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「えっオイスターソース!? 味噌汁にですか!?」

 ギョッとする隆臣に対して、先日彼の義母になった美玲は「そうよぉ」と朗らかに返す。日頃食卓を預かっている主婦がいちいち毎日の味噌汁で分量など計ろうはずもないので、今回の隠し味も美玲はまぁこれくらいかな、と感覚的に味噌汁の中に投入していた。隆臣は新調したノートに慌ててオイスターソースと殴り書き、「量はあの、今のってどれくらい……?」と控えめに探りを入れる。「うーん、小さじ一?」と美玲は答えるが、どう見ても先ほどのオイスターソースは大さじ一以上注がれていたように思えた。

「初めて見ました味噌汁にオイスターソースって。いや、これって普通なんですかね? すいません、ちょっと家で味噌汁出たこと無くて」
「どうかな~? 他のお家は分からないけど、ウチはおばあちゃんの代からずっとこうよ。安い出汁パックでもコクが出て良いのよねぇ」

 そう言って美玲が引き出しから取り出したのは、意外なことに、独り身時代の隆臣でさえ手に取ったことがあるごく一般的な出汁パックだった。大抵のスーパーに置いてあるソレは値段も味も特筆すべきところのない平凡な商品で、企業努力は感じるものの、あくまで『及第点の出汁がとれる』程度の代物だ。

「能輪家の出汁、これ?」

 以前食べた美玲の手料理を振り返り、隆臣は出汁パックと美玲の間で視線をウロウロさせる。
 世話好きの美玲は自分の息子になる前から何かと隆臣を気に掛け、能輪家に彼が訪れた時など沢山の手料理で隆臣をもてなしてくれた。一目で手間暇がかかっていると分かる美玲の料理はどれも美味であり、隆臣は美味しい美味しいと腹に収めながら、頭の片隅で『これを僕今後巳虎くんに期待されるのかぁ……』と途方に暮れたものだ。

 実際は隆臣よりも巳虎のほうが多く台所に立っているし、「お前の飯なんてハナから期待してねーよ」と憎まれ口を叩きつつも巳虎は隆臣の失敗した料理を必ず完食してくれる。料理のプレッシャーは杞憂で終わったはずだったが、ここに来て弘法筆を選ばずを思い知ってしまった。
 てっきり高級スーパーの高級出汁パックだからあんなに美味しいんだと思ってたのに……。気まずさから視線を落とす隆臣に、心情を察したらしい美玲が「ヤダ、違うわよっ」と慌てて口にする。

「いつもは確かにコレだけど、貴方がお家に来てくれる時は張り切って料理するから出汁も鰹節とか煮干しで一から取ってるの!」

 だから貴方が食べてた味は特別! と美玲。見栄を張ることも過剰に謙遜することもしない義母の真っ直ぐな人柄が眩しく、隆臣は卑屈な自身を恥じるように「そうだったんですね、ありがとうございます」と苦笑いを浮かべた。

「でもちょっとだけ納得しました」
「納得?」
「巳虎くん、外で味噌汁を食べると毎回微妙な顔するんですよ。味噌汁ってこんな味だっけ? って。この前なんて自分で作ったやつにも首傾げてたんです。てっきり僕が買ってきた調味料が悪いのかと思ってたんだけど……」
「あぁ~そういえば巳虎にお料理の味付けって手伝わせたことないかも。ヤダわあの子、小さい頃から食べてるのに実家のお味噌汁に何が入ってるのか分かってないなんて」

 お恥ずかしいわぁ、と美玲が顔をしかめる。息子と並んでも姉弟にしか見えないほど若々しい彼女だが、こういった所はやはり母親だった。今までの溌溂とした雰囲気を一新し、美玲は神妙な面持ちで長身を屈めると「実際のとこ、どうなの?」と隆臣の顔を覗き込む。

「どう、っていうのは?」
「お家のなかでよ。巳虎、ちゃんと家のことはやってるの? 貴方に押し付けてばかりにしてない?」
「そんな! 押し付けるなんて!」隆臣が弾かれたように否定する。「むしろ小さいことにも気が付くしマメだし、僕の方が迷惑かけてるくらいですよ。僕けっこう雑なんで、掃除とか見える場所しかやらないんです。だから綺麗好きな巳虎くんによく怒られちゃって……」
「良いのよ掃除なんて普段は適当で!」

 視線を落とす隆臣に対し、美玲は拳を握りしめて力強い口調で言った。
 キャリアウーマンと立会人と主婦を同時進行する美玲は常から多忙を極めており、必然的に彼女は効率と合理性の鬼と化している。確かに美玲ほど忙しい人物なら掃除に時間を割いている暇も無いのだろう。「人が来る時だけ頑張れば良いの!」という言葉の通り、かつて落ちた髪の毛の一本も見当たらなかった能輪家は、隆臣が親族となり家に出入りする頻度が上がってからというもの、時折脱ぎっぱなしの上着や、飼っている大型犬のオモチャがリビングに散乱していた。

「貴方が雑なんじゃなくて、巳虎が細かすぎるのよ。本当、巳虎ってなーんか気難しいっていうか、短気だし神経質で……お父さんのダーリンはあんなに天真爛漫なのに、どうしていつもあの子はカッカしちゃうのかしら?」
「あーアハハ……」

 父親を反面教師にしたからじゃないでしょうか。
 反射的に出かかったアンサーを飲み込み、隆臣は寸でのところで言葉を愛想笑いに挿げ替える。実の息子のように接してくれる愛情深い義父を悪く言うことは憚られたし、何より優しい義母が唯一激昂するとしたら、ソレは彼女が配偶者を侮辱されたときなのだ。触らぬ神に祟りなし、処世術が身についた隆臣はあえて話題を避けた。

「でもあの、巳虎くん優しいですよ。家ですっごく。楽しくやってます」

 代わりに隆臣は、両方が気分良く過ごせる話を美玲に振る。
 世間一般的に、母親というのは息子を褒められると喜ぶ生き物らしいのだ。隆臣の実母は息子の話題を出されると「ごめんなさいねぇこんな出来損ないで」と隆臣を落とすことに躍起になっていた為いまいちピンとこない感覚だったが、美玲の場合は世間の感覚が合致するようで、大きな目を見開いた彼女は「えっ、本当!?」と瞳を輝かせた。

「優しいの巳虎!? えっ、やだ、優しいのねあの子! やだぁ! どういう所が? ねぇねぇ、優しいってどんな所なの? 例えば?」

 隆臣の手を取り、美玲がぐいぐいと顔を隆臣に寄せてくる。義母とはいえ美しい女性にこうも見つめられては心臓が高鳴ってしまい、隆臣は途端にたじたじになって「ええっとぉ……」とエピソードを探すフリをしてさり気なく体を引いた。

「例えばこの前、僕、貘さんのホテル……だからえっと、一応ポジション的には実家になるのかな? に、二.三日帰ってたんですけど、その時に巳虎くん、送り迎えをしてくれて」
「うんうん」
「行く時と帰る時、どっちも車から降りて貘さんに挨拶してくれたんですけど」
「うんうん!」
「……巳虎くん、何にも言わずにお土産を用意してくれてたんですよ。行くときは三人で食べるようにって僕の好きなお菓子で、帰る時は貘さんとマルコに、お世話になりましたって焼き菓子の詰め合わせを」
「あら、気が利くようになったじゃないあの子!」

 美玲が破顔する。やるじゃーん、とこの場に居ない息子を褒める美玲を見届けて、隆臣は「それでですね」と勿体ぶった口調で本題に切り込んだ。

「こっからが、すごく僕が嬉しかったことなんですけど。最初のお土産を渡す時にね、巳虎くん、貘さんに頭を下げたんです。『いつも隆臣君には良くしてもらってます』って。それだけでも十分なのに、続けて巳虎くん言ったんです。『いつも俺を気遣ってばかりで、日頃は気が休まってないと思うんです。貴方の元では、ゆったり過ごさせてやってください』って」

 隆臣の脳裏に、深々と下げられた巳虎の後頭部が甦る。父親譲りの赤みがかった髪が、あの時は普段より随分低い位置にあった。貘はポカンとしていたし、その隣に居たマルコは「巳虎なんで謝ってる? 悪いことしたか?」と不思議そうにしていた。隆臣だけが、駆け寄りたくなる気持ちを抑えてニコニコしていた。
 まさかあの能輪巳虎が頭を下げるとも、隆臣のために己の性格を顧みるとも想像していなかったのだろう。話を聞いていた美玲はポカンと美しい顔を呆けさせ、何時かの貘よろしく、背中に宇宙を背負ったまま「それ、巳虎が言ったの?」と信じられないと言った口調で隆臣に訊ねる。

「そうですよ? いかにも巳虎くんが言いそうでしょう?」

 ちょっとした悪戯心が芽生え、感情が置いてけぼりをくらっている義母に対して隆臣はしたり顔で返答した。
 いつの時代も子は親の目が届かない場所で成長するものだ。美玲の中では未だにすぐカッカとなりやすい巳虎も、既にソレは彼を構成するほんの一部の要素に過ぎず、母親の知らない表情を巳虎はいま配偶者の隆臣に見せている。
 おそらくは両親といういちばん身近な夫婦が仲睦まじい二人であったからだろう。幸か不幸か、あるいは意図的か無意識か、家庭内で過ごす巳虎は拍子抜けするほど隆臣に甘かった。辛辣な物言いは相変わらずだが、言葉の厳しさに行動の柔らかさがいつも伴っていないのだ。むしろ辛辣な語彙は能輪巳虎におけるキャラ設定の名残いった具合で、親愛の表面を上滑りしていく言葉だけの冷たさが、隆臣にはヘンテコに映ったし、素直に可愛く思えた。

「巳虎くん、ちゃんとダーリンしてますよ。美玲さんと紫音さんを見て育ったから」

 未だに美玲の周りには宇宙が広がっていて、隆臣の言葉が彼女にきちんと届いているかは疑問である。別にまぁ、今はピンとこない話であっても、今後の二人を見ていたらきっと美玲や紫音も思い知ることになろうとは思うのだ。ただ隆臣は、あえて言葉を重ねることにした。
 だって癪ではないか。義両親はこれほどまでに仲の良さを周囲に見せつけているのに、新婚家庭の自分達がギクシャクしていると思われては。
 能輪夫妻は今日も幸せな毎日を送っている。自分達だってそうだ。本流から逸れた郊外の二LDKで、能輪の分流だって負けず劣らずベッタベタにイチャこきながら楽しく過ごしている。

「美玲さんにとっての紫音さんなんです。巳虎くんは。ちゃんと僕の天使」
「え、そんっ、や………やだぁー!!」

 ちょっとやりすぎなくらい惚気を披露してみたところ、美玲の口からは本日一番のやだー! が飛び出した。隆臣は少しだけ正気に戻って照れ笑いを浮かべ、リビングで寝転んでいた能輪家の愛犬は美玲の大声を聞きつけ『何事か』と慌ててキッチンに駆け付ける。キリリと精悍な顔をしたドーベルマンは、一応普段は優秀な番犬であるらしい。ただ懐いた相手に対してはその限りではないので、最近よく家に来る遊び相手を駆け付けたキッチンに見つけ、犬は『なんだお前じゃん!』と尻尾を振った。

 きゃぁきゃぁ楽しそうな美玲を尻目に、隆臣は能輪家の愛犬としばらく戯れて過ごす。話は違うが、一定の年齢を超えた女性というのはどうして感動した時に「やだ」と口にするのだろう。『母さんも変な人だったけど、普通のお母さんも普通のお母さんでなんか変だ』。そんな失礼なことを思っていた隆臣に、ようやく気持ちがひと段落したらしい美玲が高揚した頬を両手で抑えて「うふふ」と笑いかけた。

「息子たちの惚気を聞いちゃった」
「すいません、調子乗りました」
「どうして謝るの? 巳虎が天使なことは私も知ってるわ。ダーリンには負けるけど、あの子もとっても可愛いもの」
「負けますぅ?」
「なによ。そこは勝負にならないわ」
「えぇー?」
「んふふ。ねぇねぇ、隆臣」
「はい?」
「貴方も、私の天使よ」

 私の新しい坊や。 
 一瞬反応に遅れた隆臣が、美玲の言葉を反芻してじわじわ顔を赤くしていく。え、え、と言葉にならない音を繰り返す隆臣に微笑し、美玲は「ママを出し抜こうなんて百年早いわ」としたり顔を返してやった。

「さ、じゃぁ気を折り直して次は茶碗蒸し作りましょっか!」
「え、あ……は、はい!」
「冷蔵庫からマヨネーズ出してくれる?」
「だからマヨネーズは何に使うんスか!?」