごめん。俺やっぱ、耐えらんない。もう行くよ」
三度視界が床に逃げた後だった。長いまつ毛を伏せたまま、斑目貘はとうとうこの場からも逃げ出すことにしたらしい。
「じゃぁここでお別れですね」
「今までありがとうね梶ちゃん。俺の相棒。愛してるよ」
「きちんと最期にお礼が言えて良かったです。こちらこそ、今まで本当にありがとうございました。貘さんに出会えて良かった。僕も貘さんが大好き」
二人は最後にしっかりと抱擁し、頬にはキスを贈り合った。
くるりと踵を返した斑目は梶を振り返らない。梶も斑目を追うことはしなかったが、久しぶりに感情を露わにして、わななく唇を静かに噛みしめていた。
二人の間にあるのは命の奪い合いを行った恩讐ではなく、相手を惜しむ温かく柔らかな家族の愛だ。それほどまでに慈しみ合っていてもなお命を奪うというのだから、勝負とは、ギャンブラーの絆とはなんなのだろう。
門倉は部屋を出ていく斑目の背を見送る。これからやって来る『瞬間』から逃げられた斑目を羨ましいとは思わなかった。斑目貘はギャンブラーで、自分は倶楽部賭郎の立会人だ。羨ましくはなかった。羨ましいと思っては、自分が終わると思った。
斑目が退席し、部屋には梶と門倉、数人の黒服を残すのみとなった。
ここからはカウントダウンが始まっていく。思考を立て直す前に無意識のかじ、が出かかった門倉を、梶の「あ!」という素っ頓狂な声が押し退けた。
「しまった! ちょっと時間を設けるとは言われたけど、具体的に何分って聞いてない! 僕いつ死にゃ良いの!?」
「おい」
ずる、と門倉がずっこける。間違ってはいないのだが、厳粛にして神聖な粛清行為において『いつ死にゃ良いの』はないだろうと思った。
周りの黒服達も複雑そうな顔で梶を見ている。梶は己の失言に気付いたのか、バツが悪そうに「えへへ」と笑った。この気の抜けた笑い声が門倉はたまらなく好きだった。聞けて嬉しい反面、こんな場所で聞きたくなかったと門倉はこめかみを揉む。
「もうちょっとそれらしい態度は取れんのか」
「あれ? 門倉さん、モードチェンジしました?」
「いやしたかなかったよ。なかったけど、おどれがあんまりにそのまんまじゃから、そりゃワシも気ィ抜けるわ」
「で、どう思います? 門倉さん」
「どう思いますってそんなん……梶が納得した時でええんやないの。合わせるよ」
「いやぁ流石に自分でGOサイン出すのはちょっと……別に死にたくて死ぬわけじゃないんで……」
梶としては何気ない一言だったが、その台詞に黒服の何人かが息を呑むのが分かった。
死にたくて死ぬわけではない。当たり前なのだが、あまりに梶が飄々としているものだから場の全員がどこか忘れていたのかもしれない。かつて門倉が専属を勤めたあの島で、死に場所を求めて戦っていた青年が随分と成長したものだ。
「貘さんに聞いた方が良いのかな」
「アホか。会える顔しとるわけないじゃろ、今のお屋形様が」
「そうですかね」
「ぐっちゃぐちゃだぞ。おそらく顔面。既に」
「貘さんのあの顔が?」
「ほうよ」
「ぐっちゃぐちゃ」
「ぐっちゃぐちゃ」
「想像できないなぁ」
「おう。その調子で想像してやるな」
困ったなァと梶が周囲を見回す。誰か携帯持ってませんか? と視線を向けられた黒服達は、ヒッと呼吸を詰めて服の上から自身のポケットを握りしめた。場に残っている黒服達はみな、門倉の息がかかった私兵である。梶とも少なからず関りのある人間が多く、皆一様に、自分の持ち物が梶の命にリミットを設けることを恐れていた。
「梶」
「はい?」
「これあげる」
そう言って門倉が差し出したのは、一本の紙煙草だった。
門倉の胸ポケットからやってきた煙草は普段彼が愛煙している銘柄のものであり、何の変哲もない白い巻紙に、一本フィルター線が印字されている。
「煙草?」
「時間制限が欲しいんじゃろ」
「あ、あー! なるほど、一服分」
合点がいったようでポンと手を打つ。
二人でどこかに出かけるたび、ヤニ切れを起こした門倉を梶はいつも喫煙所の扉の向こうで待っていた。急いで吸ってもゆったり吸っても、梶はいつも文句も言わずに大人しく待っていて、「おまたせ」と言うたび「もう良いんですか?」としか門倉は返されたことがない。
煙草一本がもたらす時間は梶にとって長いのか短いのか。もし『煙草一本分じゃ短すぎます』と言われたら葉巻でも調達してこようと門倉は考えていたが、想像の通りというか、梶から異論は出なかった。
「明確にあと何分と計れるものではないが」
「いいんです。これにします」
門倉から受け取り、梶はそのまま口に煙草を銜えた。火が付かなければ永遠に長さを保っていられるソレを、梶は躊躇いなく「火も貰えますか?」と尋ねて開始の合図とする。
「ちょっと待て」
門倉は一歩梶から遠のき、すぅ、と息を鼻から吸った。
発達した嗅覚が梶のにおいをとらえる。門倉を気遣い極力匂いの出るものを使わない梶からは、いつも純粋な彼自身のにおいがした。
今日は勝負中に汗をかいていたからだろうか、普段よりも梶の気配が濃い。
所詮男の汗の臭いなので芳しい類のものではなかったが、二人きりの夜に漂い、門倉を満たしたニオイに最後触れられたことは、門倉にとって何よりの餞別になった。
鼻から吸った息を口から吐き出し、何度か繰り返すと門倉は立会人に戻る。煙草を棒付きキャンディーのように加えた梶が、「あ、お別れ言えなかった」と少しだけ残念がった。
「顔をこちらに寄せていただけますか」
「ん」
門倉がライターを取り出す。淡く揺れる火に梶が顔を寄せ、煙草の先を炙った。
音もなく着火し、白かった煙草に赤が灯る。
知識はあるがあまり経験のない梶は、勢いよく吸い込み、盛大にむせた。
「ゲホッ……つ、強いなこれ……タールいくつの煙草なんです? 多分だけど、相当重いやつでしょ。門倉さんどんな銘柄吸ってましたっけ?」
何度も目にしてきた喫煙姿だが、日頃煙草を嗜む習慣がない梶にはなかなかケースに書かれた名前が定着しない。
顔を取り囲む煙を払い、燻されたのか、目に涙を浮かべた梶が尋ねた。
「名前なんてありませんよ」
門倉が言う。梶が眉を顰めた「そんな煙草あります?」
あるわけがない。だが門倉は内ポケットに入っているボックスを取り出すこともなく、もう一度「名前なんてありません」と繰り返した。
そうして灰が溜まり始めた煙草を一瞥し、背筋を伸ばす。
「強いて言うなら、門倉と」
「え?」
「その煙草は、“門倉雄大”と、そう申します」
梶の目が大きく見開かれた。
「お、おぉー……」
梶が口から取り上げた煙草をまじまじと見る。何の変哲もない一本が、火に炙られ身を焦がしていた。
「すごい、熱烈だ」
短く呟き、梶はまた煙草を銜える。先ほどより浅く息を吸い、ふぅと吐き出した。二回目は少々サマになってきたがまだぎこちない。ニコチンにやられたのか、梶が頭を振って苦笑した。
「どうりで一筋縄じゃいかない味だと思った」
どういう意味じゃ。
門倉は苦虫を噛み潰すが、それを口にしようとはしなかった。
室内には不思議な時間が流れていた。寿命のカウントダウンが始まっているというのに場は静寂に包まれており、時々梶が息を吐き出す音だけが室内に響く。
他愛もない話が出来るのは、きっと明日があるからだった。黒服達の中には梶に声をかけようとまごつく人間もいたが、結局誰も滑り出しの言葉を見つけられず、無言のうちで梶に各々別れを告げていた。
火が半分を灰にした辺りだろうか。黙っていた梶が、ふいに門倉を向く。
「胃にすごいガツンとくるし、頭もくらくらするけど、思ったより煙草って美味しいです。あっちで吸いたいからもう一本もらえませんか? 服の中にしまっておけば、貘さんならそのまま埋めてくれそう」
梶の視線が門倉の胸元に注がれる。
銘柄は覚えられなかったが、門倉がいつもどこから煙草を取り出すかは知っていた。勝負が終わったとき、ホテルまで送迎してくれたとき、門倉はいつもコートの内側から煙草を取り出して一本吸う。満足気に煙で肺を満たし、梶に「おつかれさん」と緩く笑いかけるのが門倉のルーティンでもあった。
思い出深い門倉の煙草は、これから独りで暗い道を歩く梶にとっていいお守り代わりになるだろうと思った。
なのに門倉は立ち竦んだまま、温度を失くした顔で梶に告げる。
「ありませんよ」
「へ?」
「門倉雄大は、いま梶様がお吸いになられているものだけです。もう何も残ってはおりません」
「は───」
もう一度煙草を口から放す。灰になっていくものと立会人を交互に見比べて、梶は少しだけ泣きそうな顔をした。
「……そっか。………そっかぁ」
梶が息を吸う。喫煙に慣れていない梶はまたもいたずらに深く息を吸い、一度の喫煙で随分と煙草のフィルターを消費した。
黒服から「あぁあ」と声が漏れる。代理のように浅い呼吸で梶を見守る黒服達に、軽い会釈をした梶は、今度は意図して深く息を吸った。ジジッと煙草がまた燃える。煙草が、門倉雄大が、灰になっていった。
────死を表現する言葉に、“荼毘に付す”というものがある。
火葬の婉曲的な表現だが、『付す』という言い回しが門倉はなんとなくと好きだった。付加や添付のように、『付』という字には何かに寄り添ったり与えたりといったイメージがある。死は命を奪い、火は肉体を奪う。どちらも絶対的なものであるからこそ、奪われる一方の儀式の中で何かが与えられるとしたら、それは遺された者にも遺していく者にも僅かばかりの慰めになるだろうと思った。
梶が死ぬ。
もうすぐ門倉が愛したこの子は死ぬ。
奪われてばかりでたまるか、と門倉は思う。このまま別れてたまるか、何も得られずに終わらせてたまるか。冥土の道を手ぶらなど、それでは梶が可哀相だ。何か、何か。どんな些細なものでも良い。形だってなくても良い。梶の道を連れ立って歩く存在がなくては、この子が───自分が。立てない。これからを生きてはいけない。
梶隆臣の終焉は門倉雄大の終焉であり、煙草の燃焼は門倉の荼毘でもあった。
墓を持てず、誰にもその所在を知らされず、ひっそり消えるはずだった存在が梶の手によって火葬されていく。
もしかしたらそれは、ただ天寿を全うするよりもずっと幸福な門倉の最期だったかもしれない。
「この煙草が消えて、貴方は大丈夫ですか」
煙を吐く合間、梶が声をぶつけた。
触れて良いのか考えている梶の手を、手袋をはめた大きな手が掬い上げる。今から己を殺す手にも関わらず、梶はその手にほう、と安堵するかのように溜息を吐いた。
遠慮がちに握った手を、手袋の手がしっかりと握りしめる。煙草はあと数㎝でフィルターに達しようとしていた。中に詰められた草が尽き、火種が落ちればそれが粛清の合図である。
黒服達の中から鼻を啜る声が聞こえた。
(なにを無様な)
ギロリと立会人は黒服を睨んで諫めたが、涙を浮かべた何人かは唇を噛みしめ、立会人から目を背けようとしない。自分たちも参列者である、そんな自負が瞳に見えた。
「何も問題はありません。私は倶楽部賭郎の立会人ですので」
「そっか。良かった」
「えぇ。なので梶様はどうか気兼ねなく、連れて行ってください。残さず全て。貴方と共に」
おもむろに、手袋がするりと引き抜かれた。立会人の骨張った手が現れ、梶の手の上に重ねられる。粛清は素手で行う作法になっていた。立会人の無骨な手が、梶の首に添えられ、皮一枚をくすぐるように撫でる。
「なんですか?」
「粛清は私の手を以て執り行いますので、事前に対象に触れて感覚を確かめておこうかと」
「じゃぁこれは、粛清の準備?」
「えぇ、まぁ」
立会人の手が上に上がっていった。親指が梶の唇に触れ、つつ、と頬に滑る。火があるから危ないですよ、と梶が煙草を見せたが、立会人は聞こえていないかのように梶の頬に手を添え続けた。
煙草から灰が落ち、いよいよ最後の火が弱まっていく。口に銜えたまま何をしなくとも、もって数十秒のことだった。過ぎる時間に飽きるような長さではない。けれど梶は、いたずらっ子のように笑ってすぅ、と煙草を吸ってみせた。死ぬ瞬間は自分で決めるとばかりに、門倉の最期は自分が奪っていくとばかりに、立会人の手に顔を寄せ、ゆっくりと目を閉じる。
「言っても?」
「どうぞ」
「……いいえ、違いますね」
「違うのですか?」
「はい。これは零號立会人、貴方に向ける言葉では無かった」
「そうですか」
「すいません」
「いえ。あちらで門倉に伝えてやってください」
「そうします」
「どうか二人、末永く」
「楽しくやります。貴方にはどうか、ご武運がありますように」
火がカッと強くなり、次には尻すぼみになっていく。
消えゆく煙草を、消えゆく二人を。
立会人はただ、静かに見送っている。