「なんで僕と付き合ってるんですか」
切間創一が顔を顰めた。そりゃそうか、と梶も思う。
スタートこそ「分かった、もういっそ今しがたの告白は無かったことにしてくれて良いから僕と映画を見ないか梶隆臣」の譲歩から始まったデートも何だかんだで八回目を迎え、三回目以降はきっちり恋人という肩書のもと、映画、水族館、遊園地、記念日ディナーなど様々な場所に二人で赴いてきた。
切間と梶は揃って恋愛経験が豊富なタイプではないため、恋人らしい光景が多かったかと言われたら確かに微妙ではある。
が、かといってデート中の二人が男友達の範疇かといえば───まぁ違うな、という感じだった。さすがに男友達は超越している。そこの分別くらいは梶にも付いていた。
「僕と付き合ってみてどうですか」と現状確認をするならいざ知らず、梶の「なんで僕と付き合ってるんですか」という根本的な質問は言わずもがな相手に対して失礼だ。
切間は二人の間にある固く結ばれた手を見下ろし、これみよがしにブンッと振った。平日の公園は自分達の他に人も居らず、切間の手に最初に指を絡めたのは梶である。そんな経緯も含めて、切間は面白くなさそうだった。
「なんでって、なに」
詰問口調で切間がたずねる。繋いでいない方の手に持っていた紙袋を、切間は表面の印刷を見せつけるように梶の眼前へと掲げた。
店名が入ったヴィンテージ調のロゴと、チーズがバンズからはみ出しているハンバーガーのイラストが中央にでかでかと配置されている。一個二千円越えの高級バーガーを食べてみたいと言い出したのも梶だった。
「今から僕たちは持参した弁当を広場の芝生の上で食べてのんびり昼寝をするんじゃないの? 今後の予定における呑気さと、質問の深刻さが噛み合ってないように思うんだけど」
引き続き切間が不機嫌を隠しもしないで言う。いざ口に出してみると本当に平和ボケしたデート内容であり、こんな内容を大の大人が真剣に協議して決めたのかと思うと思わず梶も苦笑いしてしまった。
いや勿論先日の二人は自暴自棄になっていたわけではないし、むしろ真面目に【デート マンネリ防止】で調べた結果公園デートに行き着いたのだが。だとしても芝生の上でハンバーガー食べてお昼寝。まるで休日の幼稚園児のような過ごし方である。
「いやなんか、思い立ったら吉日っていうか。ふと気になりまして」
「口は禍の元ってことわざ知らないの」
切間の表情がさらに渋くなる。嫌な予感でもしたのだろうか、繋いでいる手に力を込めた切間は「もしくは触らぬ神に祟りなし」とも付け足した。
この場合の『神』が指すのはおそらく切間のことだ。単にことわざをなぞらえただけの例えだったが、あまりに似合う語句に、梶は変なところで緊張してしまう。神。そう、神だ。切間創一は神に等しい存在である。
そんな切間に梶は『君を好いている』と言われ、あまつさえ恋人などという対等な関係に落ち着いてしまった。
梶は自分がごく普通の人間であると自覚しているし、切間のことは肉体的構造上人間に区分されると理解しつつ、一方で、彼の概要を掻い摘むと全知全能の神と大体定義が同じであるとも認識している。
さながら神に見初められた農夫の気分だ。神話なんかを見ていると案外素朴な人間にコロッといく神様が登場したりするが、自分と切間の恋愛は、傍から見ればその類に映るのではないかと思う。
繋いだ手は温かく、切間側からは手を離そうという素振りは一向に見られない。デートを八回こなしても、やっぱり今日も『どうしてこんなことになっているのだろう』という疑問が梶の中には渦巻いていた。
無意識のうちに首を傾げる梶に、また妙なことを言い出すと思ったのだろう。先程の質問を自ら蒸し返し、切間が梶の顔を覗き込んだ。
「何で付き合ってるのかって聞いたね」
「はい」
「僕が隆臣に好意を抱いているから。当たり前でしょ」
遠回しな言葉や小粋な愛情表現は梶にとって逆効果だと既に学習が済んでいるらしく、切間の口調は、裏を読むことが出来ないほど端的でストレートなものだった。梶を真っすぐな眼差しで見つめ、他意がないことを知らしめるように「君が好きなんだ」とダメ押しの一言も忘れない。
瑠璃色の瞳に、梶の顔が写り込んでいた。切間の神秘的な蒼に染まった自分は普段より少し高潔な存在に思えて、梶はほんのりと頬を赤らめ、ありがとうございます、と上ずった声で礼を言う。
「そんな風に言われると、嬉しいです」
「あぁそう。僕としては、デートで再三伝えてきた事実を復唱したに過ぎないんだけど。君はなんでそう、僕が好きって言うたびに“初耳です”って顔をするのかな。それとも君に好意を伝えるのは今日が初めて? もしかして隆臣も定期的に記憶がジャンプするの?」
「や、勿論今までに言われた記憶は残ってるんですけど……でも、だって、正直納得はいかないっすよ」
「えぇー」
切間がUMAでも見るような目を梶に向ける。
当たり前の反応だった。切間の好意に喜びを表してから僅か二秒後の発言なのである。
「納得がいかないってどういうことなの。返答によってはショックでこの場で記憶が飛ぶよ?」
「斬新な脅し文句」
「それくらいショックってこと。良いかい隆臣。人間、好意を疑われることほど虚しいことはないんだ」
真面目な顔をして切間が言う。まったくもってその通りなのだが、切間から人間について懇々と説かれるのは、梶からすると正直変な心地だった。
思いがけない事実だが、日頃人類を超越していると持て囃される切間であっても、好意を無下にされる感覚はそこら辺の人間と何ら変わりないらしい。
嫌な思いをさせたのなら一先ず謝った方が良いかと思案した梶だったが、そうすると今度は、『切間さんのことを人間の情緒を持ち合わせていない超常現象だと思っていてスイマセン』と余計なことまで追加して謝る必要性が出てくる。それもどうかと思ったので、梶は曖昧に苦笑して終わった。
「でもその、切間さんって実際問題、貘さんとの方が仲良いですよね?」
「出たよ貘さん。君はソレ、どこの立場から僕をなじっているの?」
切間があからさまにげんなりする。整った横顔には『そこはお互いアンタッチャブルじゃないの』という突っ込みが書いてあって、斑目と寝食を共にしている梶は途端に立場が悪くなった。
「気が合うことは否定しないけど、貘さんとはそういうのじゃないって前も言ったよね」
「でも貘さん、すげぇイケメンじゃないですか」
「知らないよ。友達の顔なんてどうでも良いでしょ」
切れ長の目が下方に視線を流し、薄く整った唇はふぅと細く息を吐く。言葉の通り切間の表情は心底どうでも良さそうだった。
卓越した頭脳や立会人顔負けの暴の才など、長所を上げると枚挙にいとまがない切間なのでうっかり称賛が後回しになってしまうが、切間創一はその容貌もひどく優れている。あの斑目貘と並んでも視覚的になんら劣りの無い(むしろ人気を分断するだろう)ビジュアルなので、確かにこんな人間にとっては友人の美醜など関係ないのかもしれないと梶も思った。
というより、切間はもはや人間の顔など張り付いてさえいればオッケーなのかもしれない。
なんと言っても自分に惚れるくらいなのだ。
「でも貘さんは頭も良いですよ。切間さんと同じくらい」
なおも懲りずに梶は斑目の話題を振る。
ここまでくると自身の疑問を払拭したいのか、敬愛する貘さんを称えたいのか自分でも分からなかった。
「そうだね。だから?」
切間がふい、と顔を背ける。話を切りたいと態度が示していた。
「いやその、恋愛って同レベルの二人じゃないと成り立たないって言うじゃないですか」
「隆臣だって地頭が良いよ。自信を持って」
「いや、僕なんて……二人とは比べるのもおこがましいですよ。それくらい分かります」
梶が自虐的に視線を落とす。一向に話を終えようとしない梶に、いよいよ切間も苛立っているようだった。
ふぅん、と興味が無さそうな相槌を打ち、切間は繋いでいる手を一層強く握る。梶が痛いと叫び出さないギリギリのラインまで握力を上げ、彼にしては珍しく、唇を噛んで悔しそうな顔をした。
「おこがましい、ね。頭の違いは勝手に推し量るのに、君と僕は対等だよっていう僕の主張は無視するんだ。どうかと思うよね」
棘のついた言葉が梶を刺す。
ハッと顔を上げた梶は、ようやく自身の失言に気付いたらしい。みしみしと骨が軋んでいる手を無視して、慌てて梶が首を振った。
「や、その、無視するつもりとかは全然っ……!」
「そろそろ芝生の真ん中かな」パッと切間が手の力を弱める。「ここらで食事をとろうか」
唐突に話を切られ、梶はぎくりと体を固くした。
意図的な弁明の無視は、切間なりの意趣返しだろう。これ以上同じ話題を続けるのは避けた方が良さそうだと、梶は大人しく切間に従うことにする。
植え替えたばかりらしい青々とした芝生に腰を下ろし、二人は揃って持っていたバーガー屋の紙袋を開ける。炭火焼きのにおいが辺りに漂い、気まずい空気とは裏腹に梶の腹がぐぅと鳴った。
(空気読めよ腹の虫~!) と内心居たたまれない梶を他所に、切間はさっさと袋の中からオリジナルバーガーを出して齧りつく。梶も自分のてりやきバーガーを取り出し、そそくさと食べ始めた。
二千円のハンバーガーはバンズがふわふわと柔らかく、ハンバーグは冷えてもジューシーで食べ応えがある。値段以上の味に感激する梶の隣で、切間はもそもそと口を動かしていた。あまり食事を楽しんでいるようには見えなかったので、梶はつい「ハンバーガーあんまり好きじゃなかったです?」と切間に尋ねる。
すると切間は、ギロリ。
「味がしない。隆臣のせいだからね」
どうやら先ほどまでの苛立ちはバーガー程度では全然収まらないらしい。剛速球の恨み言をぶつけられ、梶は逃げるように自身のハンバーガーに喰らいついた。
美味しかったはずのてりやきソースが、砂糖の甘さや粘り気が舌にまとわりつき途端に不快に感じるようになる。二千円もしたのに、と残念な気持ちになりながら、梶は黙って残りを胃袋に入れた。サイドメニューの分厚いフライドポテトと、ドリンクのクラフトコーラも同じ調子で消費していく。
麗らかな昼下がりに新緑豊かな五月の公園で食べるハンバーガーセットは、そんな具合で、特に食の悦びや会話の広がりを提供することも無く終わった。
食べ始めはほぼ同時だったが、一口が小さい分、梶の食事が終わっても切間は未だハンバーガーを咀嚼している。
ゴミの入った紙袋を膝に乗せ、さてこの空気をどうしたものかと途方に暮れる梶の隣で、切間が最後の一口を口の中に放り込んだ。
「 ─────で、なんだっけ? 君が貘さんに鞍替えしたいって話だった? 怒るよ本当に」
食べ終えた包み紙を丸め、意外にも切間は自分から再度話を振る。
育ちの良い彼が口に物を含んだまま喋り出しているとは考え難かったが、不機嫌を表明するように、切間の頬はバーガーが口に入っているかのように膨れていた。
コーラの残りを飲んでいた梶は「んぐっ」と言葉を詰まらせて切間を見る。
「そんな話してないです。なんで切間さんが僕と付き合ってるのか謎って話」
「理由はさっき言ったよね。君が突然貘さんの名前を出したからややこしくなっただけで」
「いやそりゃ、思うでしょ。誰だって思いますよ」
「僕は思わない」
「そういう話をしてるんじゃないんです」
「じゃぁどんな話をしてるの」切間の頬がリスのようになる。「僕が何で君と付き合ってるか分からないって話なら、この話題の登場人物は君と僕だけでしょ。支離滅裂だよ。君が言ってることの意味が分からない」
先程といい、切間の言葉はチクチクと梶の肌を刺した。声を荒らげることも無くここまで威圧的な雰囲気が出せるのはある種才能だが、食事をしたばかりの胃には少々重すぎる空気だ。
のどかな公園を背景に、私服に身を包んでもこれなのだ。ここが公園ではなく賭朗の本部で、目の前の切間が私服ではなく仕事着だったらどれだけ恐ろしかっただろうと梶はゾッとする。
「あの、切間さん知ってます? 切間さんの詰問口調って、ご自分で思ってる以上に怖いんですよ。プレッシャーでハンバーガー出てきそうなんですけど……」
「仕方ないでしょ。だって僕はいま苛立ってる。今日は隆臣の膝枕で昼寝をしようってウキウキしてたのに」
「えっ、あっ、この後はそんな予定があったんだ?」
寝耳に水のスケジュールに梶は目をしぱしぱさせる。予想外のイチャつき希望に驚きはするが、自分の膝枕ごときでウキウキする切間は素直に可愛いと思った。
「分かりました膝枕ですね。どんとこい」
反射的に紙袋を横の芝生に置き、スペースを作った太ももをポンポンと手で叩く。
今度は切間が目をしぱしぱさせていた。
「……君はどうして自分と付き合ってる理由も分からないような男に膝枕をしてやるの?」
「えっ? だって、切間さんが膝枕されたいって」
「分からないよ君が」
切間がため息をつく。呆れた調子のわりには、次の動作で切間は芝生に横たわると、梶の太ももに躊躇いなく頭を乗せた。
とすん、と梶に重みが負荷され、手持ち無沙汰らしい切間が「手ぇ貸してよ。繋ぎたい」と注文を付ける。指同士を絡め合う密着した繋ぎ方を選んだ切間に、梶は(僕だって貴方が分かんねぇよ)と口には出さずに思った。
「どうですか膝枕」
「あんまり寝心地良くない。固いし、枕にしては高いよ」
「そりゃそうでしょ。じゃぁ止めます?」
「止めない」
「そうすか」
不機嫌な男の頭を膝に乗せ、梶はどうしたものかと周辺を見回してみる。おかしなことに、開けた場所に座っているにも関わらず、梶の視界には人っ子一人見当たらなかった。
自分たちのようにピクニックをしている家族連れは勿論、暇を持て余した老人の散歩姿さえない。
まるでプライベートビーチならぬプライベートパークといった有様で、平日とはいえ都内の公園なので、あまりの静寂っぷりに梶の胸中はざわざわとした。
ふと、嫌な考えが梶の頭を過る。
もしや今回のデートに備え、切間はこの公園を貸し切り状態にしたのではないか。
普通であれば突拍子のない内容でも、相手が切間創一というだけで仮説は現実味を帯びてくる。というか、現実味を帯びるどころか実際過去に現実になったことがあった。
いつかの水族館で、梶はこちらに身を寄せてきた切間に「人がいるので」と拒否を示した。すると切間は「だったら先に言ってよ」と含みのある言い方をし、次のデートでは予告なしに遊園地貸し切りをかましてきたのだ。
一体どういった指示を切間が出したかは分からないが、入場ゲートに「歓迎 創一♡隆臣」と弾幕が張られた光景を目にした時、梶の胸中では感激より恐怖が勝った。二人の為だけに開催された華やかなパレードを見ながら「恥ずかしいを通り越して恐ろしいんで貸し切りはもう止めてください」と梶は真剣に頼み込み、「君がそう言うなら」と頷いた切間はその次から貸し切りを止めてくれていたが、今回は目的が膝枕ということで貸し切り指示が限定復活されたのかもしれなかった。有り得る。切間の一族は標準装備として目的の為なら手段を選ばない節があった。
考えなくとも結構な奔走であり迷走であり暴走である。特に柔らかくも適度な高さに設定されたわけでもない男の膝枕の為に、もしかしたら切間は公園中の人払いをしたかもしれないのだ。物好きというか酔狂というか、これを愛と言わずしてなんと言うといった状況だったが、ただそれでも、梶は膝枕で寛ぐ切間の姿を、現実味の無い光景としてしか受け取ることが出来なかった。
「……贅沢なのかなぁ」
「なにが?」
「僕の現状が、です」
「気にしなくていいよ。所詮区営だから、結構安かった」
「そうじゃなくて……いや、つか。やっぱり貸し切ってるじゃないですか」
「あ」
切間の愛情を示す物的証拠がいくら出揃ったところで、梶の中にずっとある“なぜ”の疑問は拭われない。切間は完璧で間違いのない生き物であり、困惑は日常茶飯事だとしても、少なくとも恋人が不安になるような動きをしたことは梶の記憶上無かった。金に糸目はつけないが、かといって金に物を言わせて他を蔑ろにすることもない。一途に直向きに、言葉は悪いが知識として習得している愛情の示し方を、切間は梶に遺憾無く披露し続けてくれていた。
不審な素行など欠片も見せない相手に対して、自分の挙動は不誠実だと梶だって自覚している。切間が寛容だったから八回分のデートは平和に終わったに過ぎず、記念日ディナーの折「ホテルのディナーに行こう」とあえて指定した切間に「あっじゃあ僕が住んでるホテルどうすか⁉ 終わったらみんなでお泊まり会出来るし!」と明らかに怖気づいた提案を梶がした時も、切間は梶の案を無条件に飲んで斑目を唖然とさせたくらいだった。
『そんなのって無いぜ梶ちゃん』と斑目が思わず同情してしまうくらいの仕打ちに対しても、切間は文句の一つを言うことも無い。愛されてないなんて思わない。でもやっぱり、梶は納得がいかなかった。
脳みその出来も個体としての価値も、梶は何もかもが自分と切間では釣り合わない気がした。もしかしたら切間だけが超越した存在だったら、自分以外だって五十歩百歩だろうと開き直れたかもしれない。でも現実には、切間の周りには切間に劣らない存在が集っている。美しい人も強い人も、梶が切間以上の畏怖と畏敬を注ぎ込んでいる人物さえも切間の近くに居る。
彼らが──切間や斑目が、ただ生きているだけで巻き散らす存在感が。梶には無い。あれほど強い光は梶には到底放てない。
「世界を二つに分けるとしたら、僕と切間さんは派閥が違うと思うんです」
言ってから、切間の話題の唐突さを自分は馬鹿に出来ないな、と梶は思った。脈略が無さすぎる。案の定切間はキョトンとしている。
いきなり降ってきた壮大なテーマに切間は首を傾げたが、それでも話題の中心にあるものが自分たちの間に立ちはだかる価値観の壁だと察したのだろう。切間は「僕はそうは思わない」と半ば意地になったように梶の膝に顔を埋めた。
とりあえず感情で目先の答えを出す無邪気さも、瞬時に物事の中枢を推し量る聡明さも、あぁ切間さんだなぁ、と梶はしみじみ感じる。変な表現かもしれないが、梶と一緒に過ごしているときの切間は何気ない言動からよく『切間創一』が漏れていた。完璧で無欠なことに違いはないのだが、漏れ出た切間創一を集めて胸の内に仕舞いこむ瞬間が梶は好きだ。
切間の顔を梶が撫でる。吹き出物など出来たことが無さそうな、凹凸の無い肌が指先に心地よかった。
「あのね。二つに分けるっていうのは、光と影に分けた時って話なんです。貘さんと切間さんが光で、影が僕」
「なんで一番初めに出る名前が貘さんなの」
あ、と思ったが遅かった。またしても斑目の名を出した梶に、切間が顔を戻してムッとする。形の良い唇が今にも「君には学習能力がないの?」と糾弾しそうだった。
「や、名前の順番に特に意味はなくって。よく呼んでる名前が最初に出ただけで」
「全然フォローになってないよそれ」
「ほら、お二人ってなんか存在が強いじゃないですか。光ってるっていうか、貴方たち自身が光源って感じ」梶が失言をうやむやにするように捲し立てる。「僕はそんなんじゃない。ビカビカ光ってる人たちの恩恵を受けて、影でせこせこしてるような人間です」
ね? と同調を求めるような梶に、切間は胡散臭いものを見るような顔をした。
「抽象的な表現だ。ピンとこないな」
「当事者は分かんないもんです」めげずに梶は言う。
「君も光だよ。少なくとも僕にとっては」
おもむろに切間が体を起こす。ちゅ、と小さく口付けを落とし、切間はまたもぞもぞと体を芝生に横たえた。
固くて寝心地が良くないという梶の膝に頭を乗せ、次なる目的である『昼寝』に向けて切間は少しでも寝易い位置を見つけようと頭の位置を微調整する。だが、結局満足のいくポジションは存在しなかったらしい。切間は横向きやうつ伏せなど様々な試行錯誤を繰り返した結果、最終的には「顔が見えた方が良い」と言って初めの仰向けの体勢に戻った。
公園のど真ん中は芝生が敷かれただけのだだっ広い空間であり、周辺には二人の視界を遮るものがなく、燦々と降り注ぐ日差しが切間の顔を焼いている。
眩しそうに眼をすがめながら、それでも切間は梶を見上げていた。注目される気まずさから梶の視線がきょろきょろと泳ぎ、キスの感触を思い出すように唇を舐めると、切間からは「君からもしてよ」とリクエストが挙がる。
「えぇー? 僕から?」
「嫌なの?」
「嫌じゃないですけど、恥ずかしいっていうか。外だし」
「都合よく人は居ないよ」
「都合よくじゃないですよね? 手筈通り人が居ないんですよね?」
「分かってるならもっと恥ずかしくないでしょ」
いけしゃあしゃあと約束破りの切間がのたまう。あまりに堂々とした振る舞いのため、梶もそれ以上文句を言う気になれなかった。
体を屈めて梶が切間の顔に唇を落とす。一応狙いは定めたが、慣れない体勢だったため上手く唇には当たらなかった。
下唇と顎という座標がズレたキスに、それでも切間は嬉しそうに「ありがとう」と微笑んで言う。切間はいつもそうだ。自身は完璧を以て梶に接するのに、梶には彼の精一杯以上を求めない。頂点の血族ゆえのノブレス・オブリージュが身に付いているのだろうか。もっと簡単に『愛しているから』で片づけてしまえばそれまでだが、愛情の出どころが不明瞭な梶にとっては、そんな切間の優れた人格さえ不安材料になった。
切間の頭を芝生に下ろし、梶は寝転んでいる切間と横並びになると、改めて正確な場所に唇を押し当てる。中途半端なキスで終えるのは締まりが悪かったし、なにより、あんな中途半端なもので切間に満ち足りた顔をさせるのはどうかと思った。
一度触れたら元の体勢に戻ろうと考えていたが、離れようとした途端梶は切間の方から再びキスをされる。六回目くらいのデートから差し込まれるようになった舌を絡め、表面をこすり合わせると、切間の舌からは先ほどのバーガーに使われていたのだろうバーベキューソースの味がした。きっと切間は切間で、梶の口内に砂糖やみりんの甘ったるさを感じているはずである。
キスの合間に梶が尋ねる。
「どうして切間さんは、僕をそんなに買い被ってくれるんですか?」
切間はハッキリ、寂しそうな顔をした。
「ねぇ。隆臣のその受け取り方、どうにかならないの。僕がいつ君を買い被ったの? 僕は君を、等身大の梶隆臣しか見てないし評価してないよ」
太鼓判を押すように切間が額に口付ける。
梶にとっては全てがいろんな意味で甘い行動だった。
「……君は、僕の命を救ってくれた。入院中お見舞いに来てくれたし、それだけでも十分なのに、退院してからも会うたびに挨拶をしたり、話しかけてくれたね」
「それはまぁ、はい」
「君はとても親切で、僕の恩人で、なのに恩着せがましいことは何一つ言ってこない」
「は、はい」
「それはいずれも凄いことなのに、君は今みたいに、全部当たり前って顔をして僕に接してくれたんだ。あぁ本当に、根が良い子なんだと思った。誰に対しても優しく思い遣りのある性格なんだって。良いなって思った。こういう子と付き合いたいって」
切間の手が伸びてくる。完璧な彼の肌に比べれば油分やニキビ跡が目に付く不完全な梶の肌に、切間の指が触れ、愛おしそうに表面をなぞった。
「逆に聞こうか。僕が君を好きにならない理由って、そんなに多くあるのかな。僕の感情の起点は、どれもわりと妥当だったと思う。普通なら、疑問の余地も無い道筋で君に惹かれた。それでもなお君が僕の好意に疑いを抱いてるっていうのなら、それは単なる僕への偏見に他ならない───隆臣、それは差別だよ。僕にだって普通の理由で好きな子を決める権利がある」
切間が梶を見据え、梶は真っすぐな切間の目を見られずにいる。会話は以降続かなかった。
人目の無い公園で、二人はそのまましばらく、無言で口をくっ付けたり離したりした。切間は純粋に恋人同士のスキンシップを楽しんでいるようだったが、梶は次第にソワソワというか、ちょっと変な気分になってくる。
そういえばの話で、寝そべった状態で行うキスは今回が初めてだった。AVで事前学習が済んでいる脳みそは次第にこの後の展開を想像しはじめ、梶の脳内は、早速昼間の公園でおこなったら即通報案件な事態にまで発展していく。
(まずいって。さすがにそれは、人の目が無いとしても人としてまずいって…!)
ロマンチックな初夜を迎えたいなんて願望があるわけもないが、かといって日中の、公園の芝生の上でコトを済ませることが正解だとは流石の梶だって思っちゃいない。
「切間さんっ。も、もう……!」
「もう?」
「お、起きましょ。膝枕っ。ね、当初の目的!」
「あぁうん……膝枕なら、まぁ良いけど」
無理やり上体を起こした梶は、切間の頭を慎重に持ち上げ、再び膝枕の体勢を取った。
体が離れた瞬間は不満そうだった切間も、所定の位置に頭を置き直すと溜飲を下げたように目を閉じる。
「寝る」
「あ、はい。おやすみなさい」
まさか本当に寝るつもりだったとは。
驚く梶を他所に、切間は腹の上で指を組み、いかにも眠る人の姿勢を整えた。
真昼の陽光が仰向けに寝る切間を容赦なく照らし、長いまつ毛の隙間をぬって、瞼の隙間から光が切間の目に入り込んでいる。寝るには眩しくない? という梶の予想通り、切間はぐぐっと眉間に皺を寄せ、より強く目を瞑ろうとしていた。
確かに遮光率は上がるかもしれないが、そんなに力んでいて眠気はやって来るのだろうか。
変なところで不器用な切間を見かね、梶は丁度良いところにあった額の黒子をぐりぐり押したあと、そっと自分の手を切間の上に掲げた。
太陽と切間のあいだに屋根を作ってやれば、顔に影が落ち、切間の目元には少々の暗がりが出来上がる。眉間の皺が薄くなり、表情筋の強張りも見る見るうちに和らいでいく。多少なり眩しさが軽減されたであろう状況に顔を緩ませ、梶は切間を柔らかな表情で見下ろした。
このまま切間は寝入るのだろう。
そう、梶が思い始めた頃だ。
「……今くらいの明るさが隆臣だと思うんだよね」
ぽつんと、切間が独り言のように話し始めた。
「明るさって?」
話の前後が分からず、梶は不思議そうな声を上げる。
「明度の話だよ。僕は隆臣を光属性の人間だと思っているけど、でも君をスポットライトみたいな煌々とした光だと言うつもりは無いんだ。隆臣はさ、明度としては低いんだよ。ほの明るいってくらい。何でも見えるってほどじゃないけど、作業に支障が出る暗さでも無い。これくらいの光源があれば生活は出来るし、寝ようと思えばすんなり入眠できる。それくらいの明るさだ」
「は、はぁ……」
それって光にしては随分弱くないだろうか。切間は梶のことを光属性だと言ったが、ほの明るい程度の光なら、それは多分光属性の中でも末席くらいの力である。あまり褒められているとは思えない。
うーん? と首を傾げる梶に、切間は目を閉じているにも関わらず「不満気だね。僕は最上の誉め言葉を言ったつもりだよ」と念を押した。
「聞こえが悪かったなら言い方を変えるよ。隆臣のことを、僕は微睡める光だと思ってる。落ち着くし肩の力が抜けるし、君と居ると僕は妙に眠くなる。隆臣を見ているとね、僕は君を、自分の一番近くて無防備なところに置きたくなるんだ。ちょうどベッド脇に間接照明を置くみたいに、これくらいのボンヤリした光がちょうど良いなぁって」
まばゆいものだけを光って呼ぶわけじゃないでしょ、と切間が続ける。
淡々とした口調で、目は入眠のため閉じられたままだった。直接的な表現はないのに、梶はずいぶん熱烈な告白を受けている気持ちになる。体がカッと熱くなり、上手く説明はできないが、今までで一番切間の感性に触れてると感じた。
人間の三大欲求なんてとっくに克服してそうな切間創一が、梶を目の前にすると眠くなり、無防備な姿を晒しても良いという。胸がこそばゆくなって、優越感と罪悪感の中間のような感情が梶の中に生まれた。こんなに凄い人の無防備を見る人間でいて自分は良いのか。それほどの価値が、切間が言うように本当に自分にはあるのか。
「ありがとう」と言うべきなのか「いやいや自分はそんなんじゃ」と謙遜するべきなのか、梶は手を宙に翳したまま考えあぐねる。手慰みに切間の頭を空いている方の手で撫で、切間がうとうとし始めた気配を感じながら、本当に寝るんだ、とちょっとした感動も同時に覚えた。
「……強い光は目立つし存在感もあるけど、でも世の中がそんな光ばかりだと、人は疲れるし、眠るにも困るでしょ」
切間の喋るスピードが今までより少しゆっくりになっていく。疲れるや困るなど、切間の口から出てくるには珍しい語彙たちが並んでいた。
「そう……なんですかね。そうなのかな」
「うん。いつまで経っても心が休まらなくて……眩しいとこばかり見てるとさ、視界って変になるでしょ。なんていうのかな、光を感知しすぎても、人は盲目と同じになると思う」
「き……、」
切間さんにもそんな感覚あるんですね、と言いかけて、寸でのところで梶は口を噤む。無意識の内にまた彼を人外のように語りそうになった己を諫め、どんなに言葉を尽くされても一向に切間を自分と異なる生き物として捉えてしまう思考回路を内心で嫌悪した。
こんなに切間は梶を尊重し、同じ生き物だと再三訴えかけてくるのに。
どうして自分は、いつまで経っても切間を信じることが出来ないのだろう。
申し訳なさから撫でていた手を退けようとする梶に、切間は感触を探すように目を閉じたまま頭を揺らす。再び頭を撫で始めると、また切間の空気が微睡んだ。
強い光が時に人間から視界を奪うという切間の言葉は、なんとなくだが梶の人生にも当てはまる。
斑目貘に会うまでの梶隆臣の人生は、例えるなら夜道を明かり無しで歩き、小石にさえ気付けず毎回躓くようなものだった。『貘さん』という街灯が道を照らしてくれたことでようやく道の全容が分かったものの、だからといって不用意に光に近付き過ぎれば眩しさに梶の目は潰れ、また自分の道筋が分からなくなったし、結果として梶は何度も挫折や失敗を経験した。光が人間にとって無くてはならない存在であることは言うまでもないが、同時に強い光が人間の目を焼いてしまうこともまた、梶の身に染みた事実だった。
切間の立場に置き換えてみるとどうだろう。切間は、彼自身が誰よりも強い光源である。伸びる道は常に彼の光によって前方を照らされ、煌々と明るい道を歩む切間の日々は、傍目には栄光に満ちて人々の尊敬や憧憬を集めた。言うまでも無いが、梶もそう思い込んでいた内の一人である。
だが、だ。
言われてみれば、四六時中光り輝いている切間には休息の時間があるように思えない。あまりに強い光源ゆえに、切間の周辺では影さえ消滅してしまうのだ。完璧ゆえの不都合は、ちょうど先ほどの、昼寝を日差しに妨害されていた時のようだった。切間の視界は全てが眩く輝かしく白んでいて、一息つける日陰など彼単体では作ることが出来ない。寝ようにも明るくて適さない切間の隣には、彼が眠りにつくまで、誰か、日を遮ってくれる存在が必要なのだ。
切間がぱちり、と一度だけ目を開いた。
頭上に浮かぶ梶の手をぼんやりと眺め、切間はふっと笑みを浮かべると、また満足げに目を閉じる。
「……きみの、」
「はい?」
「きみの光り方が、ぼくは好きだ」
切間がシンプルな言葉を梶に向ける。
飾り気のない言葉で伝えられた無防備な好意が、梶の胸にストンと落ちた。
梶は自分がごく普通の人間だと思っているし、そんな自分を好きだという切間のことはイマイチ人間だと信じ切れずにいる。
どれだけ好意を示されても梶の“なぜ”は抜けず、多分これは梶が梶隆臣で、切間が切間創一である以上“なぜ”は生涯続くのだろうと今の段階から察しは付いていた。
けれど、もしかしたら梶と切間はそれで良いのかもしれない。
梶隆臣と切間創一。類似とも対極とも言えない二人は同じだったり違ったりする部分を抱えながら生きていて、「なぜ」「なぜってなぜ」を繰り返しながら生きていく。梶は切間の真っ直ぐさに辟易しながらも手を引かれ、切間は梶の後ろ向きさに呆れながらも膝を貸してもらう。
そうやって歩いたり、眠ったりしながら、二人で道を行くのだとしたら。
それはまぁ、一種の補完し合う最良の関係と、言えないこともないのかもしれない。
「………もしかして、なんですけど」
「うん」
「僕らって実はお似合いだったりします?」
梶が渾身の、あるいは一世一代の質問を投げかける。これまでの梶を思えば異質な問いかけであり、普通の人間だったらどのような答えを用意すべきか多少なり悩む場面だった。
だが切間は、この場でも特に悩まない。既に正解を知っているような口調で、にべもなく梶に返答した。
「知らないけど、似合ってなくても何だっていうの」
つれないなぁ、と苦笑する梶に、切間は悪びれる様子もなく「眠い奴に質問するほうが悪いよ」と言う。
日差し膨らむ平日の公園。春の麗らかさを体現するように体を伸ばした切間の上で、梶のはにかんだ笑顔が陽光を浴びて光っていた。
「……そういえば家の寝室は照明を全て電球色にしてるんだけど、良いものだよ。オレンジの光が温かくて、気持ちが落ち着いて」
「へぇ、リラックス出来るんですね」
「うん、とってもね」
「いいな。切間さんの部屋だったら、なんかデザインもおしゃれそう」
「招待するよ。いつでもおいで」
「はい」
「今日このあとでも良いから」
「はい─── ……うん?」
あれ、なんか、いまのってスルーして良かった?
梶が切間の言葉を反芻する。
言いたいことだけを言って、切間はすぅすぅと寝息を立てはじめていた。