男が私を真正面から捉えて微笑みかけるのだから、この一瞬は私の夢に違いなかった。
どうせ夢ならと、私は生前の彼にしたかったことを早速実行する。空に向かって伸びやかに長い特徴的な髪の束を捕まえ、握りしめると手のひらにはみっちり中身の詰まった質量を感じた。てっきりワックスで形作られていると思っていた髪型は、どうやら少女のお下げ髪なんかと原理は同じらしい。これじゃぁまるで尻尾だなと私は思い、男は困った顔で「ぐはぁっ」と言った。
「せっかく初夢に出てきたのに、やることがまずそれか、匠」
「何かを掴む夢なんて縁起が良さそうだろう?」
「そうか? 死人の髪だが」
「そう思うなら新年早々死人が厚かましく人の初夢に出てくるもんじゃない」
「ぐはぁっ正論だ! 仕方ない、なら好きなようにすると良い。これはお前の夢だからな」
男は私を匠と呼んだ。下の名前を教えた覚えはないが、(そもそも名乗ってさえいなかったか)とすぐに思考を補正する。現実の男は私の名前を呼ぶことはおろか、私に何かしらの名前があると知る前に私の前から姿を消した。ともすれば私を匠と呼ぶ男は何の根拠もないただの幻覚であり、馴れ馴れしい態度は、おそらくは深層心理の私が望むものであった。
結論付けるとゾッとしない話だったが、夢の中でまで正しい距離感を徹底するのも面倒だ。私は全ての不都合を無意識のせいにして、そのまま男と会話を続けた。
「良かったのか、新年から私の所に来て」
「ん? 息子のところへは妻が出向いているぞ。知らなかったが、毎年の恒例らしい。俺の所に二日以降しか来てくれなかったのにはそういうカラクリがあったみたいだ。夫を後回しとは。ひどい女だ、あいつは」
朗らかに笑う。ひどいと言うわりには顔に満足感が浮かんでおり、むしろそんな細君の儘ならなさを愛しているとでも言いたげだった。
「ひどいと言うなら君もだろう。ご子息にとって、今年は君を亡くしてから初めて大々的に迎える新年だ。偉大な先人を失った彼に、激励の言葉はかけなくてもいいのか?」
出会った初日に縁が切れた男とは違い、なんの因果か男の息子とは主従の関係を結びながら今も縁が続いている。完全無欠を絵に描いたような男の息子は間違いなく理想的な後継者だったが、それでも若年の彼は、時折父の姿を探すように鏡の自分をぼんやり眺めていた。
男が組織の頭目として活動していた時代を私は知らないが、書類に残る男の功績は凄まじく、また集めた人材を見回しても、男がいかに有能で魅力的な人物だったかは簡単に察することが出来た。男は天性の人たらしでもあったようなので、そんな人物の後釜など人一倍苦労があっただろうことは第三者にも想像に難くない。だというのに、当の男本人は軽く頭を振り、息子はとっくに俺の手を離れている、と言う。
「創一の周りには手本になる人間が数多くいる。俺は不要だ」
だが最たる手本は君ではなかったのか。
喉元まで出かかった反論は、現在己が置かれている立場を鑑みてそっと飲み下される。
組織の慣習に則り、誇りをもって闘いに挑んだ人間の末が今の男である。惜しむことはまだしも、犬死だと糾弾することは私の中に最近芽生え始めた立会人の矜恃が許さなかった。
「それじゃぁまるで君が夢に出てきた私には君が必要みたいじゃないか」
代わりに私の口をついた言葉は、ひどく女々しく、軽口と失言の境目にあるようなものだった。
気まずさに顔を顰める私を、男がキョトンとして見る。「違うのか?」と私の顔を覗き込んでくる男は、男の細君に負けず劣らずひどい奴だと思った。
「俺は不要だったか? 匠」
「逆に聞く。君は死人を死人となってから必要だと認める恐怖についてどう思う?」
「それは恐ろしいことだろうが、俺は生きていても死んでいても俺だからな。俺を必要だと認識してしまったなら、そこに生死の条件が付け入る隙は無い。俺が必要なら、必要である、それだけだ」
「なるほど」
暴論だったが明快な回答だった。私は相槌をひとつ、また男の髪の束を掴む。「君が必要だ」と素直に言葉にしてやっても良かったが、それではあまりに男の思いどおりにコトが進みすぎてしまう。
私はあえて、言葉を変えることにした。
「君が好きだ」
男が、切間撻器が、目を見開く。
その顔が思ったより豆鉄砲を喰らった鳩に似ていたので、私は四十にもなって叶わぬ恋を覚えた自身を少しだけ赦してやろうという気になった。
「良いのかそんなこと言って。今年一年の呪いになるぞ」
皺の入った目尻をいっそう細め、切間撻器は「まぁ強いやつに好かれるのは悪い気はしない」と一応私の告白を肯定する。愛妻家であることは周囲の話から聞き及んでいたので、社交辞令じみた反応を返されても別段ショックを受けることは無かった。元よりこれは夢だし、相手は死人である。思いが届いたところとて、というわけだ。
新年最初に見た夢はその年一年を表すという。
ならば今年は、どのような年になるのだろう。
これから俺の一年は、どのように過ぎ去っていくのだろう。
「謙遜するなよ。君が一年患う程度で済むような男か」
私は皮肉を込めて笑い、男の顔に手を伸ばす。存外かさついた肌をしているが、これが加齢によるものか、私の想像不足か、それとも死体なので乾涸びているからなのかは判別が難しかった。
切間撻器は伸ばされた私の手を拒絶することなく、目元に触れればゆっくりと目を閉じた。生前、刹那的に会合しただけの我々の間には甘やかな時間などただ一瞬もなかった。目を背ければたちまち命が消える極限状態で、瞬きの時間さえ惜しく、ただひたすらに私は彼に視線を注ぎ続けたのだ。
それは少しでも間違えば己の命を落としてしまうからだったが、だからといって目を見開いていたら別のものに落ちてしまったというわけだ。なんとも間抜けな話である。
男の唇まで手を下ろしてみると、かさつく肌に反して唇は僅かに濡れていた。
内側から滲む瑞々しさなどではなく、直球に唇が濡れている。男の死亡確認がどのように行われたかは不明だが、一応仏の身になるのだし、誰かが死に水くらいはとってやったのだろうか。
「どうした悩ましげに。キスでもするか?」
指を濡らす唇にほう、と息をつくと、切間撻器が楽しそうに私に顔を寄せてきた。近付くとかつて狭い車内で感じたコロンがふわんと香り、ついで土の臭いがぷんとする。土葬でもされているのだろうか。有り得ないとも言いきれないのが倶楽部賭郎であり切間撻器である。
「キスはいい。奥方に悪い」
「絵子は気にしないぞ」
「なら余計にだ。聡明な奥方の温情を受ける妾なんて目も当てられない」
「ぐはっ。妾!」
「突然降って湧いた四十に近い男妾だ。箔がつくだろう?」
切間撻器はカラカラ笑い、自分で唇の水分を舐めとると一歩また私から距離をとった。
「お前は悪い男だな、匠」
いつかの細君に向けた表情を私に対しても浮かべ、切間撻器は満足気に言う。男妾なんて冗談でも言わなければ良かった。私の言を受け入れるかのように微笑む男に、結局は私の負けが決まる。
私は呟く。息に音を乗せ、決意などという言葉で飾るにはいささか粘ついた戯言を男に向けた。
「一年じゃない。これは生涯の呪いだ」
口に出すと、あまりの重さと愚かさに目眩がした。
人生においてたった一瞬合間見えた人間。嵐のように出会い嵐のように去っていった男は、彼がただの人間であったなら、本来私にとっては赤の他人に毛が生えた程度の存在になるはずだった。なのにそう上手くことが進まなかったのは、男が、切間撻器という生き物が、ただの一瞬で人を一生捕らえるに足る魅力に溢れた強者だったからだ。
私は彼の名前を知ると同時に彼の死を知り、その後立会人になってからは彼の止まった時間を逆走して彼の功績を追った。始まらなかったものなので、終わりも見えない。口に出すべきではなかった好意は、しかし覆水は盆に返らず、私も撤回しようとは思わなかった。
「旧年中はお世話になった。君が好きだ。今年もよろしく」
「喪中につき新年の挨拶は控えさせてもらうが、俺も今生お前は好きだぞ。今年もよろしく」
渾身の自虐を晒し、男が私に手を伸ばしてくる。死人と握手なんてしてあちらに引き込まれないだろうかと杞憂する私を嘲笑うように、男は私の手をしっかりと掴み、握手をするとさっさとその手を離していった。