梶隆臣が俺の上に乗ってニヤニヤとこちらを見下ろしている。常から開けすぎでは? というくらいシャツのボタンを外している彼だが、今日もボタンを三つほど外し、少し動けば乳輪等々が露出する有様だった。
「ええと、あの……?」
「あれ。もしかして、困ってます? 弥鱈さん」
「えっ? あ、はぁ。そりゃぁ」
「んふ。そう。困ってるんですか、弥鱈さん。んふふ」
梶が笑う。三日月形に目を細め、梶は初めて俺を「弥鱈さん」と呼んだ。
日ごろ賭朗弐拾八號立会人と会員梶隆臣の私的交流は皆無に等しい。それなりに親しくなった立会人は総じて敬称呼びになる梶が、俺のことは今の今まで「弥鱈立会人」で一貫していた事実からも、我々がいかに縁の薄い間柄であるかは推し量ることが出来た。
別に親しくないからといって険悪なわけでもないし、俺個人としては梶のことは嫌いじゃなかったり苦手じゃなかったり無関心じゃなかったりもする。が、まぁ所詮それだけだ。これまでの交流を思い返すと梶が俺に懐いていた素振りはなかったし、無論梶が俺に跨る理由など、いくら記憶を辿ってもキッカケの端切れさえ見当たらないのである。
頭がぐるぐるとまわり、モヤがかった思考は何の解決策も生み出さないままその場で足踏みした。唇を艶めかしく舐め上げた梶は、俺の困惑を確認するなりおもむろにシャツのボタンをまた一つ外す。前側が大きく開いたシャツはもはや着ているというよりは羽織っているといった具合であり、先程からチラチラと見えていた胸元などはいよいよ丸見えの大盤振る舞いだった。
反射的に浮かんだ(何をする気なんだ)の疑問には(いやどう見てもナニをする気だろ)と自分で突っ込みを入れ、俺は必死に平静を装って「何を考えていらっしゃるんです、梶様」と梶に問う。
「あ、弥鱈さんは寝てるだけで良いですよ。僕が全部やるんで」
対する梶は、信じられないくらい悠々としていた。
「ちょっと待ってくださいよ。我々はいつからそんな仲になったんです?」
「んー、今から?」
「なっ……」
「だって弥鱈さんおいしそうなんすよ。口とか冷たそうな視線とか、えっちで、たまんない」
言いながら梶の手が俺に伸びてくる。慣れた様子でするりとネクタイを抜き、無断でボタンを二つほど外した梶は、俺のインナーを見るなりあからさまに顔をしかめた。
「えっ中着てんの? ずるい、見えないじゃん」
「ず、ずるっ……」聞いたことのない感覚にギョッとする。「いや、着るでしょ普通。見せるもんじゃないですし」
逆に聞くが、では素肌に直接シャツを羽織っている梶は、いつも中を見せてやるつもりであんなにボタンを外していたのだろうか。薄い男の胸板を晒し、さぁ覗き込んでくれと言わんばかりにオーバーリアクションを繰り返していたと。こんな凡庸な男が? それで誰か釣れるのか? そりゃ世の中には様々な物好きがいるので全てが徒労だとは言わないが、ただそんな種明かしをされて、こちらはどんな反応を取れば良いのだろう。
「……貴方がどのような戦い方をしようと私には関係ないですが、その荒っぽい価値観に私を押し込めないでもらえますか」
混乱や葛藤を隠そうとして、そうすると口からは随分仰々しい苦言が漏れた。
なんだか己が冗談の通じない堅物になったようで面白くないが、ここで梶に賛同する気には到底なれない。梶は干し草をぶん捕られたモルモットのような顔で「え、弥鱈さんって案外お堅いんですね」と言った。
「押し込めるつもりなんてありませんけど、でも、実際肌着って邪魔じゃないです? 締め付けられる感じがするし」
「まったく」
「それに不意打ちでシャツと乳首が擦れて気持ち良いみたいな、そういうのも無くなるし」
「良いことじゃないですか」上擦りそうになる声を必死に堪える。「少なくとも私は擦れたくないです。不快なだけなんで」
「不快? あーまぁ、もどかしい時はありますよね。今もっと触りたいのに! みたいな。タイミング的に出来なくてモヤモヤ~みたいな」
「はぁ」
全然意味が違う。だが訂正も手間なので、俺は適当に梶に合わせて頷いた。
頭の中にはこれまで視界に捕えてきた様々な梶隆臣が走馬灯のように蘇る。あの時もシャツが擦れてたのかとか、あの会話のあとトイレに向かっていたがコイツはナニをしていたんだろうなぁなど、意図せず考えてしまい、変な扉が開きそうになった。
俺のインナーを恨めしそうに撫でていた梶は「ま、いいや」と早々に頭を切り替え、含み笑いを浮かべた表情で俺の方へと体を倒してくる。梶の体はいやに軽く、成人の男が体を預けてきたにも関わらず、俺の体には余分な重量も負担も掛からなかった。伝わってくる体温や鼓動は心地よく、ただし布を挟んだ向かい側に二つほど隆起した部位があり、小さな突起が押し付けられる感触はどうにもいただけない。
あーこれが噂のシャツに擦り付けられてる乳首ですか。なるほど噂通りの擦り付け甲斐のある乳首ですね。
俺は金縛りにあっているかのように指一本動かせず、それを好都合と捉えたのか、密着した梶は俺の上で蛇のように体をくねらせる。梶が肩を震わせ、悩まし気に眉を寄せたところで、梶が他人のインナーで自慰紛いのことをしているのだと気付き、鼻の付け根がカッと熱くなった。
突起は潰され、上下に揺れるたびに形を変える。梶の息が荒い。時々俺のソレにも梶の尖りが触れ、それはそれは居心地が悪かった。
「あーこれ、けっこう良いかも。あんっ、ん。ふふ、僕、いま弥鱈さんにオナニーのお手伝いしてもらってる」
してない。お前が勝手に俺の体でオナニーをしているだけだ。そう言いたいのに不思議と口が回らない。梶が好き勝手体を擦りつけてくる様を、俺はただぼんやりと観察していた。
梶の挙動の節々からは、行為に対する慣れと、自身の体に価値があることへと揺るぎない自信を感じる。おかしい。あんなに如何にも童貞です、といった反応を普段取っている男が、この変わりようはなんだ。頭が上手く回らない俺を観察して、梶が「もしかして弥鱈さん、僕が童貞だと思ってました?」と思考を読み取ったように言う。反応に困っている俺に笑みを深くした梶は、おもむろに密着していた体を浮かせると、自身の手を胸元に滑り込ませ、見せつけるように自分の乳首を弄り始めた。
「はぁっ、あんっ。こりこりするの、好きぃ……」
梶の口から淫猥な台詞が飛び出す。あからさまに相手に――それも自分が女性側に立っているかのような態度で挑発をする梶に、俺の口がようやっと開いた。吃音を連発する台詞は、俺のほうこそ童貞のようだ。
「あ、貴方そういう経験っ、な、ない、んじゃ……」
「弥鱈さんはどっちが良いですか?」
「えぁっ? ど、どっち?」
「全部知らない僕が良い? 全部知ってる僕が良い? それとも、知ってることと知らないことがある僕が、好きですかね」
「あ、や、その……」
「好みを言ってくれたら、それに合わせますよ。擬態得意なんで」
梶が余裕を滲ませる。きょろんと大きい以外とくに特徴のない目に『貴方もよく分かったでしょう?』と言われている気分になって、俺は咄嗟に目を逸らした。
擬態上手。あぁそうだ、その通りだ。現に俺は今の今まで梶の擬態にまんまと騙され、彼をそこらにいる人間の一人だと錯覚していた。性行為に興味はあるが異性に相手にされず、ならばと同性に走る勇気も無い上に、自分が抱かれる側になるとはそもそも想像すらしていない。梶をそんな冴えない青年だと一方的に決めつけ、その結果まんまと彼が乗りあがってくる事態を招いてしまった。完璧の名が泣きそうな体たらくだが、一方でどんな人間だったら梶の擬態を見破れたのかと純粋な疑問も抱く。
俺の知り得る梶隆臣は、素直で抜けてて、偶然本部で鉢合わせた親しくない人間にも「あ、弥鱈立会人。こんにちは」と丁寧に頭をさげる男だった。鉄火場で見る彼はまた少し印象が違ってくるが、少なくともギャンブルから離れたところに居る梶は、可愛げのある無害な一般人だったのである。
「ねーぇ、弥鱈さん? どうするの? どんな僕がいいの?」
そんなわけなので、こんなことを聞かれても困るのだ。
「ど、どうって……」
しどろもどろする。先ほども言ったが、俺は梶に対して漠然と童貞だろうな、と思っていたくらいで、日ごろの梶を性的な目線で査定したことなどない。そりゃぁエロ同人にありがちな“初回から積極的な処女”を嫌う理由はないし、後ろの穴は縦に割れているのに前は未使用みたいな特殊例も面白いとは思うが、それはあくまで一般論であって、梶に適用させたいというわけではないというか、なんというか。
「いやそんなの……わか、分からない、というか……」
「弥鱈さん僕にエロいことしたい? エロいことされたい?」
「いや、その……」なんで性的な関係を所望している前提なのか。「それも……その……」
「分かんないんですか? 弥鱈さん、さっきから全然上手に話せてないですね。普段あんなに偉そうなのに、こういう風に迫られたら大人しくなっちゃうんだ? 立会人なのになぁ。情けないっすね」
「た、立会人はいま関係ないでしょっ」
梶の嫌味たらしい物言いに煽られ、反射的に言葉を返す。
しまった、と思う頃には時すでに遅く、にんまりと笑った梶が「あ、噛みついてきた」と罠にかかった動物を確認するように俺を見下ろした。
「そういうとこだけプライド残ってるんだ? だっさ。そんな格好悪い立会人にはお仕置しないと」
「んぶっ」
梶が口を塞いでく
る。彼の薄い舌が、口内ににゅるんと入り込んできた。生暖かい彼の舌は、不思議と嫌な味も無ければニオイもない。柔らかいゴムベラを差し込まれているような感覚だった。質感が面白く、無意識に自分の舌を梶のソレに絡める。これのどこがお仕置きなんだと思ったところで、(いやいや普通好意を抱いてない同性にディープキスかまされたら十分罰だろう)とも思った。
まもなく梶の舌が去っていく。別れ際手を振る作法があるように、梶の舌は最後、俺の上顎をいくらか撫でてから口内を退出していった。
「……エロいことしたいかは分かんなくても、ベロチューはするんですね」
梶が失笑する。人を小馬鹿にした態度を取りながら、梶は熱っぽい視線を向けて再び俺に体をすり寄せてきた。同じ穴の狢だとでもいうように、欲に負けそうな俺を嘲笑いつつも、梶は浅ましくて良いのだと肯定するように俺を使って自慰をする。
「……ねじ込まれたから押し返そうとしただけです」
「ふーんそうなんだ。まぁでも、嘘は僕もたくさん吐きますからね。弥鱈さんのも一個くらいは許してあげます」
何様だコイツ、と自分を見上げる俺に、梶は相変わらず余裕を孕んだ表情で「自分で梶様って呼んでるじゃないですか」と減らず口を叩く。気味が悪いほど腹の中身が透けていた。愉悦しか浮かんでいない口元が「生意気な目ですね」と言い、再度お仕置きだと梶の顔が近寄ってくる。
二度目のお仕置きは初回よりも滞在時間が長く、目を閉じて神経を研ぎ澄ませても、やはり梶は無味無臭だった。男という生き物は俺も含め、もう少し体臭が強いとか唾液が不味いとかあるもんじゃないのか。不快を感じる要素があまりにも目の前の梶には足りず、梶の手が俺の頭を抱え込み一層深く口付けてきても、ただ俺は彼の動きに合わせて舌を絡ませ合うだけだった。
口内を心地よく刺激されれば、意思に関係なく自然と唾液が湧き出てくる。梶の口内は温かいばかりで人間味がなく、唾液もサラサラとして白湯のようだった。そんな具合なので梶が離れていく際、二人の間に唾液の糸が引くと途端に気まずさが押し寄せてくる。まるで俺ばかりが彼を引き留めているようだった。
「弥鱈さんの唾、ねっとりしててえっちですね」
ぬらぬら光る舌を外に投げ出し、十分に見せつけたところで梶がコクンと喉を鳴らす。「あーあ。僕の喉、弥鱈さんの唾に犯されちゃった」とエロ同人の中でしか聞いたことがない語彙で俺をなじった梶は、そのままさっさとベルトも引き抜いてしまった。
スラックスが肌を滑り落ち、膝立ち状態の梶の膝に布が溜まる。下着一枚になった梶の下腹部は中心が盛り上がっており、今更驚くようなことでもないが、本当に俺相手に興奮しているのだと改めて思い知らされた。また、上も下も脱ぎかけという中途半端な恰好は、平素でなければこうも煽情的なのだとも思う。
「弥鱈さん側に要望が無いんなら、僕の好きにさせてもらいますね」
いつもシャツの袖をめくっている梶が、気合を入れるようにシャツをもう一巻きする。案外筋肉のついた腕をしていると感心したところで、梶の手がおもむろに俺の胸元にやってきた。長年ただ存在しているだけだった突起物に手が回り、きゅ、と両方を摘ままれる。不意打ちに「うわっ!」と上がった声は我ながら場違いなほど色事から遠かった。
「わ、可愛い反応」
「ちょっ……触り方! なんか嫌なんですけど!」
「わーめちゃくちゃ反応がノンケだぁ。意外。弥鱈さんってなんか雰囲気アングラっぽいから、乳首とかもう開発してんのかと思ってた」
「しませんよそんなの!」
「気持ち良いこと興味ないんです?」
「それはっ……!」
無いと言おうとして、喉が引きつった。自分の正直さにほとほと嫌気が差しつつ、沈黙をギャンブラーが見逃すはずもないと諦めて本音を言う。「そりゃ人並みに欲はありますけど、でも、そこで快楽を拾おうとは思いません」
「そうなんすね。なんで?」
「なんでって……もっと簡単に性的興奮を得られる箇所がありますし……」
「あぁ、ここ?」
梶の手が下に移動し、なんとその手は、そのまま俺の背中側に回り込んだ。服の上から尻の割れ目に指を埋め込まれ、いよいよ俺の口から「い゛っ!?」と大声が出る。ケラケラと梶側から笑い声ももれなく出る。「冗談ですよ、冗談」と俺の頭を撫でる梶の、一体何が冗談でどこをフォローしたのかがイマイチ俺には分からなかった。
「でも乳首で感じるようになった弥鱈さん、見たいなぁ。絶対可愛いもん」
さっさと梶の手が後ろから退散する。しかしこちらが一息つく間もなく手は俺の胸元に戻り、最終的に梶の両手は、肌着越しに男の乳首をぐりぐりと弄りだした。ぐりぐりだけには留まらず、くにくにだの、カリカリだの。なにやらバリエーション豊かに責めてくれてはいるが、生憎俺には「皮膚が薄いところを触られているなぁ」以上の感覚がない。というより、むしろ立会人という立場上傷痕を作る機会も多いので、皮膚が薄い箇所への刺激はある種古傷を執拗に触られているような不快感を伴っていた。神経を逆撫でされるようで癇に障る。屈辱的だとさえ思った。
険しい顔で呻き声を上げる私に諦めたのか、しばらくすると梶の手が離れていく。と、今度は彼の舌が近づいてきた。ぐい、と無理やり襟ぐりを引き下ろし、露出した肌色の濃い部位に梶が舌を這わせてくる。今度は屈辱感の代わりに、シンプルな嫌悪感が込み上げてきた。体温の生ぬるさにも骨を感じない舌の動きにも、人外を押し当てられたような気味悪さを覚えて肌が粟立つ。反射的に自分の身体能力も忘れて梶を蹴り飛ばしたくなるが、幸か不幸か、やはり体は動かなかった。
抵抗の術がない俺の体に、梶は乳を吸ったり舐ったりと、やりたい放題かましていく。
「んー反応微妙だなぁ。僕けっこう上手いはずなんだけど、弥鱈さんって不感症なんです?」
「そういった場面でっ……役に立たなかったことはないです。こ、好意を持っていない人間に触られても、反応のしようがないって、それだけなんですが」
「アレですね、弥鱈さんって体が貞淑なんですね」
「きっ、気色悪い言い方しないでください!」
「え、今の誉め言葉になりません? 良いじゃないですか、好きな人を大事に出来て。僕ダメなんですよねぇ。気持ち良いのに弱いんで、誰に触られてもイっちゃう」
「そ、それこそ良いんじゃないですか? ハニトラ、かけ放題じゃないですか」
ろくに脳みそを経由せずに飛び出した言葉に、意味を反芻し、本当に己の言葉かと内心動揺する。梶の爛れた性生活を肯定したことよりも、こんな凡庸な男にハニートラップが複数こなせるだろうと、自然な流れで判断を下した自分が信じられなかった。
視線を泳がせる俺に気付かない梶は、「仕込みで本当に気持ちよくなってちゃダメでしょ」ともっともなことを言いながら愛撫を続ける。長らく触れられていたので、梶の舌に対する嫌悪感はいつしか俺の中から掻き消えていた。だからといって快感が台頭してくるわけでもないが、いつまで不毛なことをやっているんだと思う一方で、俺にはまた別の感覚も芽生え始める。快感の類は一切湧いてこなくとも、自分に奉仕する梶の姿を見ていると、性的な欲求が腹の奥からぽつぽつと浮上するのだ。
例えば歯を僅かに立て、同じ部分を繰り返し噛む時など、梶は俺の反応を期待するようにチラと視線を上にあげる。こうされると気持ちが良いだろうという憶測は、裏を返せば梶がこうされると気持ちが良いという申告でもあった。
少し痛いくらいの刺激を、同じ場所に執拗に受けるマゾヒスティックな愛撫が梶の好みらしい。
実行されている側のほうがいたたまれなくなるような身も蓋もない好みだが、察してしまえばこう、優位を気取って俺に跨る梶が被虐欲をひた隠しにしている事実というのは、少しばかり、『ぞくり』とした。
「ねぇ弥鱈さん、僕、弥鱈さんにやりたいことがあるんです。良いですか?」
「や、やりたいこと……!?」
「うん。貴方が強くて格好いい弥鱈立会人だって思ってるから、ずぅっとやりたくって」
いつの間にやら下着も全て脱ぎ捨てた梶が、膝立ちでベッドをずりずりとせり上がってきていた。上へ上へ、俺の顔を通り過ぎる直前で動きを止めた梶は、はるか頭上、股の隙間から笑顔を覗かせて「えへへ」と言う。俺の視界は縦に割れた梶の尻穴で埋まっており、ひくひくと伸縮する穴から、堪えきれなくなったように体液が垂れて俺の顔に滴った。
たらり、と額から液体が流れ落ちていく。
それが梶の体液だったのか、俺から噴き出した冷や汗だったのか、知っているのは見下ろしていた梶だけだった。
「えっ、ちょ、ま、まさか……!」
「口開けて待ってたほうが良いですよ。窒息しちゃいますから」
冗談じゃない! と死に物狂いで頭を振ろうとするも、やはりこんな時でも俺の体は動かなかった。梶の尻が迫ってきて、俺の鼻に陰嚢の生暖かい感触が乗る。口には粘膜のつるんとした感触と、窄まり部分の寄せ集まった皮膚の感触が当たった。目を見開き、予想の斜め上をいく梶の行動に頭が混乱する。いわゆるこれは顔面騎乗位というやつだった。
「ひひっ、乗っちゃった♡ えへ。僕ねぇ、ずっとやってみたかったんです。弥鱈さんって舌が器用でしょ? だから、あの舌におしり解してもらったらめちゃくちゃ気持ちよさそうだなぁって、ずっと思ってたんですよ」
「んぐ! うー!」
『アンタ人の口元見ながら何考えてるんだ!』
そう糾弾したいが、いかんせん口が梶の尻に塞がれてロクに言葉にならない。口を動かそうと躍起になればその分梶の肉が唇に触れ、押し寄せてくる肉を押し返そうと舌を押し当てると、上からは梶の、待ってましたと言わんばかりの「あんっ♡」と媚びた声が聞こえた。
梶の下半身は口内同様なんのにおいもなく、パイパンで、本来排泄器官として備わっている部位にも関わらずそれを思い起こさせるような不快要素が何一つ無い。作り物の性玩具のように清潔で無機質なそこは、どれだけ日ごろ違う使い方をして、かつ、どれだけ下準備をすればこれほど露骨に性器の代用ができるのか。
眼前に男の尻というビジュアルの醜悪さは拭い切れたものではないが、抵抗のつもりで動かしていた唇や舌は、いつの間にか梶の反応を見るために当初の目的とは違う動きを始めていた。舌でヒダをなぞれば「ひゃんっ」と鳴き、粘膜を鬱血させる勢いでぢぅうと吸えば「だめだめっ」と頭を振って梶が快感にわななく。体の自由が利いているわけでもないのに、ここにきてようやく梶から主導権を明け渡されたようで、梶が悶える姿を見るのは楽しかった。
舌を伸ばし、彼が器用だと評したソレで梶の中をまさぐる。舌の届く範囲などたかが知れていたが、淵をぐるりと一周したり、浅い箇所にある一点を先で突くなどすると、面白いくらいに梶は体を跳ねさせた。
「あー! あっ、ん、あはっ♡、やっぱ弥鱈さんっ、舌器用ですね……! っ、あんっ、あっあっ♡あぁもっと、そこぐりぐりしてっ。いっぱいなめて。もっとほじってぇ……♡」
梶から続々と注文があがる。言われた通り一か所をこれでもかと弄り、皺の一本一本をなぞり、指や性器のように舌を出し入れしてはみっちりとした梶の肉を抉った。梶の中は女性器のように柔い肉が蠢き、しかし行為に慣れているわりには締りがよく、俺の舌でさえぎゅうぎゅうと心地よい力で締め付けてくる。男の穴など経験はないが、これだけ具合が良さそうならハマる人間がいるのも納得かもしれなかった。
梶は俺の髪に指を絡ませ、芸に成功した犬を褒めるように「上手ですねぇ弥鱈さん♡」と頭を撫でる。
「一生懸命ぺろぺろして偉いですね♡ワンちゃんみたい♡ひゃあ、んっ! やんっ、いきなり吸わないで♡ふふ、怒ったんですか? ごめんなさぁい♡」
謝る気が微塵も感じられない態度で、梶は次第に腰をゆさゆさと人の顔面の上で揺さぶり始めた。二つの袋が鼻を挟んだ状態で擦れ、俺の顔は鼻の下から顎先まで、まんべんなく穴を押し付けられ梶の体液でぐちゃぐちゃになっていく。呼吸が制限され、酸欠で頭が朦朧とした。舌を差し入れながら、どうせながらもっと長いものを差し込んで乱したいと、そんな願望が頭をチラつくようになっていた。
梶の内ももが震え、中の伸縮が一層激しくなる。
絶頂の兆しが見え始めたところで、梶は急に俺の顔面から退いた。視界が急に明るくなり、押し寄せてきた酸素に咳き込みそうになる。
「……あ、ア?」
「あはは。弥鱈さん、顔中べっとべと」
「お、わり……ですか……?」
「すっごく気持ちよかったです。最後までしてもらうのもいいなーって思ったんですけど、初回はやっぱり『ここ』にキめてもらおうかなって」
梶の手が俺の下半身に伸びる。あっというまに俺の前を寛げた梶は、ぶるりと勢いよく飛び出してきた俺の性器に「わー好きな形。嬉しい」などと感想を言って、恭しく先端にキスをした。
男に性器を触られている。それなりに衝撃的な光景だが、ここまでの経験が濃厚だった分あまり抵抗は無かった。むしろ梶が自分の性器を扱き、期待を込めた視線を向ける姿に欲が満たされていく気さえする。梶隆臣という雌に、雄として求められていることが俺に充足感を与えていた。
「弥鱈さんが解してくれたから、早速だけど大丈夫かな。ねぇ弥鱈さん、男とするのは初めて? 弥鱈さんのハジメテ、僕が貰ってもいいですか? 強くて格好良くて何でも出来て、そんな貴方が、僕みたいなギャンブルしか能がない雑魚オスにハジメテ捧げるところ見たいんです」
俺に跨っている梶の体が下へとおりていく。俺の性器に手を添え、梶が狙いを定めるように腰を浮かせた。もう何で濡れているのかもよく分からない体同士が水音を立てながら密着し、難なく先端が梶の中に入る。うねる肉が亀頭を包み込み、生唾を飲み込む俺を、梶の笑顔が見届けていた。
「どうですか、弥鱈さん」
たまには無様も悪くないでしょう?
※※※
「………」
ピーチチチ、という小鳥の爽やかな囀りと共に目を覚ました。自動開閉のカーテンから朝日が差し込み、ガラスの向こうには澄み切った青空が見える。良い朝だ。カラッと晴れた空に、ぐっしょり濡れた己の下半身が最悪なコントラストを構築している。
「………いや、そりゃそうですよ。えぇ。そりゃそうです。あの人はきちんと人間なんですから、尻の穴が無味無臭はさすがに有り得ません」
電柱に停まっているスズメにそんな弁明を並べてみる。冬仕様のスズメは胸毛を豊かに蓄えていて、全体的にまるまるとしたフォルムが遠目に見てもたいそう可愛らしかった。背中側の茶色い羽根なんて夢で見た梶の乳輪の色に似ている。なんでスズメ見ながらナチュラルに俺は梶の乳輪に思いを馳せているんだ。死んでやろうか。
布団の下は確認するまでもなく夢精していた。この年になって夢精をした事実も痛々しいし、何より意中の相手どころか、知人認識の人間を引っ張り出してきて性の捌け口にしたことが我がことながら唾を吐き捨てたくなるほど情けない。なんだってただの会員に、人物の性格の改変までして、あんな痴女紛いな行いをさせてしまったのだろう。
別に特定の人物の相手をしたかったとかそういうワケではないが、痴女ポジに据えるならもっと適任がいたはずで、少なくとも梶隆臣が最適などということは絶対に無かった。自分はいったい何を考えていたんだろう。梶に自分を責めさせて、いかにもノンケな童貞男をビッチに仕立て上げ、ノリノリで上に乗らせて、なんかどうせなら突っ込むところまでイケたら良かったのにって、違う。違う違う。
「いやこれどうだ? 判定どうだ? 俺本当にアレに何も思うところないのか? 自信なくなってきたぞちょっと」
独り言ちてベッドの上で頭を抱える。濡れっぱなしの下半身は布団の中で嫌な湿度を孕み始め、今すぐにでも下着ごと脱いでしまいたかったが、脱げば夢の中の梶で射精した自分と今以上に向き合わなければならないので躊躇が生まれた。
どのみち今日は朝から本部に出向く予定がある。遅かれ早かれ俺は布団をめくり、ご機嫌で迫ってくる梶に童貞ムーブをかまし、成すすべなく精液を搾り取られた自分の夢を認めなければならないのだ。人並みに自尊心を有する身としては認めるより窓から飛び降りて全てなかったことにしたい事案ではあるが、残念ながら大人なので、泣き言言ってないでとっとと身支度をする必要があるのだった。
「会いたくねぇ~。いやほんと、絶対に会いたくない。頼むから仕込みでもして一日中本部から離れててくれ……」
覚悟を決めてベッドから起きだし、歩くたび水分を感じる下半身にげんなりしながら風呂場へ向かう。
自分で言った『仕込みをする梶』に一瞬頭が夢の世界観に飛びそうになって、俺は飛び込んだ浴槽で咄嗟にシャワーをひねり、冷水が温水に代わる間も、ひたすら頭から水を被っていた。
「あ、弥鱈立会人。こんにちは」
「どうも」
まぁそんな気はしてた。
贅沢を言うなら、せめて会うなら本部の廊下とかが良かった。ビルの入り口で偶然鉢合わせた梶は相変わらず人の好い顔で俺に挨拶をし、ワックスで固めた頭を傾けると、「今日寒いっすねぇ」と会釈の続きで頭を横に倒す。
梶は首元まできっちりと詰まったタートルネックに、上着は同じく黒のダッフルコートを着込んでいた。今日はきちんと防寒しているし、きちんと露出も抑えている。やはり夢の中にいた梶は自分の想像上の生き物に過ぎないのだと安堵して、同時にこんな純朴な素体をどうして自分はあんな味付けにしたんだとやはり自暴自棄な気持ちになった。
「こんなに寒いと、シチューとか豚汁とか、あったかいもんが食べたくなりますよね」
僕豚汁のこんにゃくが好きなんですよぉ、と梶が聞いてもいないのに世間話を始める。「そうですか豚汁のこんにゃくが好きなんですか」と言葉を繰り返すだけの受け答えをしつつ、俺の頭の中には「お前が好きなのは我慢汁と粘膜交流だろ」と到底梶に伝えることが出来ない突っ込みが渦巻いていた。言うまでもないがそんなことはない。現実の梶が好きなのは間違いなく豚汁だしこんにゃくである。どうにか切り替えなければと焦れば焦るほど、目の前にいる梶の無害さが擬態に見えてくるので不思議だった。
「そういったことでしたら梶様、宜しければ何か温かい飲み物をご馳走しましょうか? 奢りますんで」
「へ? いやいや、そんな悪いっすよ。豚汁は昼に自分で食べるんで大丈夫です。あ、昼飯を一緒にって話なら付き合いますけど」
「それは遠慮しておきます」
「あ、そっすか……」
「ですが御馳走はします。カードお渡ししておくので、好きなものを頼んでください」
「………はい?」
「勿論汁物だけでなく、定食を頼むようでしたらその金額も持ちます。酒を飲むなりデザートを頼むなり、ご自由に。あぁそうだ、時間があるなら買い物などなさってはいかがですか? コートに時計に、数があって困るものではないでしょう。上限それなりに高いんで好きなものを是非」
「と、とけ……?」引き攣った顔の梶が一歩後退る。貼り付けた笑顔も何やらぎこちなかった。「あ、あはは! あっ、弥鱈立会人ってけっこう冗談言うタイプだったんですね? いやぁビックリしたぁ! そんな不意打ち反則ですよ!」
「冗談じゃありませんが」
「またまたぁ!」
「いえ、本当に」
「えっ本当に? ……いや、なんで?」
努力むなしく梶の顔から笑顔が消える。「まぁ何でもいいじゃないですか」と意味深なことをいう立会人にすっかり警戒心を抱いた賭朗会員は、青い顔をして「いや、遠慮しときます」とまた一歩後退し、それでも追い縋ろうとする立会人に「いや! 本当にけっこうです! えっそれ奢らせたら僕なんの勝負に巻き込まれるんですか!? 怖い! すいません! 許してください!」と何も分からないまま謝罪を繰り返していた。