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 何を言っているんだと思われるだろうが、日本の法律が変わった。一夫多妻が法的に可能となり、ついでにアレだけ長年揉めていた同性婚についても、ある朝目覚めたらあっさりと認められていた。
 
 
 テレビ画面には三〇年連れ添ったというゲイカップルが顔を堂々と出して映っており、権利を勝ち取れた喜びと、一方で突然手のひらを返した政府への不信感を口にしていた。
 此度の改正は、長年利権獲得のため戦ってきた人間からすれば青天の霹靂だろう。数十年暖簾に腕押しの状態だったものが突然自発的に動き出したなら別の思惑を疑われても仕方なく、現にネット上では、急展開の改正に陰謀論や戦争の前兆といったいつも通りの仮説が乱立していた。

 朝一で部屋にやってきた切間撻器から口付けを受け、私は寝間着代わりの浴衣を脱ぐと、今日のために設えていたスーツに袖を通す。切間は当初自分も同席すると申し出たが、私のほうから「君は絶対に来るな」と厳に釘を刺していた。元凶がその場に居ると余計ややこしくなる。我々はこの男に良くも悪くもとことん弱いからこうなってしまったわけで、もし切間が場に同席すれば、結局ことの顛末は切間に都合よく帰結することだろう。それでは困るのだ。私は切間との関係に苦しんだ立場であり、またおそらくは同様に相手を苦しめた立場の人間でもある。相手からすれば本日は私を厳しい言葉で糾弾する最大のチャンスだというのに、切間のように完璧なバランサーがいては、おちおち感情的になることも出来ない。
 
「あいつはこんなことで動じる女じゃないぞ」
 
 私の目元をふわふわと撫で、切間は敬愛を隠す気のない顔で言う。
 これほど相手を愛しているのだと言葉や態度からしみじみ伝わってくるのに、切間がいま頬に手を添えている人物は、まぁ私なのだが、長年連れ添った奥方ではなくポッと出の根無し草だった。正確には昨日までが根無し草で、今日からは世に名高い切間一族の末端である。身軽でいようと根を張らずに生きてきたら、その生き方が仇となり、私は不惑にして日本の中枢に根を下ろす家に迎えられてしまっていた。

「元より嫉妬は期待していなかったが、結局絵子は文句の一つも言わなかった。そういう奴なんだ。報告の時の平手は重かったがなぁ」
「十分じゃないか。その一撃に無念や怨恨が込められていたとは思わないのか?」
「あの平手はお手付きをした俺への説教みたいなもんだ。他意はない」
「他意があったかどうかは、彼女の口から語られて初めて分かることだ」あまりにも呑気な物言いに、つい言葉には棘が生える。「彼女の主張は俺が直接彼女から聞いて判断する。不貞を働いた君に、奥方を断ずる権利があると思うな」
 
 ぴしゃんと言い放つと、切間はぐはぁっと口癖を漏らしてから「ぐぅの音も出ん」と笑った。
(しかしぐはぁは出てるじゃないか、ぐはぁは)
 微妙に納得がいかない気持ちで部屋を出ていこうとする。扉に手をかけたところでもう一度切間に口付けられ、名残惜しそうに離れていく唇が「仲良くしてくれ。俺はどちらも好きだぞ」とねっとり甘い呪詛を残していった。
 

   
 ※※※
  
  
 絵子夫人の部屋は俺の部屋から一番離れた東側にあり、中央に坐する切間撻器の書斎を挟んでちょうど正反対に位置していた。いかにも二人の対立を表したかのような間取りだが、実際は俺が越してくる際に使っていなかった部屋を改装した結果であり、空き部屋が西の隅っこにあったからたまたま俺と夫人の住居が離れてしまったというだけの理由だった。
 偶然部屋が離れただけに過ぎないので、勿論食事スペースや玄関は共有である。そのわりに今日まで一度も夫人と屋敷の中で居合わせたことがなく、そこだけは偶然で片づけて良いかは分からなかった。

 世話役に話を通し、朝食後絵子夫人が在室しているという彼女の部屋まで向かう。すれ違う使用人はみな私の姿を見かけると足を止め、私のことを敬うべき雇い主の一人だと示すかのように「匠様」と呼び、恭しく頭を下げた。
 切間家の使用人はたいそう教育が行き届いている。彼らは突然当主が「今日から嫁にする!」と中年男を連れ帰っても難なく対応してみせ、一人くらい当主の奇行を嘆いたり四十近くなって新妻などという肩書を持ってしまった私に嫌悪感を抱く人物がいても可笑しくないにも関わらず、むしろ私に同情的な姿勢を見せ、『とんでもない人に見つかって貴方も大変ですね』と困ったように笑いかけるのだった。

 この屋敷で暮らし始めて以降、私は一度として不快な思い・不自由な思いをしたことがない。屋敷の人間は思慮深く愛情深く、立会人の私ですら舌を巻くほどに優秀な人々だ。まさかまさかで近親になってしまった子息の創一さえ「父さんの人生だし匠さんの人生だ。好きにすれば良いよ」と私を気遣ってくれる始末で、この屋敷で唯一私をイライラさせるのは切間撻器だけであり、彼を頼りに転がり込んだ新境地で、彼にだけ苛立つようになるとは思ってもみなかった。
 
 
 
 
 屋敷は広く、何人もの使用人に見送られたのち私は絵子夫人の部屋の前に到着した。深呼吸をして、回数に気を付けながら扉をノックする。どうぞ、と扉の向こうから落ち着いた女性の声が聞こえ、ひとりでに扉が開いた。ドアマンを兼ねてくれた侍女に礼を述べ、室内に踏み込む。チッチという時計に似た音が私を迎え入れた。
 
 絵子夫人は応接セットの片側に座っていた。
 傾けていたカップをソーサーに戻し、夫人はにっこり微笑むと「どうぞ座って下さい」と私に真向いの席を勧める。
  
 
「あの人は来たいと言わなかった?」
「言いました。が、私側が断った。邪魔なので」
「そう。ありがとう。そういう無粋があるのよ、あの人は」
 
 
 切間とは少々年の差がある夫婦だそうで、絵子夫人はまだ五〇にもならない女性だった。柔和だが芯の強さが伝わってくる雰囲気をしており、光が届いていないはずの瞳は、それだというのに真っ直ぐと前を見据えたまま表面が輝いている。目鼻立ちはご子息にそっくりそのまま引き継がれていた。
 
「まだご挨拶を貰っていないから、今は私の知っている名前で呼ばせてもらいます。こんにちは真鍋立会人。貴方がその立場になることも、すべては決まっていたことだった」
 
 椅子に座った途端夫人が切り出す。先手を打たれ、内心動揺した。
 
「ご挨拶が遅れてしまい申し訳なかった。改めて、真鍋匠と申します。今日は時間を取っていただきありがとうございました」
 
 手が震える。己にも一丁前に緊張する場面があるのかと驚き、落ち着き払った夫人との差に早速汗が噴き出した。スーツから無地のハンカチを取り出し額に当てる。今日は立会人として出向くわけではないからと、胸ポケットに入れるハンカチを変えてきたが、正解だった。夫人相手に弐拾九號のハンカチを抜くわけにもいかない。
 
 絵子夫人に視線を戻す。彼女は普段通りの私服だった。身に着けているものはすべて清潔で、彼女の雰囲気によく似合っている。無地のニットに大振りな花柄が印刷されたスカートという出で立ちは、女性のファッションに詳しくない私であっても『感じの良い人だな』と好感を抱くほどにまとまりが良く美しかった。
 視力がない絵子夫人には、目の細かいニットも凹凸のない柄物のスカートも、おそらくはデザインの大枠さえ把握出来ていないはずだ。
 全盲の人が、似合いの服を着ている。
 切間絵子がこの屋敷の人間からどれだけ誠実に仕えられているかを察するには、それだけで十分だった。
 
 
「それで今日は、どういったお話があるのでしょうか。あ、その前に」
「はい?」
「卵が好きってうかがってるんだけど、どうやって卵をまるごと出したらお行儀が良いかとか、ちょっと分からなかったの。一応固ゆでと半熟を用意してもらったんだけど、食べますか?」
「あ、あぁ。では、いただきます」
「ニワトリとウズラと、どうしてだかダチョウもあります」
「お心遣い痛み入る。ダチョウは、今回は遠慮しておきます」

 言うが早いか、私の前には卵の盛り合わせが登場する。大小それぞれに二つ、計四個の卵が殻を剝かれた状態で皿に乗っていた。
 茶請けに卵を用意しろと言われ、屋敷の料理人も相当苦心したのだろう。別皿で燻したりタレに漬け込んだと思われる茶褐色の卵と、マヨネーズやケチャップが入った小鉢も続けて机に並ぶ。絵子夫人のもとにはシュガーポッドに入った卵ボーロが届いていた。

「同じものでなくてすいません」夫人が申し訳なさそうに言い、卵ボーロを一つ摘まむ。「個人的な話だけど、茹で卵はお茶請けじゃないかなって」

 正直な人である。卵ボーロはお気に召したようで、夫人は「あっ美味しい」とニコニコしながら二つ三つと口に運んでいた。好意を無下にするのもなんなので、とりあえず私も大きな方の卵を齧る。
 二つのうち、口にしたものは半熟だった。とろりと黄身がこぼれ、私の口元を汚す。
 咄嗟にハンカチで口元を押さえた。見苦しくてすいません、と謝ったところで、目の前の女性が全盲だったことを思い出す。すいません、ともう一度何に謝っているのかも分からない謝罪を口にして、私はハンカチで己の口を拭った。

 ハンカチに黄身が付着する。
 白かったハンカチが汚れる。
 
 
 
「貴方に私は何の恨みも無いが、結果として真鍋匠はこの家に入り、切間絵子と肩を並べる地位を持ってしまった。本来私はこの場に居ることも、切間の姓を名乗ることも出来なかったはずの人間だ。優遇され、この国の理を捻じ曲げられてここに立った。後悔も地位の返上もしないが、受けた優遇への対価は、支払わなければならないと思う」
  
 
 
 私は椅子に浅く座り直し、机の端に両手を置いた。夫人は卵ボーロに奪われた水分を紅茶で取り戻し、私の方をキョトンとした顔で見る。切間撻器が言ったように、彼女からは真鍋匠に対する悪意も他意も感じられなかった。凪いで、全てを受け入れているように見える。
 それが彼女の本意ならそれでも良い。だが本意かどうかを疑い、確認する義務が、私にはあると思った。
 
「俺は今日貴方に罵倒されに来た。許されるなら今、この場で貴方に頭を下げさせてもらいたい」
 
 
 
 
  
 沈黙があった。二秒ほどだ。言葉を言い淀んで生まれた沈黙と取ることも出来たし、単に紅茶を飲んでいたから反応に遅れたとも取れる時間だった。
 
「貴方はそう思っているのね」

 沈黙を破った夫人の第一声は、りんのような響きがあった。仏壇に置かれた小ぶりな金物。音が天に届くよう設計され、わずかに打っただけで細く広く空気を揺さぶるあの仏具に、夫人の声は似ていた。
 比べ物にならないな、と何度目かも分からない自虐が胸を突く。喉に仏具を備えているような清廉な人に、彼女と同格の地位を毟り取り、贖罪のつもりで本妻を訪問している俗物極まりない自分が対峙しているのだと思うと、彼女の意向を聞くまでもなく床に頭を擦り付けたくなった。
 私は何も喋らない。絵子夫人の声が続く。
 
「貴方を娶るために法律を変えた。そうね、あの人が行ったことは確かにそうだったのかも。結婚相手の条件を第三者が勝手に制限するなんて、おかしなことだったけど、これまでの時代には必要な法だった。けれど、その縛りはもうこの世界に不要かもしれない。転換の予兆はずっと前からあって、たまたま貴方の人生と変化の時期が合致しただけとも言えるわ」
 
 夫人は一息に言い切り、紅茶と卵ボーロの中間地点に手を浮かせる。どちらにするか迷い、結局は卵ボーロをつまんでいた。
 人生と変化が合致しただけという言い方は、切間撻器の行いを顧みると少し無理がある表現に思われる。切間は私に「すまんが惚れた」と言い、次には「惚れたからにはものにしたい。少し待っていてくれ」と言った。そうして物凄い速さで各所に連絡を取りはじめ、私が切間に絆されて体を明け渡すようになったころ、「待たせたな」とこの家に私を招き入れたのだ。その間、およそ三か月。中年が股を開くまでにかかった時間だと思えば長いが、通常の法改正に費やす期間を思えばあまりに短い。それに、いくら常に変化を求めている切間といえど、日ごろ画策している方向性と今回の改正では明らかに変化の形質が違っていた。どう考え得ても彼個人の私意が働いていて、それは絵子夫人のいう『たまたま合致した』には当てはまらない気がした。
 それとも、切間の動きも含めて『たまたま合致した』なのだろうか。全てはそうなるように組み込まれていた天命で、法律が変わったことも、自分の夫に己以外の伴侶ができたことも、夫人は天命だからと楽に飲み干せたのか。

 メディアに露出していた頃の夫人は私も記憶の片隅に留めている。同年代の人間が大抵そうであるように、私も『天命』という言葉を夫人を通じて知った。
 当時、周りの大人たちは蒼田絵子の教義に悲喜こもごもな反応を見せていた。成功者は「自分の生まれながらに天に祝福されていたのだ」と鼻を膨らませ、尻すぼみな将来が透けて見えている中高年は「なぜそんな残酷なことを言えるのか」と肩を落としていた。幸いにも私は義務教育中の身だったので、将来のビジョンなどそもそも不明瞭であり、生まれながらに運命は決まっているといわれてもさほど悲観的になることも無かった。むしろ蒼田絵子の教義や社会的な立ち位置など興味の範疇外であり、ただ学友と一緒に「美人だよな」とここでも俗的な話題に彼女を巻き込むだけだった。

 
 当時の夫人は一挙一動に『天命』というワードがまとわりつき、まるで彼女自身が一つの輪廻のようだったように思う。世間は彼女が天命を読んでいるのか天命を作り出しているのか認識が曖昧で、実際彼女を信奉していた一部の人間は、あの熱狂ぶりを見るに、彼女を後者の意味合いで捉えていた。
 天命。もとより決まっていた己の運命。ではそれを、あると仮定しよう。
  
 
 
 で、
 だからなんだというのだ。
 
 把握と納得は紙一重に見えて対局の位置にあり、ある側面から見ればつつがなく進行した運命も、またある側面から見れば食い止めたかった悲劇かもしれない。極論、人生はなるようにしかならない。天命という言葉に反射的な拒否反応を示す人間であっても、噛み砕き引き延ばした天命の同義語には「確かにそうだ」と頷くだろう。そうだ。天命はある。天命という名を持たなかったとしても、全ての人間に準ずる納得がある。私は私の人生を歩み、こうして不思議な縁に落ち着いた。成ったものは成ったものだが、それは単なる確認作業であり、私の感情を抜きにしても説明が成り立つ事実の列挙だ。絵子夫人にとっても同じである。夫に別の配偶者ができた。それらは全て天命だった。常人よりも早く事態の把握が出来ていたところで、己の人生に横槍を入れる私の天命を、彼女が疎ましく思わない理由は、どこにあるのだ。
 
「貴方は人間ではないのか。この屋敷において、私ばかりが人間だ。人は大きな流れに組み込まれ、しかしその中でも確かに一喜一憂する。なぜ受け入れるのです、唯々諾々とこの私を。天命は貴方の道筋であって、貴方自身の胸の内ではない。それとも私がおかしいのか。私一人きりのものでないことを後発の身で惜しく思う私が、人の道から更に外れて、おかしいのですか」

 喋りながら(あぁボロが出ている)と感じた。どこまでも平穏な夫人を前に、己の矮小さを思い知らされて私が勝手に自滅していく。
 まるで仏と対峙した人間が、問答の末に懺悔を選んだような気分だった。やはり絵子夫人は、輪廻そのものなのかもしれない。謝罪を吐き出すはずだった私の口は、こうして己の思いの丈だけをぽろぽろとこぼし始めていった。
 
 またしても沈黙。今度は三秒。ふふ、ふ。と、絵子夫人が笑い出したことで時は再び動き出した。
 
 
「私、ね? 今まであの人が私と別れたくないから、私と別れないで済むように法律を変えたんだと思っていたわ。全てが貴方の為だけに行われたことじゃないと思ってて、だから、別に悔しくもなんとも無かったの。違うのかしら。違うと言い切れる根拠が貴方にあるのかしら。貴方、案外傲慢なのね」

 夫人の喉が鳴る。小さな笑い声が、りんを打った時のように部屋中の空気を揺り動かした。
 内容としては糾弾に間違いない。しかし夫人の口元は微笑みを浮かべたままで、彼女を取り巻く空気も、一切の淀みが感じられなかった。『責められている』と呼ぶにはあまりにも温かい空気感だ。急に辛辣になった夫人の語句は、私の本音を読み取り、夫人が形骸的な怒りを作り上げようとしているからだとしか思えない。一連の振る舞いは、夫人が私の領域にまで“下りてきてくれた”と表現したほうがしっくりきた。

「貴方があの人と出会ったことも、出会った二人が引き寄せ合ったことも、全ては生まれてからの軌跡、もっといえば生まれる前から決まっていた天命だった。貴方とあの人の縁は天命。そしてそれは、あの人と私の間にあるものも同じです。どちらが先に会う順番だったかというだけで、時間の前後に差はあっても、この結果に貴賤はないの」

 中身に慈愛が詰まった張りぼての怒りを振りかざし、夫人は淡々と、決して私を否定することなく主張する。

「貴方は、自分が今日という日を全て生み出したのだと信じて疑わなかった。私とあの人の結婚生活に自分が水を差し、私からあの人を奪っていったと。そんな力は、貴方にも、この世界に生きる誰にも備わっていないわ」

 夫人は一度、そこで言葉を区切った。紅茶をひとくち飲み、ふぅ、と息継ぎをする。全盲の両目をしっかりと見開いて、切間絵子は予言のように告げた。
 
「貴方は傲慢な人」
 
 そして予言を打ち消すように、にこりとした。
 
「けれどその傲慢は、貴方の誠意であり、貴方の道しるべでもある。私、あの人が好きよ。ただ勘違いしてるみたいだけど、貴方のことも、けっこう好き」
 
 
 
 夫人が席から立ち上がった。スカートが揺れ、柄にあった大輪の百合がパッと花開く。慌ててあとを追った私が背筋を伸ばしたところで、夫人は腰から体を折り曲げ、深々と私に頭を下げた。
 
 
「切間絵子です。同じ立場同士、手と手を取り合いましょうなんて言うつもりはないけれど。でも、ご存じでしょうけど、私は盲目です。時には何もないところで転んだり、来た道が分からなく時もある。そんな時に、私はこれから貴方に助けを求める。貴方に付いていけばあの人に行き着くから。だから、手を繋げなんて言わない。掴む腕を貸してほしいの」
「夫人っ、」
「繋がれない手で、私たちは結びつけば良い。ようこそ切間匠。貴方を心から歓迎します」
 
 
 トドメとばかりに微笑まれた。完敗だった。私は腰から下の力が抜け、どすん、と無粋な音を立てて椅子に戻る。
 最初から最後まで、見透かされ、慈しまれていた。この人と肩を並べるなど到底無理だと思う気持ちすらも拾い上げられて、私は今日から、彼女と同じ位置に立つことが決まったのだ。

「……嫌われていたら良いと思っていた。巻き返す自信があったわけではないが、少なくとも暫くはやるべきことが決まる」
「もともと嫌いじゃなかったわ。でも部屋に入ってきたとき、大好きになったの」
「なぜ」
「新しいスーツで私に会いに来てくれた人を、どうして嫌いなれるの」
 
 天を仰ぐ。勝てませんと溢した私に、夫人はニコニコしたまま「負けるつもりないもの」と当然のように返した。