突然で申し訳ないが、ラブホテルである。
ラブホテル。ラブをメイクするホテル。ラブなどという抽象的な言い回しは性分に合わないので具体的に説明させていただくが、ようはセックス目的で雪崩れ込むホテルの総称だ。
「すごい。ベッドでかい」
「そうですね」
「わ、風呂もデカい! ジャグジーついてる! ガラス張り!」
「はい」
「え、な、なんでトイレに鍵がついてないんですか? プライバシーは? いつ開けられるかドキドキするプレイってやつですか?」
「知りません」
そんな場所に、私と会員の梶隆臣は本日なぜか利用者として足を踏み入れている。
梶隆臣(以下梶様)はラブホテルの利用が人生初ということで、大きなベッドや風呂をいちいち見ては感動し、浴室に立てかけてあったエアマットに「プールで陽キャが乗ってるやつだ!」と騒ぎながら乗り上がってはしゃいでいた。多分陽キャがプールで使っているものはエアマットではないが、訂正も面倒なので「そうですね」と私は適当に相槌を打ちながらマットの上でぼよんぼよんと跳ねている梶様を私用スマホに録画する。「こんなの撮ってどうするんですか?」と梶様は不思議そうに首を傾げていたが、賭郎勝負には流用しないのでご安心を、と返せば彼は「じゃぁ良いです」と素直に頷いて私にピースサインを送った。
誤解の無いように言っておくが、現在ラブホテルに居るからといって私と梶様の間に肉体関係の類があるわけではない。我々は恋人同士でも無ければ仲の良い友人というわけでもなく、むしろ顔見知りになってからの期間こそ長いが、未だに互いの呼び名は「梶様」「弥鱈立会人」という他人行儀っぷりだった。およそラブホテルに同伴するような間柄ではない。しかし一方で、我々にはどうしてもラブホテルに停留しなければならない理由もある。東北地域初春。朝夕の冷えがまだまだ人を凍えさせるこの過疎地において、この一室を逃すと今夜我々に雨風を凌げる場所は無いのだ。
「なんかすいません弥鱈立会人、こんなことになっちゃって……」
飛び跳ねるだけ飛び跳ねて少し気分が落ち着いたらしい梶様が、今までの楽し気な雰囲気から一転、至極申し訳なさそうな顔を私に向けてきた。
目まぐるしく表情の変わる人だ。黒点の小さな瞳が心無さげにふるふると震えており、その姿はまるで先日映像で見たマヌルネコのようだった。
マヌルネコ。世界最古の猫科動物。古代種ならではの垢抜けない外見と愛嬌たっぷりな立ち振る舞いで多くのファンを獲得する彼らは、最近私が見た中で最も愛くるしい生き物であり、なんとなく生き様が梶様に似ている。
「いえ、謝罪しなくてはならないのは私のほうです。このようなことになってしまい、まことに申し訳ありませんでした」
謝罪する梶様に対し、こちらも深く頭を下げて謝意を示す。
実際のところ本当の戦犯は私でさえ無かったが、立会人たるもの賭郎勝負を円滑に終えられなかった責を負うべき、というのが私の判断だった。こんな僻地で勝負をしようと言い出した会員や無駄に時間のかかるゲームを深く考えもせず提案してきた某立会人、娯楽が無さすぎて他県ナンバーの車に『ポルシェ』とペンキで落書きすることでしかエンターテイメントを得ることが出来なかった近隣のクソガキといった害悪の複合体がこの結果を招いていたとしても、現場を取り仕切る立場として私は会員の梶様に頭を下げなくてはならない。それが責任ある人間の立ち振る舞いであると理解しているし、そもそも私は、単純に梶様に悪い印象を持たれたくはなかった。
それにしても低頭した脳裏をチラつくのは件のガキである。梶様が「子供のやったことじゃないですか」と庇うから仕方なく見逃してやったが、他人の車に落書きをするなど、本来なら器物破損の罪で保護者の預金残高ごと燃え尽きるまで灸を据えたいところだ。よくもまぁ他人様のベンツに『ポルシェ』などとペンキで書けたものである。ガキは自分を無敵の存在だと錯覚しているのか、それともこんな過疎地にはスズキの軽自動車しか走っていないから価値が分からなかったのか。ボンネットいっぱいに書かれた『ポルシェ』の字を見たとき、あっけにとられた私は「ベンツですけど」と訂正を口にすることしか出来なかった。完璧の傍らが聞いて呆れる対応力の低さに、我ながら恥を覚えた始末だ。(余談だが、このベンツは父から譲り受けたものである。かつて神に等しかった敬愛する父より賜った車なので、ありがたく舗装されていない田舎道を走る際利用させてもらっている)。
車ごとき汚れようが大破しようがどうでも良いが、帰りの足が無くなることと、見ず知らずのガキに間接的でも自分が娯楽を提供してやった事実が私の中に苛立ちを生んだ。じわじわと頭に血が上り、さてどのような賠償を――と考え始めていた私を引き留めたのは梶様の笑い声だった。
先程までの勝負によって心身ともに摩耗していた梶様が、黒塗りベンツに白ペンキで書かれた『ポルシェ』を見て大笑いし「お金は僕が払うから大目にみてくれませんか?」と憑きものが落ちたかのような表情で言ってくる。ずっと俯いていた彼がようやくこちらを見たことが喜ばしく、なので私もつい『もういいか』という心境になって、クソガキに対し私は「もうこんな事してはいけませんよ。貴方の顔は覚えました」と生易しい対応をするに留めてしまったのだった。
クソガキには相変わらず腹が立つし、都内を『ポルシェ』と書かれたベンツで走るわけにもいかないので私は急遽現地で板金屋を探さなければならなくなった。クソゲーみたいな本日にも関わらず、梶様がふにゃんと笑って「弥鱈立会人優しいですよね」と言うだけで『もういいか』と思うのだから私はお手軽なものである
……さて、そろそろ随所から漏れ出ている私の言動が看過できないほど巨大な違和感としてこの話を読む貴殿の身に降りかかっていることだろう。
そういうことなのか、そういうことなのだ。
隠すつもりもないため追々詳しく説明するが、つまりラブホテルに我々というのは表面的には何の問題もなくとも実際のところべらぼうに諸々がヤバいのである。いやあの冗談じゃなく、どうしたらいい? 誰か助言をくれ。エアマットでぼよんぼよんしてキャッキャしている姿といったら、本当に意味が分からないくらい可愛かった。
話を強引に戻すが、無事板金屋を捕まえることに成功した我々は、応急処置の塗装さえ夜通しかかるということで仕方なく現地で一晩を過ごさざるを得なくなった。
先程ちらと触れたが、ここは東北の過疎地である。
誰しも一度は耳にしたことがあると思うが、過疎地と呼ばれる地域には基本宿泊が可能な施設はラブホテルしかない。過疎地は人を寄せつける魅力がないから過疎地になるのであり、人が寄ってこないのであれば当然宿泊サービスも成り立たないからだ。
現に本日の勝負会場であった某所にも、宿泊施設と呼べるようなものは皆無だった。車を預けて徒歩移動となった我々が周辺を見回して発見できたものといえば、当該のラブホテルの他には廃業したスナックの空き店舗と二二時に閉まるコンビニ、あとは何故かそこだけ二四時間営業のコイン精米所のみだ。
仮眠をとる、という行動はこと過疎地においてはなかなかに達成困難な事柄で、なりふり構っていられなかった我々は“それぞれに部屋を取ればラブホテルもただのホテルと変わらない”ということで苦肉の策としてラブホテルに飛び込んだ。
この際部屋のグレードもどうだって良い。そんな思いでパネルを見上げた我々の目に飛び込んできたのは、ランプがたった一つだけが点滅したパネル───つまりは、なんと一部屋を残し全て満杯という事実だった。
僻地のくせに、ろくなホテルも無いくせにこの地域ではラブホテルが大人気なのだ。娯楽の無い田舎ではセックスしかすることが無いということだろうか。だったらラブホテルの量を増やすなり、我々のようにただ眠りたいだけの人間に向けシティホテルの一つでも建設するべきではないのか。あ、僻地だからシティも何も無いのか。アハハ。はぁ、全く面白くない。
「あの、僕あれならコイン精米所で寝るんで大丈夫ですよ。あそこ明るかったし、一応雨風凌げそうだったし。部屋は弥鱈立会人に譲ります」
「正気で言ってるんですか貴方」
パネルを見上げたまま数秒固まっていた我々だったが、口火を切った梶様の提案があまりにガバガバすぎたので次いで私も即座に突っ込まざるを得なかった。
呆れる。わざと言ってるんじゃないかとさえ思う。どこの世界に会員をコイン精米所に突っ込んで自分はホテルのベッドで眠る立会人が居るのか。流石に私にだって良識くらいはあるし、というか会員・立会人に関係なく、この状況でコイン精米所に他人を突っ込む人でなしなど私は能輪巳虎以外知らない。
「眠るだけなんですから部屋一つあれば事足りるでしょう。こういったホテルはベッドが広いものですし、ソファだってあるところが多い」
結局、馬鹿な提案に面食らった私は、自分の首を絞めると分かっていながらもこう返すしかなかった。
梶様は私の言に目を見開き、『なんてこった』といった顔で私の姿を頭からつま先まで凝視する。「一緒に泊まるんですか?」の問いかけには困惑と少々の抵抗が透けていて、私の首は更に真綿で締め上げられるかのようにきゅぅと気道が狭まっていった。
「この状況下で四の五の言っている場合ではないでしょう」
「そりゃまぁ、そうなんですけど……でも、ここってラブホなんですよね?」
梶様の目がキョロキョロとパネル上を泳ぎ回る。今までラブホテルを利用したことがないと前置きをした上で、梶様は「泊まるんですか僕らが?」と後半を強調するように言った。“僕らが”に込められた意図はなんだろう。男二人で施設を利用することがホテル側の規約に触れると危惧しているのか、それとも初めてのラブホテル利用が、赤の他人に毛が生えた程度の私であること自体に嫌悪感を抱いているのか。
私は梶様の意図をはかりかね、僅かに下にある彼の顔をじとりと睨みつけた。あまり敬意のこもった対応ではなかったが、多少でも感情を外に出さないと非難が口をつきそうだった。なんだ。そんなに貴方は俺と泊まるのが嫌なのか。
「それがなんです? 繰り返しますが今は選り好みをしている場合ではない。確かにラブホテルは性行為を行うための場所ですが、ある意味では二人組の宿泊に特化した宿泊施設です」
「それは、まぁ」
「風呂や食事のサービスもある。野宿じみたことをするよりよほど快適だと思いますが?」
「ラブホに詳しいんですね弥鱈立会人」
「一般常識を述べているだけです。その不名誉な認識を今すぐ改めてください」
やや強引な物言いになったものの、最終的には梶様も納得したようで「弥鱈立会人が良いなら僕は全然大丈夫です」と頷いた。全然大丈夫。そういった物言いをする人間は大体、あまり大丈夫ではない感情を内包しているものだ。
私はいちいち梶様の物言いに引っかかりを覚えていたが、あえてそれを口にすることはしなかった。
些細な言葉が骨のように引っかかるとして、それは私の喉が悪いのだ。ロクな言葉も発しないタダ飯喰らいの空洞管のくせに、梶様の一挙一動は咀嚼し飲み下したいと身の丈に合わない欲求で柔い内側の肉に傷をつけている。梶様はただ彼として素直に生きているだけであり、一連の苦悩は彼に全く関係のない範疇の話だった。梶様は何も悪くない。悪いのは弱い喉と、何よりその持ち主である弱い私だけだ。
そんなこんなで残り一室だったラブホテルの空室を我々は選び、指定された部屋に入ってみれば大きなベッドが中央にドドンと置かれたソファ無しルームが二人の前にお目見えした。私の思う一般常識は半分が当たり、半分は外れたわけだ。こちらとしては部屋の構成に内心頭を抱えていたが、先程まであれだけ入室を渋っていた梶様は何故か部屋を見ても「これは一緒に寝るしかないですねぇ」と当たり前のように言うだけだった。さすがギャンブラーというべきか、腹を括ってしまえば彼は豪胆である。小憎らしいやら可愛らしいやら、人の気も知らないで、呑気なものだと思った。
───以上をもって状況説明は終了である。あとに続く話はいかに室内ではしゃぎ散らかしている梶様が目の毒かという私の愚痴だけなので、円滑に話を進めるためにも、この機会に私の心情でも披露しておこう。
唐突に唐突を重ねてしまい申し訳ないが、私は梶隆臣に劣情の念を抱いている。
と、いうと。まるで私が彼の肉体を獣の視線で日夜舐めまわしているかのようだが、それでは少々誤謬がある。
便宜上劣情とは表現したものの、別に私は梶様に『その小さい臀部そそりますねぇ~試しに一回男性器突っ込ませてもらえませんか?』と打診したいわけではない。肉欲を含む願望を彼に抱いていることは真実だが、私はそれよりも先に彼の指や唇に触れたいと思っているし、本懐は梶隆臣との交際にあった。
性的接触は私の計画プランにおいて三手四手先の工程であり、まずは彼の骨張った身体を抱き締め、愛のひとつでも慣れない口で伝えることが願望の先頭に立っている。そりゃぁまぁ、彼の身体も得られるならば御の字だが。あくまでそれはプラスオプションの話であり、まず私はどれだけ簡素な人物評であっても良い、彼の心の中に畳半分ほどの範囲でも私の居住地を作っていただけたら十分だった。
私の目的は梶隆臣の肉体ではなく精神そのものであり、彼に私が望むのは濃密な刹那ではなく永久を錯覚する日常だ。何も特別なことは求めないし劇的な展開だって要らない。ただ一粒の水滴が生み出した波紋がいつか対岸へ打ち寄せるように、積み重ねた私が日々となり、いつか梶様の肩を叩けばいいと思っていた。
長期戦だろうと冷戦だろうとかかってこいという気概で私は梶様に接しており、この件において私の信条は『勝てば官軍』である。好かれるなら全てがそれで良かったし、好かれないなら全てがどうにもならない。がむしゃらな私は、彼に好かれる為とあらば自他ともに歪みを認める己が「優しいですよね」と評されることも辞さなかった。
お分かりいただけるだろうか? そう、これは単なる掘って掘られてワンナイト、などという軽い話ではない。事態は余計に深刻で、ガチガチに片想いしてる男が、なんだか知らないがラブホテルで意中の相手と一晩明かすことになりその慕情と人間性を試されているという緊迫したシーンなのだ。
なんだかもういっそ、私が節操なしのゲイ野郎で今後の関係など一切考慮せずにヤリ捨て上等精神を持っていた方が平和に終わった気がする。が、そうは問屋が卸さなったわけで、私は残念ながら真摯に梶隆臣に恋慕中である。ヤリ捨てなんてもっての外だし、むしろマイボトルとかマイストローのように日夜せっせとメンテナンスしながら繰り返し同じ彼を愛用したい。一夜限りの関係なんて絶対に阻止なのだ。俺は普通に、ただ好きな人と付き合いたいだけなのだから。
というかこの手のラブホテルイベントって、普通は何の感情もない二人ないしは両片想いの二人がぶち込まれるものでは無いのか。なんで片方が真面目に片思いしている組み合わせでラブホテルなのか。賭郎勝負で気分が昂った若い男二人、深夜のラブホテルに二人きりで何も起きない訳はなく――みたいなことになるではないか絶対。いや別に何か起きたら起きたで願ったり叶ったりなのは本音だが、そういう場合の一夜の過ちテンションとはどこまでの行為なら許されるのか。可愛いとか言って良いのか。好きだと口走っても流してもらえるのか。いかに空気に呑まれた童貞といえど、あまりに好意ダダ漏れで接していたら流石に勘付かれてもおかしくはない。
片方はラブホテルの雰囲気に当てられて『特に絡みの無い男と性的接触をしちゃう~あぁ~一夜の過ちぃ~』くらいの気軽さなのに、もう片方は念願の相手に触れられたことで感無量からの涙腺が緩む可能性だってある。二人の抱く感情には胎児と関取くらいの重量差があり、私にはどうにも惨事が目に見えている気がしてならなかった。一体何としたものか。このままではAVを見ながら抜きっこしようと提案してきた人間に対して「抱き合って眠れたら十分なので」とか言ってしまうぞ俺は。
「弥鱈立会人、お風呂入ります?」
「あーはぁ……いえ、梶様がお先にどうぞ。お疲れでしょうから」
「いやいやそれを言うなら準備してた弥鱈立会人だって……あ、ていうか一緒に入ります? 時間短縮になるし。どうせガラス張りだから別々に入っても裸見えちゃうし(笑)」
「あーははは。そうですね。まぁ同性の裸なんて見て何か得になるものでもありませんし、適当にやり過ごせば良いんじゃないでしょうか。梶様先にお入りください」
「そうです? じゃぁ遠慮なく」
「はい」
ところで何でこっちが頑張って諸々を抑えているのに梶様側からこうもグイグイくるのだろう。部屋に入った辺りから妙に懐いてくるというか、日頃の馴れ馴れしさが更に顕著になっている気がする。
現在ホテルを住居にしている彼にとって、ホテルの室内というのは無意識に根城を彷彿とさせるのだろうか。家にいる感覚で、御屋形様やマルコに接するように私にも接している、とか。なるほどなら溜飲も下がる。流石は大きな三歳児ことマルコの兄貴分とでもいったところだ。当然だが私はいま全く褒めていない。
一緒に風呂に入ろうだの裸が見えてしまうだの、同世代の者たちで共同生活を送っていると人間は距離感が馬鹿になっていくらしい。何なんだ梶隆臣よ。まさかもう場の空気に飲まれてるのか? 冗談だろ。まだ我々は入室したばかりじゃないか。いかがわしい映像も流れていなければ二人でベッドに寝そべって不意に目が合ってしまったわけでもない。ただワーキャーと叫んで片方が一人でルームツアーをしただけだ。その程度なのに思わせぶりなことを言って、梶隆臣、童貞の癖に。実は私に気があるのだろうか。だったらハッキリ言え。背骨が軋むほど強く抱き締めてやる。
「弥鱈立会人、これ見てくださいー」
「なんですかぁ~?」
「置いてあったアメニティ使おうと思って体に塗ったんですけどぉ、ボディーソープかと思ったらローションでしたぁ!」
「やだぁ~アーハハハハ」
見えるわけねぇだろ馬鹿野郎。
「見た目が分かりにくいデザインってありますよね。ユニバーサルデザインは全ての品物に適用されるべきですねぇ~」
私は視界を無理やりスマホに固定したまま梶様の対応をする。ひたすらアプリゲームのイベントを走り、HPが無くなるたび無心で課金ボタンを押した。とにかく、とにかく今はやる事が無くなってしまうとマズい。少しでも意識を弱めると勝手に首は風呂場を向きそうになり、下半身は頼んでもいないのに『いつでも臨戦態勢とれます』と意気込んでいた。取らねぇよ臨戦態勢。そんなの取ってどうなるっていうんだ。風呂場の方向からは相変わらず梶様のきゃっきゃと楽しそうな声が聞こえてきていて、時々粘度を感じる水音が立つたびに私の口からは「ひゃぁ」と悲鳴が出そうになっていた。
特に熱を入れてやっている訳では無いアプリゲームは、この短期間で潤沢な資金を突っ込まれたため一気にレベルが上がりレアアイテムが増えた。金銭を貢いだ分だけゲーム内のキャラの好感度は上がり、無感情に画面をタップしたいただけの私を『貴方のような優しい人を求めていたの』などと露出の高い女戦士が煽てる。
こんな風に、現実も無心でやっているだけで何もかも手に入ったら良いのに。半ばやさぐれモードの私の耳に、何度目かの「弥鱈立会人見てくださいよぉ」が届いた。
「僕、今までローションのぬるぬるっぷりを舐めてました。すんごいですねコレ。体についた所が一生ぬるぬるしてテカテカしてる。こんだけぬるぬるしてたら、確かにちんこもスルンって入っちゃいそうですよね」
「そうですねぇ~。ソレ目的で開発された製品ですからねぇ~」
「処女の女の子のアソコにもこれ使ったらちんこ簡単に入るんですかねー?」
「入るんじゃないですかぁ~? というか梶様、先程から会話に品性が感じられませんけど大丈夫ですかぁ? 湯あたりしてるんですか~?」
「そんなんじゃないでーす。ていうか弥鱈立会人、一回こっち見ませんかー?」
「見ませんー」
「どうしてー?」
「男がぬるぬるしてるだけだからでーす」
「えーそんな言い方。あなたが好きな人でしょー?」
突然アプリゲームが落ちた。
あれ、と思ったらスマホの機体が一部陥没している。私の親指は薄い端末にめり込んでおり、ほどなくして私は、衝撃のあまり己の指が力加減を誤ったことを悟った。
「……別に我ながら貴方への態度は分かりやすかったと思うので気付かれていたことには驚きませんが」消灯したスマホを眺めながら私は口を開く。未だに梶様の方は見えず、黒い画面には私の形容しがたい表情が映っていた。「貴方から仕掛けてくるとは思ってませんでした」
ぱちゅん、と風呂場から音がする。「だって」と拗ねるような口調の後ろに、ぬちゅぬちゅと粘ついた音が絡み付いていた。
「だって、ラブホテルに居るのに手ぇ出してこないから。ラブホテルに一緒に入るって、イコールえっちの同意があるってことなんでしょ?」
「普通はそうです。しかし今回は致し方ない理由で泊まっているんですから例外でしょう」
「そんな暗黙ルール……僕知らないですよ。分かんないです。ホテルに入るってそういうことなんでしょ?」
「例外はあります」
「そういうことなんでしょ?」
「例外は、」
「僕にとってはそういうことだったんです」
梶様が言い切り、私は返答に詰まる。二人の間に生まれたほんの数秒の沈黙の間に、水音が大きくなり、梶様が「んんっ」と高い声を上げた。
「……ねぇ弥鱈立会人見てくださいよ。ローションってすごいんですよ。使ったことないケツの穴に、いっきに指が、二本も入った」
え、と声を上げるより先に、私の視界は紫色のランプに照らされた梶隆臣の姿でいっぱいになっていた。さすが過疎地のラブホテルだけあって、ことごとく仕様が古めかしく悪趣味である。ガラスの向こう側にはローションでぬるつく体を光らせた梶様が居て、左手は目の前のガラスにつき、前屈みの体勢を取っている彼は右手が自身の後ろ側に回っていた。視界には遮るものが何も無い。全体的に薄暗い室内だが紫色のランプのおかげで風呂場の中だけは煌々と明るい。彼の性器が、にわかに膨らみ上を向いていた。はっはっと荒く息をする梶様の口から、断ち消えた余裕を揶揄するように唾液が糸を引いて落ちている。
紛うことなき想い人の痴態がそこにはあった。
「───見ちゃったぁ」
スマホを壁に投げつけ、私は取り繕うことも出来ずに内心をそのまま口から垂れ流した。
見てしまった。絶対に見たら終わりだと分かっていたのに。
下半身は指示も出していないのに現場判断で既に臨戦態勢となっており、あとの祭りとも言えたし、ここまでが祭りの前準備だとも言えた。梶様はしてやったりという顔でガラス越しに私を見ている。肩を落として頭を掻きむしる私に、彼は荒い呼吸の合間で笑顔を向けた。「へへ。見られちゃった」
「えーなに、えぇ? どういうことですかぁ? 場の空気に飲まれているだけなら私そちらには行きませんよ。私本気なんです。気味が悪いほど普通に片想いしてる。好きなんです貴方が」
「弥鱈立会人も片想いとかするんですね」
「好きな人が出来たら片想いくらいします」
「弥鱈さんも好きな人が出来たりするんですね」
「だってそんなつもりはなくても、人を好きになる時ってどうやったって好きになるじゃないですか。私だってねぇ、進んで貴方に惹かれたわけじゃないんです。貴方は色々と面倒な逸材すぎる。立場もお人柄も。だから一応気になりだした時に自分なりに抗ってみたんです。でも無理でした。私は結局貴方を好きになることしか出来なかった。ていうかいま、弥鱈さんって呼びました?」
「そりゃ、ねぇ? こっちは裸になってローションでべっとべとになって貴方が見て無いのに乳首とかちんことか弄ってんですよ。そんなことまでして、貴方ばっかり弥鱈立会人のままなんてずるいじゃないですか」
「なんですかその理屈」
「分かんなくて良いです。僕も本当はどうやったら良かったかなんて分かってない……ァ、ん……ねぇ、ローションぬるぬるしてて気持ち良いです。まだ予備あります。こっちに来ませんか」
ガラスに着いた手を梶様がにぎにぎとする。誘っているつもりらしい。ローションを体に塗って、後ろに自分で指を突っ込んで。何をしているんだあの人は。エロいことしやがって。童貞の癖に。
私は立ち上がり、いらいらとした手つきで立会人の服装を解く。スーツというのはどうしてこう脱ぐのに時間がかかるのだろう。ネクタイを外しボタンを外し、ベルトを外し、あぁもどかしい。最後は転がるように風呂場へ突入し、靴下は浴室の中で脱ぎ捨てた。
何をやっているのだろう私も彼も。体にローションを塗った梶様は、てらてら光る体でやってきた私に「来てくれた」と言う。うるさい。そんなの来るに決まってるじゃないか。彼の肌に触れ、念願の抱擁を果たす。骨ばった身体もしっとりとした肌も、思い描いていたものは全てローションのぬるつきで台無しになっていた。首に回した腕が滑り、密着した体がつるんと擦れる。「んっ」と梶様から声が上がった。音の出所をさぐると唇があったのでかじりつく。抵抗はない。あとは野となり、山となる。
あぁだこうだと御託を並べたところで裸の二人が抱き合ってしまえば何も起きないわけもなかった。これにてプランは総崩れを起こし、明日からの日常に私は一抹の不安を覚える。しかしまぁ、この部屋に居る以上全てはもう無意味だった。ここはラブホテル。ラブをメイクするホテル。ようは雪崩れ込んだ奴らが、どんな理由であれセックスをしても仕方が無くなるホテルの総称だ。