そんな馬鹿な。
目の前の彼に、ついそんな言葉が頭を巡る。
八月二一日。インテックス大阪。
引くほど暑い季節の引くほど暑い盆地にて、汗と赤字を垂れ流しながら多くのオタクが同人誌という己の恥部に等しき思考回路の集合体を嬉々として他人にひけらかしている本日。ワタシも数多の同志に漏れずひと夏かけて作り上げた渾身の推しカプ作品をひっさげ、じわじわと上がる湿度に体力を削られつつ、ただじっとスペースの椅子に座り頒布の喜びを嚙みしめていた。
自分で言うのもなんだが、今回の新刊はわりと自信作である。設定は少し奇抜に、代わりに展開はとびきり王道に。文句のつけようがないイチャらぶエンドにしようと意気込んで書き始めたので、いつもはつい書いてて恥ずかしくなってしまうような攻め側の台詞も、今回はえぇい大盤振る舞いじゃい! ということでとびっきり甘くて格好良いと思う文言を打ち込んだ。結果として出来上がったのはワタシ史上もっともイチャらぶしてる推しカプスケベブックである。サンプルの段階からわりと評判は上々で、先程はさっそく読んでくれたらしいフォロワーがわざわざスペースまでやってきて「めっちゃ良かったよ!」と嬉しい感想をくれた。
生の反応がいただける有難さ、高揚感。これはやはり現場ならではのものだ。いくら時代が進もうと、ウェブ上でのサービスが充実しようと、生身の人間が顔を付き合わせて好きなものを語り合う瞬間には代えがたい魅力がある。あと現地って人様の本がその場で手に入るし。応援してる人に直接日頃の感謝を言えるし。なんか最近イベントに出店してるカヌレとかフィナンシェめちゃくちゃうめーし。最高ですイベント。主催者さん本当にありがとう。
そんな思いで閉幕までの時間を買ってきた御本で幸せに過ごそうと決めていたワタシの耳に、すいません、と控えめな声が降ってきたのは昼を少し過ぎた頃だった。
男の声だ。この地で聞くとは思っていない、実際この数時間全く聞かずにいた音域の声だった。久しぶりに聞く低音というのは何だか不思議な響きがあって、ワタシは一瞬声に現実味を見いだせず、顔を上げるまでに少々の時間を要してしまった。
「あのぅ? すいません、読書中に…」
「あっ、あぁいえいえ!すいませんっこちらこそ──」
反応出来なくて、と取り繕いながら顔を上げる。上げて、声の主を視界に収めて驚愕する。見上げた先に初対面の、なのにやたらめったら見覚えのある青年の顔を見つけ、ワタシはその瞬間ピシリと身を硬直させた。
まだ二十歳をすこし超えたくらい。少年の瑞々しさが未だ雰囲気に残る男の人が、ワタシのスペース前にちょこんと立っていた。平均的な成人男性の体躯だが、お行儀よく手足を揃えて立っているのでなんだか「ちょこん」というオノマトペがしっくりくる。いや、分かんない。本当はしっくりこないのかもしれない。これは惚れた欲目かもしれない。何が起きたって言うんだ一体。
馴染みのある青年だった。青年はワタシを知らないだろうし、ワタシが青年を認知していたこともこの瞬間スペースに立ち寄って初めて知っただろう。ワタシたちは初対面だった。なのにワタシは青年のことをとてもよく知っていたし、いつも青年のことを考えていたし、何だったら青年のためにTwitterのアカウントを作って今日本を出していた。え? 突然なにを言っているのかって? これじゃぁまるで怪奇文書だって? うるさいな。知ってるよ。仕方ないでしょう。そうやって説明するしか無いじゃないか。
てっきりもうパーカーなんか着ない人種になっているんだろうと思ってた青年は、偽装も兼ねているのか、本日は人前に出てもギリギリ問題がないレベルのくたっと色褪せたパーカーを着ていた。
髪の毛はふわふわしてて、肌は陶器のよう───と言いたいところだけど、実際は毛穴から汗が滲み、前髪の奥にいくつか赤ニキビが点在している。本人の死角になってるであろう顎の下には一部髭の剃り残しなんかもあって、ぴょこんと剃刀から逃げおおせた一本がちょっと間抜けで愛おしかった。
「え……あ、……えっと……」
「あの、一冊買いたいんですけど、良いですか?」
口ごもるワタシに、青年が伺いを立てるように首を傾げる。柔らかい言葉が青年の口から紡がれるたび、彼の喉仏が僅かに上下するのが見えた。想像よりずっと突出してる喉仏に、あぁやはり君は男性なんだねと、本当に当たり前なんだけど改めて感想を抱く。
妄想の中の青年はそれはそれは非力なカワイ子ちゃんで、喉仏なんかわざわざ描写しなかったし、漠然と肌もムダ毛一切無しのトゥルットゥル陶器肌で考えていた。でも、実際に目の前にしてみると喉仏も剃り残しの髭も『そりゃそうだ』と思う。だって青年は二十歳を越えた成人男性なのだ。髭も生えれば喉仏も出てる。普通に考えたら当たり前の身体的特徴だ。ていうか、原作でも最終巻でけっこうがっつり目に無精ひげ生えてたし。そもそもツルツルなわけなかったんだ。あーしまった、ワタシの原作読み込み不足だ。
「あの、……あのー? 一冊…あのー?」
「あ、ああっ!すいませんすいません!」
またフリーズしていたらしい。
青年が喋るたび、ワタシはいちいち思考が停止してただ彼の顔を凝視するだけになる。初対面の人間に随分失礼な態度を取っているにも関わらず、青年はむしろ申し訳なさそうな表情でワタシに尋ねた。
「あの、もしかして男は購入出来ないとか、そういうルールありますか? 売りたくないってことなら、申し訳ないし諦めるんですけど……」
キリっとした角度の眉毛がへんにょり下げられる。(あ、その眉毛そんなにへにょってするんだ)と、どうでも良いことばかりに感動してしまうが、こればかりはファン心理ということでどうか大目に見てほしかった。
「あ、い、いえそんな! 同士の方であれば性別に関係なく頒布しております!」
「あっ良かった」
ホッとしたように青年が笑う。
可愛い。ダメだ、すごい可愛い。散々本の中でさせてきた表情は、実際に目の前で再現されるととんでもない破壊力だった。青年はしっかり男の人なんだけど、ふにゃっと笑うと周囲にパッと花が咲く。優しくて屈託のない笑顔が何かに似てると思ったら、そうだ、柴犬の笑顔だ。
青年の笑顔は、見ていると肩の力が抜けるというか、なんだかついホッとしてしまう柔らかさがあった。多分青年の人の好さとかが笑顔に滲んでいるのだと思う。そこらへんで適当に生きてる平凡な女でさえ『仕事帰りにこの笑顔に出迎えられてぇ~』と反射的に思ってしまったのだ。日頃精神をすり減らして生きてる人たちが、この笑顔にどれだけ救われるかなんて想像に難くなかった。めちゃくちゃ妄想しやすい。最高。次回の新刊にします。
サークル主の了解も得たところで、いよいよ青年がポケットをがさごそし始めた。ワタシでも手が届くラインのブランドロゴが入った財布を取り出して、青年は僅かに口元をニヤつかせながら机の上を指差す。
「それください」
言われた本に目を向ける。いくつかあるカップリング本の、彼はその一冊だけを指差した。
いけないことだと思いつつも、ワタシは反射的に本と青年を交互に見比べてしまった。表紙にはがっつりイラストで青年が描かれており、その隣には別のもう一人が、明らかに知人友人ではない距離で青年を愛おしそうに見つめている。本のタイトルもしっかり関係を示唆するようなもだったし、表紙の隅っこには【R-18】の表記もある。いくら鈍い人間でも、この本がどういった内容のものであるかは察することが出来るはずだ。
「え、あ、お値段こちらです……」
困惑はやっぱり口に出た。ワタシはしどろもどろな口調で青年に案内し、本の横に置いてあるプライスカードをどうにか指差す。青年は財布を開き、「細かいけど丁度あると思います」と断りを入れてから一枚ずつ小銭を取り出し始めた。
お行儀の良い人だ。さっきからワタシの反応はやべぇ人間のソレだが、青年は気にした素振りも見せず自然に振舞ってくれる。すげぇな、これが擬態を武器とする彼の実力───そんな風に思ったところで、ワタシは青年が小脇に複数の本を抱えていることに気付いた。チラと見た表紙には見覚えがある。ワタシもさっき買った。どうやら青年は一つのカプをローリングしているようなので、ワタシのような反応をこれまでに何度もスペース越しに見てきたのだろうと思い直した。
青年がお金を出すことに手間取っている。「すいません時間かかって」と苦笑する彼に「ゆっくりでいいですよ」と返答し、ワタシは最後の機会だろうとジッと彼を観察した。
眉毛は実際に見てみると随分と角度があってキリっとしている。絵に描いたような眉毛、と青年に言うのもなんだか変な感じがしたが、『この眉毛が似合う人ってリアルに居るんだァ』と親の顔より見た青年の眉毛に今更ワタシは感動を覚えていた。
角度の急な眉毛が似合うのは、彼の目が垂れ気味だからだろうか。顔は思ったより小さく、鼻も平均より高い。うーん。こうパーツごとに観察してみると実感するけど、この人って実は元から骨格なんかが整ってる人だったんだな。普通にイケメンだわ。全然作中でそんな描写無かったし、なんだったらキモうんぬんとか言われてたから、てっきりその、中の下くらいの顔なのかなーって勝手に思ってたけど。全然違う。全然イケメンの部類。あーもーミスったぁ。ワタシ散々本の中でフツメンだの平凡だのパッとしない顔だの言っちゃってるよ。だって作中読む感じ、そんな風なのかなーって思ったんだもの。どうしよ、これ本人に見られちゃうの? え、怒らない? 失礼な人だなァって、ならない? いや、それよりなにより勝手に彼の知り合いと彼をとんでもない仲と仮定して色々仕上げちゃってるから、そっちのほうがよっぽど知られるのは問題ではあるんだけど……え、問題あるよね? ある、よね? どうなの? なんか目の前で青年、めちゃくちゃホクホク顔で自分と自分の知り合いが寄り添ってるR-18のスケベスリムブック購入しようとしてますけども。
「やっぱり丁度ありました! 細かいですけど……」
「いえいえ、助かります」
ちょっきりの金額を、青年は丁寧に両手を添えて(原作通り!)ワタシに支払う。お金を受け取り、本を渡し、それで青年とはさようならだ。聞きたいことがあるなら、チャンスは今しかない。
「あ、あのっ……!」
「はい?」
キョトンとした青年の手元を指差す。失礼は承知で、ワタシは「その本たちって、」と切り出した。
「みんなその、カップリ……えぇと、お相手が一緒ですよね。その本を貴方が選ばれたってことは、つまりその……」
青年が大切そうに抱えている本に、ワタシも買ったフォロワーの神本を何冊も確認した。ここら辺一帯は同じ人物がネコ側に回る同人誌を頒布している。ネコ側の彼を主軸に、みんなそれぞれ『この人こそ!』と思う相手をネコの彼に巡り合わせて本を作ってるわけだ。
王道やマイナーは多少あれど、同人誌やカップリングというものには基本的に正解が無い。誰と誰を組み合わせても良いし、この組み合わせは間違い、なんてこともありはしなかった。だって全てはフィクションという同一の前提の元に成り立っている夢物語なのだ。正解も不正解も、その判断は我々オタクに委ねられたものではない。
ただ。
いま購入しようとしている本は勿論のこと、青年の手にあったのは全て同一の、たった一人が青年の相手を勤めている本だった。我々オタクが愛してやまないネコ側の彼。梶くんと、あの人。青年がわざわざイベントに来て、わざわざ買い込んでいる本の中では、その全てにおいて同じ人物と同じ梶くんが恋をしている。両思いなのか片思いなのか、真相は分からない。分からないけれど、少なくとも青年のなかに、この二人の組み合わせに対して何かしらの思いがあることだけは確かなようだった。
青年がワタシの質問に答えることはなかった。曖昧に微笑んだだけで、ワタシの質問に動じる風もなく、彼は全く平常心を保ったままワタシから本を受け取って「ありがとうございます」と自然な口調でお礼を言う。
「買えた。嬉しいなぁ」
手に入れた本を胸に抱き、青年は最後、噛みしめるようにそう呟いた。
それが無意識なのか、それとも彼好みの作品を作り上げたワタシへのご褒美だったのか。嬉しそうな横顔が私のスペースから離れていくその瞬間も、閉幕の音楽を聞いている今も、ワタシは分からないままでいた。きっと真意は今後も分からない。分かることといったら、次回のワタシの新刊が過去最高に厚くなるだろうということくらいだ。