え、と声に出す梶に「ふはっ」と弥鱈は吹き出した。出会った当初はロクに視線が合うことも無かった少し色素の薄い目が、今は梶の目を真っ直ぐ捉え、愛おし気に緩く細められている。
「え」
「え」弥鱈が真似をする。
「え、えー?」
「なんですか。そんなに驚かれるようなこと、してますか。してないでしょう。特にここ最近、私は貴方にとって随分と分かりやすい人間だったはずだ」
そりゃそうですけど、と梶が下を向く。確かに関係が始まってからの弥鱈というのは、梶を含めた周囲が驚くほどに分かりやすい人物だった。例えば本部で梶の姿を見かければ同僚との談笑を切り上げてまでこちらに寄ってきたし、マルチタスクを得意とする彼は基本的に作業の片手間に人の話を聞くことが多いにも関わらず、梶との会話の際は全ての手を止めて体ごと梶の方を向き傾聴した。
今だって梶に付き合って入ったコーヒーショップの期間限定フレーバーを、弥鱈は特に飲む気もないようでクルクルとストローで掻き混ぜているだけである。おそらく弥鱈には苦すぎるのだ。だから梶は好きなものを選んでくれと言ったのに、弥鱈は「貴方これも気になってるんでしょう?」と言って梶の気遣いを無下にしていた。限定フレーバーは複数あり、内の二つで梶は迷っていた。悩んでいる素振りを見せないよう努めたのに、あっさりと見破られた結果、梶はいま異なるフレーバーを交互に口に運んでいる。
てっきり苦いものを好むと思っていた弥鱈が、実はマルコに近い味覚を持っていると梶が知ったのは二人が交際を始めてからのことだった。砂糖とミルクをこれでもかと投入してコーヒーをすする弥鱈を見て「そんなんでコーヒーの味分かるんですか」と首を傾げた梶に、対する弥鱈が「コーヒーって味分かる必要あるんですか」と返答したのは今も梶の記憶に新しい。甘いコーヒーで甘いお菓子を流し込み、甘い関係に至った相手へは甘い言葉を投げかける。ダークな印象を抱かれがちな弥鱈悠助という男は、案外そんな甘い時間を梶と過ごしたがった。
思えばいつかの自販機以降、梶は弥鱈が進んで無糖や微糖のコーヒーを飲んでいる姿に遭遇していない。たったの一度、二人がまだ顔見知りの域を出ない関係だった頃に梶は自販機の前で弥鱈と立ち話をした。その時は二人とも同じ微糖コーヒーを買っていたし、『弥鱈さんも何か飲みませんか』と勧めた梶は、弥鱈が自分と同じ銘柄のコーヒーを選んだことにちょっとした親近感を覚えたものだ。あの自販機にだってカフェオレやジュースの類はいくつも取り扱いがあった。なのに弥鱈は迷わず微糖コーヒーを買って飲んでいた。
今となっては不思議な言動だが、梶はこの一連も「弥鱈さんは甘党だから」に帰結するエピソードなのだろうと解釈している。
弥鱈はあの時に飲んだコーヒーが何だったかなど多分覚えてはいないが、“梶と同じものを選んだ”という思い出だけは今も鮮明なのだろうと思う。まだまだ摩訶不思議な弥鱈悠助だが、梶は彼が甘党なことも、梶にまつわることごとくを彼が甘やかな思い出として捉えていることも知っていた。
「弥鱈さんってキザですよね」
脈略もなく切り出した梶に、当の弥鱈はキョトン顔をする。
彼の手元では掻き混ぜられたコーヒーが渦を巻いている。純黒が大きなとぐろを巻く様はブラックホールのようだった。カップの中に閉じ込められた宇宙を覗き込み、弥鱈は釈然としない様子で首を傾げる。
「キザ、ですか。言われ慣れていないのでピンときません」
「絶対そうですよ。弥鱈さんはすっごいキザ。けっこう歯の浮きそうな台詞サラっと言うし」
「はぁ……キモいですか?」
細長い指がむに、と弥鱈自身の頬を抓る。容姿に何かしらの自覚があるらしい弥鱈は、時折不安げに「キモいですか?」と梶に確認を取った。そのたびに梶は微笑して首を横に振る。(どっちかっていうと可愛いですよ)と心の中で付け加えていた。
「いいえ? でも、めちゃくちゃソツなくこなすから正直ちょっと意外です。そういうのって弥鱈さん苦手そうだと思ってたから」
「苦手ですけど」
「えー? 苦手なら苦手らしくオドオドしててくださいよ」
「それは嫌です」
「えー?」
「だってみっともないじゃないですか。オドオドなんて、私らしくも立会人らしくもない」
「あのですねぇ弥鱈さん。本当に苦手な人は、だからって取り繕えるもんじゃないんですよ。上手く出来ないから苦手って言うんです」
「そうなんですか?」
「そりゃそうですよ」
「じゃぁ苦手じゃありませんね」
「うん、そうだと思います」
「訂正します」
「はい」
「私はキザです」
「あ、別に刷り込み教育しようってわけじゃないんで」
何故か宣誓のようにキザを名乗り出した弥鱈に、梶の微笑していた口元が可笑しさからもにゅもにゅと形を崩していく。
笑い声を漏らし始めた梶を見て、弥鱈は「何笑ってるんですか」と形ばかりの非難を口にした。手にあったコーヒーを梶に手渡し、今まで梶が飲んでいたコーヒーを受け取る。一口飲んで顔をしかめた弥鱈を更に笑い、梶は次のコーヒーに意識を移した。
弥鱈からやってきた宇宙は梶の手元にあったものより幾分かぬるかった。きっと掻き混ぜすぎて温度が逃げていったのだろうが、体温に近い温度のカップは梶の手に肌の境界線を見失うほどよく馴染み、顔を近付けたところでようやくナッツとミントの香りがする。
「よく混ぜてまろやかな水質にしておきました」
「温泉じゃないんすよ」
弥鱈が恩着せがましく言い、梶が冷静な口調で突っ込む。弥鱈の手元で一切量を減らさなかったコーヒーは、あちら側で体温だけを獲得して帰ってきた。どちらがキザか分かったものではないが、梶はこのコーヒー弥鱈さんみたいだな、と思う。弥鱈の宇宙は三五度だ。暗くて静かでなま暖かく、飲めば深い苦みと品の良い素っ気なさが鼻を抜ける。梶はこういった味が好きだった。
「しまったなぁ、弥鱈さんが買ったやつの方が美味しい」
「別に同じじゃないですか。どちらにせよほとんど貴方が飲むんだから」
「うーんでも、なんか悔しいというか」
「悔しい?」
「だって最近、自分で選んだやつより弥鱈さんが選んだ物の方が気に入ることが多いんスよ。それって何か負けた気分になりません? 自分より弥鱈さんの方が僕のこと知ってるみたいじゃないですか」
「だって貴方、自己卑下が凄まじくて己を大切にしようという意識が果てしなく低い人じゃないですか。そんな人よりは私の方が梶様をよほど尊重しています。妥当な結果では?」
「妥当か~?」
「加えて言うなら、どのみち負けているのは私です。全部惚れた弱みなので」
「うひ」
慌てて梶がコーヒーを煽る。舌に苦さが圧し掛かり、コーヒーは急いで飲むものじゃないと痛感した。
「やだなぁ弥鱈さん。どんどん良い男になる」梶が空になったカップと己の頭を同時に振る。
「元からスペック自体は高いです。これでも高学歴高収入」
「そういう意味じゃなくて。あぁなんか、マジで不安になってきた。僕ねぇ、最近弥鱈さんが『担降りします』っていつか言い出すんじゃないかってハラハラしてるんですよ」
「そんな未定なことで心配されても」
「分かんないでしょ。ラブストーリーは突然に、っていうし。もっと面倒臭くなくて可愛い……って、この言い方するとなんか僕が自分のことも可愛いって思ってるみたいで嫌だな! えぇっと、なんて言ったら良いんだろう? とにかく、弥鱈さんの目が覚めたらどうしようってずっと不安なんです。今はほら、なんか五里霧中って感じでしょ?」
「人の恋路を視界不良みたいに言わないでもらいたいんですけど」
「でもほぼ前方不注意って感じじゃないですか。少なくとも途中で道間違えてるし」
「何の話です? 間違えてないです」
「間違えてなくてなんで僕のとこ来てるんですか」
「そういう一本道だったんで」
「……本気で言ってます?」
「むしろ、昨日の今日なのに貴方は本気と思わないんですか?」
伸びてきた手が梶から空のカップを奪う。去り際に梶の掌を経由し、弥鱈の指先は昨夜を再現するように艶めかしく皮膚一枚をなぞっていった。
このスケベ、と今度は梶が弥鱈の頬を抓る。けけっと笑う弥鱈は表情こそ不健康だが、肌にはハリがあり、触れてみれば彼が健常な若者であることは容易に分かった。「そういえば」と切り出す間も弥鱈は梶に頬を抓られせたままで、さして怒る風もなく話を続ける弥鱈に、何故だか梶はより負けた気分になる。
「恋路云々で思い出しましたけど、そういえば私、貴方に正式な告白ってしてないんですよね」
「あー……そうでしたっけ? え、でも、告白もなくてどうやって僕ら付き合えたんです? 僕と弥鱈さんなんて恋愛初心者もいいとこなのに」
「引っ叩きますよ貴方。いつだかに退勤時間が被ったことがあったじゃないですか。けっこうな勢いで雨が降っていて、私の車で貴方を住居のホテルまでお送りしましょうって話になったんです。傘に貴方を入れて駐車場まで歩いた。貴方があんまり傘から離れて歩こうとするから、濡れますよ、と私は貴方の肩を抱いたんです」
「あぁそうだ。そんな風にされたから、僕、弥鱈さんの腰に手ぇ回しちゃったんだ」
「そう。そして車に乗り込んで」
「思ったらドラマみたいですよね。そのまま無言でちゅーとか」
「いや私あの時内心パニックでしたよ。運転無理だと思いました」
「え、じゃぁあの後一〇分間くらい抱き締められてたのは」
「そのまま車を走らせて事故らない自信が無かったので」
「インターバルだったんだアレ」
二人して記憶を辿るように右上を見つめる。弥鱈がけけっと笑い、梶はふふっと笑った。
「まぁアレはアレで良い始まりだったと思いますが、告白という王道イベントを逃したことは悔やまれますね」
「じゃぁいつか告白やり直してくださいよ。聞いてみたい。僕が告白しても良いですし」
「そうですね、ではいつか───ところで、これからどうします?」
これ見よがしに弥鱈がスマホを取り出す。ホーム画面の時計を梶の方へ向け、弥鱈は「まだ夕飯には時間があります」と言った。一六時二八分。確かに早めの夕飯にしても早すぎる時間だし、久しぶりのデートに繰り出してきた若者二人が「じゃぁそろそろ」とお開きの空気を醸し始める頃合でもない。
「お店結構回っちゃいましたもんねぇ。このままプラプラ歩いて、気になったとこがあったら入る感じでどうすか?」
ゲーセン入っても良いですし、と梶が続ける。本職の手捌きを拝見出来るので梶はなにかにつけて弥鱈にゲームセンターを提案してくるが、弥鱈からすれば「なんで外に出てまで画面を睨まなきゃならないんです」であり、大抵はUFOキャッチャーでぬいぐるみを狩って終わりだった。
「ここら辺も新しい店が増えましたし、たまには新しい服屋でも開拓しますか」
弥鱈は後半を聞かなかったことにして言う。
「パーカー買おうかな。家の中で着る用」
「良いですね。ようやくあのくたびれた奴らを新調する気になりましたか」
「それ弥鱈さんいっつも言いますけど、今僕が持ってるパーカーって全部まだ綺麗ですよ? 本当にヤバいやつは捨てちゃったし。穴開いてるやつとかもう無い」
「例えば黒のパーカーとして購入した物は、ネイビーにまで色落ちしたならもう捨てるべきです。以前にコーヒーを溢したあの白パーカーもまだ持ってますよね? デカい染みが残っているのに」
「だって生地がまだしっかりしてるし」
「貴方が言う『本当にヤバいやつ』は本当にヤバいやつですが、『まだ綺麗』はいうほど綺麗じゃないと思います。捨てましょうよ」
「えー? 染みくらいで捨てるとか勿体ないですよ。サステナブルじゃない」
「サステナブルの意味分かって言ってます?」
「エスディージーズみたいなやつでしょ?」
「ではSDGsの意味は?」
「リサイクル的な」
「堂々巡りの例文にしたいくらい堂々巡りした回答ですね」
しかしまぁギャンブラーという生き物は基本的に金も命もその場で使い切ることが前提の世界に生息しているので、そもそも再生可能エネルギーと根底から相性が悪いのかもしれない。
「とりあえず帰ったら白パーカーはゴミ箱にぶち込んでください。断捨離です」
「えー」
「えー、じゃない。持っていても仕方ないでしょう」
「何かに使うかもしれないじゃないですか」
「何かとは?」
「それはまぁ、今後考えますけど」
「捨ててください」
「うぅ……」
「あと付き合ってください」
「うん?」
文脈の繋がらない弥鱈に一瞬梶の頭がこんがらがる。数拍置いて「行きたい店思い出したんですか? 良いですよ」と返した梶は、弥鱈が如何ともしがたい表情を己に向けるため再度頭の中を混乱させた。
「は? いえ、交際してくださいと、そう言ったんです。今しがた話題に出たばかりなんだからそんなベタな勘違いは止めてくださいよ」
「えぇええ?」
梶が面食らう。確かにそんな話ならしたが、先程から今の間に告白のタイミングがあったとは到底思えない。二人はこれからの予定を話し合った末、シミがついた白パーカーを捨てるかどうかで対立しただけだ。惚れ直すシーンでもあったのだろうか。シミのついた白パーカーで? そんな所で惚れ直されても梶だって困る。
『何言ってんだお前』とでも言いたげな顔をする弥鱈に対し、梶も負けじと『いやいやお前こそ何言ってんだ』という顔で応戦する。今の流れは絶対僕の反応が正解ですよ! と胸を張る梶は当初の控えめさなどドコ吹く風で、自己主張に臆さなくなった梶を弥鱈は『育ったなぁこの人も』などと好意的に捉えているが、まぁそれと先の告白に特に因果関係はなかった。
「どのタイミングで言ってるんですか弥鱈さん。ていうか『いつか』が来るペース早すぎでしょ!」
「先を越されたくなかったし、考えたら今言いたくなったんです」
「だからって」
「なんですか。まさか断るんですか。ちょっとぉ、そんなの予定に入って無いんですけどぉ? 酷いです。慟哭しそうだ。私との関係は遊びだったんですか? 昨日腕の中で言ってくれたことは全て嘘?」
「おい、おい! いま遊んでるの絶対弥鱈さんの方ですよね? 止めろよ腕の中とか! ここ外ですよ! 弥鱈さんが僕に言ったことも大声で暴露してやろうか!?」
「どうぞ? 別にこちらは今更痛くも痒くも。言えるものなら言ってみろ」
「くそぅ、これだから開き直ったやつは!」
梶が顔を覆う。昨晩の声が耳元に蘇り、前方に座る太々しい男が本当にあの蕩けそうな台詞の数々を吐いたのかと信じられない気持ちになった。対する弥鱈はそれはそれは何時も通り飄々としている。何だこの人怖いものなしかよ、と梶は思う。あながちそれも間違った感覚では無かった。
弥鱈には自分が梶に歯の浮くような台詞を並べ立てていることも、キザったらしい台詞が自分の容姿や性分にアンマッチな自覚もある。最初の頃は一応悩んだのだ。『こんなの俺ではない』と、梶と接するたびお花畑になる脳内に頭を抱えていた。けれどももう、直ぐにどうでも良くなった。
だって可愛いものは可愛し愛しいものは愛しいのだ。開き直った人間は強い。ある種梶の恋人として立ち回る際の弥鱈はいわゆる“無敵の人”に近かった。何も失うものはないし、仮に失ったところでソレはきっと梶ではない。なら別に良い。梶には伝えていないが。
「あーもーやだやだ。弥鱈さんって本当にそういうマイペースなとこある。ちょっとは僕に合わせるとかしろよぉ」
「はー? 合わせてるじゃないですか」
「どこが!?」
弥鱈はチラと自分の手元に目を落とす。梶が好むからと買った自分好みではないコーヒーが、そろそろ温度を失いアイスコーヒーになりかけていた。
「……昨日二回戦で止めたとことか」
「この野郎! まだ言うか!」
梶が歯を剥いて威嚇する。弥鱈は相変わらず邪悪な笑顔で梶を見下ろし、習慣付いた流れで手にあったコーヒーを口に運んだ。で、普段己が選んでいるものより遥かに苦い液体に顔を歪ませる。立会人で在る時には決して見せないだろう気の抜けた行動に、梶は途端怒っていたことも忘れて「ぷっ」と吹き出した。
弥鱈がバツの悪い顔をする。梶は威嚇用に剥き出していた歯茎でさっさと笑顔を作る。コロコロ変わる表情とコロコロ変わる優劣は二人が対等な証だ。梶は弥鱈の眉間に手を伸ばし、深く刻まれた溝をならすようにぐりぐり押した。
「もー本当に。マイペースな人ですね」
「(人の眉間を勝手に押してくるような人間はマイペースじゃないのか?)」
ぐりぐりされながら弥鱈は思う。へにょんと笑った梶の顔が近くにあってつい表情が緩みそうになるが、ここで眉間を解放したら梶は自分の手柄だと思うかもしれない。何だかそれは癪なので、弥鱈はムキになって眉間に力を篭め続けた。
「マイペース……そんなこと初めて言われましたよ」
「そんなわけあるか。そんなことしか言われたことないでしょ」
「もっと皆さんは毒毒しい言葉で私を形容するので」
「あ、そういう意味? マイペースですよ弥鱈さんは。自分のペースがあって自分のルールがあって、そのくせ一生懸命人に合わせようと頑張りたがって。可愛いとこばっかり。弥鱈さんの配信見てる人って、ガチ恋勢が絶対多いと思います」
「居ませんよそんな人。技術面だけならともかく、私自身を好んでくれる変わり者なんて貴方くらいです」
「はい嘘。絶対嘘。そうやってスパチャ稼いでるんだ」
「失礼な人ですねぇ。勿論嘘です」
「もー」
「でもこうやって嘯きたくなるのは確かに貴方だけですよ」
「もー、もぉ」
梶が身を引く。もぉ、もぉ、と繰り返し、クネクネ体をくねらせた後に顔を伏せた。
弥鱈は不思議なところで正直を躊躇わない人間だと梶は思う。人一倍マナーや一般常識に敏感でありながら、梶と向き合う時の弥鱈はいつもなりふり構わない破天荒さがあった。弥鱈の本質はどこにあるのだろう。梶は考え、考えている途中に頭にふわんと重みが乗るので思考が霧散する。
ふいに、弥鱈の手が梶の頭に置かれていた。髪を梳く手つきは甘やかで、梶はつい弥鱈に似合わない仕草だなぁと思う。しかしきっとこれを口にしたら、弥鱈は手を引っ込めて「キモいですか?」と梶に確認を取るのだ。あの弥鱈悠助が心配そうにしているので、梶は微笑して「そんなことないですよ。もう一度撫でて」と彼をアシストする。そうして再び頭に置かれた手が頬に移動していき、「こんなことをするのは貴方に対してだけですよ」と弥鱈が息を吐くように言ったとき、梶はまろやかな空気に耐えかねて「どうせそれも嘘だっ」と苦し紛れに言うのだろう。
梶の頭には全てのイメージが克明に浮かぶ。夕方に差し掛かった街は人間の入れ替えが進み、子供の手を引く母親たちの間に初々しい高校生カップルの姿が混ざった。
街は夕方になり夜になる。
いかにも夜の住人である陰鬱な弥鱈は、しかし夜なんて待たないで、気恥ずかしさから可愛くないことを言った梶を仕留めるのだ。
嘘じゃないですよ。
冷えてしまった梶のコーヒーに体温を移して、無意識下なら本当はずっと前から柔く微笑めていた弥鱈が言う。甘い言葉は夕方に落ちる。世界はまだ、太陽が照らすなかにある。
「こればかりは嘘じゃないです」