「良いお年を」という挨拶を昨日は数え切れない人と交わした。本部にたまたま顔を出す機会があったので、夜行さんや門倉さんといった馴染みの方はもちろん、切間さん、能輪立会人、真鍋立会人、紫音立会人、エトセトラ。
誰も彼も目が合えば反射的に「今年はお世話になりました」と「良いお年を」を繰り出す年の瀬。それほど関係が深くない人とも一応の社交辞令を交わす年末においてもロクに顔を合わせなかった関係性の人と、まさか新年一発目、「あけましておめでとうございます」と会釈し合うとは思っていなかった。
「旧年中はたいへんお世話になりました。本年も何卒よろしくお願い致します」
「あ、ども。こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
年賀状の文言をそのまま口にするように、弥鱈立会人が形式ばった決まり文句を言い、綺麗な姿勢で頭を下げる。普段は猫背でたる~っと立ってる印象なのに、年始の挨拶をする彼はピンと背筋を伸ばしていた。
なんだろ、やっぱり今年初めの挨拶だから気合いが入ってんのかな。
自分にとっての正月なんてものはバイトに行くと特別手当が貰えるラッキーデーくらいの位置でしかなく、だから形式を重んじる弥鱈立会人の姿勢は育ちが良さそうだなぁと感じたし、実際「これ軽いものですが」とお菓子(お年賀というらしい)を渡してくれた弥鱈立会人はちゃんとした家で正月を過ごしてきたのだろうと思った。
新年早々突発的に始まった賭郎勝負は流石に元旦ということで専属の立会人もなかなか捕まらず、『二時間待ってくれたら行けるけど』とメールフロム広島の門倉さんから頼もしい申し出はあったものの、結局僕は門倉さんの厚意を断り、賭郎にフリーの人をあてがってくれるよう連絡を入れた。いくら日頃勝負に狂っている立会人とはいえ、正月くらいは血生臭いものから離れ、ゆっくり平穏に過ごしたいと皆考えるかもしれない。表の仕事の都合で年始は身動きが取れなかったり、能輪家のように家族行事で三が日の予定がみっちり詰まっている人も居るだろう。つまりは、専属だからとか、ちょっと普段接しやすいとか、そんな理由で軽々と人を呼べないのだ。
そんなわけで僕は『やることが無くてすごく暇してる人が居たらよろしくお願いします』という雑過ぎるお願いを賭郎側に申し立て、そしてそんな雑過ぎるお願いにものの一〇分でマッチングして参上してくれたのが、冒頭に戻るが、つまりは弥鱈立会人というわけだった。
「すいません新年早々お呼び立てして……予定とか無かったですか? 初詣とか」
挨拶をしたっきり早速唾を新春にぷわぷわ浮かばせている弥鱈立会人にたずねる。去年から目の下にクマを引き続き飼っている弥鱈立会人が「はぁ」と答え、気だるげな様子で僕と視線を合わせた。
「例年寝正月なので、初詣はそもそも行きません」
「じゃぁ正月に実家帰る人って多いですけど、それも大丈夫でした?」
「我が家は私が学生の頃に一家離散しています。お気遣いなく」
「あ、そうなんですね。なら良かった」
いやいや全然良くない。サラッと言われたけど一家離散って普通なら由々しき事態だ。
言ってから気付いたが、今更弥鱈立会人の家庭に言及するのも怖かった。仕方ないので「僕ん家も同じような感じですね」と返すと、弥鱈立会人は「でしょうね」と一蹴し、そこから数秒黙り込んだ後に「でもまぁ、貴方には今実家に近いものがあるじゃないですか。お屋形様とマルコと」と言葉を続けてくれる。
おやまさか、弥鱈立会人は僕を気遣ってくれたんだろうか。予想外の人からフォローが入り、僕はなんとも言えない表情で「えへへ」と返す。年々色んな人に尊重してもらい、気遣ってもらえてるなぁと感じる場面が多くはなっているが、弥鱈立会人にその手の思いやりがあったとは初耳だった。失礼ながら僕のことなんて彼は道端に転がっている石くらいにしか認識していないと思っていたので、今年初の気遣いが弥鱈立会人によるものだなんて、本年はのっけから想定外である。
勝負内容はシンプルなカードゲームで、今回はそう大がかりな準備が必要なわけでも無かった。どうにか集まってくれた黒服が会場内に不正行為の仕込みが無いか確認している間、僕と弥鱈立会人の間には数分程度の待ち時間が横たわる。
椅子に座るほどでも無いし、なんなら無言のままでも簡単に時は浪費できた。きっと相手側も無駄な会話なんてしたくないだろうと思っていたのに、意外にも弥鱈立会人は、今度も「ときに梶様」と僕を気遣うように自分から会話のキッカケを作ってくれた。
「はい?」
「今年の目標などはありますか? 正月なので」
弥鱈立会人のギョロンとした目が僕を覗き込む。世の終末しか見据えて無さそうな人から出る『今年の目標』が妙に非現実的で、僕はうわ言のように目標、もくひょう、と繰り返しながらこの場に相応しい返答を探った。
何を言えば弥鱈立会人は引き下がってくれるんだろう。そりゃぁ今年やりたいこととか、こっそり計画してる勝負なんかはあるけれど、それを立会人に話そうとは思わない。というか思えない。この人達は僕の味方でも何でもない訳で、希望を抱えて抱負なんて言おうものなら、涎を垂らして「楽しみですねぇ」と破滅ルートを画策されるに決まっているのだ。
「うーん目標というか……まぁ、無事に一年生き残る、ですかね。やっぱその、命あってのことだから。なんでも」
結局僕は納得や好感度なんてものを諦め、そんな煮え切らない、目標と呼んで良いのかも分からない回答を弥鱈立会人に向けた。明らかに本心を隠した上辺の言葉だったが、そもそも弥鱈立会人だって馬鹿正直に僕が目標を言うなんて思ってはいなかったのだろう。はぁ、と相変わらず興味の無さそうな相槌を打った弥鱈立会人は、僕の顔からふいと顔を背けると「まぁそうですね」と肯定を口にし、シャボン玉を一つ、ぷわんと宙に浮かべてその軌道をぼんやり眺めた。
「梶様に限らず、この組織に属する者全員に言える目標ですね。命など簡単に滑り落ちますから、それが一番重要な新年の抱負かもしれません」
「ですよね」
「まぁ生き残ってください。貴方がそうでなければ、私の目標が全てパーになる」
ぱちん、とシャボン玉が弾けた。天井より随分低い位置で終わったシャボン玉の命を、弥鱈立会人が心なしか不服そうに見送る。
あれ、上手くいかなかったのかな。
新年早々シャボン玉飛ばしに失敗するというのは、弥鱈立会人からしたら少々縁起の悪い出来事なのかもしれない。
めげずに舌の先にシャボン玉を作る弥鱈立会人は躍起になっているようにも見えて、先程からの気遣うような態度もあり、僕は思わず弥鱈立会人に踏み込んだ質問を差し向ける。
「パーになるって? 弥鱈立会人の抱負ってなんなんです?」
「秘密です」
即答だった。「えー?」といつもより馴れ馴れしい反応をする僕に、弥鱈立会人はシャボン玉作りを中断して『んべっ』と舌を出してみせる。お茶目な仕草だ。弥鱈立会人がそんな気安い態度を見せてくれるとは思っていなかったので、僕は反射的に目を白黒させて弥鱈立会人を見つめてしまった。
「……なんですその顔は」
弥鱈立会人が舌を引っ込める。気まずそうな声だった。
「いや、なんか弥鱈立会人がそういう態度取ってくれるって思わなくて。意外だなって」
「意外でもないでしょ。私、そこまで取っ付きにくい人間じゃないですよ。ゲーム好きですし、オフは貴方の私生活と似たようなもんです。共通の話題も多いんじゃないですかね」
「僕と弥鱈立会人が? ……嘘だぁ」
「本当です。何を買い被ってくださっているのか分かりませんが、私なんて極々普通なんで」
「そうかなぁ? 僕は弥鱈立会人って、すごく遠い人のように思うけど」
「やめてくれ本当に。去年で痛感したんですけど、私、痩せ我慢って苦手なんですよ。今年で終わらせたいんです。だから元旦からスーツ着てるでしょうが」
最後のほうは、正直僕には弥鱈立会人が何を言いたいのかイマイチ分からなかった。何だか途中から、妙に的を得ていない台詞だった気がする。
なんですかソレ、と首を捻る僕に、弥鱈立会人が不満げにムスッとしたあと、堪え切れないように少しだけ口元を緩めた。あれ、笑った。弥鱈立会人って笑うんだ。またしても目を白黒させる僕に、弥鱈立会人が「今年初笑いです」という。初笑いというには微笑が過ぎると思ったけど、弥鱈立会人はそのまま「だからとにかく、貴方は一年、生き残ってくださいね」と言葉を続けた。
念押しのように、弥鱈立会人の声はちょっと語尾が強調されていた。