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 梶がネットサーフィンをしていたところ漫画の広告が流れてきた。昨今漫画業界には異世界×ファンタジーのトレンドが吹き荒れており、先述の漫画も勿論そのトレンドに乗っかっている。いわく、トラックに轢かれてしまった猫人の少女が猿人だらけの異世界ですったもんだするらしい。
 人類に進化した動物が〇〇しかいない世界というのは昔からよくあるファンタジー設定だが、『猿人しか居ない世界』は最近になってよく見かけるようになった。ポリコレの影響だろうか。一昔前なんて俳優といえば犬人種か猫人種に限られていたのに、良い時代になったと思うべきなのか、猿人種ニホンザル型の流れを汲む梶は複雑な気持ちで広告を眺めた。

「出たよゴリラエンド」

 ウンザリした顔をする梶に、門倉は換毛期直前の冬毛を整えながら「ゴリラエンド?」と返す。ハイイロオオカミをルーツとする被毛は他のオオカミ型に比べてもより艶やかで美しいのだが、唯一抜け毛の多さだけはいただけない。

「猿人あるあるなんですよ。猿人種が出てくる物語で、最後はゴリラ型が全部良いとこ持ってくってやつ」
「あぁなるほど」
「まぁ分かりますけどね。ゴリラ型ってスタイル良いし腕っ節も強いのに性格が優しい人が多いから。恋人にしたい猿人ナンバーワン」

 分かりますけどぉ、と言いつつも梶の顔には不満が滲んでいる。
 多様性と称して各企業が積極的に猿人種を機用するようになって久しいが、蓋を開けてみれば取り扱われる人材はゴリラ型やオラウータン型といった大型タイプか、リスザル型・ショウガラゴ型など整った容姿が特徴の種族に比重が偏っている。結果として未だ猿人種の大半はにパッとしない存在として陽の目を浴びていないわけで、特に極東限定の種族であるニホンザル型などは、日本を舞台にした映画でさえ配役をチンパンジー型に奪われてしまうというしょっぱさだった。

「どうせニホンザル型は冴えないモブ人種ですよ。体格貧相だし性格みみっちいし、良いとこ無いんですよどうせ」
「そう卑下なさらず。ニホンザル型は協調性が高く聡明で、何より逆境でも折れない忍耐強さを持った素晴らしい人種です。原始よりこの国に根付いてきた固有種でもある。日本が誇る美しい血統ではないですか」
「それ本気で言ってます? オオカミ型さん」
「勿論。私など何処から来たかも分からぬルーツで構成された根無し草ですので、日本の化身のような梶様のお血筋には憧憬の念を抱かずにはいられません」
「門倉さんって狼の他にどんな血が混ざってるんですっけ?」
「様々ですよ。ハイイロオオカミ型を中心に、近種の大型犬、熊、鷲、虎などの血が混じっております。中途半端に全ての特性を引き継いだ半端者でして……例えばそうですね、私は空間認知が比較的得意なのですが、これはハクトウワシ由来らしいです。いやぁまったく、混ざりに混ざった雑種でお恥ずかしい!」
「聞くんじゃなかった!」

 梶が膝から崩れ落ちる。挙げられた人種がことごとく花形人種だったことと、サラリと告げられた「全ての特性を引き継いでいる」というチートっぷりに遺伝子レベルの差を見せつけられた気分だ。

「なんスかその反則みたいな組み合わせ。モテる人種詰め合わせセットじゃないですか!」

 まるで小学生による『僕が考えた最強の遺伝子』みたいな組み合わせである。一応梶にも猿人種以外に別のルーツがあり、それは門倉と同じ犬人種の血統なのだが、犬人種の始祖たる狼の後にとてもじゃないが言えるものではなかった。

「梶様だってニホンザルとホンドタヌキのふるさと詰め合わせセットじゃないですか。需要ありますよ」

 とか思っていると秒で暴露されてしまう。あまりの無慈悲さに梶は犬人種タヌキ型由来の大きな目を一層見開き、これでもイヌ科の端くれだとばかりに「需要ってソレ珍獣枠でしょ!? どうせ僕は地産地消タイプの人間ですよ!」と吠えた。
 キャンキャンぽんぽこと怒る梶を、門倉は生温い笑顔で見送る。
 実際には門倉が言うように、その国の固有種のみが顕現した人間というのはそれなりに稀少で他国の人間からは好まれる傾向にある。特にタヌキ型の愛嬌は一部に熱狂的なファンを抱えているのだが、門倉はあえてそこには触れず、「それはそれとして梶様」と場を正すように声を硬くした。

「他愛もない会話で時間を稼いでやろうというお気持ちは大変お優しくて結構ですが、私とてそう常に暇を持て余しているわけではありません。そろそろ撤収作業に移りたいのですが、あちらの方はいかがいたしますか?」

 あちらと門倉が表現した途端、視界の端で男の肩がビクリと跳ねた。先程から手にしたペンは一向に動いておらず、何やら口元はもごもごと何処かへ指示を出し続けている。耳の良い門倉を出し抜けるはずも無いのだが、窮地に立たされた敗者には立会人の種族など気にしている余裕も無いのだろう。

「勝負前に取り決めたように、敗北した側は自身がベットした株式を相手に譲渡する必要があります。言うまでもなく敗北後の売買はルール違反です」

 淡々とした門倉の説明に男はガタガタと震え始め、助けを求めるように梶へと視線を送る。先程まで猿だの下等動物だの散々な言い回しで梶を扱き下ろしていたくせに、よくもまぁ恥ずかしげもなく同情を引けるものだ。門倉は男の浅ましさに既に関心の類を削いでいたが、梶は馬鹿真面目に男と目線を合わせ、『いや僕にもどうしようも出来ないんスよ』と気まずそうに苦笑した。

 こうなることを見越して梶は最低限のレートで勝負を回そうとしたのだ。梶の目的は男が所有する株のほんの一部であったし、最初から全財産を毟り取るつもりもなかった彼は、敗北した男が株を売り始めた時も見て見ぬフリをしてやった。これ見よがしにスマホを取り出し、さして興味のない漫画を読んでわいわいと騒いでみせる。猿芝居、という単語が梶の頭を巡ったが、猿人種の自分が道化を演じているのだからまぁ間違いではないと飲み込んでいた。まったく梶隆臣という人物は、人が良いというか、人が良すぎるというか。

 門倉は中立を絶対視する立会人ではあるものの、人の好き嫌いは激しく、勝敗に寄与しない分野に関しては贔屓した相手の意向に多少なり沿ってやろうという人間味も持ち合わせている。なので『梶が見逃すつもりなら』と、身を守るための僅かな資金くらいは梶に免じて許してやろうと思っていたのだ。

 だというのに、である。男はお目こぼしを良いことに、この期に及んで利益を追求し始めた。そうなれば話は変わってくるのだ。往生際の悪い男の振舞いは門倉の美学に反し、門倉は先程の尊重の気持ちなどさっさと何処かへ追いやって、梶を無視して自身の思う取り立てを遂行することに決めてしまった。
 男は何か思い違いをしていたようだが、あくまで梶は勝負に勝っただけであり、その後の采配に口を挟む権利までは持ち合わせていない。ルールに関する一切は立会人に権限があって、この場の真の支配者は立会人の門倉だった。
 梶が許せば全てがまかり通るわけではない。結局門倉の癇に障ったことで思惑はご破算となり、門倉は弐コォっと不気味な笑顔を顔面に張り付け、鋭く尖った犬歯をわざと男に晒した。

「既に貴方様は外部と連絡を取り、複数の株の売買を済ませてしまわれた。故意があると判断し、立会人として違反者の粛清を行いたく存じます」

 男がひぃいっと叫び、身体を仰け反らせた拍子に椅子から滑り落ちる。地面に四つ足をついた姿は男の先祖に通ずるものがあった。たしかライオンの血統といったか、百獣の王の末裔だとふんぞり返っていた先程を思い返して門倉は『なるほど』と思う。
 言われてみれば男はまさに王の末裔だ。世襲制の王位にあぐらをかき、己の無能に気づかないまま生きるバカ王子そのものである。

「門倉さんっ。まだ売ってから時間もそれほど経ってないし、数だって全部じゃない。同じものを買い戻すとか、あがった収益をそのままこちらに譲渡するとか、それで手は打ってもらえませんか? 僕が勝負前に要求したものは、まだ持ち株として存在してるみたいですし……!」

 すかさず梶が男と門倉の間に体を滑り込ませた。見るに堪えなかったのか、相も変わらずお人好しな彼は、自身に尊大な態度を取った相手のことも何とかして庇ってやるつもりらしい。

「ルールはルールです」
「でも元々、今その人が売った株は勝負前に掛け金としてテーブルに上がってませんよね? 門倉さんはさっき『自身がベットした株式を相手に譲渡する必要がある』って言ってましたけど、正確には最初の約束は、『現在テーブルに上がっている株式を相手に譲渡する必要がある』だったはずです。条件が変わってます。ルールが一律じゃない」

 梶がなおも食い下がる。門倉はグルグルと喉を鳴らし、切れ長の目で梶をねめつけた。

 痛いところを突いたつもりだろうか。梶の反論は言いがかりに過ぎず、そもそも状況が変われば都度でルールは更新されるものだ。そんなことは梶だって分かっているだろうに、愚かな対戦相手のため重箱の隅をつつく選択をした梶が門倉には不愉快だった。
 自分の立場を悪くしてでも相手を助けてやろうという、梶の自己犠牲の精神が門倉はいつも気に入らない。それが梶の欠点であり美点で、己にとっては嫌悪で好意だからだ。どうにも気に入らない。門倉雄大としてというより、倶楽部賭郎弐號立会人としての矜持が許したくない。血統的にも個体的にも常に絶対強者である門倉が、梶の弱さに惹かれているということを、門倉はどうにも認めたくなかった。

 ざわりと門倉のスーツから漏れ出た被毛が逆立つ。贔屓の専属であってもルールに口出しをさせるつもりは無いと爪を見せつけようとしたところで、門倉の隻眼をグッと顔を寄せた梶が覗き込んできた。黒が深いころんとした瞳が門倉の視界を占め、次には涙の膜が憐憫を誘うように瞳を覆う。間もなく門倉の前には、世界中の悪党共をことごとく骨抜きにしてきた人畜無害な青年が現れた。門倉は『あっ』と思う。この流れは、マズい。自分と相性が最悪の流れだ。

 猿由来の発達した表情筋と、狸由来の天性の愛嬌。本来さほど脅威とならないはずの特性を混ぜ合わせて生まれたのは、梶隆臣という擬態の天才である。

「こじつけだけど、全くデタラメなことを言ってるつもりはありません。ルールの範囲だと思うんですけど────抜け道、ありますよね? お願いします。門倉さん」

 くるる、と梶の喉が鳴る。同じイヌ科とは思えないほど軟弱な鳴き声は、長らく群れのリーダーとして舎弟や黒服を守る立場にあった門倉の庇護欲を強制的に掻き立てた。

(このクソガキ!)

 苛立つ意識とは裏腹に、逆立っていた毛がへたへたと萎み、腹の中で渦巻いていた苛立ちは梶の顔を眺めているうちにどこかへ立ち消えていく。あぁなんて忌々しい! 門倉はため息を吐き、せっかく整えた冬毛をガリガリを掻きむしった。
 全ての生き物は一長一短であり、種族の下駄はあれど最終的に個々の優劣を決めるのは個人の有り様、というのが門倉の持論である。
 梶の血統は猿と狸だ。童話に出てきそうな平凡でのほほんとした血統は、しかし扱い方によっては如何様にも化けると門倉は梶を通して知った。猿人種の最大の武器はその高い知能で、一方犬人種タヌキ型の武器は生来の臆病ゆえに突出した危機察知能力である。策を巡らせる頭脳と危険を嗅ぎ分ける嗅覚は、いずれもギャンブラーに不可欠な素養だった。

「……この門倉から、同情を買おうと?」
「そうですね。売ってくれるなら」
「おどれ、くそっ。タヌキジジイのような真似をする」
「まだジジイって年齢じゃないですけど、門倉さん、僕は実際にタヌキですよ」
「くそっ」

 梶は狡い。裏社会において、彼はいうなればカードゲームの大富豪における八だった。悪や暴の気配を事前に感じ取り、ことが起きる前に場を流して無かったことにしてしまう。陰謀、策略、怨恨。裏社会の原動力ともいえるソレらが梶の立ち振る舞いで霧散していく様を、門倉は専属として傍らに立ちながら実際に幾度となく目にしていた。
 梶の八切りはいつも唐突に繰り出される。出されてからでは対応が追い付かず、今日はどうやらその憂き目に己が当たったらしい。

 これじゃぁ格好がつかんのぅ。そう思いつつも諦念が身を染め始めていた門倉の視界の端で、もぞり、と動く影があった。重心の低い影だ。ちょうど成人の男が地面に手を付いた時ほどの高さでグルルと咆哮が上がり、黒かった影がオレンジ色に膨張する。

「えっ」
「あ」

 梶と門倉が同時に声を上げる。目の前に一頭のライオンが現われ、次の瞬間ライオンは風になった。窓ガラスを前足で割り、火の輪をくぐるように真ん中の空洞を飛び越える。対戦相手のライオン型の男だった。もはや存在が忘れ去られていた敗北者は、梶と門倉が会話をしている隙にと、先祖の姿を借り逃走を図ったのだった。

「え゛えええええええ」

 取り残された室内に梶の困惑がこだまする。頭を抱え、既に下の階まで到達していた百獣の王を見下ろして梶がそのままの意味で猿叫した。

「なんで今逃げる!? もう少しで穏便に終わったのに!」
「後先考えずに目下の餌に飛びつく。これじゃから猫は好かんわ。考えが足りん」
「それ差別発言っすよ門倉さん!!」

 梶が歯を剥き出して突っ込む。まるで猿の威嚇行為のようだったが、まるでも何も、よく考えれば猿の威嚇行為である。

「どどどどうしよう! これどうすれば良いんです!?」
「どうすればも何も、追うのみです。獲物を逃がすわけには参りません」
「いけますか!? もう大分姿が遠いですけど!」
「ネコ科は初速こそイヌを上回りますが、反面持久力が乏しく体力は直ぐに底をつく。長距離の移動に適した狼の敵ではありませんね」
「じゃぁ……!」
「えぇ。ただ、貴方にも多少なり責を負っていただきたく」

 門倉が梶に言い放つ。口調こそ丁寧だがその実表情は硬く、狼の苛立ちを感じ取った梶は思わず「ひっ」と息を詰めた。

「ぼ、ぼぼ、僕ですか」
「えぇそうです。そもそも貴方は今、私のボスなので。貴方の指示もなく私は動けませぬ」

 当然のように言われ、梶はまた「ひぃっ!」と引き攣った叫び声を上げる。そうなのだ。にわかには信じられないし梶自身『いや絶対嘘でしょそんなん絶対思ってないでしょ』と確信めいた思いを抱いてはいるが、賭郎勝負の中にある時、梶を含めた賭郎会員はみな名目上門倉のボスであるらしい。
 それは絶対の上下関係でコミュニティを形成する狼の特性によるものらしく、オオカミ型の人間にとって自身より格下の存在に敬意を払うことは屈辱以外の何物でもないため、一時的に自身の上に会員の存在を置くことで、門倉は本能と職務の両立を図れるのだそうだ。なるほど全然分からない。まぁ要はプライドが鬼のように高い門倉が精神衛生を保つためのこじつけである。

 格上だの格下だの、犬人種のごく一部で見られる独特の考え方は、同じ犬人種でも上下関係に疎いタヌキ型の梶にはなかなか理解が及ばない範疇である。しかし実際、この上下関係があることで立会人門倉雄大が理由なく賭郎会員を害することはない。弱かろうと生意気だろうと、先程のように正統な理由なくして門倉は罰を与えることも決してしなかった。私的な暴力に走らないというのは、立会人としては至極当然の姿であっても、群れのボスとして己が絶対の規律を敷くオオカミ型の人間には本来考えられない振る舞いなのだ。
 梶も門倉の性分や狼の特性は理解しているので、いまどれほど門倉が苛立っていたとしても怒りの矛先が己に向かうとは思っていない。だが怖いものは怖い。かつてニホンオオカミに追い掛け回されていた先祖の記憶かもしれなかった。

「せ、せき。責とはあの、なんですか。エネルギー補充に腕一本食わせろとか?」
「そんな細腕齧っても幾ばくのカロリーにもならないでしょう。そうではなく、選択の責です」
「せ、選択の責?」
「えぇ」

 頷き、次には門倉が頭を下げてみせる。恭しく垂れた頭には既に鈍色の耳が出現しており、ツンと形の良い三角形が梶の声を探して左右に揺れていた。「貴方が命を下すのです。梶様が私に、あの逃げた猫を狩れと。お相手を逃がしたのは、貴方の『己の手を汚したくない』という甘い考えだ。ならば失態のツケは、ご自身が支払うべきです。ゆえに、ご指示を」

 梶が息を呑む。返答を待つ間にも門倉の身体は変化を続けており、ざわざわと門倉の毛が逆立ち始め、スーツの下では筋肉が野生に戻ろうと蠢いていた。骨格の軋む音。喉から這い上がってくる生温い息。青みがかった銀色の毛が光るたび、梶は美しさに眩暈がする。

 間もなく梶の前に、一匹の狼が現われた。絵本で見るような見事な毛並みだが、身体は狼の平均を遥かに超えて大きく、手足が妙に太く発達している。

「他の狼をあんまり知らないからってのもありますけど、門倉さんはなんか、特に立派ですね」

 神様っぽい、と梶が場にそぐわない感想を漏らす。神話の中で何故神々がこぞってこの生き物を模したのか、時代考証などしなくても、梶にも何となくその理由が分かる気がした。
 四本の足が鋭い爪で地面を掴み、銀の毛並みの中で光源を閉じ込めたかのような琥珀色の瞳が爛々と輝いている。かつてこの国で『神』と名の付いていた彼らに使うこと自体少し滑稽な気もしたが、神々しいとは彼らの、狼の姿を指すのだろうと梶は思った。

「───命は取っちゃいけません。絶対に、絶対に殺さず捕まえてきてください」

 意を決して言葉を選んだ梶に、門倉の目がうっすらと細まるのが分かった。

「それはお願いですか」
「いえ、命令です」
「甘い」

 牙の隙間から失笑が漏れる。グルルと喉が鳴り、梶は己の中で恐怖と畏敬が湧き上がるのを感じた。怖く恐ろしく美しい。とんでもない生き物が、いま自分の号令を待っている。

「行ってください、門倉さん」

 梶が口火を切り、門倉の遠吠えが月夜に響く。音の余韻が消えるころには、狼は室内から姿を消していた。
 
 
  
 
 
 ※※※ 
 
 
 
 
 
 夜を走っていると、なぜ日本はこうも明かりを点したがるのかと門倉は不思議になる。

 以前賭郎の関係で北欧の某所を訪ねた時、街は夜になると明かりを落とし、薄暗闇の中で生活していた。門倉は難なく対応していたが、同行した猿人種ゴリラ型のヰ近立会人は「何にも見えん!」と方々に身体をぶつけて大変そうだった。
 いわくその地域は、猫人種の割合が多いため夜に明かりが要らないのだという。あぁだから猿人種の多い日本はどこかしこも明るいのだと門倉は納得し、自身の目が夜目の効く生き物由来で良かったと思った。

 街には様々なにおいが溢れている。良い匂いもあれば鼻がもげそうな悪臭もあり、シャンプーの残り香にうっとりしていたら次には煙草の煙に横顔を殴られたりもした。門倉の嗅覚はそんな常人の世界からもう一歩踏み込んだ領域に到達しており、香水は強すぎて刺激臭と変わらず、逆に吐瀉物は突き詰めて中のレモンサワーの香りを感じ取ることも出来る。
 脳を損傷して以降嗅覚が発達した門倉は、元々鼻の利く犬人種ハイイロオオカミ型だった前提も相まって今や嗅覚だけなら狼の原種そのものに近い性能を持っていた。先祖返りではないか、という説も一時は持ち上がったものだが、検査によるとたまたまサヴァンとベースとなる動物の相性が良かっただけらしい。運が良いと口々に言われたが、悪運の強さは門倉も生まれた瞬間から自覚している。

 地面に残るライオンのにおいを嗅ぎ分け、門倉は糸を辿るような正確さでひたすらに真っ直ぐにおいの元を追う。喧騒の繁華街を通り過ぎ、においは路地裏へと続いていた。店裏に放置された生ごみが随所で激臭を放ち、門倉は鼻腔を殴りつけるにそれらの臭いに頭を振る。
 細道に逃げ込んだということは、男の先ほどの逃走は思い付きの行動で逃走用の車などは最初から手配がなかったのだろう。梶を相手に、まさか自分が敗北するとは想定していなかったのかもしれない。門倉は徐々に濃くなる猫のにおいに唸り声を上げ、路地に飛び出していた鉄骨を軽々飛び越えて走った。距離は間もなく五kmを超える。全速力を出したライオンがそろそろ力尽きる地点だ。

 ここまで一度も足を止めなかった門倉がピタリと止まり、目の前に累々と積み上がった廃材を見る。においはそこで途切れていた。耳をすませば男の荒い息遣いと、カチカチ歯の鳴る音が聞こえる。

「ここに居ますね」

 門倉は呟き、身体を四つ足から二足歩行に戻した。体のあちこちが軋み、以前重傷を負った脳がずくずくと痛みをぶり返す。体力的には余力が残っているものの、門倉の血統では獣の姿をこれ以上保つことは難しかった。

 基本的に獣への変態は負担が大きく、ライオン型純血種の男のように一種類の血が濃いほどに変態の時間は安定する。門倉は異種族が体内で覇権を奪い合っているような特殊個体のため、ベースとなっている狼でさえ連続した擬獣化は数分が限度だった。

 男は廃材の中で体力の回復を図っていたようで、まさかこれほど発見が早まるとは思っていなかったらしい。廃材を掻き分けてなおも逃げようと画策する男は、あちこちで廃材同士をぶつけ合い、時には鉄くずの雪崩を意図的に起こしていた。
 男は門倉がオオカミ型の人間と知り、腕力に乏しい狼ならば重い廃材に四苦八苦すると予測したのだろう。廃材は門倉の目の前で山のように膨らみ、幾重にも折り重なった鉄が門倉の行方を阻んでいた。確かに考え方は悪くない。だが男は、あまりに門倉雄大を知らなかった。

 門倉は人に戻った口でにんまりと凶悪な笑みを作り、積み上げられた廃材の中から鉄板を選ぶと躊躇なくそれを後方へと投げ飛ばす。

 ドゴン。

 轟音と共に地面のコンクリートが割れ、深々と突き刺さった鉄板は天に向かって垂直に立っていた。音に振り返った男は光景をあ然とした表情で見つめ、門倉が楽々とバリケードを突破してくる様を理解が及ばない頭でただ見届けてしまう。通常オオカミ型の主な戦闘スタイルは鋭い爪と牙を用いた接近戦であり、肉を裂くことは容易でも、純粋な腕力では他の動物に後れをとってしまうというのが一般的な認識である。男が訳も分からず呆然としてしまったのも、ある意味仕方のないことだった。

 門倉はハイイロオオカミが人種のベースとなった犬人種オオカミ型の男である。にも関わらず、二足歩行時の門倉の主な武器は拳だった。重い一撃で相手を沈め、時には取っ組み合いを制して相手の身体を腕力だけで投げ飛ばすこともある。狼という生き物では到底説明できない門倉の身体能力は、彼の特殊な体質によって成り立っているものだった。

 門倉の腕力はハイイロオオカミではなく、祖父のヒグマ型から遺伝したものだった。しかも隔世遺伝は熊だけではない。気位の高さや白黒を付けたがる独自の価値観はオオカミ型そのものだが、門倉は大柄な骨格を曾祖母の鰐から、柔軟な筋肉を五代前の虎から、それぞれに引き継いでいる。何代も前のルーツが複数個現れるなど本来は有り得ないはずだが、先程冗談めかして梶に伝えた鷲由来の空間認知能力に至っては、遺伝の事実は事実なものの、あまりに縁戚のため最早ルーツの人物を辿ることさえ出来なかった。

 全ての生き物は一長一短であり、種族の下駄はあれど最終的に個々の優劣を決めるのは個人の有り様、というのが門倉の持論である。

 切間や能輪といった高貴な一族には、純血種ならではの強みや特別な能力があるのだろう。門倉は地方の街に生まれ、叩き上げで賭郎の中枢にまで登りつめた。誇れるような家名も純粋な血統も持たない彼は、一方で先祖の特性をバランスよく受け継ぎ彼だけの強さを確立している。他の立会人のように血が濃いわけでも梶のように二つの血が互いを補いながら共存しているわけでもないが、草の根を生きる人々が連綿と繋いだ命の果てに生まれたのは、門倉という混合の怪物だった。
 執念の集大成とでも言おうか。あるいはこの血筋は、門倉の当代で完成したのかもしれない。

「おどれ自分のことを百獣の王と言うたか。王だなんだと、贄の分際でおこがましい」

 目の前の廃材を押しのけ門倉は進む。口元には苛立ちとも高揚ともつかない笑みが浮かび、鉄くずが一つなぎ倒されるたび男の悲鳴が門倉に近付いた。

 所詮会員など着飾っただけの贄なのだ。血統など付加価値を持った贄は確かに箔がつくものの、祭壇で暴れ、あまつさえ捧げられることを拒絶するようでは目も当てられない。
 供物の真価は煌びやかな見てくれではなく内側の命に宿っており、それぞれに一個の命を持った贄が、いまこの瞬間その命を失うから価値があった。贄の価値は命の価値で、贄の存在意義は、突き詰めてしまえば彼らを失うためにある。

 ガコン、と最後の砦だった鉄板が取り払われた。門倉の目の前には腰を抜かしたライオンがおり、股の部分には丸く染みがついている。あぁくそやりおった、替えの服に持ち合わせなど無いくせに。周囲に漂うアンモニア臭に、門倉はげんなりとした気持ちを隠さず言う。「ネコ科は糞尿の臭いが強いそうですが、あながち嘘でもなさそうですね」
 男は既に命を観念しているようで、がっくりと項垂れたまま門倉の前に己の首を差し出してきた。どうせ死ぬなら一思いに、ということらしい。死に方を選べる自由など男はとっくに奪われているというのに、何とも甘ったれた考え方だ。
 門倉は男をせせら笑う。

「何か勘違いをされているようですが、ここで手は下しませんよ」
「え?」
「慈悲深い雑食獣に生きたまま連れ帰るよう言われておりまして。なので貴方の処分は、戻ってから改めて行います」

 男の目が大きく見開かれる。どうして、と囁かれた声は小さく、門倉の耳にようやく届く程度だ。

「あ、あの子が? どうしてそんな無駄なことを。どうせ俺は、死ぬことには変わらないのに」
「さぁ? どうしてでしょう。私はそう命令されたので従うだけです」

 門倉の態度は終始素っ気なかった。自力で立ち上がれない男に肩を貸し、かと思えばさっさと体を外して「しゃきっとせぇ百獣の王!」と乱暴に男の背中を叩く。人間の好き嫌いが激しい門倉にとって、男のような生き物は、まぁなんというか、シンプルに嫌いで目をかけたくなど無かったのだ。
 男は門倉のスパルタに晒され、よろめきながらどうにか二、三歩自力で歩くことが出来た。ふと、足の先が繁華街のネオンを向いていることに気付く。男は視線も繁華街に一旦は投げ、その後気まずそうに自身の下半身を見下ろした。この場に及んでまだ無駄なプライドを持ち合わせているらしい男は、おずおずと「ここから歩いて帰るのか?」と門倉に尋ねる。

「まさか」

 門倉が簡潔に返す。言外に『おどれと一緒にするな』という空気が滲んでいたが、門倉はこれ以上男と会話するつもりもなかった。

「すぐそこに車がきています。ご安心を、シートは防水性です」

 最後の台詞は勿論嫌味だったが、意気消沈した男にはもはや少々の皮肉など効果が無い。門倉が作った廃材の獣道を通り、路地の入口まで戻ると黒塗りの車から門倉立会人、と馴染みの黒服が声をかけてきた。

「梶様は?」
「それが会場で待つとおっしゃって……何だか、妙に難しい顔をして何かに悩んでいるようでした」

 今後の勝負についてですかね、などと黒服が憶測を口にする。門倉は一人会場に残った梶に思いを馳せ、門倉たちの到着を頭を抱えながら待っている梶を想像して「クス」と笑い声を漏らした。

 流石は門倉がこれと惚れ込んだ会員である。当のライオンは既に牙も抜けた腑抜けだというのに、まだあの猿人種は猿知恵を働かせるつもりらしかった。

 車内に男を押し込めた門倉は、男に続いて後部座席のシートに腰を下ろすと「空調回せ。全開」と運転席の黒服に指示を出す。車内には男が乗り込んだ瞬間からアンモニア臭が漂い、黒服も言われるまでもない、といった様子で早々に車内空調をマックスまで引き上げていた。
 車のエンジンが入り、ゆっくりと車体が動きだす。ごうごうと空調が鳴り響く車内で、門倉はふいに隣の男へと視線を投げた。

 男は青い顔をして刑の執行を待つ死刑囚のように震えて座っている。手は祈りを捧げるように組まれたまま固定され、ぶつぶつと口元は南無阿弥陀仏と唱えていた。なんとも無様だ。御仏に祈って何になるのか門倉には分からないし、少なくとも今、男を直接的に救うのは神や仏ではないと思うのだが。

「この期に及んでまだ死にたくないのですか」

 車内に門倉の声が落ちる。僅かに持ち上がった男の顔には『当たり前だろう』と悲痛な訴えが書いてあり、門倉は仮にも博徒が、命を賭ける覚悟もなかったと平然と暴露する現状に何度目かの溜息をついた。

「ハァ。で、あれば。縋るべくは御仏ではなく今を生きる人間ではないのですか。私や貴方のような血筋の生き物には到底理解できませんが、この国に生きてきた動物というのは、どうもみな争いを好まず命を惜しみたがる。貴方も見たでしょう、往生際の悪いこの国の在来種を」

 門倉の言葉に男がハッとする。シートに腰かけた身体が大きく揺れ、濡れたスラックスがぐちゅりと音を立てた。

「た、助けてくれるのか。あの男は俺を」
「さぁ? ただ度の越えたお人好しではあるので、猫なで声で頼まれたら尽力するのではないでしょうか。借りてきた猫のようにしおらしく、同情を誘いながら情報でも金でも渡せるものは全て渡したら良い。梶様はいつも何かに駆り立てられ急かされているような御方です。案外猫の手も借りたいかもしれませんよ」

 弐ッ! と極めつけに門倉が男に笑いかける。
 悪趣味な揶揄がこれでもかと車内を駆け抜け、男は苦しそうに唇を噛み、黒服はバックミラー越しに『雄大君のそういうとこ、狼っていうか蛇だよね』と彼の血筋を思い返して少々呆れ顔をした。