開店前だというのに、外には既に三〇人ほどが待機していた。極端に太った人間と極端にやせ細ったヒョロガリばかりが並ぶ不思議な行列に梶と弥鱈は加わり、「楽しみっすねぇ」「そうですね」「僕きょう生卵とウズラ追加しちゃいますよ」「はぁ」と場を繋ぐための薄い会話を繰り広げる。
|あの《圏》弥鱈悠助立会人が多い・濃い・臭いで有名なラーメン屋の常連だと聞いた際には「弥鱈さんが二郎系の!?」と驚いたものだが、いざ列に顔を並べてみると、弥鱈の風貌は異様に周囲の空気に馴染んでいた。多分その他の面構えが大なり小なり死相を滲ませているからだろう。異様に太った汗だくの男も異様にやせ細った空咳を繰り返す男も、何となくみんな、あと数年で何かしらの大病を患いそうな気配を漂わせている。
弥鱈悠助から立ち上る不健康と不健全と不規則と不条理が入り混じった陰湿すぎるオーラが、この行列内においては完全に中和され、相対的にそこらに居る普通の人のような雰囲気にまで落とし込まれていた。素晴らしい相乗効果に梶は感動を覚え、直後に『いや素晴らしいかソレ?』と考え直す。ようは棺で半身浴してるような連中の隣で吸血鬼が寝ていても気にならない、みたいな話だった。頭も冴え運動能力も申し分ない怪傑たる立会人が、そもそもどうしてこんな生活習慣病RTAのトップをひた走るような集団の中に居て浮かないのだろう。
梶は納得が出来ない気持ちで「うーん」と唸った。弥鱈は梶の呻き声が麺の総量を決めかねたものだと判断したようで、「慣れてないなら三〇〇ℊくらいで良いんじゃないですか」と助言を授けてくれる。案外、弥鱈は親切な人間だった。梶は頭に浮かべていた失礼千万を隅に押しやり、最初から麺量に悩んでました、という顔で「じゃぁ、そうします」と言う。
「弥鱈さんはどれくらい食べるんですか?」
「まぁ……四〇〇くらいですかね」
「けっこう食べる人なんです?」
「はぁ、まぁわりと」
弥鱈の背格好に視線を移す。細身のスーツはそれでも布を余らせているようで、横から見ると腹はぺたんと薄く、弥鱈越しに次に並んだ男の腹が突き出て分かるほどだった。
「ニンニクは?」
「追加はしませんが入れますね。あとは基本全マシマシです」
「すっげぇ……てか、ニンニク平気なんすね」
「苦手なんて言ったことありました?」
「いや……なんか、ニンニクで滅されそうじゃないですか。弥鱈さん」
「誰が吸血鬼ですか。貴方の保護者よりはよほど人間味があるでしょ、私」
「いやぁー? 貘さんも確かにヴァンパイアって感じですけど、弥鱈さんはこう、吸血鬼っぽいじゃないですか」
「何が違うんですか」
「うーん、貘さんは銀が苦手で鏡とか写真に写んないって感じですけど、弥鱈さんはこう、日光に当たると蒸発する的な」
「はぁ。つまりヴァンパイアの儚い設定系が御屋形様のもので、俗的なやつが私担当だと」
「そうなっちゃいますかね」
「そうなっちゃいますかね、じゃないですよ。失礼でしょ」
「すいません」
「貴方、正直に言えば全部私が『愉快な人間だなコイツ』」で流すと思ってるでしょ」
そんなこと全く思ってなかったが、弥鱈はやれやれ、といった表情を浮かべたきりそれ以上は追及してこなかった。どうも、流してくれたらしい。梶は太陽に照らされた黒色の強い髪を眺め、少しばかり気恥ずかしくなって視線を弥鱈から逸らす。店がオープンし、前に並んでいた一群が塊で店の中に雪崩れ込んでいった。梶や弥鱈の順番はまだまだ先そうだったが、梶が尋ねるよりも早く、弥鱈は「回転が速いのであと四〇分ほどです」とおおよその待ち時間を算出してくれた。
「四〇分かぁ。美味いラーメンまでの道のりは長いですね」
「そうですかぁ?」
弥鱈の間延びした声が、妙に梶の耳に残った。
※※※
「ゆーさん今日四〇〇!? 少ないじゃない! 腹痛い!?」
着席して早々、店主と思しき男性が弥鱈に喋りかけた。弥鱈は鬱陶しそうに顔をしかめ、梶は聞きなれない呼び名に目をぱちくりさせる。
「ゆーさんって?」
「ここの店主、常連の名前を執拗に聞こうとするんですよ。私苗字が珍しいんで、上の名前がバレると面倒くさいじゃないですか」
弥鱈がバツの悪そうな表情で言う。悪い人ではないですが一言多いんですよ、と愚痴る彼の姿は、普段賭郎本部や立会で目にする、隙のない弥鱈立会人とは少し異なって梶に映った。なんというか、弥鱈は無邪気や善良を前に出されると、ちょっと強く出られない傾向にあるらしい。日頃捻くれた性格の人間ばかり好んで相手にしているせいか、ただ親愛を示す目的で名前を聞いてくる店主に対しては、苗字こそ隠しても名前はしっかり本名を伝えているようだった。
「ゆーさんって、ちょっと意外なニックネーム」
「似合ってないことは承知してます。あちらが勝手に呼ぶんだから仕方ないでしょ」
弥鱈がため息を吐く。その姿がマルコに振り回されているときの弥鱈を彷彿とさせ、梶はちょっとこそばゆい気持ちで笑みを浮かべた。
思えばこのラーメン屋だって、弥鱈のように秘密主義っぽい人間が、自身の通ってる店を知人に毛が生えた程度の梶に教えたいわけがないのだ。たまたま二郎系ラーメンを食べたがっている梶の所に弥鱈が通りがかったから同席が叶っただけで、本来なら弥鱈も一人で気兼ねなく食べたかったに違いない。オススメあったら教えてください、と他意のない梶に質問され、思わず返してしまったのが一時間前の「今から好きな店行くんですけど、一緒に行きます?」だったのだろう。
店員が二人の席を回ってきて、ニンニクや増減の有無を聞いてきた。梶はニンニクを入れて脂も多めにしてもらうよう頼み、弥鱈は慣れた様子で「ニンニク少なめ、他全部マシマシで」とコールする。店内は梶と弥鱈以外一人客のようで、謎の緊張感が麺の茹で上がりと共に高まっていた。
「確かに弥鱈って苗字、弥鱈さん以外で聞いたことないですね」
「全国的にも少ないそうです。親族以外で居ないんじゃないですかね」
「えっ、ゆーさん上の名前ミダラっつーの!? どんな字!?」
今までモヤシを盛っていたはずの店主が目敏く聞きつけ、梶の席に生卵を置きがてら話しかけてくる。眉間をいつも以上にハの字に歪めた弥鱈を差し置いて、ちゃっちゃか卵を溶き始めた梶がおもむろに言った。
「ミの字が弓へんに一人称の『称』って字の右側で、ダラは魚の鱈です!」
「なんで貴方はそう易々と私の個人情報引き渡すんですか?」
弥鱈が梶を睨む。
「へーそうなの! ごめんオジサン漢字に疎くてね! 全然分かんない!」
「あ、ミはアレです! 草間彌生の弥!」
「違いますけど」
弥鱈が突っ込む。店主が明るい笑い声で場を流し、二人の前にそれぞれのラーメンを置いた。
『慣れてないなら』と頭に付いていたにも関わらず、麺量三〇〇ℊは梶が想像していたよりはるかに迫力があった。麺やスープが見えないほどモヤシがこんもりと盛られており、大きなチャーシューが三つと、丼全体に背油と刻みニンニクが振りかけられている。
脂とニンニクに醤油。ガツンと本能に訴えかけてくるにおいだった。梶は思わず歓声を上げ、自宅の要領で手を勢いよく合わせる。
「わー美味そう! いただきます!」
パンッ、と柏手のように梶が発した音が店内を駆け抜けていった。ラーメンが届いた順に黙々と食事を開始していた周辺の客が、ひとり騒がしい梶を一瞥し、再び興味を失って自身のラーメンに向き直っていく。カァ、と梶の顔が赤くなった。慌てて割りばしに手を伸ばしたところで、隣から小さな笑い声が漏れる。
「ふはっ」
梶のラーメンより一回り大きな丼を手にした弥鱈が、モヤシを箸で摘まんだまま、堪えきれなかったというように口角を釣り上げていた。
「ゆーさん今日機嫌良いね!」
屈託のない店主の声が響く。横目に映る弥鱈が誤魔化すようにモヤシを詰め込み始めたので、なるほど確かに、ここの店主は一言多いんだと梶も察した。
ラーメンは美味かった。野菜と脂がたっぷりで、乳化したスープに太い縮れ麵が合っていた。
梶は夢中で食べながら、時々隣の弥鱈も盗み見る。無表情だが大口を空けて豪快な食べっぷりを披露する弥鱈を見ていると、自然と食欲が増して、箸の進みも早くなる気がした。チャーシューにかぶりつき、麺は生卵にくぐらせてすすったりもする。本当に美味いラーメンだった。食事も終盤に差し掛かるころ、店主がぽつりと呟いた。
「ゆーさんの友達、ゆーさん見ながらラーメン食べてんね」
びっくりして梶が顔を上げる。善良な笑顔の店主がグッドサインを掲げ、ゆーさん食べ方綺麗だもんね! と明後日の方向に賛同していた。
そ、それわざわざ言う……!?
途端に弥鱈の顔が見えなくなる。梶は抱え込むように丼を持つと、スープに沈んだ残りをひたすら集めていった。じわじわ体温が上がり、ただでさえ汗が滲んでいた体は頭から爪先まで羞恥心で真っ赤に染まる。今度は弥鱈の方から何も反応がなく、その代わり少し食べるペースが速くなったようで、それもまた怖かった。
梶は逃げるようにスープも飲み干していく。元凶の店主は、終始呑気にニコニコだった。