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 賭郎球技大会の花形でもあるバレーボールは、聞こえこそ『花形』と華々しいものの、その実態は號数上位陣をとことん困らせてまごつかせて途方に暮れさせようという悪意に基づいた畜生種目だった。
 
 元来バレーボールとは、コート内に五人の選手が入り、それぞれレシーブ・トス・スパイクの三段攻撃を基本に相手コートへとボールを返すスポーツである。個人プレーが成立しないルール上仲間同士の連携が勝敗を分ける競技でもあり、義務教育のカリキュラムにも積極的に採用される当競技は、協調性や友情を育むにはもってこいのスポーツといえる。
 
 が。
 
 こと賭郎のルールに限って言えば、バレーボールは三人一組のチーム戦である。控えの選手はおろか、ブロッカーも居ない。コート内に居るのはレシーバー・セッター・スパイカーの三人のみで、たった三人の選手が試合中常に動き続けることでゲームが進行した。
 
 もうのっけからルールがおかしいのだが、これにはれっきとした理由がある。かつて球技大会に新種目を導入しようと考えた当代の御屋形様が、バレーボールのルールを頭だけかじった段階で「なるほどバレーボールを行うにはレシーブ・トス・スパイクと最低三人が必要なのか。ということは三人いれば良いんだな。よぉしじゃぁ三人でやろう!」と鶴の一声をピュオーと発してしまったからだ。
 御屋形様のお言葉はいつの時代も絶対で、そんな具合で倶楽部賭郎のバレーボールといえば三人一組の団体競技と相成った。一体どこにれっきとした理由があっただろう。お察しの通りれっきもクソもないのだが、しかしソレはソレとして、そうなってしまうのが倶楽部賭郎である。
 
 特別ルールは他にもある。通常のバレーボールが一部のポジションを除き“コート上の誰かが”繋いだボールを“最大”三回のアクションで相手チームに返すルールなのに対し、賭朗バレーボールはポジションの役割と三段攻撃が絶対固定とされている。つまり相手チームからのボールは必ずレシーバーが受けなければならず、アタックはスパイカーにしか打てない。そしてどれだけ自身に攻撃のチャンスがあったとしても、セッターはスパイカーにボールを託さなくてはならなかった。
 そしてこれを破った場合には即刻重篤なルール違反となり、該当立会人にはなんと粛清が与えられる。
 こんなお遊びにそんな重い罪があるだろうか。粛清と言っておけば立会人がホイホイ言うことを聞くとでも思っているのか。残念なことに、立会人はホイホイ言うこと聞かざるを得ない。だってどんだけ馬鹿なイベントだとしても、賭郎が粛清するって言ったら本当に粛正するのだ。信じたくないけれど過去の記録によると三八年前本当に粛正された人間居るのだ。おいどうなってるんだ倶楽部賭朗。立会人の命が競技用自転車のカーボンフレームくらい軽いぞ。
 理不尽極まりない当競技だが、流石に理不尽が極まりすぎていたので多少の救済処置もあった。チーム間の圧倒的な戦力差を埋めるため、號数が参拾より上の者は参加免除となるのだ。
 立会人は一〇一人の精鋭によって成り立っており、上から順に零から百までの號数が振り当てられている。かつては號数の若さが強さのバロメーターであった為、ゆえに賭朗バレーボールとは、號数上位の三〇人が集まる強者の宴だった。
 ───とはいえ、そんな棲み分けも今は昔。実力で號数が決まっていた前時代とは違い、昨今の號数はただ欠員が出たから埋めると言った形骸的なものである。救済処置は所詮過去の風習の名残であり、ぶっちゃけ適当に上位號を振り当てられた若手からしたら新たな理不尽が発生しているだけだった。
 ではこの理不尽に対して、参拾號以下に救いはあるのか。そんなものはない。世の理不尽に果てはないが、救済には打ち切りラインがあるのである。
  
 
 さぁ。
  
 そんな訳で泣いても笑っても強引にバレーボールにぶち込まれることが決まってしまった哀れなる立会人三〇人。
 彼らはメンバーや対戦の組み合わせも全てクジで決められ、ハァイじゃぁこの人と一蓮托生になってね~と突然目の前にチームメイトを差し出される始末だった。可哀そうである。こんな可哀そうな催しに、件の門倉雄大は拾陸號の時代から二〇年近く参加している。そりゃ気持ちも荒むってなものだ。
 さて、今年の彼のクジ運はいかがなものだったであろう?
 
 
  
 ※※※  
 
 
「あ゛あ゛あ゛あ………」
 
 門倉からは悲痛な声が漏れ、彼のしなやかで雄々しい体躯は全身の力を失い体育館の床に崩れ落ちた。
 この二〇年大体球技大会で理不尽な目に合ってきた門倉は、どうやら今年もくじ引きの神に見放されてしまったらしい。門倉の目の前には伍號立会人ヰ近十蔵と弐拾八號弥鱈悠助が居り、呵々と笑うヰ近とは裏腹に、弥鱈も門倉と同じような状態で地面に突っ伏していた。

「ほう! 門倉と弥鱈か! 若いな! この組み合わせは予想外である!」

 大声が門倉に突き刺さる。この至近距離でどうして腹から声を出す必要があるのだろうと疑問を持たずにはいられないが、そんなことを本人に聞いたところで「意味はない!!!!」と更なる爆音が降ってくるだけだろう。ヰ近はそういう人物なのだ。魂の勢いが凄まじく、生命力が大波となって周囲を飲み込んでしまう。
 人として嫌いなわけではない。むしろ豪快で気さくなヰ近を門倉は気持ちのいい人物だと思っているし、外で会えば自分から声を掛け、酒の一杯でもと誘う程度には慕っていた。
 だが、それはあくまで人間・ヰ近十蔵に向けた好意であり、ヰ近立会人に向けたものではない。古参と呼ばれる立会人は誰しも多かれ少なかれ我が道を行く性分とはいえ、ヰ近の我が道たるや、首都高のド真ん中に農道を開通させるだとか、その農道を改造トラクターで時速一二〇キロ走行するだとか、そんなレベルなのだ。

「いやはや。組織に若い芽が育つことは喜ばしいことだが、古兵も負けてはおれんな! 手本を見せるつもりでいかせてもらうぞ! ばっはっは!」
「は、ハハ……」
「古兵などご謙遜を……お手柔らかにお願い致しまする……」

 弥鱈が力なく笑い、門倉は辛うじて社会人の体裁を保つ。ヰ近の発言をキッカケに床から一〇cmの地点で視線を交えた二人は、朗らかと狂騒の境目くらいにあるヰ近の笑い声をバックミュージックに緩く首を振り合った。
 
 
(どう思う?)
(ダメだと思います)
(そうよな)
 
 普段何かと衝突する同僚だが、くしくも今ばかりは門倉の感情に弥鱈もリンクしているようだった。別にもう一人がマトモとか当たりとかそういったことを弥鱈も門倉も言いたいわけではないが、いけすかねぇヤンキー(ないしはインドア根暗)が霞むほどにはヰ近という爆弾がデカい。この三人で本日は運命共同体だと考えると、胃の底に砂袋が積み上げられていく気分になった。

 門倉が床の上から周囲を見渡すと、他のチームは既にほとんどが準備運動やポジションの打ち合わせに動き出している。粛清なんて御免だし、そうでなくとも立会人は揃いもそろってプライドが高く負けず嫌いだ。どんなに不本意なゲームであれ、同業者に負けるなんて想像するだけで腸が煮えくり返るのだろう。
 置かれた場所で咲いている立会人の面々が、門倉の頭上で(少なくとも表面的には)円滑にチームワークを構築している。ゲーム開始まで刻一刻と時間が迫るなか、自分のように項垂れているチームは他になかった。いや、一組いる。体育館の隅っこで、判事が静かに頭を抱えていた。その横には能輪紫音の姿があり、さらには真鍋匠が黙々と卵を剥いている。
 他にも爆弾を背負わされた人間が居ると気付き、重かった門倉の胃は格段に軽くなる。
 アレに比べれば多少は我がチームにも長所があると思えないこともない。他人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、憂鬱な体を動かしてくれたのは、殊更憂鬱な立場に居る人間の存在だった。
 門倉は脱力する体を叱責し、どうにか床から立ち上がる。

「まぁ考えとっても仕方ないし。どうです、とりあえず準備運動も兼ねて、三人でラリーでもしてみますか」

 二人に声をかけ、門倉は近くにあった鉄製のカゴからボールを一つ取り上げる。ヰ近はおう! と年季の入った紫色ジャージの袖を捲り上げ、弥鱈はのろのろと立ち上がった末に長い溜息を吐きだし、門倉の提案に乗った。

 体育館の真ん中に小さな三角形を作り、各々が向き合う形でその頂点に立つ。ポジションは後程決めるとして、まずは各人のバレーボール資質を見極める必要があった。

「最初なので、まずはラリーを続けることを意識しましょう。ほい、じゃぁ弥鱈よろしく」
「何でですか。貴方から始めれば良いでしょう」

 ボールを寄越され、弥鱈が早速眉間に溝を作る。一つずつの行動に文句を言わなければならないルールでもあるのか、弥鱈は口元で何か呟いたあと、ポケットからするりと両手を引き抜いた。
 長い指がボールの表面を二,三叩き、シャボン玉を放つように球体を宙へと投げる。トン、と最低限の音を立てて浮かび上がった弥鱈のボールは、丁度三角形の真ん中、他の二人がいずれも取りやすい位置にふわりと滞空した。
 何の変哲もないトスボールだが、余計な癖が無い分、弥鱈の器用さが際立っていた。理想的な高さとスピード。性根こそひん曲がっていて団体競技には向かないが、弥鱈の球技適性は疑いようのない事実らしい。
 
(弥鱈は瞬発力もあれば咄嗟の判断にもミスが少ない。脚が良いけぇレシーブ役にも欲しいが、こいつは司令塔向きじゃな)
 
 ボールから目を逸らさず、門倉は淡々とチームの構成を練る。
 弥鱈がセッターを担当するなら、自分はレシーバーだろうか。個人的にはスパイカー向きなスペックだと自己判断しているが、猪突猛進なヰ近を初手のレシーバー役に据えるのはギャンブルだ。ならば攻撃はヰ近に任せ、自分は弥鱈にひたすらボールを流した方が良いかもしれない。

「ナイストース。ヰ近立会人、ここは私が取ります。御大は私の上げたボールをお取りください」
「うむ!」

 お見合いを避けるためボールは門倉が取り、弥鱈のあげたトスを、今度は門倉がレシーブで上にあげた。
 コントロールの利いたボールはヰ近の前方に落下する。
 良い軌道だった。待ち構えていたヰ近は、やってきたボールを空手の正しい型で出迎え───
 
  
 
「ぬぅん!!!!!!!!!!」
 
  
 
 
 その瞬間、ヰ近十蔵の正拳突きはボールの真芯をとらえて炸裂した。
 体育館中にパァン! と破裂音が轟き、MIKASA製のバレーボールはただの分厚い皮布となって床に落ちる。
 呆然とする門倉や弥鱈をよそに、ヰ近は拳を突き出したまま「おぉ、すまんすまん!」と笑った。

「どうも向かってくる球を見ると迎え撃ちたくなってしまってな! いやしかし、これは球を破壊してはならんのか! ラリーにならんからな! いやぁ失敬失敬! ばっはっは!」
「「タイム!!!」」
 
 門倉と弥鱈の声が重なり、二人の視線が即座に交差する。ぶわりと汗が噴き出す感覚があった。同時にコートの端へと足が向き、二人とも指し示したわけでもないのに早足で場を移動する。途中移動に気付いたヰ近が「ん? どうかしたかね?」と付いて来ようとしたが、胡散くさい笑みを貼り付けた門倉は「すいませんチーム会議なので御大はお待ちください」と老人を制止させた。
 まだロクに動いていないにもかかわらず、門倉と弥鱈の額から汗が伝い落ちていく。
 給水所からアクエリアスをふんだくり、立ち飲み屋に飛び込んできたサラリーマンの形相で半分ほどを容器の中身を煽った二人は、どちらともなく視線を合わせて「「おい」」と互いを睨みつけた。
 
「ど~~~するんですかあの人。ボールを割るってルール以前の問題ですよ」
「まさか正拳突きを繰り出すとはな。完全に想定外だ。さすがヰ近立会人」
「感心してる場合ですか。あんなの妨害行為を超えて自然の脅威ですよ。ヒグマが自陣に居るようなものじゃないですか」
「何を馬鹿な。ヒグマなら人間の脅威と分かれば猟友会が駆除できる。だが立会人同士の私闘はご法度だ」
「じゃぁ事態はヒグマ以下ですね。クソが」
 
 弥鱈の口調が荒れる。ワシが知るかい、と門倉も舌打ちをした。
 前もって爆弾の予想は付いていたとはいえ、さすがにボールを破裂させるまでの奇行に走るとは思ってもみなかった。
 えっ、人間って、向かってくる球を見ると迎え撃ちたくなってしまうもんなんですか?
 剛速球が顔面に向かって飛んできた、などであったら百歩譲ってヰ近の主張は理解できる。だが実際のボールは、長くラリーを続けることを目的とした敵意のないふんわり軌道だった。アレでさえ『迎え撃つべき敵』と認定されてしまったら、もう打つ手がない。
 日本酒のようにちびちびとアクエリアスを口に運び、弥鱈が頭を掻きむしれば、門倉は煙草を求めて手元をそわそわさせる。苛立ちと焦燥、うっすら湧き上がる(ていうか三八年前の粛清、もしかしてヰ近立会人が一枚噛んでるんじゃ……)の疑惑。
 脳内に渦巻くそれらをあえて二人が口に出さないのは、意見のすり合わせが済んでしまったら、いよいよ試合前に病んでしまいそうだからだった。
  
 
「まぁつべこべ言うとっても仕方ない。とにかく何か案は無いか? 不測の事態における尻拭いはおどれの十八番じゃろ」
 
 諸々を払拭するように、門倉が切り出した。
 面倒ごとの押し付けとも言う。飲み進めていたアクエリアスは、もう水深二センチほどのかさしかなかった。

「人のことクレーム対応係みたいに言うのはやめてください」ぷわんと唾玉が飛ぶ。「打開策……あ、ゲーム開始と同時に門倉さんがコートの真ん中で奇声を発するというのはどうです? チームメイトが発狂したとなれば流石のヰ近立会人も止まるでしょう。まぁ粛清で貴方の命も止まりますが」
「おう何じゃその初期案とは思えん変化球は。真面目に考えろ」
「真面目ってなんですか? じゃぁそちらには何か案があるんですか」
「そりゃ真面目と言えば……今その、おどれが熱中症でぶっ倒れるとか」
「無策な人間は黙っててください」

 容赦なく弥鱈が跳ね除ける。口の利き方がなっていない若者に門倉のこめかみには青筋が浮かぶも、弥鱈は自身のアクエリアスを飲み干すと「まぁ冗談はさておき」とにわかに切れ者の表情を浮かべた。

「策と言うほどでもないですが、試してみたいことはあります。一旦私がトスを上げるので、門倉さんはスパイカーをこなしてください。貴方はパワーもあるし、アタッカー向きでしょう」
「おぉ、ワシもセッターはおどれがええと思う。しかし、そうするとヰ近立会人はレシーバーか? 大丈夫か、あの御人に最初にボールを触らせて」
「試してみたいことがあると言ったでしょう。とにかく、一回私に任せてください」
 
 なおも食い下がろうとする門倉に、体育館中に響き渡るブザーと「あと一分で試合開始ね~」の御屋形様アナウンスが届く。どうやら思った以上に時間が経っていたようだ。門倉たちのチームは第一試合に組み込まれているため、練習という練習も無いまま試合に突入することになってしまった。
 渋い顔をする門倉を他所に、弥鱈がヰ近の元に駆け寄り、何やら耳打ちをする。
 おそらくは『試してみたい』というアイデアについてだが、弥鱈の考えがどのようなものであれ、ぶっつけ本番の付け焼き刃で成功するのだろうか。今更案じたところでどうにもならないが、ヰ近から元気な「なるほど! つまり思い切りやれと、そういうことだな! 承知した!」の声が聞こえてきたので不安は尽きなかった。
 結局ポジションが決まっただけの状態で、門倉たちはコートに立つ。
 初戦の相手は、能輪美玲を中心とした中堅揃いのチームだった。ママさんバレー経験者の美玲が諸々の指示を出し、立会人の中では比較的話の分かる二人がそれに従う。抜きんでた才能は無いが、バランスのとれた良いチームだ。雰囲気も和やかなようで、ネットを挟んだ向こうでは「頑張りましょうね!」と互いに声を掛け合う姿が見られている。
 かたや門倉たちはラリーでボールをぶち破られて途方に暮れていたというのに、まったく良い御身分である。
 なんだか無性に腹が立ってきた。

「いけるんか弥鱈。その“試したいこと”とやらは」

 相手コートを睨んだまま門倉が訊ねる。
 サーブの先攻を相手チームが得たため、開始早々からヰ近の出番だった。

「さぁ。何と言っても初動から実戦なので、やってみないことには分かりませんね」

 弥鱈は素っ気ない。と、ふいに視線を外に目をやった弥鱈が、ふらりとコートの外に出た。若い黒服がギャーギャーと騒いでいるところへ赴き、おもむろに床を踏みしめて戻ってくる。

「何しとんの?」
「いえ、デカめの虫がいたので退治を」
「きったな。足で潰すなや。変な汁つくぞ」

 神経質そうな見た目のわりに大雑把なところもあるらしい。ちらりと見えた弥鱈の靴底には誰もが恐れる不快害虫の欠片がこびりつき、体液や腹に抱えていたらしい卵など、げんなりするくらいしっかりと付着していた。(絶対コートに手は付かんとこう)と心に決め、門倉は再び前を向く。
 相手チームのサーバーは、のっけから美玲だった。最初に強烈な一撃を喰らわせ、こちらの戦意を削ごうという作戦かもしれない。「みんな準備は良いー? いきますよぉ~」と柔らかい物言いとは裏腹に、美玲から放たれたサーブは、弾丸のような速度で空を切り裂きながら向かってきた。
 到底素人には取れそうにない、なんなら『親睦をはかる為の球技大会でそれは出しちゃダメだろ』な速度と角度だ。
 ラインギリギリを狙ったボールはコートの右端に鋭く切り込み、このままサービスエースを奪い取るかと思われた───
 
 
 ───のだが。
 
 
「ばぁーっはっは!!!」

 豪快な笑い声がコートに響く。

「良いぞ能輪の愛娘! 父親に劣らぬ一撃だ!」
 
 着地点に到着していたヰ近が、迫り来る豪速球を前に上機嫌に言った。経験則か野生の勘か、即座に体を動かしたヰ近は、ボールの真正面に立って迎撃の態勢を整える。

「ぬぅん!」

 またしてもヰ近の掛け声。しかし、今度は先ほどとは違い、ボールの破裂音が続くことは無かった。
 門倉の隻眼が見開かれ、高々と上がったボールを視線が追う。
 ヰ近が今回繰り出したのは、先程のような正拳突きではなくアッパーだった。
 ボールの軸を難なく捉え、下から突きあげるように振るわれた拳は、ボールの軌道を強引に変えて球体を空へと飛ばす。あわや天井に激突という高さまで上昇し、審判が注意深く監視するなか、ボールは天井直前でリードに繋がれた犬のようにピタリと停止した。
 天井にボールが当たれば相手得点となる。それを知っていてヰ近は力加減をしたらしい。
 正拳突きで迎え撃つくらいなら、力をいくらか逃がすことができ、更にボールがきちんと真上に上がってくれるアッパーは賢明な判断といえる。ボール破壊というルール以前の大蛮行をぶちかました御仁とは思えない判断は、おそらく第三者からの入れ知恵あってのものだろう。

「うむ! 首尾良し!」仁王立ちのヰ近が満足げに腕を組む。もう仕事は終わったとばかりに、巨体が立っていた場所から一歩退いた。「あとはお前の仕事だ!!!」

 いつの間にか、門倉の横にあった丸い背中がなくなっていた。
 一投足でコートの中央から端まで飛び、気付いた頃にはヰ近の居た場所に弥鱈が立っている。
 
 
「流石ですヰ近立会人。以後もそのようにお願いします」
 
 
 天井につきそうなほど高く打ち上げたお陰で、ボールの落下には多少時間的な猶予があった。それでも常人が間に合う距離ではないが、スピードに秀でた弥鱈だけは、ヰ近に稼がせたその僅かな時間で十分だった。

 ボールが落ちてくる。弥鱈が体を反転させ、右足を軸に、片方の靴裏を上に向けた。
 足で取るつもりらしい。弥鱈らしいなと思ったところで、ふと、門倉の頭に少し前の弥鱈が思い起こされた。 
 騒いでいる黒服の中心にわざわざ赴いて、デカめの虫を踏みつぶして帰ってきた。
 人のために動いてやろうなんてボランティア精神は元々米粒ほどの持ち合わせも無い奴である。なんで退治してやったのだろうと思っていた。器用な弥鱈が力加減を誤り、靴裏をべっとり体液と内臓で汚してきたことも妙だった。

 持ち上げられた弥鱈の靴裏が、不自然なほどキラキラ輝いている。脂ぎった不快害虫の外殻。中に詰まっていたであろう内臓その他。なんとなーく離れた距離でも鼻腔に届く、独特の生臭い香り。
 ボールは弥鱈の左足に吸い寄せられるように着地し、靴の溝にまでしっかりと食い込んだあと、再び上にあがった。放物線を描く軌道はちょうどコートの真ん中に落ちるよう計算されており、スピードも含め、たいへん取りやすいトスボールとなっていた。スパイクを打つには最適なボールである。もうこんなんスパイカー指名されてる奴は打つっきゃないボールだ。

 弥鱈の顔が、ニチャァッと、邪悪かつ人を不安にさせる満面の笑みで彩られていた。
 組織内外で評判が悪い弥鱈の笑顔は、いわく、彼が愉快な気分のとき浮かべられる。そうだった。弥鱈悠助は人物は優秀だが人格が破綻しており、嫌いな人種に嫌がらせをするためなら、ちょっとの手間くらい全然惜しまない嫌な奴だった。
  
 
「ほら。取れよ門倉」
「おどれ覚えとれよ弥鱈ァ!!!」
  
 
 捨て台詞を吐き、門倉が踏み込む。高く飛翔した門倉の頭上に、何やらてらてらと表面が光るボールが迫っていた。
 立会に来たわけではないので、当然門倉はいま素手である。ボールの軸を捉え、しっかりと右手をボールの表面に押し当てると、皮膚にはねちゃっと不快な感触が伝わった。
 
(次のアタックの時、ボールと一緒に絶対アイツのド頭ぶち抜いたる)
  
 
 意気込みを胸にボールを打ち込めば、門倉のスパイクは、鉄球のような鈍い音を立てて相手コートに叩き付けられていった。