「……」
寝て起きたら朝だった。悪い人間にも、可哀相なあの子にも平等に朝はくる。
貘はベッドの上で体を伸ばし、恐る恐る横に視線を向けた。人一人分空いたスペースには、先程まで誰かが居た痕跡が残っている。少なくともほんの十数分前まで、梶は横に居たらしい。
「今何……じ……七時ってまた健康的な……」
ベッド脇の時計を見るとたいへん真人間な起床時間だった。夜に活動することの多い貘は、昼夜逆転した生活が続くことも間々ある。昨日の今日で真っ当な時間に目覚めた自分が何だかやたらに人でなしに思えて、貘は自戒も込め、普段なら二度寝を決める自分を無理やりベッドから引き剥がした。
昨日、貘は同居している梶とセックスをした。レイプだった。以前から貘は梶に好意を抱いていたし、一過性の感情で蛮行に及んだわけでは無かったが、それでもレイプだった。梶は大概行為中快楽に喘いでいた。射精もしたし、アナルでオーガズムも感じていたようだった。貘の首に手を回し、キスに応じ、貘とのキスが好きだとも言った。だけどしかしレイプだった。というか、どれだけ中盤の雰囲気が良かったところで、序盤の梶は貘のせいで大号泣していたし、フィニッシュに至っては嫌だと叫ぶ梶に貘は無理やり中出しを決めている。ので、言い逃れは出来ようはずもない。総括するとやはり紛れもなくレイプだった。
もともと重犯罪に重犯罪を重ねている大悪党ではあるが、ここに来て強姦罪まで罪を重ねてしまった。貘は自分のことながらため息を吐き、素足で床に降りる。
寝る前に丸めて下に落としておいたシーツは回収されており、脱ぎ散らかされた下着の類もなくなっていた。先に起きていた梶がやったのだろう。貘は居心地の悪さから逃げるように梶の部屋を出て、陽の光が差し込むリビングまでやって来た。
開放的な室内では既にマルコがテレビに齧りついており、手には朝からグミが握られていた。
「おはよう。貘兄ちゃん」
太陽の笑顔が向けられる。貘は眩しすぎて体が灰になるかと思った。
「おはよ。梶ちゃんは?」
「カジはお風呂よ。昨日入らないで寝ちゃったんだって」
カジったらダメねぇ、とマルコが無邪気に笑う。曖昧に微笑みを返して、貘は胃の辺りを擦った。梶ちゃん昨日ちゃんとお風呂に入ってたよ、ダメなのは貘兄ちゃんの方なんだよ。正直にマルコに告白する勇気が残念ながら貘には無かった。
「昨日二人で何してたの」
マルコが聞く。貘は今マルコに噛みしめられているグミのように、心に牙を立てられてぐにゃりと形が歪む思いだった。
「うるさかった?」
「うん」即答が返ってくる。
「ごめんね」
「全然大丈夫。耳塞いで三〇数えたら寝れたから」
「おおぅ……」
貘は思わず顔を覆った。どこまでマルコが事態を察しているのかは分からなかったが、少なくとも大分気を遣わせてしまったらしい。
梶への脅しにマルコの存在を使っておいてなんだが、貘の頭を『親の情事を見せることも性的虐待にあたります』の一文が通り過ぎていった。
「本当にごめんマーくん」
顔を覆ったまま貘が言う。マルコは「何が?」と無垢な声を上げ、最後のグミを口に放り込んだ。言葉を返せないでいる貘に、普段と変わらないマルコ節が投げかけられる。
「カジも謝ったけど、良いのよ。うるさくしたい時もあるよね」
貘が顔をあげると、マルコは(何も知りません)と念を押すかのように貘に笑いかけた。この大きな子供は本当は全てを分かっているのではないか。そう錯覚してしまうような笑顔だ。
「あ、ポテチ食べて良い?」
マルコが目を輝かせながらキッチンを指差す。普段なら朝食前のポテチは禁止であり、マルコも散々梶からお小言を受けてきたため、最近ではわざわざ聞いてくることもなくなっていた。随分と交渉上手に育ったものだと舌を巻きながら、貘は快く頷く。頷くしかなかったともいえる。
「うん、良いよ」
「やった!」
貘兄ちゃんありがとう! と元気に返答してマルコがキッチンへと退散する。お菓子ボックスの前で大きな背中を丸めながら「今日はどれを食べてあげましょうねぇ」とポテチたち相談するマルコからは、言外に『この話はこれでおしまいよ』という意図が垣間見えた。
もぞもぞと動いている背中を、貘は尊いものを見るかのように目を細めて眺める。
新商品と期間限定商品の二択に悩んでいるらしいマルコは、未だ自分の背中に注がれている貘の視線に、振り返ることなく引導を渡してやった。
「貘兄ちゃん。マルコはもういいの。マルコはね」
マルコは言い、これ以上貘が自分を避難所に使わないように新商品と期間限定商品の両方のポテチをその場で開けた。
お菓子ボックスの前で他のお菓子を威圧するようにポテチを貪り、パリパリと小気味のいい音を立てるマルコは、まるで貘の介入を許さないとばかりに一定の速度を保ってポテチを咀嚼している。
『マルコはポテチに夢中なの。さぁもう諦めて、さっさとカジのところへ行きなさい』
そう言われている気さえする。やはりマルコは全部を分かっているのかもしれないと、貘は深々と頭を下げ、踵を返した。
貘がバスルームの扉を開けると、シャワーから上がったばかりの梶がパンイチ姿で洗面台に立っていた。濡れた髪を慣れた様子でセットして、鏡越しに貘と目が合った梶はヘラっと鏡に向かって笑いかける。首元や下着から覗く腿に、情事の痕跡が色濃く残っていた。キスマークだの歯型だの、まるで怨念のように体中に浮かび上がっている梶に、貘は昨日の自分の所業を思い返してげんなりとする。
「どうも貘さん」
「おはよう」
「おはようございます」
いつも通りの挨拶を交わす。洗面台の横に取り付けられている洗濯機がゴウンゴウンと音を立てて回っており、隣にはホテルに依頼するときに使うランドリーボックスが、今日は珍しく満杯に近い状態で置かれていた。
「ランドリーボックスに入れておけば洗濯なんてやってもらえるよ」と貘が言っても、梶は「人に汚れものを洗ってもらうのって何か居心地悪くて」と、靴下や下着は日頃から極力自分で洗うようにしていた。一枚の為に洗濯機回すのも勿体ないからと、貘やマルコの汚れ物も率先して引き受けてくれるので、それって何だか矛盾してない? と貘は思ったり思わなかったりする。
今日のように身に着けていたもの全てがランドリーボックスに突っ込まれているのは珍しい光景で、洗濯機の窓から覗く真っ白な布が無ければ、きっと今日も梶は洗濯機で下着類を回しているはずだった。
「シーツ洗ってくれてるの」
「はい。ほとんど僕が汚したんで」
梶に限って他意は無いはずだが、聞いて貘の頭と心臓と胃が同時にズクンと痛んだ。
確かにシーツを汚したのは梶が垂れ流したり吐き出したものだろうが、梶が垂れ流したり吐き出さなければならなくなった元凶は、言わずもがな貘である。
「ごめん。その……ありがとう」
歯切れの悪い貘に対して、梶はカラッとした口調で言う。
「良いんすよ、貘さん」
何を指しての「良いんすよ」なのかは正直貘には分からなかった。梶は愛用のワックスを所定の場所に戻し、もそもそと服を着込み始める。シャツを一枚来たところで、首元が空いていることに気付いたのだろう。梶が普段より一つ多くボタンを留めた。
「……昨日のこと、」
「はい」
「覚えてる?」
「えぇ、全部」言い切る辺り、貘は梶を肝の据わった人間だと思う。
「そっか」
「貘さんは?」
「覚えてるよ」
「そうなんですね」
「うん。いや……はい」
たまらず貘は畏まった口調で返した。もし梶が質問に“忘れた”と答えたら、貘はそのまま話題を蒸し返さないでおこうと事前に決めていた。梶は地頭が良い男だが、地頭が良いからこそ、実際のところは『そう』でなくとも物事を“忘れる”ことが得意である。相手に都合の悪い場合や自分が耐えれば丸く収まる場合など、梶はしばしば物事を忘れて、そんな事態はそもそも起きていません、といった風に振舞うことがあった。
自分の罪が消えるわけではないし、仮に梶が忘れたと言っても、貘は昨日のことを訓戒として生涯覚えているつもりではあった。
ただ、梶に少しでも質問をはぐらかされたら、貘も昨日のことは表面上だけは全て無かったものとして振舞おうとしていた。謝罪の場が設けられないことも罰に成り得るのだ。胸の内に己の蛮行を仕舞い込み、決して許されないまま、罪悪感を抱えて梶の隣で気安い兄貴役を続けることも場合によっては致し方ないことだと思っていた。
けれど、梶は全て覚えているという。貘は梶の回答を顧みて、己の回答と行動を選択した。
大理石を基調としたバスルームに膝をつき、貘が無言で梶に首を垂れた。さすがの梶もギョッとして貘を見る。
「ちょっと、何してるんですかっ、貘さん」
「謝罪」
「立ってください。床、汚いですよ」
「やーそれは出来ない相談ってやつで」
床には梶から落ちた髪の毛だろうか、毛先の丸まった黒髪が何本か散らばっていた。貘の白髪は床と同化してしまうため一度落ちてしまうと見つけ難いが、梶の髪は床にあっても存在感を放っている。シーツに落ちた梶の抜け毛を彷彿とさせ、貘は一層深々と頭を下げた。
「謝って済むことではないけど、まずはゴメン。人の道に外れたことをした」
誠心誠意込めた謝罪ではあったものの、強大な悪として名を轟かせようとしている貘が言うと何だか内容は滑稽に思えた。人の道など一五歳の頃にはとうに歩むことを止めてしまっている。今更どの口が、と貘自身もつい思ってしまうが、深い反省を表そうとすれば言葉はどうしても貘の普段からかけ離れたものになってしまった。
梶は棒立ちのまま貘の謝罪を受けている。随分低い位置にある白い頭に、梶は視線を泳がせるとセットしたての頭をくしゃくしゃと掻いた。
「……貘さんは、」梶が崩れた髪型をまた整える。行動自体には意味が無いようだった「僕のこと、あの……」
「うん、好きだった。ずっと」
言い淀む梶に代わって貘が言葉を続ける。梶の喉がヒュッと鳴り、せっかく整え直した髪はまたしても掻きむしられて寝癖そのままのようになった。
床に梶の髪がはらはらと落ちてくる。貘は一本拝借し、手の中に握りしめた。
「初めて会った時から良い子だなって思ってたけど、いつからかな、一緒に住むことになった時にはもう好きだったかも」
「う、わ……けっこう、まえ、ですね」
「そうかな。分かんないや。ずっと君が好きだから、もうこれが普通なんだよね」
初対面から好印象な人物だった梶は、どれだけ共に過ごしても相変わらず良い子で、貘は当初の(好きだなぁこういう子)の印象を改める機会に恵まれないまま今日まで至っている。良い子だったから好きになったし、好きになってからも良い子だったから更に戻れない所まで好きになってしまった。友情が形を変えた瞬間に明確な覚えはないが、形が変わってからのほうが梶と過ごした時間は長いだろうなとは思う。
「……昨日の貘さん、」
梶が切り出す。貘が顔を上げると、揺らぐ瞳と視線がぶつかった。黒々とした瞳が心細げに揺れ、怖かったです、と続く声も少々震えていた。
「うん、そうだよね」
「それにその、可哀相だった」
「うん?」
「すごく苦しそうな顔してて、でも手つきは優しくて、だからなんか、あぁ、この人って本当に優しい人で、本当は今のこれって不本意なんだろうなって……そういうのを、思ったんです」
「…………」
貘は視線を床に戻した。梶の言葉にいたたまれなくなり、最後まで聞いていられなかった。
レイプした相手に同情されている。こんなに情けないことがあるだろうかと、貘は梶から見えない角度で自虐的に笑った。
『そうだよ』と心の内で貘は梶に頷く。そうだよ。俺はずっと、二人で円満に迎える夜のことを妄想してた。ムードたっぷり部屋で、二人でちょっと良いお酒なんて空けちゃって、ほろ酔いのままベッドに入って体中触り合って愛し合って。そんなことを、考えてた。今は無理だけど、このくらいの時期になったらアプローチしても良いんじゃないかとか、実は計画だってぼんやり練ってたんだ。そうだよ。梶ちゃんが昨日、可哀相な俺から推測したこと全部、考えてたよ。実行なんて出来なかったけど。
床に散らばった梶の髪が、ほんの数時間前の夜を思い起こさせる。真っ白いシーツの上で少し癖のある黒髪がうねっていた。シーツを手繰り寄せる手。荒い息遣いに混じる鼻をすする音。梶の引き攣った声が囁く「やめてください」の拒絶。
記憶の隅に押しやってしまいたいほど痛々しい記憶だが、同時に貘は、あの夜だけが梶に触れた記憶になるのだとしたら一生昨日を忘れたくないとも思っている。心が乖離した体であっても、重ねた肌は間違いなく梶のものだった。少し薄い唇も、吐き出された青臭い液体も、熱い体内も、強烈に梶隆臣だった。浅ましいと思う。可哀相な人と揶揄されても仕方ないとも思う。それでも貘にとって、昨夜は初めて好きな人を抱いた夜だ。
「……ヤったら家族に戻れない。そう思ってました」
そんな話を確かにした。家族というものは二人にとって特別な枠組みで、だから大切であったと同時に簡単に崩落のトリガーになった。
「うん」
「でも、ヤっちゃった」
「ヤっちゃったね。梶ちゃんは、ヤられちゃった、だけど」
だから君は悪くないんだよ、と貘は意味を重ねる。物事の原因を無理やり自分に作る悪癖が梶にはあって、貘はそれが少しだけ嫌いだった。
「いや、でもね? 僕あの、思ったんですけど」
「ですけど、なに? まさか自分の思わせぶりな態度が悪かったなんて言おうとしてる? ダメだよ、梶ちゃん。そんなのはダメ。そんな風に思わせたら本当に俺は生きてる価値もないクソ野郎になっちゃう」
「いや、そうじゃなくて。よく考えたら、家族ってその────家族の最小公倍数って、二人、だと思うんですけど。世の二人家族の大半って、えっちしてるよなって、思ったんです」
「……へぇ?」
予想外のことを言われた。貘が気の抜けた声を上げ、梶を見る。
相変わらず目を泳がせる梶がそこには居たが、今度は髪ではなく指先同士をもじもじと遊ばせ、梶は恐怖とは異なる感情を顔に滲ませていた。
「あ、勿論そういう仲じゃないと家族じゃないっていう訳じゃないッスよ!? 親友とルームシェアしてる人はその親友がヤってなくても家族だと思うし、親一人子一人の家とかは勿論そういうこと無いけど家族だし……!」
「や、梶ちゃんストップ。今この場に居ない立場の人のフォローとかどうでも良いから」
何故だか見当違いの方向に慌て始めた梶を制する。見ず知らずの家庭より、今は梶と貘、二人の話が最優先だった。
梶と視線を合わせるため、床に正座していた貘がすくっと立ち上がる。謝罪をうやむやにするつもりは無かったが、何より被害者たる梶自身が、どうも謝罪どころではない様子だった。
「梶ちゃん……」
貘の瞳が梶を覗き込む。百面相する梶の瞳は、今度は本心を見透かされないようにと右往左往していた。近付いてきた貘に息を呑み。熱を孕んだ吐息を漏らした梶に、貘は確信を持った口調で言う。「………もしかして、絆されちゃったの?」
「ば、貘さんっ!」
急に大声を出した梶が、雑な動きで洗面台の戸棚を開けた。
ホテルゆえに定期的なアメニティ交換がある貘達の根城には、いつも未開封のアメニティグッズが戸棚の中に一定数並んでいる。毎回律儀に人数分用意されているアメニティの中から、梶はプラスティック製のカップを一つ選択して取り出した。
「あの、この水道からはですねっ、酒が出るんです!」
「はい?」
唐突に洗面台の蛇口を指差して唐突なことを言い出した梶に、貘は本心から何のことやら、と首を傾げた。
洗面台に取り付けられた蛇口は二つある。どちらも蛇口次第で冷水と温水がそれぞれ出てくる代物だが、勿論酒が出る特別カスタムは施されていなかった。
「そりゃぁもう強い酒でして、僕なんかはそんなにお酒強くないから、ちょっと飲むだけですぐベロベロに寄っちゃうんですよね!」
言いながら梶がカップの封を開ける。白地にホテルのエンブレムが付いた上品なカップを蛇口に当て、梶は勢いよく蛇口をひねった。
途端に蛇口からは液体が噴出される。全く臭いのない、やはり誰がどう見ても水道水だが、梶はその液体を酒だと言い張ってカップに並々と液体を注いだ。
「あの、梶ちゃん?」
「こ、こんなに飲んだらすぐ酔っちゃうだろうなぁ……! でもあの、梶隆臣、イッキいかせていただきます!」
「え、あの……こ、コール要る?」
どういうテンションなのかイマイチ貘は掴み切れない。考えた挙句多少無理な助け舟を出した貘に、梶はオーバーなほど首を振って「いやぁそんなそんな恐れ多い!」と余計に訳が分からなくなる反応をした。
「な、なぁんで持ってんの! どうして持ってんの! 飲み足りないから持っ! てん! の!」
「自分でやるんだ」
「ど、どどすこ……」
コールの声が途切れる。宣言通りカップの液体を一気に飲み干した梶は、一杯では酔いきれなかったらしい、「ご、ごちそうさまが聞こえない……!」とやはり自分でコールをかけて同じ動作を繰り返した。蛇口をひねる。カップに液体を満たす。飲み干す。
二杯目を飲み干した梶が貘を見た。本当にアルコールに酔ってしまったように赤い顔をして、ほぅ、とため息を吐いた梶が貘に体の向きを合わせた。
「……もっと悩んだり、葛藤したり、たくさんしなくちゃいけないことなんだと思います。いきなりヤられるとか、本来は酷い裏切り行為っていうか、ショックを受けることだから」
貘の胸に発言が刺さる。水を差されて───この場合差されたのは酒だろうか。どうでも良い話である───中断した謝罪だったが、昨晩自分がやった行いは決して許されるものではなかったし、実際許してもらおうとも貘は思っていない。バスルームに入ったとき、梶に挨拶を許された。それだけで本当は、貘は涙が出そうなほど嬉しかったのだ。
そう大きなことは望んでいなかった。自分が行ったことに対して、不相応な望みを抱くことは梶に対してあまりに誠意を欠いている。そんな心持ちだったというのに、貘の目の前で梶は、今日も今日とて予測不能な大ジャンプをかましてくる。
「でも貘さん、ほんと僕ってそういうとこチョロいっていうか、貘さんを相手にするともう、色々とアレなんです。なんていうか自分が信じられないんですけど…………僕あの、まぁこんなスタートでも良くない? って、正直朝起きて隣で寝てる貘さん見たら思っちゃって……昨日のことを思いだした時に、その、すごい気持ち良かったなって、やっば、貘さんとのえっち最高じゃんって、難しいことを考えるより先に、まず、そう思っちゃったっていうか……」
え、と間抜けな音を漏らしたきり、貘は次の言葉が用意できず、ポカンと口を開けて梶を見ていた。
何か言われた。
何か信じられないほど貘にとって都合の良いことを言われた。
なんだろう今のは。幻聴だろうか。
極めて優秀な頭脳をもってしても処置が追い付かず、貘はただただ梶の行動を待つ。一方の梶は、貘からほとんどレスポンスが返ってこなかったことでもっと顔を真っ赤にしていた。場を繋ぐように慌ててまた蛇口をひねり、洗面台の蛇口から、彼いわく「凄く凄く強い酒」をカップに注いで、また透明で無臭のお酒を一気に飲み干す。
プハァ! とわざとらしくカップから口を離した梶は、酒の場の無礼講とでも言いたげに、フリーズしっぱなしの貘を「耳かっぽじって聞いてくださいね貘さん!」と始めて指で差した。
「僕はいま、酔ってますので! すごくすごく酔ってますので! ごめんなさい、口を滑らせます! 僕やっぱり引っ越しやめます! そんであの、貘さんとまたエロいことしたいです! ていうか定期的にそういうことする関係になりたいです! え、昨日の今日で? とか! エロいことに釣られすぎじゃない? とか、絶対思われるし、実際本当にチョロいんですけど! ほんと、酔ってなかったらこんなこと言えないんですけど………だって貘さんにあんなんされて、落ちない人間居ないでしょ! 僕そういう耐性無いんですよ! チョロいんですよ! あんなん一発で骨抜きだよチクショウ!」
一息で言い切り、梶はぜぇはぁと肩で息をした。
変わらず呆然とした貘は、「……………へ」と声だか音だか分からないものを漏らして梶を見つめている。
(え、なに、え、何そのどんでん返し?)
目をぱちくりさせている貘に、梶はぶわりと顔中で発汗した。酒だと自分が言ったくせに洗面台の蛇口から出た液体で顔を洗い、またガブガブとコップに注いだソレを飲む。仮に───ここは梶を慮って仮説とする───真水だとしたらコップ満杯の水を四杯も立て続けに飲めば流石に苦しいだろう。「うぷっ」と吐きそうになりながら梶が洗面台にもたれ掛かっていた。(何してるんだろこの子)と正直貘は思ったが、洗面台に移る自分を見つめながら梶が「何してるんだろ僕……」と自ら呟いたため、貘もそれ以上の追い打ちはかけないでやった。
「違うんですよ、僕だっていくら貘さんが相手でも乱暴されたら幻滅したし、『君が悪いんだよ』みたいなえぐい責任転嫁されたらキレてました。でも貘さんそういうことしなかったじゃないですか。えっち凄く優しかったし、ずっとゴメンって謝ってたし、なに? ずっとこうしたかった? いや………そんなん貘さんみたいなイケメンに言われたら落ちるに決まってるでしょ! ルーヴル美術館から脱走してきた絵画みたいな顔しちゃってさぁ!」
「梶ちゃん、その例えよく分かんない……」
「つまりは顔が良いって大正義ってことです!」
台詞だけに注目すると梶はさながら顔目当ての安っぽい人間だった。言いたいことを思う存分発散すると、次に梶は気まずそうに貘を盗み見る。今更よくもまぁそんな純粋に気まずい顔が出来るものだと思ったが、梶の暴走癖は今に始まったことではないので貘は言及は避けた。ていうか、だってなんかすごい怒涛の発言と急展開を繰り広げられたのである。貘だって咀嚼するのに精いっぱいでいちいち梶に突っ込んでいる場合ではない。
「そ、そんなわけで、以上が酔っ払いの戯言なんですけど……ど、どうでしょう……?」
怒られないかとひやひやしている顔に、貘は思わず困惑より先に笑いがこみ上げてきて引き笑いを浮かべてしまった。
「いや、ふ、ふふっ……ちょ、どうでしょうってなに~??」
ダメだ、笑ってしまう。
貘はコロコロと表情を変える梶に釣られ、ついに顔からシリアスな表情を消し去ってしまった。
どうして彼は怒られないか心配しているのだろう。恩人に乱暴されて、傷付いている最中も一生懸命貘の心を探ろうとする優しさがあったからこそ、梶は貘に絆されたのだ。ありがたく思うことこそあれ、貘側に怒る理由があるわけがない。
というかそもそも、意中の人間に「貴方に落ちた」と言われて、浮かれない男なんているのか。
「いや、梶ちゃん……ふふっ……まじで、君、チョロすぎ……!」
「だから言ってんじゃないですか自分で! そんな馬鹿にしなくても!」
「違うよこれ、馬鹿にしてるとかじゃなくて……ほんと梶ちゃんって……くくっ……いや、すごいねホント! もうさ、とんでもねぇわ!」
「何が!?」
笑いを止めようとしない貘に、梶は半ばやけくそで噛み付いていった。人が真剣に話してるのにコノヤロウ! と大真面目に言うが、こんなこと大真面目に言ってる梶がそもそもおかしくて愛しくてたまらない。
貘はふと、梶の手に握られているカップに目をやった。とんでも展開に一役買ってくれた舞台装置に敬意を払い、貘はちょっとした意趣返しを思い付く。
「俺も、朝だけどちょっと飲んじゃおっかな」
「えっ、ちょ、貘さん!?」
洗面台を開け、獏も備え付けのコップの封を切った。蛇口をひねり、梶の制止も聞かずに同じようにコップを液体で満たし一気に煽る。ミネラルウォーターでは感じないカルキ臭さと嫌な苦みが口に広がった。それでもかまわず飲み干して、唇に付いた水滴を拭うと、貘はポカンとしてる梶に顔を寄せる。
「んっ」
唇を押し当てると、梶の方から角度を調整してくれた。ぴたりと合わさった唇の熱を感じながら、こんなに都合の良いことが起こって良いのかと貘は改めて夢を見ているような心地になる。
触れて離れてを繰り返し、梶の舌が遠慮がちに貘の唇を舐めたところで、貘は身を引いた。
このまま乗ってしまいたくもあったが、最低限つけるケジメはある。
「ほんとに強いお酒だね。俺も酔っちゃったみたい」
「はは、酔っ払い同士ですね」
「うん……ところでなんだけどさ、酔っぱらうと、普段隠してる本心とかがついポロっとでちゃうことってない?」
「え? あっ……!」
梶が何かに気付いたようにハッとした。さすが貘が見込んだキモ冴えの青年。ここぞという時、梶はいつも貘の期待通りの働きをしてくれる。「あ、あります。すごく、あります…!」
「だよね。俺さぁ、酔うとすっごい人のこと甘やかしたくなっちゃうの。前の日にひどいことした相手に、自分がやったことも忘れて、ベタベタしちゃう。本当はこうやって最初からしたかったのとか、最悪だった初めてをきっと挽回してみせるからこれからも一緒に居てほしいとか、ズルいことまで言っちゃってさ」
「あぅ……」
梶が目を逸らした。横顔と、貘の正面を向いた耳が真っ赤に染まっている。齧りたくなるが、今は我慢だった。
「あ、えっと大丈夫です。えーと、僕も酔うとめちゃくちゃ人にベタベタしたくなって、近くに居る人にとにかく、くっ付きたくなって。昨日の分まで甘やかしてとか、そんな、……は、恥ずかしいこと、言っちゃうんです」
「えーすご。可愛いねそれ。最高」
脆い心臓が痛いほど脈打っていた。茶化すような口調の貘は一見すると平常を取り戻したようだったが、実際には心臓を抑えたまま、ホテル中を駆け回りたい気分だった。愛しくて、嬉しくて、このまま心臓が止まりそうだ。このまま感情を押さえておくことはどうにも難しい。
調子が良いだろうか。でもかまうものか。
貘が両手を広げて梶に言う。
「酔っ払いだから、人肌が恋しくて。抱き締めていい? 梶ちゃん」
「えと、わぁ……あの、どうぞ」
おずおずと梶も両手を広げてくる。抱き締めると、貘が使っているものと同じボディソープが梶から香った。自分と似たり寄ったりな細身が体に馴染む。腕に込める力を強くすると、梶も負けじと力強く抱き締め返してきた。昨日の今日で、よくもまぁこれだけ貘のことを深く許せるものだ。
梶は、自分から何かを欲することは苦手でも、愛情に応えることはとても上手な人間だった。貘は骨が軋むほど強く自分を抱き締めてくれる梶に感謝して、赤黒い痕が目立つ首筋に、慈しむようなキスを落とす。
「好きな人をハグ出来るって、嬉しいね」
「う、わ……好きな人」
梶が繰り返す。信じられない、という表情が、貘にとってはそれこそ信じられなかった。順序がとにかくあっちゃこっちゃしてしまったが、貘は全部を腹に抱えて言葉を選ぶ。
「好きな人だよ。梶ちゃんは俺の好きな人。マーくんと一緒で君も大事な俺の家族だけど、ちょっとそれだけじゃ済まない時もある。梶ちゃんは俺にとってそういう子」
「なんか、凄い……酔っ払いって、すごいですね」
「ふふ、そうだね」
でも、と貘が言う。額通しを合わせ、貘が、もう好意を隠そうともしないで梶を見つめた。
「ねぇ梶ちゃん。そろそろ俺、酔いが覚めても良い? 言いたいことがあるの。ごめんねと、ありがとうと、あとそうだな、これからよろしく」
「酔ってなくても言えますか? 貘さんは、その……本心とか、酔ってないとポロっとなんて出ないんでしょう?」
「うん。でもさ、やっぱりこういう大事な時に、酒の力借りるってのもなんか違うでしょ?」
もはや今更だけどね、と貘が自虐を飛ばす。まぁまぁ、と宥める梶は、のど元過ぎればなんとやら、今は昨日の悲しみより、明日の喜びに胸を逸らせて見えた。