マンネリ防止とは銘打ったものの、実際南方と梶の交際にマンネリが生じていたかといえば決してそんなことは無い。まだ肌を合わせるようになって数ヶ月、機会で数えるなら七回目だ。前回からの期間を数えて『もうそろそろ誘っても……?』とスケジュール帳片手に画策するくらいには互いに相手を求めており、だから本日の“マンネリ防止にイメージプレイをしてみよう”というのは、結局のところ手っ取り早く相手を脱がすための免罪符だった。
「ありがとうございますお巡りさん。今日も公園で寝泊まりかなって、ドキドキしてたんです」
「今の季節は冷えるからね。本当はシェルターを紹介してあげられたら良かったんだが、どうも空きがないらしくて……知らない人間の家じゃ落ち着かないと思うが、やむを得ないと思ってくれ」
「そんな! むしろ見ず知らずの家出少年に自分の家を貸してくれるなんて、お巡りさんは警官の鑑だと思います!」
「ははっ、そんな大層なものじゃないよ。困ってる人を見るとどうにも放っておけなくて、つい世話を焼きたくなるだけで」
「格好良いと思います、そういうの」
「ありがとう」
「あの、お巡りさんって名前なんて言うんですか?」
「南方。下の名前は恭次。好きに呼んでくれて良いよ。君は?」
「僕は隆臣です。苗字は梶。呼び捨てで良いですからね、恭次さん」
茶番がすごい。
どこのどいつだ『お巡りさんと家出少年のいけないワンナイトラブ♡』なんてフィクションも甚だしい寒芝居を思い付いたのは。いや犯人探しをするまでも無く言い出しっぺは梶なのだが。ただ、そんな梶のトンチキ破廉恥どっかのAVで見たことある設定を受諾したのは他でもない南方であり、設定だけふんわりと指定されたのち、品行方正なお巡りさんの立ち振る舞いを分厚いツラの皮で飄々と演じ始めたのも南方自身であった。
いやはやまったく、誰が困ってる人は放っておけないお巡りさんなのか。南方はお巡りさん業務などただの一度もこなしたことがないエリート警視正であり、見知らぬ困っている人どころか上司の警視副総監さえ見殺しにした奴である。
品行方正なお巡りさんと純朴な家出少年という二人の設定は、言うまでも無いことだが立会人警視正と成人ギャンブラーには少々無理があった。二人は現実との乖離が著しいキャラ設定に時折吹き出しそうになりながら、でもその馬鹿馬鹿しい芝居さえ楽しくて、どうにか世界観を守り抜いたまま南方宅への道を連れ立って歩く。
途中、頼れる大人に甘えたくなった家出少年こと梶が「寒くなっちゃった」と言って南方の腕に絡みついたが、南方はいつもの彼がするように梶の身体を引き寄せることはせず、優しい口調で「公共の場で警官が人と密着することはありません」と分別のあるお巡りさんみたく言った。
「隆臣はいくつ? まだ若いよね」
「一七歳です」
ぶふっ、と南方が噴きだす。一時的に素に戻った彼が「えらいサバを読むのぉ」と梶に突っ込んだ。
「だって家出少年って設定だし。未成年じゃないとおかしいじゃないですか」つられて梶もオフレコになる。
「まぁ確かに。梶は童顔じゃけぇ、見えんことも無いしな」
「それはまぁ、複雑ですけども」
「一七歳かぁ。若いね。楽しい盛りだ。彼女とか居るんじゃないか?」
サッとお巡りさんに戻った南方が尋ねる。どう答えるのがイメプレ的には正解なのか思案した梶は、くっ付いている南方の腕に頬をすり寄せ、きょろんと丸い目で南方を見つめた。
「ううん。僕、人と付き合ったこと無いんです」
「へぇ、そう」
南方の目が光る。瞳の奥にチラと炎が灯って見えたが、それが演技なのか、南方の素の劣情なのかは分からなかった。
付き合う前から幾度となく通っている南方のマンションを、今夜の梶は「ここが私の家です」と白々しく紹介される。およそノンキャリア組の収入で住めるとは思えない高級マンションに思わず梶は苦笑してしまったが、どうにか表情を整え、目にたっぷりと光を含ませて「わぁ、すごいマンション!」とはしゃいでみせた。
「お巡りさんってこんな高そうなマンションに住めるんだ!」
「まぁね。公務員だから」
地方公務員の九割が聞いたら血涙を流しそうな台詞である。所詮はイメプレの一環なのである程度のガバ設定は流すものとして、南方が慣れた手つきでオートロックを解除し、「さぁ入って」と梶を促した。
エレベーターを待っている間、南方の手がにわかに梶の肩に回る。おや? と見上げた梶は、南方の「どうかした?」という標準語の台詞にこれもイメプレの一環なのだと理解した。なるほど。己のテリトリーに梶が入ったので、ここからは徐々に品行方正なお巡りさんの化けの皮が剥がれていくらしい。梶は期待にドキドキと高鳴る胸を抑え、わざと目を南方から反らした。「ええっと、な、なんでもないです」
すぐに無人のエレベーターが降りてきて、二人は狭い密室に体を滑り込ませる。扉が閉まった途端、南方が梶の身体を箱の隅へと追いやった。大きな体が梶の視界を塞ぎ、頭上には先程より笑みが冷たい南方が居る。反射的に、ヒュッと梶の喉が鳴った。普段の南方にされたらなんてことの無いスキンシップでも、脳内が半分家出少年になっている梶には、密室での男の豹変が妙に神経をザワつかせる。
「な、なんですか、恭次さん?」
「ん? 別に。育ち盛りらしい細い体だと思って」
先程まで肩に回っていた手が、今度は意志を持ち、明確に梶の肩を掴んだ。痩せぎすの梶は肩甲骨や鎖骨が平均よりも浮き出ており、南方の分厚い掌はそんな梶の骨の上を値踏みするように這っていく。
設定はともかく素体は成人男性の身体なので、南方の発言はよくよく考えると失礼なものだった。「いつもそんな風に思ってたんですか」と梶は恨み言をこぼしたくなるが、大きな手が皮膚一枚を挟んで神経に触れると、途端に背中が痺れ、梶の頭から反抗の気持ちが抜けていく。下半身がじゅわんと熱くなり、息も既に上がり始めていた。
「家についたら、まずシャワーにしようか。体が冷えてるだろうから」
「は、い……」
「ずっと着の身着のままだったんだろう? 服を貸してあげるから、君の服は洗ってしまおう。一晩は乾かないだろうが、それで良いね?」
「はい、はい……」
南方の手が上に伸び、耳たぶを弄びながら、彼は次々に梶の行動を決めていく。気遣いに満ちているようで、その内情は梶の動きを制限するものばかりだった。南方の言う通りにしてしまえば、梶は今晩南方宅から逃げ出すことが出来なくなる。何をされても逃げられず、ただ南方の思うままにされるのみだ。本当にぶっつけ本番の演技なのか不安になるお手並みである。この人もしや経験者ではなかろうかと、鮮やかな手腕に梶は少々疑いの念を抱くほどだった。
負けてなどいられない。自身も擬態の才能を評価されている梶は、ぐぐ、と唇を噛みしめ、南方の演技に乗らんと脳内で思考を巡らせた。
もし自分が本当に一七歳の少年だったら、こんな風に大人に振る舞われて、果たして自分はどんな反応を取るだろう。
梶は自分の中に作り上げた一七歳の少年を見つめ、南方の指が動くたび、彼がどのような表情をするのかを注意深く観察した。今ばかりは梶は経済的に自立し南方と対等な関係を築けている恋人ではなく、一七歳の、セーフティーネットを何も持たない無力な家出少年である。優しそうなお巡りさんに助けてもらい、ようやく温かい部屋で眠れると安堵した矢先、なんだかお巡りさんの表情が先程とは異なって見えるようになったのだ。どうしたんだろう。この胸騒ぎはなんだろう。一七歳の少ない人生経験の中に、大人のこの表情に対する知識はない。分からない。でも耳の奥のほうでサイレンが鳴っている気がする。これは何だ。恭次さんは、僕に何をする気なんだ。
思案する梶の首に、耳たぶから離れた南方の手が戻って来た。首筋をつつ、と指の先でなぞられたところで、梶は体の動きを止める。擬態の天才である梶隆臣が、この場で出した結論は『硬直』だった。一七歳の何も知らない少年にとって、今の南方は未知の生物だろうと思ったからだ。
今まで自分が擦り寄っても一切の反応を返さなかった大人が、突然己に歩み寄り、なんだか知らない指の運びで肌に触れてくる。『大人扱いを喜ぶかも』と最初は梶も考えたが、その感覚は二四歳の、一回り年上の南方に恋愛感情を抱いた自分だからこそ到るものだと考え直した。大人の欲は、子供にとって未知で恐怖だ。自分は今純朴な家出少年なのだ。この後を期待して体を火照らせるほど、一七歳の身体は完成してはいない。
「あの、きょうじ、さん」
「ん?」
「あの、あのっ……な、なんか……触り方、変じゃない?」
「えぁっ!? あっ、そ、そう? そうじゃった?」
瞬きを極力減らし、快感の兆しに潤んだ瞳を、梶は戸惑いの表情に転用して南方を見上げた。うるうる。いつもよりぼやけた視界の中で、南方がぎょっと目を見開き、不格好に息を飲む姿が見える。
次には南方の手が慌てて離れていき、「すまんっ調子乗ったわ!」と取り繕うような台詞飛び出した。内心はもっと触っていてほしかった梶は(くっそぉ一七歳もどかしいなぁ~!)などと思いながら「だ、大丈夫です! ちょっとビックリしただけ……」と猫を三匹くらい重ねた態度を取る。エレベーターが目的階に到着した。開ボタンを押しながら「先に出て」と南方が急かし、梶はわーわーキャーキャーそれっぽい反応で騒ぎつつ南方の部屋まで迷いなく向かった。
梶の後ろを遅れてやって来た南方が、深呼吸を二,三繰り返して再びニコリと笑顔を作る。正規ルートで警視正に成り上がったにしては顔が整いすぎている男は、こちらもデスクワーク主体にしては恵まれすぎている大きな体で、玄関の扉を軽々と開け「さぁ入って」と梶を室内に入れた。