世界の勢力図が一変したその日。梶は恐る恐る入った馴染みの定食屋で、店員のおばちゃんに「今日もから揚げ定食? アンタはもー! たまには野菜も食べなさい!」といつもと変わらぬお節介をかけたことに安堵した。
表裏一体という言葉があるが、案外表と裏を隔てる壁は厚い。
裏社会の権力が一組織・たった一人の人物に集約されてしまった本日も、表の世界は昨日と変わらない速度で回り、大抵の人間は自分が誰かの支配下にあるなど実感することもなく生きていた。
想像以上に世界が何も変わらなくて、梶は「こんなもんなのか」と辟易するし、同時に「でも良かった」と胸を撫でおろす。貘が掲げる“絶対悪による世界平和”の成就は梶としても心から望んでいるものだったが、それと同時に懸念していたのが、斑目貘の権力の浸透に付随する己に対してのワールドクラスな腫れもの扱いだった。裏社会における待遇が表の世界にまで波及したら目も当てられない。斑目貘のパートナーとして専ら存在が定着してしまった梶は、行く先々で顔色を窺われ、挙げ句本人が気にも留めないような些細な粗相で「どうかこのことはマダラメサマには」と相手に命乞いされる始末である。梶は基本的に他者に対して寛容だし、気に入らないことがあったといってすかさず告げ口するような性分でもない。大体貘だって、そこまで梶に対して過保護なわけでは……いや、うーん、どうだろう? 過保護ではあるかもしれない。ただ、悪意を以って梶を傷付けたわけでないのなら、彼もわざわざ過度な罰を与えるようとはしないだろう。
結局のところ斑目貘の悪名と溺愛だけが独り歩きして、寵姫(ゾッとする言い方だがこれより的確な言葉がない)梶隆臣が宙ぶらりんになっている、というのが裏社会の現状だった。紛うこと無き惨状である。ただでさえどうにかしてほしい事態なのに、これが表社会でも同様に発生した日にはいよいよ梶も貘との外出を控えるかもしれなかった。
梶は、斑目貘を愛し支えているだけの一個人である。右腕の誉も正妻の揶揄も受け入れているが、『愚王の寵姫』にだけはなった覚えがない。
きっと本来、世界中の権力を掌握出来るような男が愛情まで一点集中させてはいけなかったのだ。斑目貘は勢力が拡大した今もプライベートは狭く深い交友関係を好み、相変わらず梶とマルコを最小単位としたコミュニティの中でのんびりユルユルと『貘さん』をやっている。梶の目に映る貘は出会った頃からほとんど人柄が変わらない。優しくてお茶目で、一度生まれた絆を決して手放さない人物だ。
時が経とうと近しい相手への敬意と感謝を忘れない貘は、ただ梶に注ぐ慕情だけは、勤続年数に応じて上がる給料のように毎年律儀に上乗せされている気がする。
言ってしまえば、その一途で健気な貘の性分が昨今の梶の待遇を生んでいるのだろう。おかげで今や梶を語る二大文句は「悪魔の右腕」と「支配者の妻」であり、そろそろ年齢もオッサンに差し掛かっているというのに、梶は出会う奴ら全員に「あぁ梶様! 今日も麗しい!」なんて言われている。おいおい、なんてことに巻き込んでくれたんだよ貘さん。ほんの数年前まで名もなきフリーターとして生活費でパチンコを打っていたというのに、今や梶は現代における楊貴妃だ。
自分が楊貴妃。
うーん、頭が痛い。
「僕このまま教科書にクレオパトラとか楊貴妃と一緒に名前が並んだらどうしよう。世界を傾けた男なんて絶対言われたくないんですけど。傾けてねぇし。マジで仕事は今後も全力でやってくださいね貘さん。目標達成したから僕と一緒に過ごし放題イエーイなんてダメですよ。ダメ絶対! 英雄色を好む!」
びし、と梶が貘を指差して言う。事情を知らない人間が聞けばさぞ滑稽な台詞に聞こえるだろうし、梶自身も『なんだこの身の程知らずな台詞』とカーブミラーに映る己の凡庸な顔立ちを見て思うが、連れ立って歩いていた貘はさして戸惑う様子もなく「梶ちゃんがそこに並ぶのは見たいけどね」と最早彼の立場では冗談に聞こえないジョークを飛ばした。
「英雄色を好むってなんか意味が違う気がするけど、つまりそれって“色に溺れるなよ”って意味? うーん、俺が色に溺れるには梶ちゃんの協力が要るからなぁ。梶ちゃんがシーツの中から俺の足を引っ張んないなら杞憂だと思うよ」
貘が断言する。相変わらず年を重ねても意味が分からないほど若く美しい男なのに、日頃の行いが行いなので、そんな胡散臭い台詞ですら十分に説得力があった。
「シーツの中からかぁ……あ、やっべどうしよ。僕けっこう二回目とかおねだりしちゃってますね。あれは完全に足を引っ張る行為だ。溺死防止に今後は止めないと」
「えっちょっとなんでそういうこと言うの!? やだ! 今日だって沢山しようねって二箱買ったじゃん!」
「わー!!」
コンビニ袋を掲げた貘に対し、慌てて梶は周囲の目から袋を隠すように彼に飛びつく。白いビニールの袋から、うっすらと『0.02㎜』の文字が透けていた。最近のコンビニは経費削減なのかコンドームを茶色い袋に入れてくれないようで、おかげで会計が終わったあと、ほぼ丸見えなコンドームのパッケージを見た梶は「スイマセンこれも追加で!」とレジ横のみたらし団子を目隠し代わりに追加購入していた。
世のなか三年も付き合えば大抵のカップルはマンネリやセックスレスに悩むものだが、こと貘と梶においては、性生活の充実度はむしろ近年増してさえいた。というのも、この数年で貘の身体に本来の心臓が戻り、かつてのように彼の身体に定着したのだ。ようやく虚弱体質から抜け出した貘はタカが外れたように梶を求め、梶もいい歳した大人が何をしてるんだと自虐しつつも腰に足を絡ませる仕草をやめられなかった。
そんな訳で、今日も帰ったら貘と梶は朝まで睦み合う予定である。祝賀会の日程をズラし、すっかり察しの良くなった弟分に「え? マルコの予定? 聞くってことは帰ってくるなってことでしょ!? 貘兄ちゃんったらいつもそうよ!」と糾弾されながら得た二人の夜だ。それはもう、思う存分満喫するっきゃない。
世界の勢力図を塗り替えた翌日も、貘は梶と過ごすことを選び、コンビニでコンドームを買い、不愛想な店員にビニール袋へ直接コンドームを放り込まれていた。
昨夜の、世界が切り替わるキッカケとなった大勝負を梶は思い返す。
不思議なもので、勝利の確信は貘が最後の一手を決める前から梶の中にあった。勿論常から梶は貘が勝つと信じているが、昨日はなんというか、もっと大きな理由に背中を押された気がしたのだ。
梶は勝負の途中、ふと、磁力に似た何かを肌に感じた。強い力に引き寄せられ血液があぶく立つような感覚は、力の向きを辿ると貘に続いていた。時代という方位磁石が、貘を次の北に決めたのだと思った。これからはこの人が世界の北極点になる。梶は悟り、事実世界はそのように制定された。
変な気分だった。そうして昨夜世界を掌握した男が、今日はコンビニでろくな敬語も使えない若者に「あ、レシート要らないです。はーい」と朗らかに対応している。いや、もともと貘は相手の地位によって態度を変えるような人間ではないし、だからこそ貘は梶を選び・梶も貘を愛したのだが、それでもやっぱり梶は不思議だった。文字通り世界を自分のものとしたのに、今日も斑目貘は、世界に居場所を間借りしているかのような慎ましやかさで生きている。
「貘さんって、欲がないですよね」
思わず呟いた梶に、貘は「そう?」と首を傾げ、含み笑いでビニール袋に視線を落とした。そういうことじゃなーい! とすかさず突っ込めば、貘は次にケラケラと声に出して笑う。
「俺にそんなこと言うのは、世界中で梶ちゃんくらいだと思うけどな」
「だって今の貘さんって世界で一番偉い……んーちょっと違う? 強い? 凄い? ヤバい? とにかく世界で一番の人になったのに、やっぱりコンビニ店員にありがとうって言うじゃないですか」
「そりゃ、レジ打ってくれた人にはありがとうでしょ」
「返事されませんでしたけどね」
「うん。ちょっと切なかった」
ビニール袋が揺れる。そこで怒りを覚えないところが貘らしい。
「凄いなって思うんです。そういうとこが変わらないのって、本当にスゴい」
「普通だと思うけど」
「世の中普通が一番難しいんすよ」
「まぁ、それはそう」
貘が頷く。俯き気味になった横顔は相変わらず壮絶に美しく、自分とは別のベクトルから普通になりきれない貘が、梶は無性に愛おしく思えた。
ビニール袋を持つ手に自身の指を絡ませ、梶は往来を男と2人、一見して深い仲と察せられる空気感を纏って歩く。道行く人々は2人の姿にギョッとし、時たま梶の耳には「えー勿体なーい!」という女性の嘆きが届いた。まだまだ世の中はこういった面でも変わらない。唇を一度だけ強く噛み締め、梶はパッと明るい青年に自分を戻した。
「僕、今日も貘さんが好きだな。嫌いになるとは元々思ってないけど、今日も貘さんは貘さんだ。世の中が変わっても貴方が変わらなくて、なんつうか、すごく嬉しいです」
「どしたのいきなり? 変わんないよ俺は。そんなことどうだって良いもん」
「そう言えるのが、やっぱり貘さんなんスよ」
「そう?」
「うん。惚れ直しちゃう。格好良いよアンタ。愛してる」
「ありがと。俺もね、梶ちゃんが好きだよ。ずっと好き。そうだねぇ、ほんとに何にも俺変わんないね。ずっと必死になって君に恋してる」
貘がそっと絡ませた指を解く。拒絶を誤解されないようにかニコリと梶に微笑んで、貘は高揚を足に載せるようにステップを踏み、梶の二,三歩先に立ち塞がった。
コンビニのビニール袋を片手に、お決まりの白いスーツが輝く貘は、その場でくるりとターンを決める。
「でも、世界は変わったよ梶ちゃん。ようやく言える世界がやって来たんだ」
振り向きざま意味深なことを言う貘に、梶は目をぱちくりさせた。
「何のことですか貘さん?」
「あのねかじちゃん」
「はい」
「俺、世界が俺のものになったら言いたいことがあったの」
「言いたいこと?」
「うん。俺ね、梶ちゃんと結婚したいの」
「んぇ?」
梶が聞き返す。寝耳に水とはこのことで、梶はケッコン、と言葉のみを復唱し、先程と同じように首を傾げた。
ケッコン。結婚。
多分婚姻のことだろう。マリアージュってやつだ。勿論梶に断る理由はない。ていうか実質とっくに配偶者っていうか、梶の異名なんて今や「支配者の妻」だ。
だからこそ反応に困る。今更結婚とは、どういう思惑だろう。
「えぇっと……」
言葉を詰まらせる梶を、貘は責めるでもなく穏やかに見つめてくる。仮にも結婚をほのめかして、仮にも難色を示されているにも関わらず、貘には焦っている様子が見受けられなかった。恐らく彼の側も、梶の混乱は想定していたのだろう。
貘との結婚に異論はない。異論はないが、疑問はある。
なぜ今更貘はそのようなことを言い出したのだろう。梶はもう貘から離れるつもりは無いし、そもそも紙切れ一枚が保証する権利や義務にもはや貘と梶が振り回されることはない。2人は既に法の外に飛び出すことも、逆に法を捏造して盾とすることも容易である。無茶苦茶な権利を有したからこそ、貘は今日から“絶対悪”を名乗るのだ。
「あの、結婚自体は良いけど、良いんですけど、あの、どうして?」
「あんね梶ちゃん。今日から俺たち無敵になったでしょ。もうどんな法律も差別も価値観も俺たちに勝てなくなった。出来ないことなんて無い。止められることなんて無い。全部思い通り。全部が俺たちの掌の上」
貘が掌を天に向ける。生まれつき色素が薄い貘は、皮の厚い掌でさえ淡く繊細な血色をしている。あの柔らかな桃色の手の上に、今や世界のあらゆる闇が乗っていた。なんだかチグハグすぎて梶の頭はこんがらがりそうだ。魔王の手というのはもっと大きくて棘があって触れただけで誰かを傷付けるものだと思っていたのに、実際の魔王の手は、梶隆臣の人生を始めて撫でてくれた手だった。
梶の目には何も変わっていない貘の掌は、空を向き、何かを掴むように握り込められた。
貘の目が梶を射る。
青く澄んだ瞳は、世界中の空と同じ色をしている。
「あのさ、だからさぁ梶ちゃん。俺たち結婚しようよ。もう形式に何の意味もないから、誰もお前ら結婚する理由ねえじゃんって思う今だから。結婚したい。俺ずっとね、好きだからって理由だけで、結婚したかったんだ、君と」
一言ずつ、噛みしめるように貘が告げた。プロポーズだ、と梶はぼんやり思い、次いで言葉の頭に、彼は『何の意味もない』とやっぱりふわふわとした頭で付け加える。
何の意味もないプロポーズを、プロポーズが持つありとあらゆる利権を掻き消した張本人にされた。
変な気分だった。思えば今日、梶はずっと変な気分を抱えている。
裏社会の勢力図が一新され世界は何もかも様変わりしたらしいのだが、梶の目に映る景色は変わらないし、梶が愛している人間も今日も今日とて変わらず愛しい。
難しい。分からない。梶の頭の中には絶えず「変わるってなんだ」「変わらないってなんだ」と哲学が駆け回り、イマイチ答えは出なくて、でも一つ、なんとなく今日を通して分かったこともあった。
「────きっとコレ、世界で一番要らない約束ですよ」
梶の足が前に出た。一歩、また一歩と進み、貘の目の前にやって来た梶は、握られたままだった貘の拳を両手で包み込む。
「だから僕は、いま世界で一番の幸せ者です」
カシャ、と乾いた音が地面でした。見ると、貘の手元にあったレジ袋が貘の足元に落ちている。
袋の口からコンドームが覗き、『ぎゃー0.02㎜』と梶は場違いに叫びたくなった。
日常の延長に未来は続いていく。この瞬間こそ途方もなくロマンチックだが、あと数分もすればロマンチズムは霧散して、貘と梶はいつもと同じくホテルに戻り、シャワーを浴びて、0.02㎜は予定通りしっかりと使用されるのだろう。
利益や権利が削ぎ落され、残ったのはほんの小さな約束だけだった。貘のしたプロポーズは、本質は子供同士の指切りに近かった。してもしなくても特に効力を発揮しない。好きな人に好きでいると宣言するだけの儀式は、所詮当人たちの自己満足の枠を超えず、しかしだからこそ、願いの純度が高いように思えた。
指切りをする子供たちが「ずっと好きでいよう」と指切りをするとき、彼らの胸にあるのは「ずっと好きでいたい」という願いだけである。幼稚で無責任なそれが大人の目にいやに尊く映るのは、きっと過酷な現実を前に、口約束がどれだけ脆弱であるかを大人になると自然に思い知ってしまうからだろう。脆弱で刹那的なものに無敵と永遠を見つけている。その無謀が尊いのだ。
結婚をすると、財産分与の権利が与えられる。手術に同意が出来る。世帯が同一になれば扶養に入ることも可能で、そうすると税金控除の恩恵が受けられ、一人で生きるより何かと都合が良くて便利だ。
結婚はまぁ、良いものである。
ただソレは、“好きだから一緒に居たい”の純度を、何の悪意も無いがほんの少し、濁らせてしまうと思うのだ。
「貘さん。まだらめ、ばくさん」
「はぁい。なぁに? かじたかおみくん」
「僕、貴方のプロポーズを受けます。貴方と結婚します。結婚しましょう。しなくても良い僕達だから、僕も貴方と結婚したい」
包み込んだ手の中で、あれほど余裕綽々だった貘の拳がようやく震え始めた。
いいの、と伺うように言う貘に、梶は「良いですよ」と返す。
「だって僕、貘さん好きですし」
「おれも、俺も君が好きだよ」
「知ってます」
「知ってたんだ」
「隠してたんです?」
「ううん、全然」
梶が手を離す。自由になった貘の手は案の定梶の身体を手繰り寄せ、梶は足元のコンドームを踏まないよう注意しながら貘に頭を預けた。上から貘の声が降ってくる。いつもと変わらない優しい声は、きっと明日も明後日も、変わらず優しい声なのだろう。
「君が好きだって、ただ好きだって。ずっと言ってた。ずっと言いたかった」
深い意味などはなく、単純に貘は梶が好きだった。人柄が好きだった。笑顔が好きだった。
本当にそれだけだったのに、どうもそれだけでは世の中は納得出来ないらしい。愛せば愛するほど貘は演技を疑われ、梶への愛情にどのような利益が生じるのかと、貘や梶を置いてけぼりに第三者が勝手に損得勘定をする始末だった。
そのことについて、珍しく貘は腹が立ったし、世の中のノイズが煩わしかった。ただ好きになることがそんなに信じられないのか。ただ好きになることはそんなにおかしなことなのか。否定される苛立ちは、いつからか貘が現状をぶち壊す理由の一つに育っていく。
“「ただ好き」なんてあるわけない”
あーソウデスカ。そう思うんデスカ。だったらいいさ。お前らが言うメリットもリターンもかき消して、「ただ好き」って理由じゃないと説明できないような状況にまで登りつめてやる。
世界はまだ彼らのような人間に優しくはない。しかし、貘と梶を『彼ら』だと認識した上で面と向かって非難出来る人間はもうこの世に存在しなかった。全ての人間は彼らを祝福しなければいけない縛りを付けられた一方で、彼らの行動を縛る術は世界に無い。好きだからなんていう拙い理由ひとつで世界を渡り歩いても良い。子供の口約束を実現するだけの現実を、貘たちは自らの力で手に入れたのだ。
歩みたい道を歩みたい人と進む。願いは、シンプルであるほど叶えることが難しい。
貘と梶の毎日は多分これからも変わらないだろう。現状維持を好む少々閉鎖的な彼らは、相変わらず相手が近くにいるだけで満足だし、態度の悪いコンビニ店員にも「ありがとう」と言う相手に毎度律儀に感動して律儀に惚れ直す。彼らはどれだけハイグレードなホテルに泊まったってベッドは一緒が良く、ただ2人がベッドで身を縮めて眠っていたとしても、今後は誰も彼らを笑えやしない。
彼らは変わらない。
だから世界が、彼らのために変わるのだ。
歩みたい人と歩みたい道を。
好きな人を、ただ好きなだけで永遠を。
世界は、彼らの為にある。
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