さて不思議なこともあるものだと思った。GPSを取り付けられている彼は、同じように相手の私用携帯で相手の位置情報を把握していると聞く。本日御屋形様は非番で、出勤どころか本部に顔を出すことも今日はしていなかった。携帯の電源を切っているのだろうか? いやまさか。二人の間柄は親友兼家族という海よりも深いもので、いっそ恋人でないことが不思議なくらい互いの事情が筒抜けになっている。今更お忍びで誰それに会うだとか、何処そこへ行くだとか、そんな小賢しい真似はしないだろう。
「どうされたんですか梶様。今日、ここには私一人ですが」
持っていたファイルを戻し、『詮索はするな』の意味を込めてキャビネットを施錠する。いくら御屋形様の右腕といえど、賭朗の運営に関わる資料を会員に見せるわけにはいかなかった。そもそも御屋形様の執務室に一会員が自由に出入り出来ること自体おかしな話だが、そこについては今更言及するのも憚られる。別に梶が部屋に入ってこようが、自分を含めた御屋形様付きの立会人が常に用心していれば良いだけの話なのだ。梶の行動を制限する必要はない。
私はいま、自分にタスクを増やしてでも梶が思うまま振舞える環境を整えてやろうと思っているわけで、それもいよいよおかしいのだが、やはり今更そのおかしさを言及するのは馬鹿馬鹿しかった。
「いえ、今日は貴方を探してたんです、弥鱈さん」
梶はファイルになど興味がなく、どころか私が御屋形様のデスクに座り、御屋形様の万年筆で御屋形様の筆跡を真似た書類を作成していても、まるで見えていないかのようだった。「すごい探しましたよ。まさか執務室に居るなんて」と苦笑する梶に何だか居心地が悪くなり、私は思わず「一応言っておきますが、御屋形様は承知しているので」と弁明をする。
「御屋形様の指示で代筆しているんです。決してやましい行いではないので、参考までに」
「そうなんですね。貘さんの代わりにそんなことまでするなんて。さすがだなぁ」
言外にあるのはおそらく『信頼されてるんですね』という称賛だったが、梶の発言は少々含みがあるようにも思えた。そんなことまでやらされるんですね、と雑用を憐んでいる風にも受け取れる。「御屋形様付きの中で私が最も後輩なので」と付け加えれば、梶は今度こそ「大変ですね」と笑った。
「貘さんが今日休みで、本部に居ないことは知ってたんです。ていうか、普通に出てくるとき家に居たし。いってらっしゃいってお見送りまでされましたよ」
「はぁ、そうですか」
では梶の要件とは本当に御屋形様絡みでは無いらしい。
御屋形様が介入せず、かつ、私に梶が関わらなければならない用事とはなんだろう。考えても思い当たる節が見当たらず、私は万年筆を手元でくるくると回し、手慰めの延長戦で舌の上に泡を作った。
「貴方に会いたくて来たんです」
泡が宙に浮かび、二人のちょうど真ん中を漂い出したころ、梶が思い切ったように早口で言った。
「なぜ?」
私は反射的にたずねる。
「弥鱈さんに会いたかったんです。なぜって言われても、ちょっと困るんですけど」
梶は手元をもじもじさせて、それから私の飛ばした泡をまじまじと見つめた。
重力に反しながら、しかし意思も速度も無いままにふよふよ漂っていた泡は、梶にたどり着く手前でぱちんと爆ぜて空間に霧散する。
唾を材料に飛ばしている泡なので、私の吐き出すものは大抵評判が悪く、人の近くで弾けた際には大部分からブーイングを喰らった。梶はどうだろうかと表情を盗み見てみると、彼は少し残念そうな顔で、泡が消えた辺りに視線を向け続けている。
「弥鱈さんに会いたかったんです」
梶がまた言った。壊れたオーディオプレーヤーのように、梶は先程から同じ台詞しか吐かない。
「はぁ。それは分かりましたけど、だから、なぜ」
私は万年筆を机に置き、ついに梶だけを意識することにした。
梶は一瞬体を硬直させると、そこからすぅはぁと、机を挟んだこちら側からでも分かるほどあからさまな深呼吸を始める。
すぅ。はぁ。すぅ。はぁ。
梶の肩が上下に動くたび、彼のうねった髪もゆるい羽ばたきをみせる。ワックスでセットされているだろうことは似た髪質なので分かっていたが、それでも梶の持ち物だと考えると、もしかしたら羽毛みたいに柔らかいかもしれない、と万に一つの可能性が浮かんだ。もし柔らかかったらどうしよう、触れてふわふわしていたら可愛いななど、顔には出さないで考えてみる。
「……弥鱈さんに、会いたかったんです」
梶は言い、こちらに一歩踏み出す。デスクを挟んで向かい合っていた私たちは、梶がデスクを回り込み、私の真横に立ったことで隣同士になった。
机の上に放り出していた私の手を掬い、梶が私の手を自身の首元へと持っていく。
常時シャツのボタンを三つほど開けている梶は、今日も前を大っぴらに開けていた。手のひらから、直に梶の体温が伝わってくる。比較的長い首は薄い胸板に繋がっていて、この手が下に降りていけば、彼の鼓動の真上にたどり着いた。
首を走る動脈から、梶の脈を感じる。少し心配になるくらい早くて、時々跳ねたり踊ったりする彼の脈に、私も巻き込まれ、掻き乱されていく。
「会いたかったから、探して、会いに来たんです」
梶は繰り返す。刷り込むように何度も同じ言葉を呟き、洗脳と同じ手順だと嘲ろうとする私を、縋るような双眸で阻止をした。
あぁなんて厄介な人だろう。
ただの馬鹿だったら切り捨てられた。ただの純粋だったら見逃してやれた。混ざってしまうと、どうしても私の好みになる。手放しがたくなる。いつの間にこんなことになっていたのか。知らなかったが、しっとりと汗ばみ始めた梶の首筋と、彼の汗を皮膚に染み込ませた私の手に、これ以上の説明は不要だった。
「理由はそれだけで、でも、それが全てです」