「いやだって弥鱈さんそういうイベント嫌いそうじゃないですか。製菓業界に踊らされてる~とか、リア充滅べ~みたいなこと言いそうだし。だから忘れてたわけじゃないけど、貰っても困るかなとか思ったんですよ」
「言い訳はそれだけですか」
「それに、一四日付近はお互い忙しかったでしょ」
「はぁ。じゃぁちなみに聞きますけど、御屋形様とマルコにはどうしたんですか」
「二人にチョコ?」
「そうです」
「えっあげましたけど」
そりゃお世話になってるし、と続けたところ、ソファからずり落ちていた弥鱈さんはそのまま床に「ゴンッ」と頭を打ち付けて停止した。ただでさえ玄関で手ぶらな僕を出迎えてからずっとムスッとしていた弥鱈さんは、僕の回答が決定打になったみたいで「なんでだよぉおぉ」と言いながらピカピカな床の上で暴れている。
不平不満を抱えても、弥鱈さんは外には吐き出さず腹の底でガッカリを煮込むタイプだと思っていた。何か気に入らないことを相手がしても「そうですか」と表面上は済ませ、しかし実際は全てを忘れないまま、ある時「もう結構です」と相手を締め出して終わらせる。そんな一方的で失敗を許さない恋愛をする人だろうと思っていたから、案外しっかり拗ねるタイプだと知った時には内心驚いたものだ。
多忙に多忙が重なって、結局最後に会ってから次の予定が立つまでに三週間もかかってしまった。
本日二月二九日。まさか二月も最終日になって、今更バレンタインの対応をなじられるとは思ってもなかった次第である。
「私甘党だってあんなにアピールしたのに。無いなんてことあります? 百歩譲って全員に無いなら分かりますよ? でも私だけに無いってなんですか? おかしくないです?」
床の上から恨めしそうな視線を向け、弥鱈さんがブーブーと文句を言う。甘党アピールというのは、僕が本部に行くたびにお菓子を差し入れてくれたり、家デートの時に高そうなケーキを用意してくれていたアレを言うんだろうか。言われてみれば、僕の横で弥鱈さんもシュークリームやチョコパイをもりもり食べてたような気がする。あれ甘党アピールだったんだ。てっきり弥鱈さんなりの愛情表現なのかと思って、『いっぱい愛してくれてるんだなぁ』としか思ってなかったんだけど。
「いやいや、僕が用意したのなんて四人ぽっちですよ。貘さんとマルコと夜行さん、あと伽羅さんへお供えしたくらいで」
「サラッと人数増えてるじゃないですか。四人って。おい」
「でもそれだけですって。弥鱈さんだけに用意がないってわけじゃないです」
「減らず口ですよそれは。私以外にも用意が無かったのは当たり前じゃないですか。そうではなくて、私に用意が無かったのが問題なんです」
何でですか、こちとら彼氏だぞ。
弥鱈さんが僕を信じられないものを見るような目で見る。弥鱈さんの言い分はもっともだったが、“あの”弥鱈さんが「俺は彼氏だぞ」と声高に主張してくる感じが、何だか不思議で、それこそ賭朗の面々にとっては信じられない光景だろうなと思った。弥鱈さんと付き合い始めて僕は驚くことばかりだ。その驚きは大半が嬉しい誤算に分類されるもので、チョコが用意されてなかっただけで予想外に拗ねてる今日の弥鱈さんも──弥鱈さんにとってはたまったものじゃないだろうけど──僕にとってはうれしい誤算である。
「あーあ。面倒くさいなぁもう」
思わず、そんな独り言が漏れる。弥鱈さんはすかさず眉を顰めて「面倒くさいとはなんですか」と僕に噛みついた。
「私だって別になりたくて面倒くさい奴になったわけじゃないです」
「僕のせい?」
「当たり前だ」
「チョコを用意されなかっただけでそんなに拗ねるんですか? らしくないにも程があるでしょ。そんなに楽しみにしてたなんて。もう、可愛いじゃないですかそんなの」
片膝をつき、床に寝ころんだままの弥鱈さんへ手を近づける。仏頂面の頬を摘まむと、弥鱈さんは一層嫌そうな顔になって「やめてくださいよぉ」と口の筋肉だけを動かした。
弥鱈さんは本当に怒っていると無言になるし、相手が嫌だと感じれば猫のようにそっとその場を離れてしまう。口だけで拒絶を示すときは、大抵は触り方が気に入らないだけで触られること自体はやぶさかでも無い場合が多かった。
今回も多分そうなんだと思う。試しに頬を摘まんでいた手で頬や頭を撫でてみると、弥鱈さんはもそもそと床から体を起こし、僕の手に自分の頭をぐりぐりと押し付け始める。チョコレート分の愛情不足を補えといわんばかりの行動に可笑しくなって、僕も弥鱈さんの頭をひたすら撫でた。
なでなで、ぐりぐり。
ワックスで固められた髪が台無しになり、ピカピカだった床には抜け毛が数本落ちていく。まどろっこしくなってきたのか抱きついてきた弥鱈さんを抱きしめ返しながら、僕は、どうしてこの人がチョコレートを嫌がると思ったんだろうと、思い込みで勝手な判断した自分を今更後悔した。
「ごめんなさい弥鱈さん。今度会う時までに、美味しいお店のやつ絶対用意しとくんで。一緒に食べましょう。甘い味を選びますね」
「今度じゃダメです。今でなければ」
「えぇーそれは無茶ぶ……」
「冷蔵庫」
端的な言葉に驚いて弥鱈さんを見る。相変わらず難しい表情の弥鱈さんは、一応付き合ってる身なので分かる、今は不機嫌ではなく気まずさ由来のムスッと顔を披露していた。
「本来日本のバレンタインは女性側が男性側に渡すイベントですが、我々は男二人ですし、貴方だけに女性役を肩代わりさせるなんて差別的じゃないですか」
弥鱈さんがやや早口に持論を展開する。逃げるように「私はコーヒー淹れるんで」とコーヒーマシンの方へ歩いていく弥鱈さんを追いかけて、なんでそんなに可愛い人なんですか、とキスをしたら、弥鱈さんは「その可愛い人にチョコくれなかったですけどね貴方」とブレない態度でネチネチと僕を攻撃した。