※※※
知らなかったと本心を言って良いのだろうか。
梶が貘の気持ちに気付いていなかったことは事実だったが、本当に貘のこの行為が突拍子もないことかと言われると、正直、梶には自信が無かった。
思い返してみれば片鱗はあったのだ。貘の友好的な姿勢はパチンコ屋で話しかけた瞬間から見受けられたが、当初は荒っぽい言動が主立っていたし、梶に対する態度も、いかにも男友達に向けた、程よく雑で適当なものであった。それが何時からか、どんどん柔らかな口調に落ち着いていき行動も紳士然といったものに変わっていき。親密になったが故の気軽さはあったが、むしろ初対面よりも日を重ねるごとに扱いが丁寧になっていっていったのだ。
“お姫様扱い”なんて言い方はゾッとしないが、男友達ってこんなにちやほやされるもんだっけ、と疑問に思うくらいにはまろやかな愛情を最終的に梶は受けていたように思う。家族というものに縁遠かった梶には、これが正しく家族愛なのかは分からなかった。どうやら貘も梶同様に家庭を知らない人種のようだったので、世間一般にはきっと家族という枠組みから逸脱している愛情も、『貘さんにとってはこれが家族愛なのかもしれない』と考えて無理やり型に収めてしまっていた。
『貘さんが僕に向けてる目って、ちょっと家族にしては熱っぽいですよね』
そう冗談を言ってみたくて、けれど実際には、梶にその冗談を投げかける勇気はなかった。「何言ってんの梶ちゃん」と引き気味に返されるのも、肯定するように貘の美しい瞳に射抜かれるのも怖かった。自分の今までを思い返してみると、これで『知らなかった』が本心だと主張するのは、ちょっと虫が良すぎるかもしれない。
だとしたらコレはきっと自業自得なのだ。梶は自身を揺さぶる貘に息を乱しながら、ぼんやりそんなことを考えた。
※※※
独り暮らしを考えています、と梶が切り出したのは何時ものように梶が貘とマルコとの三人で食卓を囲んでいる時だった。ピザが食べたいというマルコに合わせてデリバリーしたピザを机に並べ、オレンジジュースとビールで乾杯した直後の話だ。
「いきなり?」
「いきなり、ですかね……前々から、僕としては考えてたことだったんですけど」
初手からハワイアンピザを齧っている貘と、安定のマルゲリータを手にした梶でそんなやりとりが行われる。梶としては漠然と『いつか起こる未来』として位置付けていた計画だっただけに、精神的に幼いマルコならいざ知らず、貘が驚くような素振りをみせたことにむしろ梶は驚きを隠せなかった。
三人の暮らしに何か不満があるわけではない。ただ人間として自分が成長するためには、環境的な自立も必要だろうと梶は考えた。
貘の役に立ちたい、彼に並ぶ人間になりたい。マルコのように暴で貘を支えることが出来ない梶にとって、成長を模索することは貘に対しての献身行為にもなっている。
ピザを食べながらマルコには悲しそうな顔をされてしまったし、勿論梶自身、この穏やかな空間に後ろ髪を引かれる思いではあった。だが離れることも含めて、自分の決断は二人とこれからも共に歩むための通過儀礼なのだと梶は思っていた。
個人資産もある程度貯まり、自分名義の不動産も梶は今や複数所有するに至っている。かつての何も持たなかった若者とは違い、今の梶は貘の手を煩わせることなく衣食住を整えることが出来た。梶の成長を常に隣で応援してくれていた貘なら、共同生活から抜けるという梶の決意を好意的に受け止めてくれるだろう。梶はそう信じて疑わなかった。だから喋ったのだ。貘なら少し寂しそうにしつつも優しく微笑んで、「梶ちゃんのやりたいようにやりな、応援してるよ」と背中を推してくれる。そう思ったから。
そう思ったのに。
深夜。
自室で寝ていた梶の耳に、カチャリと扉の開く音が届いた。
てっきりトイレに起きたマルコが人寂しくなったか、小腹を空かせて夜食のお伺いを立てにきたのだろうと梶は思った。「カジ、お腹すいた。なんか食べていい?」そう言いながら大きな子供が自分の肩をゆすってくるだろうと、浮上する意識の中で梶は予測を立てる。仕方ないなぁ、何食べたい? そんな台詞を言ってあげようと目を擦った梶は、ふと、部屋に入ってきた人物が入室してからも何も発声していないことに気付いた。
気配すらロクにない。マルコだったら梶の枕元に辿り着くより前に、何度か梶の名前を呼ぶはずだ。
「マルコ?」
名前を呼ぶが返事は無かった。代わりに、ベッドの端でギシ、と軋む音が聞こえた。何かがベッドに上がってきている。暗闇にぼうっと浮かび上がってきたシルエットはマルコより幾分か細く、白い。
「……貘さん?」
『白』で思い浮かぶ人物を梶は一人しか知らない。寝起きの安定しない視界では貘の表情を読み取ることは難しく、にじり寄られている間も、梶は無防備な表情で貘を眺めていた。
少しずつ貘の顔が近付いてくる。体を低くして、四つ這いの姿勢でじわじわと距離を詰める貘はどこか獣のようだった。
「どうしたんスか? あれ、何か急な予定でも?」
続けざまに問いかけるがやはり返信は無い。貘は梶の声など一切聞こえていないように、息を詰めてベッドの上を移動する。
梶は先日見たドキュメンタリー番組の映像を脳裏に蘇らせていた。
動物好きなマルコが、リビングのテレビで『知らない動物がいっぱい出てくるのよ!』と流し始めたものを梶も一緒に視聴した。画面の向こうでは、日本から遠く離れたサバンナでチーターがガゼルを狙っていた。重心を低くしたチーターは音もなく獲物へと近寄り、ガゼルはあえなく喉笛を噛み砕かれてチーターの食事になっていた。
生き物が徐々に食品になっていくグロテスクな映像に『これが弱肉強食の世界です』と視聴者に言い聞かせるようなナレーションが入り、マルコはしたり顔で「これがじゃくにくきょうしょくのせかい」と繰り返していた。
あの時に見たチーターと、現在自分の方へとにじり寄っている貘の姿が梶にはどうもダブる。しなやかに美しい貘は確かに名前の由来となった動物よりもネコ科の大型獣に雰囲気が近く、音もなく手足を伸ばす様子はまさしくチーターのようだった。
貘がチーター。では、そんな貘が獲物のように焦点を絞って見据えている梶はガゼルだろうか。
(僕が、ガゼル)
そう思った途端、梶の目が一気に覚めた。
スッと血の気が引いて、貘の猛獣のような動きを本能が恐ろしいと感じ始めていた。
「あの、貘さんっ。どうしたんスか、ねぇ……!」
梶の口調が焦りを滲ませる。疑問と言い知れぬ恐怖への返答は、殊の外すぐに与えられた。貘が梶の口に被りつき、身動きが取れないよう上に覆いかぶさってきたのだ。
「んぅっ!? んっ、んー!」
突然のことに梶の頭が真っ白になる。
唇が触れるまで距離を詰められると、さすがに貘の表情を梶は克明に捉えることが出来た。ギラギラと熱い見たことのない瞳が梶を見つめている。唇は強く押し付けられたまま、貘が梶の体に馬乗りになった。
「ん……、ば、ばくっ、さん……!?」
「梶ちゃん家はもう決めてるの」
唇を離した貘が問いかける。声の冷たさにゾッとした。
「や、まだ……あの、貘さ、」
「じゃぁ今後決めるの。決めたら出てくの。ここを。俺たちの家を」
「貘さん、話を……」
「家族じゃなくなるつもりなの」
問いかけは質問の形を成していなかった。梶に体重を乗せたまま、貘はアイスブルーの瞳を寒々しく光らせ一方的に捲し立てて言った。
「家族で無くなるんならもう良いよね?」
「なにっ……ッ!? ちょ、え、貘さん……!?」
貘の手が梶のシャツの中に入り込んできた。繊細な指先が梶の腹を這い、薄いながらも割れた腹筋を凹凸に沿ってなぞる。経験の浅い梶でも、その手が孕んだ性的な気配は感じ取ることが出来た。唇を塞がれた段階で薄々感じていた疑惑が確信に変わる。
「や、待って……嘘でしょ……!?」
「俺嘘なんかつかないよ。嘘は食べるもんだ」
冗談なのか何なのか分からないことを貘が言う。だとしたら、と梶は混乱する頭の中で反論した。
貘とは本来悪夢を食べる生き物ではないのか。いまこの状況は、何だ。まるでこれこそが悪夢じゃないか。
「無防備に寝てるから夜這いなんてされるんだよ」
「なに言ってんですか……? そんな……」
「そんな、なに? 当たり前でしょ。家族でもないのに、無防備に男の家で寝てるんだもん。何されたって文句言えないよ」
ごそごそと貘がポケットから何やらチューブを取り出した。何も書かれていない容器だが、蓋を開けると貘の手にジェル状のものが押し出される。片手にべっとりとジェルを出した貘は、そのまま手を梶のズボンの中に突っ込んだ。ゴムの緩んだスウェットや安物のボクサーパンツは、貘の侵入を容易に許してしまう。
「ひゃぁっ!」
ジェルの冷たさに梶が声を上げた。
次いで、貘が自身の性器に触れている事実に気付き愕然とする。
「なっ! 貘さんっ! やめっ……!」
「しぃー。大きい声出すとマーくんが起きちゃう」
片手はぬちぬちと梶の性器を弄りながら、汚れていない方の手を貘が自身の口元に持っていった。言われて、梶の顔から表情が消える。深夜に二人で酒盛りをしている時など、今までに何度か貘にされてきた忠言が今日はまったく違った意味合いを持って梶の耳に届いた。
日頃優しくて頼りになる“貘兄ちゃん”が、梶に馬乗りになって体中をまさぐっている。
この場をもし、マルコが見つけてしまったら。
梶は自分の口を咄嗟に抑えた。満足気に笑った貘が、手の動きを速めていく。
「っ、ばく、さん……! っぁ、……ばく……さ……!」
抵抗しようにも自分と同じような背格好の人間に体重をかけられては成す術がない。自力で逃げることも助けを呼ぶことも出来ない梶は、八方塞がりの状態でひたすら快楽に耐えるしかなかった。
当初冷たかったはずのジェルが、今は燃えるよう熱い。触れられている箇所が段々と過敏になっていくように感じ、梶は訳が分からずに頭を振った。
他人に触られた経験などほとんど無い場所に貘の指が絡みついている。事務的に擦るだけの単調な自慰行為に慣れた梶の性器には、貘の器用な指使いはもはや毒だった。
強すぎる快感は梶から思考力を奪い、半ば強制的に梶の体を昂らせていく。
「ふっ……んン、ン、ふっ……はっ……ぁ、……ぁ、あ」
下半身で立つ水音が徐々に大きくなっている。じゅぶじゅぶと卑猥な音がして、耳まで犯されているような気分になった。
「気持ち良いの? 梶ちゃん。俺に触られて、すっごい、勃ってるけど」
「っ、っ、ぁ、あぅ、ば、くさ……ぁ、はっ……ん、んっ」
反論したくとも梶にそんな余裕はない。
それに悔しいが、貘の言う通りだった。梶の性器は痛いくらいに勃起し、貘に触られるたびくびくと嬉しそうに痙攣している。そんなつもりないのに、気持ち良くなんてなりたくないのに。梶の心境とは裏腹に身体は高められていく一方で、必死に抑え込んでも、指の間から蕩けた声が漏れ出ていた。
ぶるぶると全身が震え出した梶を、貘は興奮で充血した目で見下ろしている。きつく目を瞑った梶を骨の髄までしゃぶり尽くそうと、貘は梶の耳元に顔を寄せ、梶が最も聞きたくないであろう言葉を選んで言った。
「ちんこ苦しいよね梶ちゃん。一回出しちゃおっか? ぴゅっぴゅって、大好きな貘さんの大事な手を、梶ちゃんのザーメンで汚しちゃおうね」
「ヒッ……!? ……や、ばくさ……! っ、や、あ、ア、ア、ア……!」
梶の目が怯えから見開かれ、そのまま貘の手を、信じられないといった表情で凝視し始める。
うす暗闇のなかで貘の手が上下に素早く動いており、それにつれて梶の体の底から、体液がせり上がってくる感覚が湧いてきた。
興奮で体は熱くなっているにも関わらず、梶の額には冷や汗がぶわりと浮かぶ。射精前の独特な高揚感は男なら誰しも馴染みがあるもので、だからこそ、梶も間違えるわけがなかった。
ダメだ、もうイってしまう。梶は絶望する。体を強張らせてどうにか堪えようとするも、他人から与えられる快感になれない身体には刺激を逃がすことは難しかった。結局我慢は数十秒ともたず、梶は体を大きくしならせ、貘の手の中に射精する。
「や、ァ、ア……! ばくさっ……や、や、だ………ッ! ひっ、ア、あ! ア! ばくっ、ばくさん……っ! ン、ン──!」
吐き出された精液が貘の手を汚した。梶の体液に塗れた手を見せびらかし、貘は目に涙の膜が張っている梶に、勝ちを宣言するかのように笑う。
「汚くなっちゃった」
「っ、ひ……ひ、ぅ、うぅ……!」
梶の目から涙が零れ落ちる。
一度決壊してしまうと止められなかった。梶は涙を拭うことも出来ず、しゃくり声を上げて泣きだしてしまう。
「あぁ、泣かないで。泣かないで梶ちゃん。ごめんね意地悪言い過ぎたね。ひどいこと言われて悲しかったよねごめんね」
貘があやすように言い、梶の頭を汚れていない方の手で撫でた。ただ、優しいのは言葉と撫でる手つきだけだということを、梶は変わらずギラついた瞳で自身を見つめる貘から感じ取る。
実際梶の癖毛を柔く梳きながら、貘は梶の目の前で手についた精液をこれ見よがしに舐めとっていた。指の股に溜まった精液まで丹念に舌で掬い、ごちそうさまと梶の精液を全て飲み下してしまった貘に、梶はまたボロボロと大粒の涙を流す。
「……っ、どうして……」
どうして、と、それだけしか梶の口からは言葉が出てこなかった。貘に対する怒りは不思議と無い。あるのはただ、『どうして』という純粋な疑問だ。
どうしてこんなことするんですか。どうしてこんなことになったんですか。どうして。貘さんこんなことする人じゃないじゃないですか。どうして。貘さん、どうして。
所有物の分際で持ち主から離れようとした梶への制裁だろうか。まだまだ貘の庇護下でしか生きられないくせに、己を過大評価した梶が腹立たしかったのだろうか。
感情がぐちゃぐちゃになった頭で梶は必死に考えるが、そのいずれにも納得がいかなかった。優しく温かい貘が、自分に突然牙を立ててきた理由はなんだ。どうにか貘の口から真相を教えてもらいたいのに、貘は梶の疑問に一向に答えてはくれなかった。
ぐすぐすと泣いている梶の目元をシーツでそっと抑え、赤くなった目元をいたわるように触れてから、貘は梶の後ろへと手を伸ばす。
「じゃぁ、次はお尻ね」
「ッ! ……や、やだっ。ダメです、それだけは……!」
「どうして? 男同士のえっちはね、お尻を使うんだよ。大丈夫、今使ったジェルね、あれ、えっちがしやすくなるやつだから」
そういうことじゃない。梶は涙がぶり返した目で必死に説明しようとするが、やはり貘はろくに話を聞いてくれないまま、梶の下半身から衣服を全て抜き取ってしまった。
外気に晒されて、梶の内腿がふるふると震えている。寒いのか怖いのか、もうよく分からなかった。抵抗もそこそこに再びジェルにまみれた貘の手が梶の後ろに伸びる。穴の周りにジェルを塗りたくられ、つぷ、と指を差し込まれた。
「はぅっ……ぅ、うぅ……!」
口を抑え、梶が枕に顔を埋める。怖いし圧迫感も酷い。にもかかわらず、梶の下半身にはじわじわと広がる体温と快感の気配が確かにあった。先ほど性器を弄られていた時も妙に過敏になっている感じた梶だが、ここに来て貘の言った『セックスがしやすくなる』の意味を身をもって痛感する。
貘が持参したのは、おそらくは筋肉を弛緩させる作用のあるジェルだった。アナルの経験など梶には今まで一度もないというのに、梶の体は異物をすんなりと受け入れ、貘の指が体内で動くたびにグネグネと肉の形を変えて適応していく。
おそらくだがジェルには催淫効果も含まれているのだろう。形が順応するだけでなく、梶の体内は動き回る貘の指の端々から、僅かでも着実に快感を拾い始めていた。
梶はモヤがかった頭でジェルの効能を様々推測し、唇を噛みしめながら、どうか効能が全部事実でありますように、と願う。全部貘が持ち込んだ怪しげなジェルのせいだと思いたい。自分の体が望んで快楽に向かっているだなんて、梶は考えたくなかった。
「梶ちゃん凄いね。最初っからお尻で感じられんの、才能だよ、これ」
貘の指が増える、中でバラバラに動かされ、ある一点をかすめると明確に梶の背筋を快感が駆け抜けていった。
「アァ、ぁんッ……!」
「ふふ。可愛い声出たね。ここ気持ちいいの? じゃぁたくさん触ってあげようね」
止めてくれ、と涙声で頼んでも聞いてくれるはずもない。逃げようと身を捩らせた梶を抑えつけ、執拗に同じところを攻められ、気付けば梶の性器はまた膨張し先走りを垂れ流し始めていた。
「うあっあっッ……! ンぅ、っん、あ、ぁ、ひっ……! ぁアっ……!」
梶は近くのシーツを手繰り寄せ、芋虫が葉っぱを咀嚼するように自分の口へ布の塊を溜め込んでいく。声を自力で抑えることが難しくなっていた。特に貘に弱いところを探り当てられてからは、あられもない声が次から次へと、梶の意志に関係なくこみ上げてくる。貘に好き勝手体を弄られることよりも、今はこの無様に崩れた喘ぎ声がマルコの耳に届くことが怖かった。
気付けば抵抗らしい抵抗もなくなって、梶はシーツを食べたり握りしめたまま、貘に与えられる快楽にただ耐えるのみになっていた。
「ふ……ぅ……んっンッん、ン」
早く終わってくれと願う一方、この行為が終わるために何をしなければならないのかを考えると、永遠にその時なんて来ないでくれとも梶は思う。
女性経験もない梶の身に同性と過ごした夜なんてあるわけもない。けれど、貘が何をしたがっているのかを察することが出来ないほど梶も子供なはずはなかった。
止めなくてはいけない。このまま進めば本当に戻れなくなる。でもどうやって止めたら良い?
そもそも神に等しい存在の貘に、梶はこの場に及んでもまだ本気で拒絶しようという気持ちが持てなかった。頭ではダメだと分かっているのに、梶の体は貘に心身を捧げることに慣れ切ってしまっている。『貘さんが望んでいるのなら』とどこかで開くことを許容しようとしている体を、そんなのダメに決まってるだろ、と理性で必死に説き伏せてきたが、それも限界に近かった。
快楽が梶から理性を引き剥がし、隷従したいという梶の本能を肯定しようとする。口に含んだシーツが唾液を吸ってずっしりと重くなっており、息を吸うたびじゅるじゅると唾液を啜る下品な音が鳴った。
体が、自分から立つ水音が。最後の一線で踏みとどまろうとする梶を嘲笑っているような気さえした。
「梶ちゃん、いま指何本入ってるか分かる? なんと三本! すごいよね。梶ちゃん初めてなのに、もう俺の指三本も飲み込んできゅうきゅう締め付けてきてるんだよ。気持ち良くなりたいですって、自分から動いてんの。えっちで可愛いね」
知りたくない情報を貘は嬉々として梶の耳に流し込んでくる。三本。いくら性器よりずっと細いものだとはいえ、男の指が三本だ。そんなものが難なく飲み込まれて、動かされているなら、もうこの後に続く行為は決まっている。
少しだけ梶の上から体重が退いた。梶の喉が奥の方で引き攣った音を出す。貘が体勢を変えたのは寝巻の中から自身の性器を取り出すためだ。挿入の為に準備を進めているのだと、梶は分かっていて、それでも動けなかった。
すっかり暗闇に慣れてしまった梶の目に、貘の勃起した性器が映る。貘に男性器が付いていることも、その性器が自分を理由に隆起していることも、何もかもに現実味がなく、梶は脚を持ち上げられる間もただ貘を茫然自失の表情で見上げていた。
「ばくさんおねがい……やだ、やだよぉ……」
「やだって言うけどさっきから抵抗しないよね梶ちゃん」
スパっと貘が切り捨てるように言う。図星だった。梶はビクリと肩を震わせ、泣きそうになりながら懇願を続ける。
「や……ひ、ぐ。やなんです。ばくさん。それでも僕、ダメなんです」
「何がダメなの」貘が追及する「恋人でもないのにえっちしようとしてるから? 梶ちゃんの意見も聞かずに勝手に手を出したから? それともマーくんも居る家の中で、こんなことしようって考えたからかな。うん、全部ダメだね。俺がやってること、全部ダメ。で、梶ちゃんはどれがダメだなって思うの? 梶ちゃんが自分の口で言いなよ。梶ちゃん、梶ちゃんにとって、何が一番ダメなの?」
貘の先端が梶に添えられる。唇をわななかせた梶の言葉を待つ間、貘は持ち上げた梶の足にキスを落としたり、少し爪の伸びた足の指を舐めたりしていた。暗い部屋の中に、指を舐める水音と貘の荒い息遣いが響いている。斑目家の瓦解の音は湿り気を孕んでいる。梶のか細い涙声もほどなくそこに加わった。
貘の言うように、今起きていること全て、梶にとってはダメなことだらけだ。尊敬して止まない斑目貘とこんな行為に陥ってしまっていること自体がまずそもそもダメだし、止めなければならないのに止めきれない自分が居ることも勿論ダメ。純粋なマルコにセックスの現場を見せてしまうかもしれないという危うさも保護者の立場からしたら保護者失格のレッテルを張られても仕方ないほどにダメで、大体合法だかどうかも分からない道具を持ち込まれて、快楽の底に突然梶は突き落とされたのだ。初めての体にとんでもない経験を植え込まれて、むしろ何ならダメじゃないのかと、逆を考える方がよほど難しかった。
ダメな理由はたくさんある。では、梶にとって何が一番ダメなのだろう。
考えようとする梶を、足を這う貘の舌や唇が阻害する。楽しい冗談を言う舌や、カリ梅をくわえて得意げにしている着色料に負けないほど鮮やかな唇。散々見てきた斑目貘を構成するパーツたちが、今晩は見たことのない姿を梶に晒していた。
そう、そうだ。何が一番ダメって、貘が梶に、見せたことのない姿ばかりを晒してくるからダメなのだ。家族というのは本来最も気の置けない存在なはずで、理想的な家族というのは、梶の予想だと自然体で互いに接することが出来る関係を言う。
なのに、目の前の貘はどうだ。普段の優しくて暖かくてけれど得体が知れない人物から遠く離れ、欲に濡れた瞳を隠すことなく梶に晒し、本能を剥き出して梶に触れている。
こんな貘を梶は知らないのだ。知らない斑目貘を、梶はこの短時間に見過ぎている。ここからさらに、知らない貘の体で、知らない貘を刻みつけられるなんて。梶はどうしたら良いのか分からない。だってこのまま知らない貘でこの体を満たされてしまったら、梶が貘達と過ごしてきた今までの日々は、幸福は、何だったのか。
「ダメ……なのは……こんな貘さん……今までずっと僕は会ったことがなかったから……」
とぎれとぎれに呟くと、ピク、と貘の動きが止まった。指を舐っていた口が足から離れ、真一文字になった唇が梶の言葉を待つ。
余裕の無い梶は、貘の表情の変化に気付けないまま、頭に浮かんだ文言をそのまま口にした。
「だって挿れたら……っ、家族じゃなくなっちゃう……!」
「────それってさ、残酷すぎない?」
アイスブルーの瞳が、ぐにゃり、梶を見つめていびつに歪んだ。
「だって先に家族を止めようとしたのは、梶ちゃんじゃない」
「え……? ───ッ! ア、う、あ……!」
唐突に、貘が梶の中へと入ってきた。
たっぷりとジェルを纏って滑りの良くなった性器が、梶の気持ちなど意を介さず、スムーズに梶の中へと埋め込まれていく。
「ッ、ひっ、んふっアぁ……やっ…………ッ、」
「だから、俺ずっと家族だから我慢してたけど、もう良いんでしょ? 梶ちゃんは俺たちから離れていくし、自分から家族にさよならしようとしてる」
「っうッ、ンひっん……!」
そんなつもりじゃない、と梶は頭を振った。自分はただ、貘さんに追いつきたかっただけ。隣に立ちたかっただけだ。住処のホテルは柔らかくて清潔で、ぬるま湯につかっているような居心地の良さがあった。でもそれではダメなのだ。この生温さは、貘の庇護下にあることの証明でもある。家庭に安寧をみる子供のように、強い力に守ってもらえていれば梶は安心していられるだろう。けれどその安心を享受する限り、梶は自分を守ってくれている大きな力に、本当の意味で恩返しは出来ないのだ。
「ふっ、ふっ、ぅ……う、ぁ……ァん、ンッ……!」
奥まで入り込んだ性器が、少し時間をおいて律動を始めた。遠慮なく突っ込んで、すぐにがくがくと揺さぶってしまっても良いだろうに、貘はそうはしなかった。梶が息を詰めている間は無暗に動かず、少し呼吸が落ち着いてきたところでゆるゆると動き出す。貘の動作の一つ一つは丁寧で、まるで本物の恋人に向けるような仕草だった。糾弾されるようなひどい行為なのに、あまりに貘が優しいので梶は訳が分からなくなる。
「……やっ……んっんっ、あっっん! やっ……あふっ、んくっ……ァ、や、アぁ……! ン、やだぁ、あっっ! ……ひっひっんッ、……うっ! ……あぅう……!」
たん、たん、と尻たぶに肉が打ち付けられる音がする。一定の速度で梶の良いところばかりを、貘の性器が的確に擦っていった。頭が溶けていく。何も考えられなくなり、梶はただ目の前の、自分に快感をくれる人物を愛しく思うようになっていく。口からは甘い声が絶え間なく漏れ、今日が初めての経験だとは思えないほど乱れていった。
「ンあっ、んっ、……あぁ……ひっぅ、っあん! ……うァ、あっ、ぁあっッ!」
「こえ、おっきくなってきたね。かわいい」
「あぅ、ァん、ん、ばく、しゃ……」
とろんとした目で貘を見つめながら、梶はアナルから得られる快楽に酔いしれた。シーツを掴んでいた手は気付けば貘へと伸ばされ、身体を支えている貘の腕に、梶の腕がゆるく絡みつく。
知らない人間が見れば、まるで恋人同士の親しんだ夜のような光景だった。
「……かじちゃん」
「ぁ、う、な……ん、んぅ」
名前を呼ばれ、声の方を向くと貘からキスをされた。何度も角度を変え、慈しむように啄まれたあとはするりと舌が入ってくる。
就寝前まで兄弟や親子といった雰囲気だった人間とキスをしても、不思議と梶には嫌悪感が無かった。むしろ口内を撫でていく貘の舌が気持ち良くて、梶は自分の舌で貘を追い、自分から舌を絡めだす。熱にうなされて頭が馬鹿になってしまったんだろうか。梶は獏の舌を吸い、彼と唾液を交換しながら自分の腕を貘の首へと回した。
「キス、好き?」
「ん……すき、です……はぁ、ン、ふわふわ……する……」
「俺も好き。もっとはやく、キスしたかった」
貘の発言に哀愁が混じっている。自身の首にまわった梶の手を愛おしそうに撫で、貘も梶の体をかき抱いた。首元に顔を埋めて胸いっぱいに梶のにおいを吸い込む貘を見て、梶は急に、貘が以前から好意を抱いていたのだと理解する。
何時からだったのだろう。今までを振り返って梶は貘の対応の変移を考えるが、いつまで辿っても、貘は梶に優しく温かかった。
きっと貘が梶を愛しい人間として見るようになったのは、梶がもう忘れてしまったような、そんな遠い昔なのだ。きっと貘は、ずっと梶が好きだった。けれど家族だからと感情をひた隠して一緒に生活してきたのだ。マルコも梶も、不完全な環境で育った人間である。貘は過去の話をしないため彼の幼少期を梶は知るよりも無いが、ふとした拍子に見せる表情から、あまり自分と大差ないのでは、と梶は正直思っていた。
きっと、三人が三人とも、それぞれに家族に対して強い憧れがあったのだ。貘は梶から家族を奪うことを躊躇って、きっと今まで気持ちを隠し通してきてくれた。梶から家族を守るために自分を殺してきた貘を、梶は知らず知らずの内に追い詰めていたのかもしれない。
「……あ、んアぁアっ……ァう、ばくさん……」
回した腕に力を込め、梶が貘に頬ずりした。貘の体が跳ねて、梶の中に埋まっている貘がずくんと質量を増す。
「……どうしたの?」
「ごめんなさい。ばくさん、傷つけてごめんなさい……」
擦り寄って、梶はただ貘に謝罪の言葉を向けた。
気付くのが遅すぎたという後悔と、今も自分は貘を傷付けているかもしれないという懸念が梶の心に渦巻く。
「……何言ってんの。傷付いてるのは梶ちゃん、君でしょ。進行形で」
「んっ、! ……あっ、ふ、ぅ……! ん、んんっ……!」
「そんな風だから、俺なんかに捕まるんだよ。もっと優しい家族を、君はきっと持てたはずなのに。手放せなくて、ごめんね。梶ちゃん」
「っ、ひゃ、やぁ……! あんっ、やっ、んあ、あぁっ!」
貘がスラストを速くする。触れている腿が痙攣を始めていた。貘の絶頂が近い。何故だか妙に、梶は貘が避妊具を着けていないことが怖くなった。
使われている箇所に孕む機能は無いし、そもそも自分は男だ。出されたところで実を結ぶ術もない。なのに自分の体内に貘の種をまき散らされることが梶は怖かった。帰れなくなりそうだ、という、説明の出来ない不安が湧いてくる。自分を全て征服されるような感覚は、性別に関係なく本能的な恐怖を抱かせるのかもしれない。
「や、ぁ……! なかっ、中出さないでっ! ばくさん、ばくさんっ!」
「梶ちゃん女の子みたいなこと言うね。……いいよ、じゃぁ梶ちゃん俺のお嫁さん役ね。赤ちゃん作る準備して、俺が出したもんで、上手に孕んでね」
「ばくさんっ―――!!」
貘が梶を抱きすくめる。ビクン、と貘の体が大きく跳ねて、梶の体内にじわりと液体が広がっていく感覚があった。
『浸食された』と強く実感する梶を、射精が終わった後も貘はそのまま抱き締めている。呆然とする梶の頭を撫で、見開かれた目元にキスをする。貘の一挙一動から感情が伝わってくる。お嫁さん、の表現に違わない扱われ方に、梶は感情がまとまりきらないまま、意識を彼方へと飛ばした。