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 趣味という趣味がない​───鷹さんに言わせると、私の卵はもはや好物ではなく趣味らしいが───ので、その名もずばり“ホビーショップ”なんてものにはとんと縁がなかった。以前より興味があったなんてことも無い。今回だって私の自由意志だったかといえば微妙なラインで、街頭を歩いている最中、視界の端にショーウィンドウが映った途端に、私は誰かに頭蓋を引っ掴まれたかのような感覚を覚えたのだった。

 見えない力が私の顔をショーウィンドウに釘付け、中に飾られた車の模型に無理矢理焦点を合わせようとした。私は自分でも何が起きているのかさっぱり分からず、首を傾げたまま数十秒模型を凝視して、ようやく『あぁ、あの時の車じゃないか』と分かったくらいだ。思考より行動の方が何段階も早く、不可解なあべこべは脳の処理不足では到底説明出来ない。オカルティックな話だが時期も時期なので、自然と頭は『何かに引き寄せられたとのだ』と思った。ここで言う何かには心当たりがある。願望、と呼んだ方が的確ではあるだろうが。

 ビニール製の人形やブリキのロボットが所狭しと並ぶなか、滑らかな車体は一つだけいやに現代風で悪目立ちをしていた。輪っかが連なったフロント部のエンブレムがその車唯一の特徴で、車に対しても浅い知識しか持っていない私にとって、その車に関する情報はせいぜい【車体がセダンタイプ】程度しかない。その他に私が挙げられる特徴といえば実体験で得た所感だけだ。頑丈な造りをしているとか、車内が戦闘には少々向かないとか、そんなものばかりで、言うまでもなく模型では分かり得ないものだった。
 模型は本物の車をそのまま圧縮したような精巧さだったが、値段を見てみると、周りのビニール人形やブリキのロボットよりゼロが一つ少なかった。造詣はよほどビニールのバルタン星人より出来が良いと思うが、趣味の世界は見た目だけが価値の全てでは無いのだろう。まぁ乗れない車だしな、と思ったところで、いやいや隣にあるブリキのマジンガーZだって人は乗れないじゃないかと考えを改める。

 店に入り、早速店主に用件を伝える。
 
 
「店先に飾ってある車の模型、あれが欲しいんだが」

 店主は人のいい顔で「あぁ、アウディですね」と言った。あの車はアウディらしい。道理でトヨタ車が幅を利かせている職場に、同じロゴが見当たらないはずだった。

「車がお好きなんですか?」

 店主が内部からショーウィンドウを掻き分ける。古めかしいコミックや誰に需要があるのか分からない旧式の携帯電話が前方に押し出されていき、変わりに奥から車が顔を出した。徐々に車体が露わになっていく様は、本物の納車のようだと思う。

「そういう訳ではないんだが……この車に、以前乗ったことがある。私の車では無いが、印象に残っていて」
「なるほど。良いですねぇ」

 店主は模型を手に取ると、羽根帚で埃を丁寧に払った。一つ一つの商品に思い入れがあるのだというように恭しく紙で包み、模型はちょっとした高級品のように専用の箱に詰められる。ラッピングの有無を聞かれた私は、咄嗟に「すぐに使うので」と返していた。車の模型をすぐに使うとはなんだ。店主に言及されたわけでもないが、なんとなく自分の発言が気恥ずかしかった。

「こういう現代の車種の模型は、コレクターじゃない方もわりと購入されるんですよ。以前自分が乗っていたとか、故人の愛車だったとか」
「故人」

 ギクリとして、思わず繰り返す。店主は私の困惑に気付くことなく続けた。

「あっちでも乗れるようにってね。墓前や仏壇に供えてやる方が多いんですよ。それにもうすぐ盆ですから、この前なんかは精霊馬の代わりにするって方も居ましたね」
 
 もっとも、その方が買っていったのはF一を走るようなスーパーカーでしたけど。
 話にオチをつけた店主が得意げに笑う。私はやはり全てを見透かされた気持ちになって、店主から商品を受け取り、逃げるように店を出た。
  
 
 別に何かが起こるなんて確証があったわけではない。男は生前からこの世界を超越しているようなオーラを纏っていたが、実際は常世の住人であったし、それを証明するかのように体を破壊されて潔く生命活動を終えた。息子や部下、親しい友人に少ない帰省日数を当てているかもしれない。そもそも私は、男の中にある『顔を出すべき人間』のリストにも入っていないだろう。何もかも不毛だった。だが車を飾らずにはいられなかった。
 仏壇なんてものは独り身の住居にあるわけも無く、戸棚の上から荷物を全て退かし、車の模型と、祈るように家で一番上等なグラスに酒を注いで奉納した。会いたいのだろうか。会って何かしたいのだろうか。分からない。私はその晩、戸棚の真向いにあるソファに体を横たえ、やはり祈るように目を閉じた。
 
 
  
 
 ※※※
 
 
 
「たくみ」
 
  
 声がした。暗がりに立ちすくむ私の目の前に車が横付けされ、開いた窓からは切間撻器が顔を覗かせる。特徴的な髪が車外にうにょんと伸び、街灯に照らされて艶やかに光っていた。

「良い車を用意してくれたじゃないか。これはアレだな、ドライブに誘わなくては無作法に当たる」

 切間撻器は言い、だから乗れ、と私に乗車を促した。何が『だから』なのかは分からないが、発言の直後助手席の扉が一人でに開き、車内からは冷気が漂ってくる。一瞬死者が乗っているから冷気でも垂れ流されているのかと身構えたが、切間から「ほらっ、冷房も完備してるぞ! カーナビも起動する!」と呑気にセールストークが続いた。
 このまま外に居ても蒸し暑いだけだ。私は言われるがまま車内に体を滑り込ませ、「そういえば」と切間に今更ながら疑問を投げかける。

「確認せずに買ってしまったが、君、運転免許はちゃんと取得してるのか」
「ぐはぁっ!」

 男の体がハンドルに突っ伏す。肩を震わせながらひとしきり爆笑した男は、子供に『お父さんって九九言える?』と聞かれた父親のような顔で「安心しろ、ゴールド免許だ」と私に教え聞かせた。

 車はブオンとエンジンを唸らせ、ゆっくりと走り出す。知っているようで知らない、概念的な夜の街が車窓から見えた。
 ネオンにきらめく看板は、よくよく見れば殆どの看板に理解できない文字が並んでいた。大人しく首都高速でも走れば良いのに、これが私の夢の限界らしい。なぜかロサンゼルスにでも飾られてそうな特大の看板が【吉野家】と書かれていたりもした。
 隣を見る。男は鼻歌交じりにハンドルを操り、赤信号があれば数メートル先から余裕をもって減速した。自己申告の信ぴょう性はともかく、確かにゴールド免許にふさわしい安全運転である。意外だな、と頭の端で失礼なことを思う私に、切間は「意外なものか」と脳内を把握しているのか様に反論した。

「床での働きがいい男は運転も上手いというだろう。俺は見るからに床上手じゃないか」
「そんなのは知らない。というか君、いきなり下世話な話を始めるのはどうなんだ」
「下世話か? 必要な話じゃないか」
「誰にとっての話をしている」
「お前は霊感が強いんだなぁ。この車内に俺とお前以外に誰か見えるのか?」

 切間の手が伸びてくる。頬を撫で、切間のかさついた掌はさっさとハンドルに戻っていった。夢だからか、切間の手は人並みに温かかった。まるで生者のような温もりは、私の未練がましさが反映されているようでいささか居心地が悪い。

「この車はどこに向かっているんだ」気まずさを紛らわせるため、急に話題を変える。
「知らん。お前の夢だからな、お前が行きたいところに行くんじゃないか?」
「目的地も知らない人間がハンドルを握っているのか。怖いな」
「そう言われてもなぁ」

 切間が困ったように笑う。目じりに皺が寄り、ほんの一瞬彼を老いた人間に見せた。
 そういえば切間の死後、彼が見た目よりも随分年を食った人物であったことを知った。てっきり同年代より少し上の人物だろうと思っていたのに、蓋を開けてみると自分の父親と大差が無かった。何となくそこに、少しだけ安堵したことを覚えている。中年に差し掛かった己が言うのも聞き苦しい話だが、年上の人物に理由無く憧れてしまうというのはよくあることだ。たった数回車内で会話をして、たった数十秒拳を交わらせた。それだけで長らく心を引き留められているなんて、私くらいの年代が抱えて良い事情ではない。
 まして私のこれは、おそらくは恋なのだ。いよいよもって目も当てられなかった。

「行きたいとこはあるか匠。こういう時は二人の思い出の場所を巡るに限るっ」

 二人から見て右手側に、都合よく帝国タワーが建っていた。殺し合いの舞台にたまたま選出されただけだというのに、我々の思い出の場所といえば帝国タワーが該当するのだと今更思い知る。「奇跡的にデートっぽいな」と茶化す切間の気持ちが分からないでもなかった。

「それよりも君の墓参りがしたいんだが」
「ぐはぁっ。それは出来んお願いだ! 御霊屋の場所は立会人に知らせるわけにはいかない。というか、俺も正確な場所は知らない。運ばれている最中もずっと景色の見えない箱の中にいたからな」

 というかその……、と切間が続けてゴニョゴニョと何か言う。千の風が云々と言っているように聞こえたが、何かの冗談を言いかけて、面白くないからと尻すぼみになったのだろう。まさか千の風になって大きな空を吹きわたっているなんて言うつもりだろうか。海に散骨されたか、墓守に遺骨をぶち撒かれたわけでもあるまいに。

「……君は、死んで尚も私の中で生きている。美談に聞こえるかもしれないが、あまりにも生々しく生きているんだ。死者だということを忘れるほどに。本当に君は死んだのか? 確証が欲しい。例えば触れたら、冷たくて、腐敗臭が鼻を突けば納得もいくが」

 車が停止する。やはりこれは私の夢なので、私の思うがまま、おあつらえたように目の前の信号が赤になったのだった。
 運転席に座る切間に身を乗り出し、私は彼の顔に近付く。触れるほどの距離に近付いても、切間撻器からは死者の気配がしなかった。ほんのりと人肌が伝わってくるように感じるし、体臭も脂を打ち消すコロンの香りがいっとう強い。私は掌を強く握りしめ、更に顔を近付けた。切間の口元にあと数ミリで触れるという距離で、ふい、と切間が顔を逸らす。

「やめておけ」
 五文字が私を拒絶する。
「命の終わりは尊いが、死はまぁ穢れだ。死人に接吻はやりすぎだろ」

 そんなことしをしたらどうなるか分からん、と切間は続けた。彼にしては珍しく、本当に困っているような口調だった。不安げな声と言い換えても良いほどに力がなく、死者の困惑は私の動きを止め、私を再び助手席に戻した。
  
  
 ───車は走り、結局私たちはどこにも下車をしなかった。口付けを拒否してからも切間は私に軽口を続け、私はそんな彼にどう対処すべきか考えあぐねたまま車内でやり取りを交わした。こんな夢に招いている段階で『友になりたかった』など言い訳が苦しすぎるし、かといって惚れた腫れたの話に展開させるには直前の拒否が尾を引いて分が悪すぎる。
 
 気付けば車は、私を拾った名も無い道路脇に戻っていた。時間切れというより、弾切れと表現したほうが状況的には適しているかもしれない。私の脳内がもうこれ以上は無理だと白旗を上げたのだろう。生前私は切間撻器が何も分からなかった。彼が死んでからも、一向に私は彼の何もかもを知らないのだと思い知らされる。

「ここで降りる」
「そうか」
「これ以上乗っていても、同じ道をぐるぐると回るだけだろう」
「俺はそれでもかまわんがなぁ」

 相変わらず切間の口調は軽かった。シートベルトを外す私に、切間は「そうだ」と声をかける。

「この車を盆が終わるまで貸しておいてくれないか」
「は?」
「会いに行かなきゃならん奴が多いんだ。息子に知古の友人、部下。てんでばらばらに居るものだからな、それぞれの元に邪魔しようと思ったらどうしても車が要る」

 ハンドルをコツコツと叩き、切間は脱い痕のないまっさらな手を私に振った。短いドライブの間にこのアウディを愛車認定したらしく、キュウリの馬よりもよっぽど乗り心地が良いとご機嫌な切間だったが、私はそんなこともよりも彼が放った発言に呆然とする。

「………俺に最初に会いに来たのか?」

 口から出た声は、私の動揺をこれ以上なく正確に切間に伝えた。当たり前だろう。こちらは先程口付けの一つすら拒絶された身の上である。最初に会いに来たと言われて、はいそれと納得できるはずがない。
 切間撻器には多くの部下と、かけがえのない腹心と、何より一粒種の息子がいた。私など彼の人生を思えば晩期も晩期に登場した人間であり、彼の中の優先順位など、下から数えた方が早いに決まっている。それを、彼は今なんと言っただろう? 私の受け取り方が正しければ、彼はまず私に会っているという。この世に生きる残された者たちに挨拶を済ませきった後では無く、まだまだこれからも挨拶回りを残した上で、私をドライブに誘ったと。それはなぜ?

 車を借りる為にしょうがなく行ったサービスだったのだろうか。目を見開き、彼の行動が信じられないでいる私に、切間はフッと小さく笑いかけた。悪い男だからか、そもそも切間撻器という男をこの夢の持ち主である私があまりにも知らないからか。真相は定かではないが、切間は助手席に呆然と座り込んだ私に告げる。

「そんなにおかしいか。連れていきたい、だが連れていくわけにはいかないと葛藤する俺が。お前に会いに来た俺が。たった一瞬の邂逅に、時に人は永遠を見る」

 運転席から、再度手が伸びてきた。皺が多少目立ち、それでも傷一つない手は、私の有する数少ない切間撻器の記憶である。そんな手が、また私の頬に触れた。(おい、君が俺に触れるのは良いのか)と多少の苛立ちが生まれないわけでも無いが、次に触れた手はゾッとするほど冷たかった。血が通わず、脈拍すらも忘れた死者の手だ。動く道理のない手が私の頬を撫で、燃えそうな私の頬を冷やし、少しばかり名残惜し気な指先を残してまた離れていく。
 
 
「焦がれ続けろよ匠。そうしたら俺は、来年もお前に一番最初に会いに来れる。“来れる”だ。来るじゃない。この差は大きいじゃないか。なぁ、匠」

 そう台詞を残し、切間の輪郭がぼやけていく。
 曖昧な視界の中で車のドアが開き、生ぬるい夜の中に帰っていく私の背中越しに、車の走り去る音が聞こえた。
 
 
 

 ※※※
 
 
 
 気付けばソファに体を横たえたまま深夜を迎えていた。部屋の中は以前として薄暗く、私は天井をボンヤリと見つめたあと、戸棚に背を向けるようにして立ち上がる。キッチンで水道水を直接カップに注ぎ、ぐびぐびと飲み干したあとトイレに向かった。用を足して浴室の洗濯機の予約をセットし、私はリビングを突っ切って寝室へと足を進める。

 一連の行動のあいだ、戸棚の方は見なかった。あえて視線を外したまま生活を続け、私は盆が過ぎ去るまで戸棚の上を見ないでいようと思う。

 戸棚の上に飾った車は、彼が乗っていってしまったのだ。

 だから今あの戸棚の上には車の模型はないはずで、盆明けに久しぶりに見た戸棚の上に車があったら、それは切間撻器が諸々の挨拶巡りを終え、車を返しにきたからだった。

 盆が開けて再び戸棚に視線を戻したころ、私は返ってきたら車を丁寧に拭き、箱に入れてまた一年車を保管する。
 そうして来年また盆の季節になったら、また車を戸棚に飾るのだ。
 来年も、再来年も、そうやって過ごしていこうと思う。
 いつまで続くかは分からないが、切間がドライブを諦めてキュウリの精霊馬で妥協するようになるか、私の想いが焦げて灰になるまで。気長に、終わりのことなど考えずに。