在宅中の弥鱈のもとに『梶様本部で発情!』と新聞の見出しみたいな連絡が入ったのは今から二〇分前。文言を作成した同僚の銅寺立会人に詳細を尋ねると、想定外の発作に対応が間に合わなかった梶は、あろうことかαの巣窟たる倶楽部賭朗の立会人事務所に飛びこんできたらしい。
「便所に行く途中で薬が手元に無かったんじゃと。本部で一番お前のにおいが残ってるのはこの部屋やからね。ま、しゃーないわ」
事務所前で弥鱈を出迎えた門倉は、そう、他の人間に口を出す隙を与えないよう矢継ぎ早に言った。
日中だったこともあり、梶の乱入した際室内には事務作業中の立会人が多く居たそうだ。彼らは突然の発情期Ωの登場に慌てふためき、間違えが起きる前にと作業を中断して急いで部屋を脱出した。その結果財布も貴重品も室内に置きっぱなりになってしまったそうで、部屋の前には門倉や銅寺の他にも、帰るに帰れない立会人達がうんざりとした顔で弥鱈の到着を待っていた。
梶の事情は全ての立会人が知っているし、弥鱈のことも“貧乏くじを引いた不憫な奴”として把握されている。しかしだからといって作業を中断された苛立ちは消えないわけで、門倉の発言は、それら全てを見越しての一言でもあった。
弥鱈はポケットから吸引抑制剤を取り出すと、規定量の三倍を続けて吸う。少々吐き気がして、鼻の奥が麻酔がかかったようにずぅんと重くなった。
大きな目をぱちくりと瞬かせ、銅寺が弥鱈に聞く。
「そんなに吸って大丈夫なんです?」
「まぁ元が毒性の強いものではないので。この程度なら吐き気を催すくらいですかね」
好んでいる友人なので、弥鱈も素直に返した。
「大変だなぁ番は」
「本当ですよ。なんで私がこんな目に」
ぶつくさ言う。本心である。腹の底から湧き出た不満だったにも関わらず、周囲の人間はによによとした顔で弥鱈を見た。
馬鹿にしていると言うより、微笑ましいといった感じの生温い視線だ。このような目を弥鱈は今までの人生で向けられた経験があまりなく、居心地の悪さから、弥鱈は逃げるように扉に手をかける。立会人の間で緊張が走り、無意識だろうが彼らの体が半歩後退った。(良いですねぇ皆さんは部外者でいられて)。弥鱈は内心でそう毒付いた。
僅かに開けた隙間からフェロモンが怒涛のように溢れ出し、周囲にひろがったにおいに弥鱈の背中からは「うっ」と苦しそうな声が上がる。例え運命の番などという特別な関係で無くとも、Ωのフェロモンはαにとってことごとく強烈だ。普通でも抗いがたい魅力なのだから、弥鱈の立場は推して知るべしである。
弥鱈はため息を一つ、腹を括って室内に足を踏み入れる。肺から戻した空気は抑制剤の苦々しい味がして、反対に鼻から新たに取り込んだ空気は甘ったるさが鼻腔を焼くようだった。ままならない体を引きずって梶を探す。会いたくないのに早く抱きしめたい。何もかも思うように回らず、全ては梶のせいだった。
長らく発情期不順だった梶が久しぶりにΩ性を発露させたとき、その場にいた弥鱈は思わず「嘘でしょ?」と目を丸くし、梶もまた近付いてきた弥鱈に「嘘でしょ?」と同じことを言った。運命の番なんて都市伝説だと思っていたのに、実際に出会ってしまうと審議や精査もなく“そう”なのだと二人は分かってしまった。明らかに他とは異なるにおいは、例えるなら高校の男子更衣室、シーブリーズの爽やかな香り漂う空間に叶恭子が投入されたかのような違和感を伴う。梶隆臣をファビュラスに例えるなんて弥鱈だって屈辱だが、そうとしか言いようがないんだから仕方がなかった。
運命の番とはバース性における本能の一つであり、繁栄に最も適したパートナーを遺伝子が選ぶという身も蓋も無い生物学的欲求だ。
つまりは繁殖にまつわるエトセトラの具合が良いということでもあり、あけすけな言葉で表現するなら体の相性に直結するバロメーターだった。
実際その場でおいおいマジかと困惑しあった二人は、何かの間違いであることを願いながらラブホテルに行き、エレベーター内で一度目のキスを交わしたところで嫌な確信を抱きつつも、それでも一縷の望みをかけてベッドに上がり、到底人様にはお見せできないぐちゃみそなセックスをした。
本能的に求めた相手の体は、良かった。引くほど良かった。弥鱈は男の体を初めて貪ったし、梶に至ってはそもそもセックスが弥鱈で初戦だった。なのに二人は激しく交じり合い、気付いた時には精魂尽き果てて全裸で寝落ちしていた。梶はともかく、弥鱈には一応性的な経験が梶の他に複数件ある。その道のプロと致したことだってあった。だがいずれも、童貞処女の梶には遠く及ばなかった。そんなはずはないのに、拙い彼の動きより自身を高ぶらせてくれた存在は過去に居なかったのだ。
こんな快楽が世の中に存在していたなんて知らなかったし、知らないまま人生を終えた方がよほど幸福だったとも思う。
結局弥鱈は今も梶に対して恋愛感情を抱いているのか分からず仕舞いだが、梶の体が惜しくて、こんな面倒くさい関係をずるずると引きずったままできている。
弥鱈のデスクは部屋の中央付近にあり、カスタマイズがなされた自宅の作業環境とは異なって支給された文房具と備品のみで構成されている。青色のクッションが一体化したキャスターチェアには座布団を乗せている人間も多かったが、弥鱈はそこまで長時間作業するわけでも無いからとそのまま使っていた。
今になって間に何か挟まなかったことを後悔している。目の前では弥鱈のキャスターチェアに梶がしがみつき、座面に顔を押し付けてフスーフスーとにおいを嗅いでいた。
「変態じゃないですか」
「みだらしゃん」
「自分のリコーダー舐めてる人間に遭遇した気分なんですが」
「あいたかった。えっちしよ」
「本当にねぇ、恥じらいのはの字も無いですね発情期の貴方は。私も会いたかったです。最悪だ。とりあえず抱きしめて良いですか」
「ん」
ひくひくと鼻を鳴らした梶が、嬉しそうに弥鱈へと腕を伸ばしてくる。すでに呂律は回っておらず、声や瞳はでろりと甘く蕩けていた。
オーバードーズになるほど抑制剤を服用したのに尚も頭がおかしくなりそうで、弥鱈は唇を噛み締め、ガンガンとこめかみを拳で殴りつけてから梶を抱き上げる。
抱きしめた身体は熱っぽく、弥鱈が腕に力を入れると骨を軋ませながら歓喜を伝えた。ぐんと首筋のにおいが強くなり、さぁここを噛めとばかりに弥鱈の本能を誘導する。
番だが首は噛まないと決めて、もう何度発情期をやり過ごしてきたことだろう。Ωのフェロモンは強烈だが、あくまで広範囲にαを誘惑するのは、特定のαと契約をしていないフリーのΩが放つフェロモンのみだ。仕込みや勝負の時に使えるからフリーの立場を貫きたいと梶は言い、弥鱈もその方が立会が面白くなるだろうと承諾した。門倉がやたらと梶の発情期を庇ったり、今回のような騒動になっても誰も弥鱈に契約を迫らないことにはそういった経緯があるのだ。弥鱈と梶は運命の番で、彼らは運命を受け入れたが、同時に業を選んでもいた。
「薬を持ってきましたよ。飲めますか」
「のませて」
「水はないです。口の中で溶かせばいいタイプなので」
「のませて」
「聞いてますか。口を開けてください」
「のませてよぉ」
「何も聞かないなこの人」
埒が明かないと判断した弥鱈はさっさと次の作戦に移る。持参した錠剤を自分の舌に乗せ、だらりと外に放り出して梶を誘った。思った通り梶は舌に吸い付き、生々しい水音を立てながら錠剤ごと弥鱈を口内に招き入れる。弥鱈は薬を梶側に押し付け、梶の喉が嚥下したことを確認してから改めて口内を蹂躙した。即効性がある薬なので効果が出るまではほんの数分だ。あとは梶が落ち着くまでの間、彼の気を紛らわせておけばよかった。
密着した体に梶が破顔し、擦り寄ったり、媚びるように上目遣いを弥鱈に投げつけてくる。「さわってほしい」としきりにねだるので、まぁ着衣の状態なら良いだろうと弥鱈は服の上から梶の体を撫でた。
部屋の外には未だ、帰るに帰れない多くの立会人が居る。他人の醜態は見たいが自身の醜態を見られたいわけではないので、弥鱈は梶が正気に戻り次第すぐに退散しようと思っていた。ただ一方で、このまま此処でコトに及んだら奴らはどんな顔をするだろうとも興味本位に考える。番に選ばれてしまった弥鱈を周囲の人間は「不憫な奴」だという。確かに圧倒的にデメリットの方が多い損な役回りだが、彼らことαの大半は知らないのだ。どれだけ面倒だろうと恋なのか分からないままだろうと、全てを凌駕してアレが欲しいと本能が訴えかけてくる。底のない欲を求め、届かないものに手を伸ばす。そんな渇望を愛し飢えを愉しむ生き方は、まるで立会人の生き様そのものだった。
全部が全部ままならない。思うように回らない。餌であるはずの生き物に、自分の人生が狂わされていく。
あぁ面倒だと本心から思う。ただその面倒を、どうせなら味わい尽くしてやろうとも思っている。
「みだらさんかんで」
「お断りします。通常時の貴方から噛まないでほしいと念を押されていますし、大体貴方を噛んだら、周囲にどれだけ嫌味を言われるか」
「でも、首むずむずするんです。みだらさんにかまれたい」
「奇遇ですねぇ。私もいま歯が疼いていて不快です。黙っててください」
「なんで……みだらさん、僕らうんめいですよ。運命はかまなきゃなんですよ」
「しつこいな。噛みませんよ。どうせ貴方も後悔するんですから」
「しないっ……しないから……!」
「します。貴方はギャンブラーだ。運命より性(さが)を取る。我々の糧はそういう生き物です」
何十回目かも分からない押し問答を繰り返し、こんな状況も今に終わるだろうと梶を抱きしめ直す。煩わしいが全く可愛くないわけでもないので、「ちゅーして」と言われたら応えてやった。
運命の相手は体液が甘い。梶の口内を堪能しながら、首を噛めばもっと自分好みの味になるだろうかと弥鱈は夢想する。
運命の番という最高のご馳走を目の前にぶら下げられ、涎を垂らしたまま待てを強いられているのはこの瞬間弥鱈のほうだった。
そういった意味でも梶は弥鱈にとって正しく糧であり、生涯専属候補から外されている現状も含めて、弥鱈は皮肉が利いているなと自分たちを振り返って思った。