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「お、すげぇ。時限爆弾だ」

 そう思わず呟いてしまうくらい、指定された扉を開けるとフロイドの目の前にはいかにも時限爆弾らしい時限爆弾が現れた。

 剥き出しのダイナマイトに基盤のみの簡素な時計が張り付き、一秒時が進むごとに『ピッ、ピッ』と律儀に電子音が鳴っている。今時珍しい『見るからに時限爆弾』な時限爆弾だった。最近では時限爆弾の技術も精度も進み、こんな旧型の時限爆弾が採用される機会は少ない。過去の遺物と言うほどではないにせよ、春の夜道で変質者に出会うくらいの頻度で時限爆弾と遭遇しがちなフロイドでさえ、この手の時限爆弾を最後に見たのは去年流し見したハリウッド映画の中だった。
 いやぁまったく、惚れ惚れするほど時限爆弾だ。もはや外見や仕組みの説明をすることさえも不要と感じるほどに普遍的な時限爆弾の姿をしている。
 辞書で『時限爆弾』と引いたらきっとこの姿がイメージ図として掲載されているだろうし、実際ネットの検索バーに『時限爆弾』と入力すれば、検索結果の一枚目から五枚目くらいまでは同じビジュアルの物質が画面を占領していること請け合いだった。

「逆に今時ここまでステレオタイプな時限爆弾作る方が手間だろ」
『手作りみたいだよ』

 電話越しに梶が言う。フロイドの協力者である彼は、数週間前から敵のアジトに潜入し内部の情報を集めていた。危険な仕事だったが上手くやってくれたようで、敵の信用を得た梶は、本日ついに時限爆弾の設置場所と解除方法をフロイドに横流しした次第である。

「器用な奴らなんだな」
『ね。酔狂っていうか、馬鹿だよね』

 素直に称賛するフロイドに対し、梶は珍しく相手を小馬鹿にするような口調だった。
 よほどアジトの連中とウマが合わないとみえて、電話口の梶は終始口調が刺々しかった。あまり馴染みのない態度を取る梶に「そうだな」とフロイドは同調し、しかしまぁ、と改めて時限爆弾に目をやると溜息をつく。

「こういうのって相場は、コードの色は赤と青の二色じゃねえのか?」

 フロイドの眼前に鎮座するそれは大枠こそ古き良き時代の時限式爆弾だったが、一方で興醒めというか、嫌な意味でオリジナリティに溢れた部分もあった。
 そう、コードである。
 古き良き時代の時限爆弾というのは、大抵の場合爆弾と時計が赤と青のカラーコードが繋がれている。その場合どちらか一本は実際に爆弾に繋がった線であり、もう一本はダミーだ。
 正しい線を切れば見事爆弾のカウントダウンは止まるが、ダミーを切ればその瞬間に爆発するというのが世のセオリー。
 映画でも時限爆弾といえば二色のカラーコードで選択を迫られる。そうして赤と青のどちらを切るかで人々は話し合い、カラーコードに忍ばせた犯人の思惑をヒーローたちは読み取り、時には恋人の瞳が美しいサファイヤブルーだからという理由で、何の根拠もなくコードの切断を決め残り時間一秒で爆弾を止めるというのがある種様式美だった。

 時限爆弾とカラーコードはその二つが組み合わさることで古き良き時代とお約束展開を構成している。にも拘わらず、現在フロイドの前に置かれている時限爆弾には虹の七色に白と黒が加わった計九色のカラーケーブルが絡みついており、王道ストーリーはどこに隠れてしまったのか、視覚的に大層うるさい邪道仕様になっていた。

「九色はねぇだろ九色は」

 思わずフロイドからも不満が上がる。耳に押し当てた機体の向こうからは、梶のため息と『ほんとだよねぇ』というウンザリした声が聞こえた。

『二択じゃ五〇%の確率で当たるから良くないんだってさ』
「五〇%の確率で死ぬんだぜ? 十分ギャンブルだろ」
『天下のフロイド・リーに五〇%は与え過ぎなんじゃない?』
「買い被ってくれてどうも」
『僕に言わないでよ』
「それもそうか」

 時限爆弾はあと三分足らずで爆発しようとしている。古典的な作りだが爆弾の量はそれなりに多く、目測による大まかな試算だが、仮に爆発すれば設置された建物ごとフロイドは木っ端みじんに吹き飛ぶことが想定された。
 今からこの場を離れても到底安全な場所まで非難することは困難だろうし、そうでなくとも敵の武器庫として使われてきたこの建物内には、未だ弾薬や危険な薬品が多く貯蔵されている。
 建物周辺に多くの民家が密集していることを加味しても、いくらフロイドとはいえ、この状況下で爆弾に立ち向かわない訳にはいかなかった。どうにかして三分以内に、この爆弾を処理する必要があるわけだ。

「どの線を切ればいい?」

 フロイドは電話口の梶に問う。三分で爆弾の解体を行うことは到底不可能であり、爆弾に繋がっているコードを切るしか道はない。本来なら九分の一の確率を引き当てなければならなかったフロイドだが、しかし今回に関して言えば、フロイドが行うのはギャンブルではなく単純作業だった。何故なら梶の手元には既に正解コードの情報がある。フロイドは梶に指定された色のコードを、梶に指定されたまま確実に切るのみだ。
 ご丁寧にも爆弾の傍にはハサミが置かれていた。フロイドはハサミを手を伸ばして梶の言葉を待つ。
 電話の向こう、梶は簡潔に言った。

『白。フロイド、白を切って』

 ショキン、とフロイドの手元でハサミが鳴る。九色のカラーコードを前にイメージトレーニングを始めたフロイドは、少々刃こぼれのあるハサミを見下ろして梶に念を押した。

「それは確かな情報なんだろうな梶? これで間違ってたら俺は一瞬であの世逝きだぞ」
『間違いないよ』言葉に躊躇はない。
「白ってのはホワイトで間違いないな? 俺は母語がお前とは違う。色と単語を間違えて覚えてる可能性だってあるんだ」
『疑り深いなぁ。ホワイトで間違いないよ。貘さんの髪色と同じ。貘さんの色って言えば分かる?』

 ショキン。ハサミが相槌を打つ。

「あぁ分かりやすいな。そういえば嘘喰いの別名は白い悪魔だったか。なるほどな。確かにあれは白だ」
『うん、白。貘さんは白だ』
「切れば良いんだな?」
『うん。時間無いんだから、早く』
「分かった」
 
 
 
 瞬間、ガタンと物音がしたきりフロイドと梶の通話は途切れる。話中音さえ聞こえない電話は、おそらく機体自体がダメになっているのだろう。電話の相手だった梶は一切の無音になった電話を切り、表情が消えた顔を上げた。「これで良い?」

 梶の真向かいには銃を構えた男が居る。ニヤつきながら梶とフロイドの会話を聞いていた男は、満足気に頷いたのち梶の肩に手を置いた。

「名演技だったぜ」
「どうも」

 梶が男の手を払う。視線で銃をおろすよう促すも、男は素知らぬ顔で梶に銃口を向け続けていた。

「フロイド・リーの様子は?」
「コードを切ると言って、そこから電話が途切れたから分からない。何の音もしないから、機体自体が壊れたんだと思う」
「爆発したか。そうだろうな。アレは大抵の場合爆発する」

 男がまた下品に笑う。服の下にあった薄い肩を揶揄し、再び手を伸ばしてきた男は「ちゃんと飯食べてんのかぁ?」と梶の肩をワシ掴んだ。
 骨を確かめるように手が蠢き、そのまま二の腕を揉みながら下がってくる。梶の皮膚が粟立ち、眉間には露骨に皺が寄った。一切合切が不愉快な男である。『どうせ失敗するなら最初からご機嫌取りなんてしなきゃ良かった』と思ってしまう程度には、梶は今回のメインターゲットでもあるこの男をすっかり嫌いきっていた。

 組織に潜り込むまでは良かった。足手まといにはならないが突出して有能も晒さなかった梶は、アジトの中でも影が薄い人物となり、おかげで内部の調査をスムーズに行うことが出来た。ただ、順調に進みすぎたことがかえってアダとなった。調査の終盤、最後の最後で気を抜いてしまった梶は、自らの素性を明かす失態を晒してしまったのだ。
 すわ射殺かと思われた場面で、梶の命を救ったのは皮肉にも協力者フロイド・リーの存在だった。梶のバックにあの陰謀王が控えていることを知った相手方は、梶の処刑を即座に取りやめ、梶を餌にフロイド・リーを亡き者にする計画を立て始めた。エビで鯛を釣るならぬ、梶でフロイドを釣るだ。梶にとっては失礼極まりない話だが、それだけフロイドの存在が裏社会の人間にとって脅威だということだろう。

 そのような経緯があって、敵は梶に電話を渡し、フロイドに連絡すること・爆弾の在り処を教えコードを切らせることを要求した。
 九色のカラーコードが絡みついた手製爆弾は、敵のリーダーである男の悪趣味が反映されたものらしい。カラーコードの中には実際に爆弾を止める線が存在し、勝率は九分の一である。ギャンブルとして十分に成り立つ確率のソレを、男はわざと相手にチラつかせ、これまでも希望を煽って楽んできたらしかった。

「それにしても意外だった。正しい色を伝えるかと思ったが、まさかあんなに躊躇が無いなんて」

 先ほどの電話を思い出しているのか、男がわざとらしく肩を竦めてみせる。芝居がかった調子で顔を覆い、清々しく自分を棚に上げた男は、梶に向かって「人でなし」とまで口にした。

「伝えたら僕が死ぬからね」

 癇に障る立ち振る舞いだったが、梶は苛立ちを抑えて返答する。

「伝えなかったら相棒が死ぬんだぜ?」
「でも見えてない所での出来事だし、フロイドがどうあれ、僕は事実生き残ってる」
「冷たい。なんて冷たいんだ。フロイド・リーは君を信じてコードを切ったのに」

 男は天を仰いだ。おお神よ、と呟いて、男は梶の非情を咎めるように胸の前で十字を切る。あからさまに相手を煽る行為だったが、あいにく梶は無宗教で有名な島国の出身だ。嘆かれようが神に祈られようが彼としてはどうでもよく、それよりもやっと外を向いた銃口のほうが、梶にとっては重要だった。

 悪党なりの美学なのか、九色のカラーコードの中には確かに爆弾を止めるコードが存在する。そればかりはイカサマのない事実だったが、梶と対峙する男は、所詮はギャンブラーではなく悪党だった。男が見たいのは心理戦でも相手の勝負運でもなく、自分が仕掛けた罠に人間が見事に落ちていく様である。だから希望をチラつかせるわりにはロクにゲームを成立させる気もなく、それは今回の、梶とフロイドを相手取った場合にも例外では無かった。

 今回、爆弾を止める正しいコードの色は黒だった。言うまでもなく、梶がフロイドに伝えた色とは異なっている。

 フロイド・リーに電話をかけるよう命令した際、男は梶にコードの正しい色は黒だと言い、銃を突き付けて「だから違う色を伝えろ」と梶を脅した。男はフロイドを陥れるだけではなく、正しい色を知った上で梶がどのような行動をとるか見たかったのだ。フロイドを守るため自分を犠牲にして黒と言うのか、それとも我が身可愛さに違う色を伝えるのか。見るに梶はまだ若い。“あの”フロイド・リーの協力者とはいえ、顔立ちからは若者特有の青さが滲んでいた。きっと違う色を言ったところで、梶の声は震え、明らかに嘘を吐いていることが分かるだろう。それもそれで見ものだと男は思った。

 仮にフロイドが梶の声色に違和感を抱いたところで、九本あるカラーコードの内一本が対象から外れるだけである。正しい色を導き出すためには三分の制限時間はあまりに短く、結局のところ、結末が変わることは無いだろうと思われた。

 意外だったのは、梶がとても流暢に、躊躇いや自責を感じさせない口調でフロイドに嘘を伝えたことだった。男は梶が白と繰り返す様に内心ギョッとし、フロイドが素直に梶の言葉を受け入れるのを同情混じりな気持ちで聞いていた。
 こんなに若く非力そうな青年が、どうしてあのフロイド・リーに嘘が突き通せると思うだろう? 
 きっとフロイド本人だって自分が梶に嘘を吐かれているとは思わなかったはずだ。梶が本当に大仕事をやってのけたのだと信じ、白だと断言する若者の言葉を受け入れてコードにハサミを入れたに違いない。

 梶が言うには、フロイドの電話が途切れたのはコードの色を伝えた直後だったという。勘だけで即座にコードを切るイカれた人間など居るわけが無く、つまりはコードの切断に躊躇いが無かったということになり、ゆえに導かれる結論を、男は一つしか無いと確信していた。

「あの用心深いフロイド・リーが、言われた通り白のコードを切るとは……随分あの男に信頼されてるんだなぁ“カジ”よ」 

 男がねっとりとした声色で言う。馴れ馴れしく呼ばれ、梶の顔が歪んだ。
 電話口のフロイドを真似たつもりだろうが、言語によってイントネーションを自在に操るフロイドに比べ、男の『カジ』にはたった二音にも異国の訛りが入っている。知性も、親愛の欠片もない『カジ』は、ただ梶の神経を逆撫でするだけだった。

 確かにこの男は悪党で、今回梶が取り組んでいる仕事に関しては重要人物である。だが悪人としての質を考えれば、フロイドと比べるまでもなかった。
 梶は浅く息をつき、男を冷めた目で見つめる。

「……そうだよ。僕はフロイドに信頼されてる。そして僕も、同じくらいフロイドを信じてる」
「あぁ?」

 男の目がギョロンと上を向く。白目が黄色く濁っており、一目で男の不摂生が察せられた。

「なんだ、フロイド・リーが生きてるとでも思ってるのか? ははっ、映画の見過ぎだなそりゃ! 爆弾が至近距離で爆発して生還することなんてほとんどない。奇跡の生還っつうのは、稀にしか起きないから奇跡の生還なんだ」

 まるで自分しか知らない法則を教えるように男が梶に告げる。男の表情には梶の若さに対する軽視が透けて見え、梶が何の根拠もなくフロイドの生存を信じているとタカを括っているようにも思えた。

 おそらく男は、梶のような若者にとって陰謀王は神に等しい人物だろうと推測を立てているのだろう。不可能を可能にする、ある種スーパーマンだと思っているに違いないと、男の態度が語っていた。

(そりゃぁまぁ、現状雲の上の人ではあるけれど)

 高笑いする男を梶は冷めた視線で一蹴する。見当違いな推測で悦に浸っている男は梶の目には滑稽に映り、もはやその偏狭は可哀相でさえあった。
 仮にも梶は、フロイドの協力者としてこのアジトに潜入したのだ。たとえ梶自身からは非力で無害な一般人の雰囲気しか読み取れなかったとしても、梶を協力者として起用するに至ったフロイドの思惑はもう少しくらい読み解いたほうが良いのではないか、と何故だか梶のほうが男の浅慮を心配してしまう。フロイド・リーが大物の悪党であると言い出したのは男の方だったはずなのに、何故男は、こんなにも簡単にフロイドが死んだと信じられるのか。

 立て続けに悪党として格の違いを見せつけられ、梶は男に対して怒りを覚えることも次第に馬鹿馬鹿しくなっていた。
 どのみち自分の仕事はもう終わっていて、あとは幕引きを待つだけである。梶は音のしなくなった電話に視線を落とし、横目に画面の時刻を盗み見た。フロイドの電話から二分ほど経過していて、あと数十秒で、時限爆弾が本来爆発するはずだった時刻がやってくる。

「アンタは何か勘違いしてるみたいだけど」
「あ?」
「僕は別に、フロイドに変に夢を見てるわけじゃない。あの人は人間ですよ。殺しても死ななそうだけど実際は全然死ぬと思うし、電撃すんごい効くし、まぁ暴も僕よりは出来るけど所詮常人の範疇。格好付けてるけど、頭脳とか度胸以外は案外年相応の人間なんです。筋肉痛とかも既に二日遅れてやってきてるっぽいし」 
「いや筋肉痛のことは言ってやるなよ。頑張ってんだからあっちも」

 思わずと言った調子で男がフォローを入れてくる。悪趣味な爆弾犯に庇われたとあってはむしろそちらの方がフロイドのプライドに傷が付きそうなものだったが、見るに男はフロイドと年の頃が変わらない様子だったので、あるいは梶の辛辣を自分事のように受け止めているのかもしれなかった。

「加齢によるハンデを責めるのはマナー違反だ」
「あ、はい」

 同年代の男がマジレスを返してきたことで、梶もフロイドに対する発言に無遠慮があったと気付いたらしい。「すいません、年齢はどうでも良くて」と少々の気まずさを滲ませた梶は、咳ばらいを一つ、仕切り直すように続けた。

「僕が言いたいのは、そんなんじゃなくてもっと根本的な話です。フロイドは爆発に付き巻き込まれたら死ぬしギャンブルにだって時には負ける。運は良い人だろうけど所詮運は絶対のものではないし、思考の読み合いだって、どれだけ得意な人でも相性と限界があるんだ」

 梶の言葉に男が怪訝な顔をしていく。梶の言っていることは全て事実だったが、事実だからこそ発言に違和感があった。あのフロイド・リーを指して、梶の話しぶりと言ったらまるで普通の人間を相手にしているかのようだ。陰謀王の情報網もずば抜けた知性も、梶にはそう重要でないように聞こえる。いや、だからといって無用だとも思えないが。
 気付けば男は首を捻っていた。そういえばすっかり表情から恐怖心が立ち消えている梶に、男は質問を投げかける。

「お前、だったらフロイド・リーの何を信じてるっていうんだ」 

 問われ、梶の顔に笑顔が浮かんだ。優越感を感じている人間の笑みだった。フロイドに対する男の無知を知り、『そうですね貴方には分からないでしょう』とでも言いたげである。自身が小馬鹿にされていると分かり、男は眉間の皺を深くした。一方で梶は胸を張り、晴れ晴れとした表情で男に言い放つ。

「僕を理解してるかどうか」

 一歩分、梶が男から距離を取った。男は再び銃を構えるが、梶は笑顔を崩さずにその場で立ち止まる。おもむろに両手を広げた梶に、男はにわかに身を強張らせた。身振り手振りが小さいことで知られる日本人が、突然オーバーな立ち振る舞いになるので訳が分からずに困惑してしまう。

 何か仕掛けがあるのでは、と思案しているらしい男を見て、梶は愉快というか、溜飲が下がる思いがした。実際のところは梶の言動に仕掛けや思惑はない。ただ中途半端に男が真似たフロイドが何度思い返してもやっぱり癪だったので、意趣返しに、自身の方がもっと正確にフロイド・リーを模倣できると示したいだけだった。

「貘さんを切る? 何だよそれ! 縁起でもない。僕は貘さんを断ち切ってまで生き延びたくなんて無い。貘さんを傷付けるくらいなら、自分が代わりに切り刻まれた方がずっとマシだ!」

 バクサン? と男が繰り返す。やはりこの国の訛りが気にかかり、梶はキッと男を睨みつけた。
 時は間もなく電話終了から三分になろうとしている。受話器の向こうで、フロイドが現在どのような姿をしているかを当然だが梶は知らなかった。もしかしたら電話に押し当てられた耳だけが辛うじて形を残し、あとはフロイドの片鱗もなく肉や消し炭になっているかもしれない。爆破の衝撃に人間のフロイドは耐えられないので、古典的な時限爆弾が古典的に爆発したら、勿論フロイドは現在人の形を保てているわけがなかった。フロイドは今どうしているのか。確認の済んでいない梶は、しかし全てを知っているかのように、したり顔で顎に己の手を添える。

「白は貘さんの象徴だ。白いコードを切ってほしいからって、梶隆臣が『貘さんを切れ』なんて言うはずがない。僕なら、梶隆臣ならきっとこう思ってる。貘さんを傷付けるくらいなら僕を───黒を切れ」
「な───!!」

 梶の言葉に男が目を見開く。ようやく梶とフロイドの間で取り交わされていた会話の真意を悟り、銃を梶に向けるが、それでも男の顔にはいまだ困惑が見えた。 

「な、なんだそれ。そんなの、暗号にもならない。そんなものがっ」
「伝わってるよ。きっと。絶対」

 梶が真っ直ぐ男を見る。確かに梶の伝言は、暗号と呼ぶには稚拙すぎるものだった。事前に取り決めがあったわけでもなく、殆どこじつけに近い。それでも梶は、確信を持った口調で頷いた。

 隣に居ると、常に自分との差をまざまざと見せつけられてへこたれそうになる。その土地の謎料理を梶と一緒にぎゃーすか文句を言いながら食べてくれる賑やかな人は、ただし一歩裏の世界に足を踏み入れれば梶の遠く及ばない場所に立つ人物で、もしかしたら生涯をかけても届かないかもしれないその人に、梶は羨望と尊敬と、何より心からの信頼を寄せている。
 
 
「だってフロイドが僕を読み間違えるわけない」
 
 
 瞬間、である。
 けたたましい爆破音が梶と男のいる部屋に響き、外で警護に当たっていた人間たちが一斉に悲鳴を上げ始めた。銃声が聞こえ、うめき声と相手を威嚇するための怒鳴り声が部屋の外から間もなく上がる。音は波のように梶たちの元へと押し寄せ、壁を突き破った。濁流に代わり部屋に流れ込んできたのは武装した傭兵たちだ。おそらくは金で雇われた暴の化身が、現在の所属を示すように「爆弾は止まった。お前たちは終わりだ」とライフル銃を突き立て男に言う。

 呆然とする男を無視して、中の一人が梶に歩み寄った。

「ミスター・カジ。フロイド・リーより伝言です」

 梶の視界の端で、男が銃を地面へ落としていた。傭兵が男の銃を壁際まで蹴り、そのまま男に地面に伏せるよう命令している。部屋の外からは既に余分な音が消え、時折痛みに喘ぐ声が聞こえるのみだった。

「“分かりやすい指示をありがとう” と」

 梶が笑う。ほらみろと、勝ち誇ったように地面の男を見下ろした。