―――紅茶のおかわりは?
言われた梶は、(本当に金持ちってお茶のおかわり勧めてくるんだ)と思った。
嘘みたいな豪邸で、映画のセットを疑いたくなるようなアフタヌーンティーを頂いている。本部で偶然出会った切間創一に「チャーシバキイカヘン?」というトンチキ極まりない誘われ方をして、「なんすかソレ。まぁ良いですけど」と軽い気持ちで頷いたらこのザマだった。軽率に頂点の血族のお誘いに乗った自分も悪いが、あんなふざけたお誘いで切間本邸へと梶を招き入れた切間もどうかしている。梶は美味いんだか不味いんだかも分からないやたらと芳しい液体を流し込み、空になったティーカップを「よよよ、よろしくお願いします」と切間に手渡した。
「別に飲み干してから渡さなくても良いよ。飲み会のビールじゃないんだから」
切間は手ずから紅茶を注ぎ入れ、近くに控えてあった蓋つきの陶器を開ける。てっきり砂糖が入っていると思っていたそこには生花が千切って用意されており、梶がギョッとしている間に二枚、赤と黄色の花弁がテーカップにひらりと落とされていった。
「はい、どうぞ」
「花びら浮いてる……」
「食用だから口に入っても害はないよ。気になるんなら飲む前に避けて。次からは入れない」
「僕なんかの為に千切られて、は、花が可哀相では……」
「君ってオムライスを見て『ヒヨコさんが可哀相』って言うタイプ? へぇ。知らなかった。可愛い感性をしてるんだね」
さらりと言われ、この短期間にまた梶はギョっとして切間を見る。聞き間違いでなければ、今自分は切間創一に『可愛い』と形容されたようである。そんな馬鹿な話があるかと普段なら笑い飛ばすところだが、現状目に映るもの全てが『そんな馬鹿な』で構成されているので一周回って梶の空耳も現実味を帯びていた。
「今可愛いって言いました?」
もはや何も恐れることは無いので梶は素直に聞いてみる。
「言ったよ」
対する切間は、まぁこちらは元からこの世に恐れているものなど多分存在していないので、いつも通りの表情だった。
「言ったんですね」
「うん、言った」
「あの、ご存じだと思うんですけど、僕は別に可愛くないです。オムライス食べる時も普通に食います。大盛りで。食べる前にヒヨコに思いを馳せたことも特にないんで」
「まぁ良いんじゃない? オムライスになるのは大抵無精卵だから、生んだ側の鶏も悲しまれたところで困ると思うし」
「はぁ」
「別に思いを馳せなくとも君にはオムライスを食べる権利がある」
「あ、そ、そうですか……はぁ……あ、ありがとう……ございます?」
不思議な所を梶は切間に赦された。別に梶はヒヨコに心を砕かない己の非情を懺悔したわけではなかったが、切間はメレンゲクッキーを一つ口に放り込むと「これからも思う存分大盛りで食べると良いよ」と梶に助言する。はぁ、まぁ、そんなこと言われなくても大盛りで食いますけど。梶は切間にそう噛みつきたかったが、上手いこと唇が動いてくれなかった。切間は相変わらず優雅な仕草でアフタヌーンティーを楽しんでいる。梶は自分だけがあくせくしていることがどうにも悔しくなり、目の前のマカロンを咄嗟に手にすると一口で咀嚼した。
「マカロンが好きなの?」
「ふぁい」
すかさず切間が会話を振ってきて、梶はもごもごしながら頭を縦に動かす。本当はマカロンなんて初めて食べた。存在は知っていたが味の見当はとんと付いておらず、歯を入れた途端予想外に脆い外殻とぐんにゃりした内側の生地のギャップに目を瞬かせたくらいだ。
切間に聞かれた段階では、まだ梶は味の判別さえ付いていなかった。梶の返答を受けて「そうなんだ」と切間が反応する頃になってようやくどういった味わいの菓子であるかが分かり、「だったらもう一つどう?」と勧められた時にやっと『思ったより美味いなマカロン』と評価が下ったレベルである。
マカロンが好きかどうかの判断は、梶が切間から二つ目のマカロンを受けとった時もまだ付いていなかった。味の美味い不味いはともかく、好き嫌いの判断などそんな一瞬でつくものではない。
マカロンが好物になり得るかさえ梶はこの瞬間で決断出来なかった。そんな具合だしそんな梶なので、マカロンを手渡してきた切間が唐突に「どうも僕は君が気になってるみたいなんだ」と切り出してきても、やっぱり判断も決断も出来ずにフリーズしてしまった。
「ど、え……ど?」
「気になってる。君が。恋をしかけてるって言った方が良い?」
目を白黒させている梶に切間は容赦なく言葉を重ねた。
せっかく美味いもの認定したマカロンの味が早々に分からなくなり、梶はぐんにゃりとしたマカロンの生地を味のしなくなったガムを噛むように無意味にくちゃくちゃと噛みしめる。頭の隅っこで(まぁ『茶ァしばきいかへん?』って関西じゃナンパの常套句っていうしな)と少しだけ納得しかけるが、すぐさま同じ脳内から(いや何で切間創一が関西風にナンパしてくるんだろおかしいだろ)と反論が上がるし、脳内のその他の細胞も後者の意見に賛同していた。あぁやっぱり意味が、意味が分からない。切間創一は今何を考えていて、彼は梶隆臣に一体何を求めているのだろう。
「いやあの、切間さん。あの、意味が……え、な、なに言ってるんですか? いくら僕が貘さんと親しいからって、そんな……」
「ごめん、そっちこそ文脈が分からない。何の話をしているの君は? どうしてそこで貘さんが出てくるの?」
貘の名前が出ると、切間は矢継ぎ早に梶に問い、少しだけ形の良い眉をひそめた。切間が表情を崩す場面に遭遇したことが無い梶は、切間の表情を見るなり不思議と冷静な気持ちで切間の本心を察する。
いきなりこの場にいない人間の名前を出されて、言うに事欠いて『親しい』などと言われたら片想いをしている人間はそりゃぁ思う所があるだろう。梶にだってそれくらいの想像力はある。あるが、そこから先の感情はあまりに未知数だった。
梶は己の発言が軽薄だったことを一旦切間に詫び、改めて目を見開いて、うろうろと視線を揺らしながら話し始める。
「いやだって、僕は貘さんのもので、貴方は貘さんの親友じゃないですか。だからその、貘さんのものだから切間さんも僕に興味を持ったのかなって」
「人の物は所詮人の物であって、それ以上でもそれ以下でもないよ。君は現状僕のものじゃない。それだけ。貘さんが介入する場面じゃないでしょ」
切間の口調は一貫して“君は何を言ってるの”と梶の感覚を疑うかのようなものだった。どうして梶は自身の困惑を切間に不思議がられているのだろう、おかしいのはこの場合梶なのだろうか。
先日までの切間とのやりとりを思い返しても、険悪な雰囲気こそなかったにせよ、梶には恋愛が始まる予兆があったとはとてもじゃないが思えなかった。切間と梶が個人的な会話を楽しんだ記憶などほとんど無く、二人の関係には今この瞬間さえ必ず誰かの存在が間に挟まりチラついている。
「……どうして僕を」
分からないことが分からないことを呼び、梶はいよいよ豪華なテーブルセットの上で体を縮こめた。切間創一がずば抜けて頭の良い人間で、完全無欠な彼に性能として自分が遠く及ばないことは梶も自覚している。だが、だからこそ、己よりも遥かに賢い切間には疑問を解消する義務があると梶は思った。
梶には何故切間に自分への感情が生まれたのかも、切間がその感情を排除するのではなく育む決断をしたのかもわからない。梶の「どうして」は、説明の要求というよりある種懇願に近かった。何も分からないから貴方だけでも感情を言語化してほしい。
そう梶は願い言葉を絞りだしたのに、当の切間はハッキリと「さぁ?」と口にした。
「さぁ? どうしてかな。分からない」
「え、えぇ?」
「不思議な感覚だよ。言葉に上手く出来ない。なんだろうね恋って」
切間側から投げた恋という単語である。梶にとっては途方もなく強大で難解な感情を、しかし切間本人は現時点で『言語化が不可能』と簡単に整理し、謎の思考xとして唯々諾々と受け入れていた。
梶はあんぐりと口をあけて驚愕する。切間がどうして分からないを分からないままにしていられるのかが分からない。自分の感情に理由が付かないなんて梶でさえ怖いのに、まして全知全能に近しい存在の切間にとって、分からないとは、それこそその感情自体が未知のものではないのか。
梶には相変わらず切間が理解出来なかった。ただ一方で、あの切間創一が自分を元凶として未知の感覚に振り回されている事実には―――単純だろうか。正直ちょっとだけ、ドキドキした。
「分からないけど、恋ってそういうものだって聞いてるから。だからまぁ、説明が付かなくても、恋の存在を自覚したならそれで良いんだと思って君を誘ったんだ」
切間が青みがかった瞳で梶を見る。無邪気だとさえ感じる澄んだ眼差しに梶は言葉を詰まらせ、(だからってチャーシバカヘン? は無いでしょ)という真っ当なツッコミは内心で叫ぶに留まってしまった。
「……もしかしてなんですけど、これって切間さんの中でいうデートだったんですか?」
「どうだろうね。そもそもデートって存在とか言葉の意味が曖昧すぎると思う。それは何を指して、何が目的で、何をもって成功と定義するの?」
君は知ってる? と切間が唐突に梶に投げる。なんてことを尋ねてくる人だろうと梶は瞠目し、ギャンブル以外で初めて、梶はこの完全無欠の生き物の脳内を割って見てみたいと本気で思った。梶には恋愛経験が無いし、仮に豊富だったとしても、唐突に片想いを宣言してきた相手に明確な答えが用意できるとは思えない。
「そんなん、分かるわけ無いじゃないですか」
少々の恨み節も混ぜて梶は正直に首を振る。あっそう、と切間は素っ気なく返し、かさの減ったティーカップに自分で紅茶を注いだ。
「じゃぁ梶隆臣がここを去る前に、君にキスが出来たら成功にするよ」
は、と梶が声を漏らし、握力を失った手からティーカップが滑り落ちる。カップは運よく何も無い空間に落ち、テーブルクロスにシミを作っただけで終わった。切間はチラと梶の服を確認する。そうして彼の服に紅茶の跳ね返りが無いことを確認すると、紅茶に濡れたティーカップを持ち上げて「紅茶のおかわりは?」と梶にたずねてみせた。