あくまで噂の範疇だけど。
門倉さんの背中には鯉がいるらしい。赤が映える和彫りの鯉で、背中の真ん中から肩にかけて滝を昇る姿が彫り込まれているのだそうだ。『鯉は滝を昇ると龍に成る』、そんな故事が元になったデザインだそうで、かつて門倉さんが地元広島を旅立つ際、地元球団のモチーフで、かつ若い門倉さんが東京で大成するようにと願いを込めて彫ったのだとか、なんとか。
「そんな噂があるのですか。背中の話など、大々的に誰かにしたことはありませんが」
「なんか結構有名な話みたいですよ。僕も聞いて、へぇそうなんだって思いました」
門倉さんは僕の言葉にそうですかと返し、そのあとズイッと僕の顔を覗き込む。
「気になるなら、見てみますか?」
「え、何を?」
「背中」
「門倉さんの?」
「そうです」
「見て良いんですか?」
「気になるようでしたら」
門倉さんが自身の背中を振り返る。光沢のあるロングスーツで覆われた門倉さんの背中は、上背がある人なだけあって随分広々としていた。適度に厚みのある身体は、腰に向かってキュッと細くなり、そのまま長い脚へと続いている。体全体が大きな滝みたいなシルエットの人なので、本当に噂通りの鯉がいるならさぞ見事だろうと思う。
「見たいです、せっかくなら」
「では、お見せできる場所に移動しましょうか」
そう門倉さんにエスコートされ、気付いたらどっかのホテルのベッドに居た。あれ、なんで僕ここに居るんだっけ。首を傾げる僕の前に、上半身がすっかり裸になった門倉さんが現われる。余分な脂肪のついていない身体は筋肉でぼこぼこしていて、よく見ると至る所にうっすらと古い傷が残っていた。暴として生きてきた身体はこんなに格好良いのかと惚れ惚れして、その上にある門倉さんの顔もとんでもなく美形なもんだからギョっとする。
門倉さんは僕と向かい合う形でベッドに乗り上がってきて、そのまま向かい合って僕をベッドに押し倒した。僕の視界にはいっぱいに門倉さんの裸があって、これはこれで見事なんだけど、背中は一向に見えない。
「あの、門倉さん、背中見えないです」
「顔を突き合わせているので、そうでしょうね」
「門倉さん、背中見たいです」
「梶様。ベッドに入ったばかりの人間に、『顔を見たくない』とおっしゃるのは少し無慈悲ではありませんか?」
そうなんだろうか。そうなのかもしれない。
別に僕は門倉さんの正面から目を背けたいわけではなかったので、苦笑する門倉さんに「貴方の顔が見たくないわけじゃないんですよ」と弁明をした。
すると門倉さんは苦々しかった表情を緩やかに解いて、
「それは良かった」
と僕にキスをした。
なんでキスをしたんだろう。目をぱちくりさせる僕に、門倉さんはもう一度唇と落とすと「顔を合わせているのだから」と言う。そうか。顔と顔を突き合わせているんだから、キスをするのは当たり前なのか。
次に門倉さんは僕のシャツに手を伸ばし、「貴方も脱いでしまいましょう」とシャツのボタンを外していく。
「どうして脱ぐんですか」
そう尋ねると、門倉さんは「私も脱いでいますので」と返した。確かに門倉さんは裸だ。片方は脱いでいるのに、僕だけずっと服を着っぱなしというのもフェアじゃないのかもしれない。門倉さんの手が丁寧にボタンを外していって、僕もたちまち裸になった。
空気に触れて、お腹の辺りが肌寒い。「寒いです」と素直に訴えたら、門倉さんが「では温かくなりましょう」と身体をゆっくり倒してきた。
門倉さんの裸が僕の裸と重なり合う。体重をかけないように気遣ってくれていたから、ただただ体がじんわり温かくなっただけで、門倉さんの体重で潰れるなんてこともなくて、なんだか温かさにホッとした。
「あったかくて、なんか安心します」
「それは良かった」
「ねぇあの、背中は?」
「背中を見せようとすると、身体を離してしまうでしょう?せっかく温かくなったのにまた冷えてしまいますから、もう少し後にしましょう」
なるほど確かにそうだ。今はお互いの身体で暖を取ることの方が優先で、背中を見たって寒かったら、せっかくの鯉が寒々しい水中の生き物にしか見えないかもしれない。
そうこうしているうちに門倉さんの手が僕の身体を撫でて、お腹から腰、腰からズボンの中へと入って来た。
「わ、わぁ。門倉さん、どうしてそんなとこ触るんですか?」
ビックリする僕に、なんでか門倉さんは僕以上にビックリした顔をする。
「体温を分け合っている間に出来る暇潰しなど、これ以外に門倉は思いつきません。逆に伺いたいが、梶様は他になさることがあるのですか?」
予想外だった。逆に質問を返されて、僕は言葉に詰まってしまう。
ぴったり体が重なり合っている今は思った以上に動ける範囲が限定されていて、視界も門倉さんでいっぱいになっているから、門倉さんと一緒に何かをする以外に時間を潰す方法がない。
喋っていれば良いじゃないかと思いもしたが、僕と門倉さんの共通の話題はそう多くないし、何より僕には門倉さんを楽しませるだけの話術が備わっていなかった。門倉さんが沢山気を遣ってくれたら、まぁ会話だけでも暇潰しは成り立つだろうけど。でもそんな門倉さんに負担を強いる提案を、門倉さん側は他の暇つぶしが思いついているにも関わらず言うべきなんだろうか。
「ええっと、他にすることは、無い、です」
「そうですか。ならば、私の案を進めましょう」
「はい」
「痛かったり、恐ろしいと感じるようなことがあれば遠慮なく申し付けてください。この門倉、貴方に手酷い真似はしたくないのです」
「はい」
「あと、そうですね。心地よい時も口に出してください。苦痛は少ないほうが良いが、悦びは多いほうが良い」
「はい。ぁ、あ。かどくらさん、いま、それ、ここちいいです」
「そうですか。では、このまま心地よさを増やしてしまいますね」
「あ、ん、おねがい、ぁ、します。ぁ、ぁ、あ」
あ、あ、と声が出はじめた僕は、そのまま沢山の声を出して、門倉さんがたっぷり増やしてくれた心地よさの中に埋もれていった。
少しだけ痛いときと怖いときがあって、でもソレは正直に門倉さんに言ったらすぐにどっちも消してもらえたから僕の記憶にはあんまり残らなかった。僕は門倉さんとぴったり体を重ねたまま温かくなって、途中からは温かいを超えて暑いとまで感じてしまった。
「かどくらさん、あ、あん。汗、出てきちゃいました。身体を離したいです。ぁ、あ、ん、ん。あと、背中も見たいです。ん、ん」
お願いする僕に、額にじんわり汗をかいた門倉さんは緩く首を振った。
「いまは中に物が入っています。なので離れることはできません。私の背中が気になりますか。なら手を回して触れても良いんですよ」
ほら、と門倉さんが僕の腕を背中に誘導してくれる。筋肉が綺麗についた背中の感触が掌に伝わってきて、彫ってある箇所って何も無いところと感触が違うのかな、と僕は手が届く範囲を全部触ってみた。門倉さんの背中はどこもすべすべして気持ちが良い肌をしていて、でも感触の違いは特に分からなかった。
肌を撫でている間に、下の方から頭が真っ白になるような衝撃が突きあがってくる。とにかく凄くって、僕は何が何だか分からなくなって、背中を撫でていた手で思いきり門倉さんの背中を引っ掴んだ。
声が出て涎も出る。僕は「こわい」と門倉さんに言い、門倉さんはこの時だけ「その恐怖は、怖いものではありませんよ」とやんわり僕を否定した。
そんな訳無いよ、これは恐怖だよ。僕は門倉さんに反論しようとしたけど、門倉さんが大丈夫やからね、とキスをしてくれたら本当に途端に大丈夫になってしまう。僕は門倉さんの背中に手を回したまま、門倉さんの真正面とずっと触れ合い続けた。心地いい、心地いい。
気付けば時間が経過していて、気付けば僕はベッドでくったりしていた。
門倉さんは名残惜しそうに僕から体を離し、「たいへん可愛らしかったですよ」と僕の頭を撫でた。
「あの、門倉さん」
「はい」
「僕はあの、門倉さんとえっちをしてしまったんでしょうか」
「そうですね。貴方を私はいま抱いたことになるかと」
やっぱりそうなんだ、と頷いたら「一般的にはそうですね」と同調された。不思議だ。僕は門倉さんの背中を見るだけだったはずなのに、なんでか門倉さんとえっちをしてしまった。
「あっ、背中」
「あぁ、そうでしたね、背中」
「ええっと、鯉、そう、鯉ですよ。居るんですか?噂じゃ、大きな鯉がいるって」
「良いですよ。どうぞご覧ください」
ベッドから起き上がった門倉さんが、水に手を伸ばしがてらくるんと後ろを向く。ようやく見た門倉さんの背中。手探りではどうにも彫られている箇所が判別できなかった肌の綺麗な門倉さんの背中が、僕の目の前に現れた。つるんと真っ白だった。ほとんど何も無いただっ広い門倉さんの背中の上の方に、ひっかき傷が数本、血を滲ませて走ってだけいる。
「噂など当てにはなりませんね」
口をあんぐり開けている僕に、門倉さんが水の入ったペットボトルを渡してくれる。水分はちゃんと摂らないかんよ、と忠言してくれた門倉さんは、僕が呆然としたまま固まっているもんだから、仕方ないねぇって顔をして僕に口移しで水を飲ませ始めた。