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 ぺちん。
 
 
 可愛い音が賭郎本部の廊下で鳴った。通常であれば人々の足音や喋り声に簡単に掻き消えるであろう小さな破裂音は、しかしその場にいた人間全員の足を止め、ありとあらゆる世間話と業務連絡を中断させる。
 背中越しに梶にくっ付いていた当事者の弥鱈は、梶の行動に目をぱちくりさせた。手が当たった己の額を撫で、一応擦ったあとに首を傾げる。頬と頬が触れ合ってしまいそうな至近距離に、弥鱈のキョトン顔と梶の険しい表情が並んでいた。鈍痛も残らないような力加減だったと予想されるが、確かにいま、弥鱈の頭は梶に引っ叩かれたようだ。

「私いまシバかれました?」

 弥鱈が梶に尋ねる。シバかれたと形容するわりに声色には怒りが見えず、聡い周囲はそれだけでギョッとした。

「はい」
「なんで?」
「え!? なんでとか言う!?」

 梶がズッコケる。前のめりになった梶を咄嗟に弥鱈は支え、片手一本でぐい、と己の方へ梶を引き戻した。そうしてピタリと身体を寄せ合った二人が廊下のど真ん中に誕生し、誰からともなくおぉ、と歓声が上がる。「これだよコレ!」と次の途端梶は大きな声で騒ぎ立て、弥鱈の腕を振りほどくと彼から一定の距離を取った。

 偶然居合わせた人間達は誰もが指し示したかのように気配を殺して二人の一挙一動に注視している。好奇と困惑が入り混じったなんとも言えない空気が廊下中に漂い、梶は居心地が悪そうに視線をウロウロさせた。
 おそらく梶は当面のあいだ賭郎本部になど来たくはなかったことだろう。いくら自己評価の低い彼とはいえ、自身が発端となったゴシップネタがどれほどの衝撃と余波を賭郎にもたらしたかは想像出来ているはずだ。とんでもないビッグニュースが賭郎本部を駆け巡ってからまだ日が浅い。本日登社すれば、自分達が人々のオモチャにされることは目に見えていた。

 梶は羞恥に耐え、襲い来るであろう屈辱も覚悟して敬愛する斑目貘のために賭郎本部へ赴いたのだ。不安も大きかっただろうが、同時に梶は信じていたかもしれない。気まずいのは自分一人ではない。下手したら自分よりよほど矢面に立たされ、露骨な扱いを受けている相手が自分には味方として存在してくれるはずだ、と。
 梶は弥鱈を同志のように思い、あるいは心の拠り所にして本部に足を踏み入れた。なのに蓋を開けたらコレである。
 
 
「あのですね、弥鱈立会人」
 
 梶が仕切り直すように腕を組む。弥鱈はいつもと変わらない飄々とした態度であり、それがまた梶にも周囲にも理解不能だった。

「なんですかタカくん」
「タカくんって呼ばないで。じゃなくて。えっと、僕だって周囲に今までと同じ態度で接してもらえるとは思ってません。きっともう色んな所で話題にされてるし、裏じゃ僕らの関係は気持ち悪いって扱き下ろされているかもしれない。それは仕方ないです。残念だけど、僕ら自身が止められることじゃない。でも、それとこれとは全然話が違うんですよ」
「はぁ」
「分かりますよね? 弥鱈立会人」
「ところでタカくん」
「聞いてます? タカくん呼びやめて?」
「タカくんって鯖は味噌煮派ですか? それともみぞれ煮派?」
「あのさぁ聞けって! 僕真剣に話してるじゃん。なんでそういう態度取るの? いい加減にしろよ」
 
 
 えっなんか今すごい台詞飛び出さなかった?
 
 周りに居た人間は日頃あれほど穏やかで誰に対しても礼節を欠かない梶が『いい加減にしろよ』などと口走ったのであ然としている。荒い口調の梶様自体が勝負の場でも滅多にお目にかかれないレアキャラなのに、こうも軽々しく、しかもこんな日常のやり取りであっさり顕現するなんて。
 中には梶が命令口調を使ったことに驚く人間も居て、ただでさえ謎の興奮が蔓延っていた廊下はいよいよ隠し切れない熱気を孕みだしていた。この場に居る全員が目を皿にして梶と弥鱈を見つめている。弥鱈だけが『全然ノーダメージですピッピロピ~』といった調子でシャボン玉を飛ばしていた。

「なんでそんなに怒ってるんですか。そんなに怒らなくても良いじゃないですか」

 そっぽを向いた弥鱈が面白くなさそうに言った。足元はタン、タン、と革靴が一定のリズムを刻み、ポケットに突っ込まれた手も相まっていかにも不機嫌である。
 そう、いかにも。
 まるで不機嫌の具体例をなぞっているかのように模範的な不機嫌は、あまりに分かりやすく不貞腐れているものだから逆に違和感を覚えさせるほどだった。弥鱈悠助は若年ながら優秀な立会人である。感情を表に出すことを基本的には良しとせず、足元も一見すると地団駄のようだが、それにしてはステップが軽やかだった。

(あぁこの人、梶様にかまってもらえて嬉しいんだな)

 場の一定数は弥鱈の姿にそのような結論を出す。嫌そうな顔も苛立っているように見せる足先も全て演技で、本心は梶の視線が自分に注がれている現状に満足しているのだろう。はぐらかすような弥鱈の言動は先程から梶の神経を逆撫でているが、一方で梶とのやりとりが増え、二人だけの世界が廊下に展開されているのも事実だ。梶の心境を思えば不憫としか言いようがないにせよ、弥鱈は出来るだけ長く梶に自分の相手をしてもらいたいようだった。猫か。まるで飼い主の気を引きたくて目の前でコップの水をひっくり返す飼い猫のようである。
  
 
 
 梶と弥鱈が恋人関係にあることは露見したその日の内に賭郎本部を駆け巡り、人々は知り合いと顔を合わせるたび「ねぇ聞いた!?」「聞いた聞いた!」と主語もなく一大ゴシップの話題に突入していった。なんといっても“あの”お屋形様が溺愛する懐刀の熱愛である。ただでさえ組織内で知らぬものは居ないほどの有名人が、よりにもよって組織で最も取っ付きづらいと評される人物と交際しているとあっては話題にするなという方が土台無理な話だった。

 しかもあの二人、聞いた話ではお互いを「悠助くん」「タカくん」と愛称で呼び合うほどに仲睦まじいらしい。嘘だろう? まだ梶が弥鱈を「悠助くん」と呼ぶことは分かるが、あの、あの弍拾八號弥鱈立会人が「タカくん」である。そんな馬鹿な、という話だ。有り得ないことが有り得ない人によって有り得ない相手に起きており、こんな有り得ない状況は誰にとっても面白くないはずがなかった。

 どういった経緯でそのような仲にまで発展できたのか。人々の興味は尽きない。結果として両者にまんべんなく近しい人物であった弐號立会人などは、翌日の朝からお屋形様と古参立会人に会議室に押し込められ『なんでそんなことになった?』と尋問紛いの調書を受けるほどだった。門倉だって当日その場で初めて聞いたのだ。そんなこと門倉本人が一番聞きたいに決まっているのに、である。
 
 
「あのさぁ悠助くん!」

 怒声が廊下に反響する。人々の意識が一気に現実の梶へと引き戻された。「僕言ったよね? 悠助くんと付き合ってることを恥ずかしいことだなんて全然思ってはいないけど、周りの迷惑になるようなことだけは止めようねって。こんなことで騒ぎ起こしちゃうのはダメでしょ!」

「いや、そもそも私は何故自分が叱られているのか皆目見当が付かないんですが。誰にも迷惑なんてかけてないじゃないですか。私はただ、タカくんを見かけたから朝の挨拶をしただけです。挨拶ですよ? 何がダメだっていうんですか」
「弥鱈立会人はカジサマの肩に顎乗っけておはようなんて言ってこない!」
「私前世が文鳥なものですから」
「どういう言い訳だよそれ! ピーチクパーチク言うのはこの口かぁ!?」

 梶の手が弥鱈の口元を引っ掴む。唇をむにむにと弄り、梶は堅い嘴が随分と柔らかくなりましたねぇ!? と弥鱈を揶揄った。
 周りは梶の無体にハラハラとしたが、肝心の弥鱈はたいした抵抗もせず梶のされるがままになっている。こんなものを見せつける方がよほど親密さを露呈させると思うが、目の前の“悠助くん”の処理に必死な梶は気付いていないようだった。

「どうすんの悠助くん! “弥鱈立会人”は凄い人ばっかの立会人でも有能枠で一目置かれんのに、本当は中身けっこうポワポワの天然くんってバレちゃうよ? 良いのそれで? え、出世街道興味なし!?」

 弥鱈の唇を摘まんだまま梶が吠える。周りは一向に弥鱈のことを中身ポワポワの天然くんなどと認識していないし、実際彼は梶以外の前で中身ポワポワの天然くんな姿など生涯見せることはないだろう。が、残念ながら今この場に二人の間に入ってソレを言及する人間は居ない。唯一可能そうな門倉立会人はやってられるかクソ野郎ということで二人の姿が見えた途端廊下を引き返していた。

 大体にして、だ。

 周囲の人間が試しに辺りをウロチョロしてみても、梶は気まずそうに表情を変えるが弥鱈は一向に視線を梶から外そうとしない。ひたすら梶を見つめ、キャンキャン鳴いている彼に嬉しそうに目を細めている。

 どうも弥鱈の中で、今回二人の関係が露見したことはそう悪いことでも無いようなのだ。元々興味のない相手に対して徹底的な無関心を貫ける弥鱈悠助は、有象無象の声も『気にしないでおこう』と決めてしまえば本当に一切を遮断出来てしまう。今だって、弥鱈がギャラリーの存在を頭に留めているかは怪しいところだった。

 内側に入れた人間にしか顔が出現しない弥鱈にとって、関係の露見は機密情報の流出というより情報解禁の意味合いが強いのかもしれない。醜聞の的になるマイナスを補うほどに、今後好きな時に梶と関われるメリットが弥鱈には大きいらしかった。あぁなるほど、つまり弥鱈悠助は梶隆臣に相当入れ込んでいるようである。元来恋愛に浮かれやすいタイプなのか梶が例外的なのかは分からないが、とにもかくにも今は梶に夢中なようだ。うん、そんな気はしてた。だってタカくんだもの。
 あれだけ御屋形様が執心している側近を己の元に引っ張ってこようなど普通は考えないし、考えたとしても賭郎関係者なら普通実行には移さない。そりゃそんな綱渡りを達成した人間ならタカくん呼びくらい躊躇いなくするだろう。うだうだ考えるまでもなかった。

「立会人って性格は特に評価に加味されませんからねぇ~。仕事ちゃんとしてたら出世するんじゃないですか? そもそも興味ないですけど」

 シャボン玉がぷわぷわ浮いている。見るからに『貴方以外には興味ありません』を体現する弥鱈に、梶は呆れ顔で「む、無欲……!」と身体を仰け反らせた。

「無欲ってこともないと思いますが……というか、貴方だって出世には無頓着じゃないですか。お屋形様からの寵愛を一身に受けているのに、それを利用する素振りもない」
「え、だって僕はお屋形様っていうか貘さんの力になりたいだけだし。貘さんの近くに居て動けるならそれで良いかなって」
「それこそ無欲では?」
「そぉ~? あんなに凄い貘さんにずっと必要とされていたいって思ってるんだから無欲ってことはないでしょ。むしろ貪欲ってか強欲だよ僕。貘さんに関してだけは」

 梶が鼻を鳴らす。ここにきて弥鱈は、ようやく本心からの嫌悪を顔に浮かべた。「そうやってすぐ別の人間を一番に据える。最悪だ」

「いや、そもそも一番を貘さん以外に譲った覚えない」

 対する梶は臆面もなく言い放つ。周囲の人間は梶の言葉に眉をひそめ、何人かは思わず胃の辺りを抑えた。
 もし自分が誰かに惚れ込んでいるとして、その人物に今の台詞を放たれたらどうだろう。最も近しい間柄になってもなお越えられない壁など“絶望”以外に呼び方があるとは思えず、おそらく弥鱈もそこに関しては常人と同じである。フロアタイルが敷き詰められた床に「本当に最悪」と重い言葉が吐き捨てられた。

「だってコレが僕が唯一誇れる僕なんだよ。賭郎の役に立つのも貘さん最優先の僕だろうしね。分かるでしょ?」
「分かりますけど」
「けど、なに?」
「あまり気分の良いものではない」
「悠助くん立会人でしょ。割り切ってよ」
「そこで立会人の立場出してくるのズルくないですか?」
「じゃぁ言葉を変える。僕の考えを尊重して」
「それはもっとズルいです」
「でも譲れないものは譲れないし。悠助くんなら分かってくれるもんだと思ってたんだけどな……違った?」
「いやだからそれ……いや、もう良いです。おっしゃるように割り切ります」
 
 
 悠助くん押し負けよった。
 
 何度目かの衝撃が廊下に走る。場内は音も立てずにざわつき、無音なのに騒がしいという不思議な状況が広がった。
 廊下に人々が足を縫い留められてから優に五分以上が経過している。本来一過性の環境であるはずの廊下で人間の入れ替えが全く進まない様は、異様であったし、やはり違和感があった。梶の視線はそろそろ弥鱈より周囲の人間を見ている間隔の方が長くなっている。『あの、皆さんいつまでここに居るんですか?』と切り出されるのも時間の問題か、といったところで、ある一人が意を決して口を開いた。名もなき黒服の男だった。弥鱈のサポートにたびたび借り出されている賭郎所有の黒服である男は、かつてKY宣言の場にも同行しており、結果として二人の馴れ初めを見届けたことになる人物だ。

「あ、あのっ。あのぅ、」

 吃音交じりの声が廊下に響く。パッと顔を向けた梶に対し、弥鱈は面倒を隠さない表情でゆっくりと動いた。

「お二人が、そ、そのっ、おお、お付き合いしていると、風の噂で伺いまして」

 黒服は続ける。いつから? どうして? テレビ局で出会った時のあなた方は到底親しくなる間柄には見えなかった、でも思い返せば三カ月前の勝負で──。言いたいことは次から次へと溢れてくるのに、肝心の言葉はなかなか黒服の口をつかない。

 弥鱈は黒服との交流に消極的(などという言葉では不適当かもしれない。どちらかといえば壊滅に近いレベルだ)なので、黒服の男にも自身が弥鱈に知覚されている確証は無かった。誰だお前、という視線で刺されても文句は言えない。それでも口を開いたのは、ある種のファン心理だ。本人にその気が無くとも、黒服の中には弥鱈立会人を慕う人間が少なからず居る。『アンタとんでもないところに手を出したな』というのが正直な感想ではあるものの、尊敬する立会人に近しい存在が出来た事実は喜ばしいことだった。
 関係が露見したことで組織内には心無い言葉も飛び交っている。周囲の反応ごときに左右される彼らではないと分かってはいるが、世の中には二人を祝福する人間だって沢山いると黒服は伝えたかった。

 とはいえ感情だけが先行し、ろくに祝辞もままならなかった黒服に助け舟を出したのは梶だった。

「あ、よく弥鱈立会人の立会で見かける方ですよね? 何度か僕もお世話になったことありませんっけ?」

 人の好い笑顔で梶が黒服に話しかける。弥鱈は余計に険しい顔になったが、梶は苦笑しただけで黒服への対応を止めようとはしなかった。

「えっ!? あ、そ、そうですっ」
「……すいません、嫌な気持ちにさせちゃいましたか?」
「いえそんな! そのようなことは!」黒服が弾かれたように否定を口にする。「違うんです! その、さ、差し出がましいのですがその! おめでとうを申し上げたく!」
「へ?」
「おめでとうございます梶様! 弥鱈立会人! お二人の御関係を心よりお祝い致しております! ビッグカップル誕生イエーイ!」

 ええいままよ! といった調子で黒服はそう一息に言い切った。梶はいきなりの大声に目をぱちくりとさせ、弥鱈は『うっわもう最悪』と書いてある顔で梶から一歩半身を離す。いや、遅い。遅すぎる。今更距離を取ったところで始まってしまった祝賀ムーブメントに水を差せるわけがなかった。

 黒服を皮切りに周囲から「ぱち」と音が上がり始め、断片的な手拍子のようだったものは数を増やして数秒と待たずに拍手喝采に様変わりする。あっという間に廊下の端から端まで、大きな拍手が場を飲み込んでいった。誰かはおめでとうございまーす! と便乗の祝辞を述べ、また誰かはお幸せにぃー! と明るい声ではしゃぐ。景気よく口笛を鳴らす人間もいた。拍手の真ん中に取り残され、主役の梶は訳も分からず茹でダコのような顔色になる。

「え、えぇえ? なな、なんですかコレ。ちょ、そんっ、皆さんやめてくださいよぉ!」

 梶がオロオロする。真っ赤になって「茶化さないでください!」と怒る梶はどうにも迫力に欠け、周囲は若者の初々しい反応を見てさらに盛り上がった。

 次第に「めでたいことじゃないですか」「お似合いですよ!」などと調子づいた周りが気軽に声をかけるようになる。困ってはいるだろうが嫌そうにも見えない梶のはにかみ笑いにほっこりしていた周囲は、次の瞬間全てをぶち壊す弥鱈の足踏みに息を飲んだ。ドォン、という地響きのような音が廊下どころかフロア中に轟き、下の階では天井の蛍光灯が揺れたせいで地震かと大騒ぎになっている。勿論弥鱈はそんなこと知ったこっちゃないので、ようやく静まり返った場を見回して冷たい一瞥をくれてやった。はい、皆さんが静かになるまでに五八秒かかりました。

「何だこの空気。自主的に何か申告したんですか我々は」

 嘘だろ、というくらい低くイラついた声がせっかく温まっていた場を永久凍土の極寒地に叩き落とす。梶の嬉し恥ずかし照れ笑いとは比較にもならない弥鱈の態度に、今しがた軽々しい発言していた人々は報復を恐れて震えあがっていた。
 居心地が悪そうというより、弥鱈は本当に心の底から嫌そうである。流石は流されないことに定評がある弥鱈立会人、黒服たちがどれだけ心を込めて祝福しても、そんなことは彼にとってどうでも良いのだった。相手が祝福していようが非難していようが弥鱈にとっては平等に過干渉である。嫌なものは嫌なのだ。

「ちょ、悠助くんそんな威嚇しなくても……そりゃ恥ずかしいのは僕も一緒だけど、皆さんおめでとうって言ってくれてるんだよ?」

 そしてそんな不機嫌な立会人に立ち向かっていく梶様の勇敢さたるや、まるで手負いの獣に手当を申し出る慈愛の動物愛護団体のようだった。ビルを揺るがすほどの足踏みと強大な負の感情のどこをどう取ったら『威嚇』と『恥ずかしい』に形容されるのかは分からないが、梶は赤みの残る顔をこてんと横に傾け、弥鱈のジャケットを控えめに引っ張る。計算なのか天然なのか、とにかくとても分かりやすい恋人仕草だ。おかげさまで目に見えて弥鱈の苛立ちが沈静されていくのが分かった。

「……祝ってくれだなんて頼んでません。交際は当事者同士にしか関係のない話題です。なぜ外野に口出しされなくてはならないんですか」

 弥鱈が唇を尖らせる。お前そんな可愛げのある不機嫌フェイス出来たんかワレ。

「それはまぁ、そうだけど……」
「不愉快なんですよ。俺と貴方の問題なのに」
「うーん言いたいことは分かるけど、でもやっぱり悠助くんの対応は大人げないよ。相手に悪意が無いのは分かってるんだし、むしろ皆さん色々思うことがあるのに僕らに気を遣ってくれてるんだから。お返しに僕らだって要らないことは言わずにニコニコしてるべきなんじゃないの? お互いさ、表面を綺麗にするって大事だと思うよ。良い距離感を保ちたいじゃん」
「……それタカくんもけっこう冷たいこと言ってません?」

 今度は弥鱈が首をこてんとする。梶は自身のドライな部分を指摘されたことが気まずいのか、少し言葉を言い淀ませた。

「ぅ……い、良いのそういうことは言わなくてっ。とにかく会釈するなり、なんかあるでしょ、リアクション。ちゃんとしようよ」
「はぁ」

 梶がGOサインを出すように握っていたジャケットから手を離す。拘束の外れた弥鱈は釈然としない様子で先ほどの黒服を視界に捉え、この前の撤収作業お疲れさまでした、と申し訳程度に枕詞を添えた。

「お祝いのお言葉まことに痛み入ります。今後も邁進してまいりますので、変わらぬご支援ご鞭撻無関心その他諸々放っておいていただけると幸いです」
「おい」すかさず梶からツッコミが入る。
「なんですか。お礼言ったじゃないですか」
「後半言ってなかったよね?」
「でも前半は言った」
「あー屁理屈! 屁理屈だ! もう、子供かっ。全部お礼で済ますんですよ大人ってもんは」
「タカくん今日怖いです。そんなに叱らないで」
「怒らせてるのは誰だよ」
「名もなき通行人A~Z」
「悠助くんのそーゆーとこにさっきから僕は怒ってんの」

 ぺちん。本日二度目である。可愛い音が賭郎本部の廊下で鳴った。周囲はやはりハラハラしながら梶の身を案じているが、梶は微塵の恐怖も無い表情で弥鱈の額を引っ叩くし、弥鱈は弥鱈でまたも額を撫でながらキョトンとしている。

「タカくん」
「なに? ていうかもう、慣れちゃったなタカくん呼び。普通に返事しちゃってる」
「話は遡りますけど、それで結局、鯖はどっち派なんですか? ヰ近立会人に朝釣りしたものをいただいたんです。鮮度が良いので一匹は刺身にしますが、残りは煮魚にしたい」
「それはまぁ、味噌煮派だけど……え、悠助くん作るってくれるの?」
「まぁ一応。せっかくいただいたんで」
「魚捌いたことある?」
「無いけど頑張ります。まぁどうにかなるでしょう」
「どうにかなるんだろうな本当に」
「まぁ多分」
「こういうのなぁ、普通は慣れない作業を一生懸命頑張ってくれたって所にキュンとくるんだけど。悠助くん普通に上手いことやっちゃうもんな。きっとサバの味噌煮なんて作ったことないんでしょ? でもどうせ出来たやつはめちゃくちゃ美味しいんだ」
「はぁ。私器用なんで。大抵のことは失敗しません」
「悔しい。でも楽しみ」
「それは良かった」
「米は僕炊くよ。あとアレ作る、ほうれん草のゴマ和え。お取り寄せしといた豚汁も付けよっかな。和食定食にしよ」
「健康的ですね」
「たまにはね」
「長寿になりそう」
「あはは何ソレ。良いことじゃん長寿って」
「長生きする私ってなんかイメージにそぐわないと思いますが」
「いや別にいいでしょイメージとか。そんなんで寿命決められても嫌だし。気にせず一〇〇歳まで生きなよ」
「はぁ」
「周りを気にしないのは得意でしょ」
「タカくんって俺に対してなら何言っても失礼にならないと思ってません? 別に生きても良いですけど、人にそうやって言うのなら貴方も簡単には死なないように」

 小気味良いやり取りが続き、二人は顔を見合わせくつくつと笑う。微笑ましい光景だった。いかにもカップルらしい雰囲気と会話内容だ。ここが賭郎本部の廊下で、周囲に溢れたギャラリーが今の今まで弥鱈の威圧に震え上がっていたことなど想像もつかない。

「なんかこう、馬に蹴られて死んだ気分だ」

 集団の中で誰かが言った。自然発生のように湧き出た言葉はその場にいる全ての人間を代弁しているようで、例えば先程の黒服や梶を冷やかしていたお調子者、口笛で場を囃し立てていた芸達者などは知らず知らずの内に本音が漏れたのかもしれないと咄嗟に自分の口を抑えている。

 “人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。”

 世に広く知られた都都逸にそのようなものがある。二人の恋路を邪魔した覚えはないが、茶々を入れること自体が野暮だったと言われれば周囲の人間は黙る他ない。物珍しさに気を取られ、人々はただ好きな人と一緒になっただけの若者に随分無遠慮に踏み込んでしまった。賭郎という色眼鏡を外せば梶と弥鱈は何処にでも居る年頃の青年で、そんな二人が性別の垣根を越えて惹かれ合ったとして、それは弥鱈の言うように当事者間の問題である。周囲の、まして偶然居合わせただけの人間が娯楽代わりに消費して良い恋ではないのだ。

 お祭り騒ぎだった廊下にはようやく平静が訪れ、それに伴い冷静さを取り戻した人々が一人、また一人と廊下から減っていく。ある者は申し訳なさそうに頭を下げ、またある者は性懲りもなくサムズアップを彼らに向けてから歩き出した。共通しているのは皆が二人の行く末を応援しているということだ。まぁ弥鱈に言わせれば『だから頼んでません』で一蹴される事柄だが。

「やっぱ夕飯が魚なら海関係の映画が良いと思うんだよね。海猿とか」
「舞台が海ってだけじゃないですか。魚要素ほぼ無いでしょソレ」
「えーじゃぁパオレーツオブカリビアンは? 一作目の敵タコだよ」
「魚……?」

 去り行く人々を余所に梶と弥鱈は夕飯後に見る映画について話し合っている。メニューに絡めた映画を提案しているつもりの梶に弥鱈は終始困惑しており、人々は廊下を去りながら、それでも最後は悠助くんが折れることになるのだろうと予測を立ててこっそり口元をニヤつかせていた。