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 長期出張から帰ってきた弥鱈さんの指先が初めて白かったのでまじまじと見てしまった。
 
 
 白い、というのはつまり爪のことである。一センチくらいだろうか、弥鱈さんの長い指に綺麗に伸びた爪がピッタリ張り付いていた。
 弥鱈さんをはじめ立会人の人達は身だしなみにもいつも隙がなく、だから何となしに、僕は立会人の人達は爪や髪といった普通なら自然に伸びてしまう箇所でさえ自分でコントロール出来るんじゃないかと思っていた。いや、馬鹿っぽい考え方だ。『お前は立会人のことを何だと思ってるんだ』と言われても仕方ない。でも、じゃぁ立会人のことを自分と同じ普通の人間と思えば正しいんだろうか。それはそれでちょっと違う気がする。だって僕は立会人みたいな立ち振る舞いは出来ないしあんな暴にもなれない。あぁ駄目だ、話が逸れてきた。これはいけない。とにかく、つまり僕が何を言いたいかというと、
 
 
「弥鱈さんも爪って伸びるんですね」
 
 こういうことである。
 言われた弥鱈さんは目を二・三回瞬かせ、僕をじいっと見つめながら『またコイツ変なこと言い出したな』という顔をした。
 
「また貴方変なこと言い出しましたね」

 実際に声にも出された。

「だって初めて見ましたよ弥鱈さんの爪が伸びてるところ。いっつも同じ長さじゃないですか」
「そりゃ切ってますし」
「うん、だから僕、弥鱈さんの爪って成長止められるのかなって思ってました」
「そんな馬鹿な」

 弥鱈さんが自分の手元を見る。カルシウムがしっかり足りてますって感じの爪は肌にくっ付いているピンク色の部分とのコントラストが鮮やかで、もともと指が長いこともあって、手だけを見るとハンドクリームとかのCMみたいだった。

「確かにこんなに伸びたのは久しぶりですね」

 勿論成長が止まったことはありませんが、と弥鱈さんが僕を茶化すように付け加える。出張先が辺境の地で、爪切りなんていう高度な道具が無かったらしい。現地で弥鱈さんが使った刃物はサバイバルナイフと木々を掃うための斧が大半で、食事はワイルドに手づかみで食べていたそうだし、それ以外ではナタ包丁を所用で少し、ということだった。ナタ包丁の用途がちょっと気になったけどそこは質問しないことにする。なんとなく返ってくる答えが怖いのは彼が立会人だからだ。

「爪の形綺麗っすね」
「そうなんです?」
「僕の爪はもっと四角いっていうか男って感じですもん。弥鱈さんの爪はなんか女の人っぽい。丸っこくて」
「はぁ」

 どうでも良さそうな反応だった。再び指先に視線を落とした弥鱈さんは、褒められた爪を今一度まじまじと見つめて「さっさと切ってしまいますね」とソファから立ち上がる。長旅から帰ってきてようやく腰を下ろしたところだというのに、一度決めてしまうとすぐ行動に起こしたがる人だった。
 物の住所が決まっている弥鱈さんの家では、いつも同じ引き出しを開ければ必ず同じものが出てくる。今日も爪切りとヤスリを所定の場所から難なく取り出した弥鱈さんは、途中でゴミ箱を拾いすぐソファに戻ってきた。
 僕の隣に着席して、すぐに親指を爪切りの刃の狭間に差し込む。「パチン」と音がして親指の爪が短くなり、白い部分を数ミリ残した弥鱈さんは、そのまま手をヤスリに持ち替えた。

「丁寧ですよね。ヤスリまでかけるなんて」
「服に引っかかるのが嫌なんです。それに爪切りだけだと、案外尖っていたりもする」

 言いながら爪の上をヤスリに往復させる。角ばった切り口が丸みを帯び、CMみたいだったモデルの手はいつもの弥鱈さんの親指になった。
 見慣れた指は妙に愛しく、弥鱈さんが日常に帰ってきたんだと実感する。思わず親指一本しかケアが終わっていない手を掠め取ると、弥鱈さんは『仕方がない人ですねぇ』といった顔で僕を見た。顔に手を引き寄せ、弥鱈さんの長い指を自分の頬に添わせる。朝に顔を洗ったきりだから、表面は顔の脂でペトペトしてるかもしれない。弥鱈さんは僕の頬を撫で、悪ふざけするように僕の鼻を摘まんだ。爪の存在をわずかに感じる。指の延長線のように真っ直ぐ伸びた爪は、少しだけ弥鱈さんの身体を長くしていた。たかだか一センチの距離だけど、僕達はまたいっそうお互いに容易く近付けるようになったのだ。

 あぁなんか、いつもより弥鱈さんが近いな。そんな慣れないセンチメンタルを思い浮かべていた僕の口に、不意打ちで綺麗になったばかりの親指が突っ込まれる。

「んぶっ」
「こうしたって痛くないでしょう?」
「んぅ、う」

 親指が僕の舌を滑る。つるんとした爪が粘膜を引っ掻き、舌の真ん中をちょっと抉るみたいに押した。おっしゃる通りで痛くははないけど、代わりにちょっと気持ち良いので唾液がじゅわっと出てくる。濡れた口内をひとしきりまさぐったあと、弥鱈さんの指は役目を終えたとばかりに僕の口から去っていった。

「ビックリしたぁ」
「それは僥倖」
「そういえば、弥鱈さんの爪が痛かったことってないかもしれません。ていうか、あんまり爪だーって思ったことが無い。指の先が硬くてツルツルしてるってだけ」
「思いやりってやつです。私の指は、身体の繊細な部分に触れる機会が多いもので」
「……下ネタ?」
「そうやって身体に関するものを一括りに下ネタと称するのはどうかと思いますねぇ。人間は誰しも平等に内臓が繊細です。どちらかといえば保健体育の話じゃないですか?」

 弥鱈さんがそれっぽい口調で言う。一瞬納得しかけた僕は、じゃぁ日頃から内臓を他人の指にお任せしている人間が世の中にどれくらい居るんだろうと考え直した。

 繊細だという内部を自分以外に明け渡して、僕はシーツの上で「力を抜いていて」と弥鱈さんに言われるがままいつもくったりしている。急所を触り易くするために脱力する機会なんて普通の人は滅多にないわけで、だったら弥鱈さんの発言はやっぱり下ネタなんじゃないの、と思った。
 
 
 親指が整った弥鱈さんは、当然の流れで次は隣の人差し指に移行する。
 白く伸びた先端を爪切りが挟んだとき、僕は咄嗟に「あっ」と声を上げた。

「どうしました?」
「あ、いやその……」

 言葉に詰まる。ほとんど無意識に飛び出した制止の意図を辿ってみると、自分の思考回路なのにスゴいことを考えていてビックリした。なに、僕弥鱈さんの指のことそんな風に見てたの。ぐわっと顔に熱が集まり、けれど一度考えてしまった妄想は僕の頭の中でぼわぼわと大きくなって止まらなくなる。結局「爪って全部切るんです?」と聞いてしまった僕に、弥鱈さんは案の定不思議そうな顔をした。

「そりゃまぁ、部分的に伸びてるとか気持ち悪いじゃないですか」

 一本だけ爪を伸ばしている人たまに居ますけどね、と弥鱈さんが小指をピンと立てる。何気ない日常の会話を続ける相手に少しだけ居心地が悪くなりながらも、僕は爪切りの中に姿を隠した爪から目が離せない。

「あの、人差し指だけで良いんで爪残しといてもらえません? またすぐ切ってもらって良いんで」
「はい?」

 弥鱈さんが聞き返す。変なことを言っている自覚は僕にもあったけど、言われた弥鱈さんにとってはより突拍子もない発言だったらしい。分からないなりに爪切りから指を遠ざけて「何故ですか」と尋ねてくる辺り律儀な人だと思った。

「や、その、近々するじゃないですか僕ら。えっち。多分」
「はぁまぁ。爪を切ったらお誘いしようと思ってました」

 躊躇わずに言われる。だから行動が早かったのかと合点がいき、想像よりずっと早かった『近々』に息を呑んだ。
 僕は弥鱈さんの人差し指に視線を注いだまま続ける。「あの、弥鱈さんってその、僕の胸触るの好きじゃないですか。胸っていうかその、乳首的なやつを」

「そうですね、反応良いので。というか貴方も好きでしょう?」
「え? あっ、は、はい。好きです。気持ち良いし」

「はい」弥鱈さんの口元が歪む。にやにやし始めた口角を弥鱈さんの人差し指がおさえ、自重を促すように吊りあがった筋肉を上から押し潰していた。爪が弥鱈さんの肌に食い込んでいる。現金な僕は心臓の真上辺りで欲を疼かせる。

「で、ですね」
「はい」
「胸といえば、あの、撫でられるのもぎゅってされるのも僕好きなんですけど、特にその、カリカリってされるのが僕は好きで」
「はい」
「ほ、本当にあれ、カリカリってやつ、気持ち良くて」
「はい、はい」
「だからその、ちょっと爪を切るのは待ってほしいなって」

 言ってて顔が燃えそうになる。最後の方は姿勢を正したまま話していられなくなり、倒れ込んだソファの隙間から音だけを漏らした。
 弥鱈さんはクツクツだかケコケコだかよく分からない笑い声をあげながら僕の話を聞いていて、僕が撃沈してからは後を追うように自分もソファに寝転んでくる。上半身だけ僕の身体に覆い被さり、話題の人差し指で僕の顎をくすぐった。
 指よりも細かい刺激が喉を伝って下に響く。硬くて無機質で弥鱈さんの血肉から見放された彼の細胞の残骸に、翻弄されるのってなんか、上手く言葉に出来ないけどすごくエロいことのように感じた。

「せっかくそこまで教えてくれたじゃないですか。全部はっきり言ってくださいよ」

 人差し指が喉に降りてくる。喉仏を触られるとくすぐったいや心地良いと一緒に軽い嗚咽感が起こり、やっぱり喉って人間の急所なんだなぁ、と場違いなことを考えた。

「もう弥鱈さん内容分かってるのに?」
「貴方が自分の口で言った、ということがポイントなんです。『察したからもういいだろう』なんてひどいじゃないですか」

 指が鎖骨までやって来る。皮一枚挟んだだけの骨をカリカリされると、直接体の中を触られているみたいに全身の骨が連動して痺れた。口の中に唾液が溜まる。何にも食べていないのに何故か甘い味がした。

「……伸びてる爪で、カリカリっていっぱいやってほしいです。乳首真っ赤になるまで、ジンジンするまでいっぱい」

 ぴた、と弥鱈さんの手が止まる。指を寝かせて爪が触れないようにし、弥鱈さんの先がそろそろと服の中に入ってきた。うっわ、ここに来るときは爪使わないのかよ。相変わらず性格が悪い。ゴネたらもう少し色々僕が言うんじゃないかって賭けてやがる。
 えーいこうなりゃ自棄だ。僕はくるんと体を反転させ、途端に至近距離になった弥鱈さんの唇に噛み付いた。溜まっていた唾液を相手に押し付け、溺れそうになりながら弥鱈さんの舌を吸う。そっちがその気なら良いですよ。言ってやる、言ってやるとも全部。顔から火が出そうなくらい恥ずかしいことを、アイアム変態って自己紹介してるみたいにはしたないことを。言ってやる。恥も外聞もなく。でも言わせたんだから、貴方だってその分責任とらなきゃダメなんですからね。

 
「……僕がイっちゃうまで乳首カリカリしていじめてよ弥鱈さん。乳首でイくの僕すごい時間かかるし、弥鱈さんは別に自分が気持ち良いわけじゃないから面倒臭いかもしれないけど、でも僕、そうやってされたいんです。乳首カリカリってして、爪の硬いとこで僕の弱いところ全部もっと弱くしてほしい。いつもの優しい手も好きなんですよ? でも優しい手にひどいことされたら、僕はもっと貴方が好きになる。泣くかもしれないけど止めないで。僕が文句を言ったら口を塞いで聞かなかったことにして。やだって思うまで触って。僕はイヤじゃないから」
「誰にどういう教育受けるとそんな語彙が育つんです? 優勝ですよもう。優勝、最高、大正解。あー帰ってきて良かった。世の同人作家はみんな梶様を見習うべきですね」

 なんか凄いスケールのデカいことを弥鱈さんが言い出す。呆れと照れ隠しが半分ずつくらいの気持ちで「同人作家さんのことあんまり馬鹿にしないほうが良いですよ」と忠告する僕に、弥鱈さんはムッとした顔で、「貴方も俺の梶様をあんまり馬鹿にしないでください」と言った。

「凄いんですからあの人は。もうね、童貞の夢を全部鍋にぶち込んで三日三晩煮込んだみたいなコト言うんですよ。本人童貞なのに」
「その人この前『誰のせいで童貞なんだよ』って怒ってましたよ」
「私がアシストしたのは処女喪失だけで童貞死守に貢献した記憶はありません。逆恨みなんじゃないですか?」
「じゃぁ童貞捨てに行っても良いの?」
「必ず帰ってきてくれると誓うなら」

 その言い方はズルいじゃん、と思わず寸劇の合間に素が出てしまう。弥鱈さんは勝ち誇ったように笑い、ずっと服の中に入れっぱなしだった指を動かし始めた。長い指がくるくると胸の上で円を描く。まだ爪の感触は無い。柔らかい指の腹で、肌の色が濃くなっている部分の外周をなぞっていた。

「っ……ん、」

 もどかしい。でもなんか気持ち良い。マッサージを受けている時のように体の力が勝手に抜けていき、僕はソファの上で早々に大の字になった。だらんと手が落ちた手が床に触れる。首元から手を突っ込んでいた弥鱈さんが一旦体を引き、服の上から僕の脇に手を差し込んだ。ぐいっと持ち上げられ、中肉中背の体が軽々と宙に浮く。捕獲された猫みたいな体制になった僕は、次にはソファに座り直した弥鱈さんの膝の上に降ろされた。触りにくかったらしい。後ろから抱きすくめるような形を取り、弥鱈さんの手が今度は腹の方から侵入した。

「ん、ぅ……」
「まずはリラックスしましょうね」

 耳の近くで囁かれ、ついでにちぅ、と首筋にキスをされる。そんなことされてリラックス出来るか、と文句を言おうとした僕は、弥鱈さんの手が動きを再開したことでまた言葉に詰まった。
 なんだろう、例えて言うならバーベキューの種火みたいな刺激だ。これから長く火を燃やすために、まずはとっかかりを積み上げた薪の一番奥に灯されている感じ。じわじわと侵食するように火を広げて、僕が自発的に焦げるのを待っているかのようだった。

 背中に人の体温があり、時々耳や首にはふにっ、と唇が当たる。柔らかく触られていると、自分の身体ばかり強張っているのが馬鹿に思えてきた。徐々にまた力が抜けていって、後ろの弥鱈さんにもたれ掛かっていく。細長い身体をしているくせに体重をかけたって全然ビクともしないんだから憎らしい。

「ん、ん……」

 息が鼻から抜ける。快感を拾っているとモロにバレる音が部屋に響く。意図的に一番弱い箇所を避けているのが分かるので、もどかしさからくる苛立ちと『こんなに我慢したらあとでどれくらい気持ちが良いんだろう』という好奇心が同時に沸いた。触られてもいないのに先端が尖ってくる。恥ずかしい。気持ちが良い。

「ん、ぁ、……ぁ……ンっ」
「声が変わってきましたね。今なんてただの皮膚に触れているだけなのに」
「っ、いじわる言いますねっ……!」
「意地悪じゃないですよ。褒めたんです」

 弥鱈さんの指が少し内側を撫でる。普段より一センチ伸びている指先が不意に先端をかすめ、「アっ!」「あ」と僕と弥鱈さんの声が重なった。

「あぁそうか。今は爪が伸びているんでした。触っちゃいましたね」
「は、ぁ……も、もう、良いじゃないですか。触っちゃったんだし、もういっそ……!」
「ダメです。まだ」

 弥鱈さんが僕を抱え直す。がっちりと腕でホールドして、僕が身じろぎ出来ないように先手を打ってきた。くそぅ、察しが良い。どうにか動いて触ってやろうと思っていたのに、僕の目論見は外れ、また緩い愛撫が始まった。

 乳首に触れるか触れないかのギリギリの場所を撫でられ、焦れるような感覚に息が上がる。決定打を与えるつもりはないくせに、僕が指の動きに慣れてきたころを見計らって腰や肋骨の浮いた側面に軽く爪を立ててくる弥鱈さんの性格の悪さったらなかった。つくん、とした痛みに我に返り、感覚がリセットされた身体をまったりした指の動きが再度翻弄してくる。
 不思議なもので、実際に撫でられている所は胸なのに、弥鱈さんの指が触れると刺激が降ってくるのは腰の骨だった。撫でられてる胸はなんだか幸せを感じてフワフワしている。脳内麻薬が出てる感じ。なのに腰にはビリビリと直接的な快感が届いて、僕は腰から広がっていく快感の痺れについ声を上げていた。

「ふっ……ん、……ぁ、あ」

 ふわふわして幸せなんだかビリビリして苦しいんだか分かんない。口から涎が垂れると、顎まで伝う前に弥鱈さんの舌がそれを掬う。犬かよ。ベロベロ舐めるくらいならキスしてくれたって良いのに。不満を感じて唇を尖らせたら今度こそキスされる。考えてることが全部筒抜けになっているようだった。

「あぁ良いな。とろとろとして可愛い」

 満足気に弥鱈さんが言う。

 えぇそうですとも。トロトロですよ僕なんてもう。まだ全然気持ち良いとこ触ってもらってないのに、弥鱈さんに抱っこされて撫でられてるだけでもうこんなにぐでんぐでん。情けないったらない。
 可愛いんですか本当にコレ。ただヘタレなだけな気がしますけど。ていうかそんな優しい顔で可愛いと言うのなら、言葉通りに可愛がってくれても良いと思うんだけど。今のコレは、可愛がってるというか相撲部屋の“可愛がり”に近い気がする。もっとがっつり気持ち良くなりたいのに。焦らしてないでさっさと可愛がってよ、馬鹿野郎。

「弥鱈さんっ。僕もう、でろでろっすよ。ねぇっ、っ、まだ、ダメ?」
「そうですねぇ。どうしましょうねぇ」

 指二本で色の濃くなってる部分をぐにぃっと広げられ、かと思えば今度は左右から乳首を圧迫するみたいに押し潰される。血が集まって乳首の先が敏感になる。そのまま小刻みに揺らされると、僕の口から「あ、あ、」と声が上がった。もどかしいことには変わりないけど、ほんの少しでも振動が乳首に届くと気持ちが良い。
 まだ本当の性感帯に触られてるわけじゃないのに、まだお願いして残してもらった爪だってちゃんと使われてないのに。あ、あ、と声が途切れずに漏れてしまう僕を、弥鱈さんはシャボン玉まで飛ばしてご機嫌な様子で眺めていた。

「気持ち良さそう」
「あっ、ん、ぁ、っん、ぅ……」
「私まだ、焦らしプレイの段階なつもりだったんですけど。普通に喘いでますね。気持ちが良いんです?」
「ん、く……はい、きもちいいです、ぁ、なんかっ、きもちい……」
「なんか」
「だって……っ、こんなとこ気持ち良いの、変でしょ。まだ全然……ぁ、本番じゃない、のに……」
「まぁはい。そうですね。すごいなーと思ってます」
「っ、他人事ッ……あ、んたの……っせいでしょ……!」
「はぁまぁ。もう一度キスでもします?」
「んっ、……っ!? あ、ァ!? 待っ、き、キスするって言っ……っ! ひ、ぁ、ア……!」

 部屋に僕の一際でかい声が響く。ビクン! と大きく跳ねる僕の体を抑えて、弥鱈さんは『約束は守ります』といった調子でおざなりに僕の口にキスをした。
 キスしますかって聞かれて何も考えずに話に乗った僕が馬鹿だった。ちゅーしやすいようにと僕が後ろを振り返った拍子に、今までワザと中心を避けていた弥鱈さんの指が急にむぎゅぅっと乳首を抓ってきたのだ。今までのぼんやり焦れったい刺激とは違う、直接的な快感が脳天にズガァンと突き刺さる。大きな声で喘ぐ僕をまじまじと見つめ、弥鱈さんは悪びれずに言った。

「その顔が見たかったんです」
「この野郎!」

 一応怒ってはみるけど、僕の顔はいま相当だらしないことになっているだろうから多分迫力なんてあったもんじゃない。優しい手つきで撫でられ続け、じくじくと熱が燻っていた僕の身体に、突然の刺激なんてものはもはや毒だった。肉を潰される痛みと快感は僕のお花畑だった頭を真横からぶん殴り、『なにポワポワしてんだよ、お前いまセックスに近いことしてるんだぞ』と改めてあられもない現実を思い知らせてくる。弥鱈さんは僕の乳首から手を離さず、そのままぎゅ、ぎゅ、とリズミカルに僕の乳首を握り潰した。ギリギリ痛気持ち良いくらいの強さで抓られ、乳首の先端にせき止められた血が溜まっていく。抓ったままグリグリされるとまたヤバかった。敏感な箇所をすり潰すように責められ、過敏になった神経がめちゃくちゃに電気信号を出すので脳みそが焼き切れそうになる。

「ひぁ、ア! ぁ、や、あうゥ……!」

 その後も何度か繰り返され、急にパッと弥鱈さんが手を離した。乳首がぽってりと充血して、心臓が拡張したのかってくらいうるさく脈を打っている。押し潰されているあいだ止まっていた血流が一気に流れ、真っ赤になった乳首を、弥鱈さんが今までのように優しい手つきで撫でた。

「きゃぅっ!」

 僕の口から甲高い悲鳴が上がる。

「ははっ。今の声、良いですね。とっても」
「はっ……! っ、ア、ァあ! なに、これっ……!」

 さっきと手つきは変わらないのに感覚が全然違う。弥鱈さんの指を求めて神経が一致団結してるみたいに、触った場所から快感が生まれ、僕の頭の中はすぐ真っ白になった。

「あっ……! みだらさっ、や、やばっ……! あ、ん! ん! やっ、あんっ!」
「ほら、もう一度ぎゅぅってしますよ。ちょっと痛くなりますよ。頑張って」
「や、やっ! ぎゅってしないでっ……っ、……ヒ、ぅ! う、やぁあ……!」

 宣言通りまた乳首を潰される。形が変わるんじゃないかってくらい摘んだまま上下左右に引っ張られ、むちゃくちゃに首を振っていたら今度は前方向にむぎゅぅ、と押し出された。なんか乳牛になった気分だ。オスだし人間だからどれだけ搾られても何にも出てこないけど、根元から先端まで丁寧に引っ張られるとミルクは出なくても喘ぎ声はひっきりなしに出てしまう。

「あぐっ! い、あ゛っ、いたっ、あんっ、あ、ぐりぐりっ、ぁ、ん、ンンっ!」
「痛がってるのか喜んでいるのかイマイチ分かりませんね」

 口ではそう言うけど、弥鱈さんの手は止まるどころか僕の反応に悩んでいる気配すら見せない。僕が本当に痛がってる時は意外なくらいサッと手を引く人なので、結局は僕が痛がりながらも下半身をべちょべちょにしてることとか、そういうのを全部この人は把握しているのだろう。
 強い力で繰り返し抓られて、ようやく解放された頃には僕の息は絶え絶えになっていた。乳首はジンジンと熱を持ち、自分の呼吸がかかるだけで僅かに快感を拾っている。これ以上なく立ち上がった乳首はいつもより長さも太さもある気がする。あんなに沢山引っ張られたから伸びたのだろうか。「これじゃぁシャツを着ても目立つかもしれない』と真っ当な心配を考えるより先に、茹だった頭が『触りやすそうな乳首になった』と期待しているんだから我ながらどうしようもないな、と思った。

「梶様」
「ん、……は、い?」
「ずっとお待たせしていたので、そろそろご要望にお答えしようと思うんですが宜しいですか?」
「っ……!!」

 弥鱈さんが僕の顔を覗き込んでくる。めちゃくちゃ悪い顔で。

「ダメっていうとっ、思います……!?」

 この野郎、という気持ちを込めて精一杯の睨み顔で噛み付く。自分の指に良いように弄ばれてはふはふ荒い息をしているような人間なんてそりゃ怖いわけがないけど、弥鱈さんは僕への配慮とか全然念頭に無いのか、楽しくて仕方ないという邪悪スマイルのまま僕の顔中にキスを落とした。「思いません」

「こんなに気持ち良くなってるのに、まだ言えって……!?」
「貰えるものは全部貰っておこうかと」
「盗賊……!?」
「立会人です。ほら、梶様。貴方が残してほしいと言うから伸びっぱなしの爪がそのままここにありますよ。どうしますか? それともやっぱり、痛いだろうから爪を切ってしまいますか?」

 私はそれでも良いんです、と弥鱈さんが続ける。今まで散々意地の悪い顔をしていたくせに、最後だけ苦笑交じりに言うからズルい人だと心臓が跳ねた。頭まで撫でちゃってさ。なんだよ、もう。アンタ僕を責めたいのか慈しみたいのかどっちだよ。どっちもか。そういえば弥鱈さんってそういう人だった。

「……はやく爪使って」
「爪を使ってどうします?」
「乳首引っ掻いたり、ぐりぐり抉ったりして。僕の乳首いま真っ赤でしょ。いま、すごい敏感なんです。触られたらおかしくなっちゃう」
「ほう」
「だから触って」
「だから、なんですね。そうか。はい。じゃぁ触りましょうか」

 弥鱈さんが人差し指を僕の目の前にチラつかせる。おやつの骨を見せつけられた犬みたいに呼吸を早める僕をちょっと笑って、弥鱈さんの手が僕の服の中に入っていった。

「は……はっ……」

 期待で勝手に声が出る。自分のことだけど、流石にいくらなんでも興奮しすぎじゃないだろうか。変態っぽい。引かれていたらどうしようと、僕は自分と弥鱈さんの身体の間に手を差し込んで弥鱈さんの下腹部にそろそろと探った。硬い感触と、一部分だけ随分と形の変わった弥鱈さんを思い知る。あぁ良かった、と安堵したのも束の間、僕の胸に、待ち望んだ電気が走った。

「ひゃぅんッ!!」
「こら。まだ貴方だけのターンですよ」

 弥鱈さんの爪が僕のぷっくり膨れ上がった乳首を掻き始めた。薄い皮膚の上を硬いエナメル質が往復し、弥鱈さんの綺麗に伸びた爪が僕のみっともない乳首を更にみっともなくてやらしいものにしていく。この快感の為にじっくり体を用意されていた僕は、弥鱈さんの指が一往復するたびに全身をしならせて嬌声を上げた。

「あっ、あっん! やあ! あっ!」
「ほら、貴方の念願の爪ですよ。いかがですか?」
「ひゃぁあ!! あっ、きもちぃ、きもちぃですっ! あっ、つめ、いいっ……! ん、んー! かりかりっ、ぁっ! そこダメっ、そこ、かりかりって、っ! あ、……あん! あぁあっ!」

 ヤバい、気持ち良すぎる。声止まんない。
 絶対に気持ち良いだろうと思って楽しみにしてた刺激だけど、これはその、想像以上っていうか想定外というか、とにかく思ってたよりずっとヤバかった。
 潰されるよりも痛くなくて、でも撫でられるよりずっと暴力的な気持ち良さって感じである。引っ掻かれると弱い電気みたいなものが身体を走り、僕の身体は否応なしにビクビクと震えて快楽を貪った。くすぐったいような、すごく気持ち良いのにどこかで最後の決定打には欠けてるような、そんな刺激。ずっとされていたいし今すぐ止めても欲しい。あべこべな願望でぐちゃぐちゃになってる僕を、弥鱈さんの爪は機械的に、一定の強さと速度で責め続けた。

「や、あァあ! ンん! ……あッ、あっ……ぁふ、ンッ! きもちっ……! やッンあぁッ! んぁ、アッ、つめ好きっ! これ、むりぃ……!」
「あなた何時から乳首が性器になったんです?」

 カリカリしながら弥鱈さんがちょっと困惑している。
 気持ちは分かります。ちょっと普段の刺激と違うからって、胸だけでこんだけ喘いでるのはそりゃ不思議に思うでしょう。
 でもダメなんです。気持ち良いんです。弥鱈さんの長い指が鞭みたいにしなって、硬い爪が引っかかってる僕の乳首を弾くみたいにピンッピンッて責めるの。僕の散々弄られて赤くなってる乳首は風が当たるだけでも気持ち良くて、何にもしなくても快感を感じちゃうくらいただでさえ弱いのに、そんな弱い皮膚に硬くて強い爪がね、何度も刺さって、引っ掻いて、乳首の表面を優しく虐めていくんです。
 ダメなんですよもう。声をどれだけ出して快感を逃しても、僕のお願いを聞き入れてくれてる弥鱈さんは一切手を休めない。やだっていっても容赦なく同じ力で同じところを引っ掻いて、僕がどれだけギャンギャン叫んでも『可愛いなぁ』って顔で僕を見てくれる。分かっちゃうから。こんなにいっぱい責められて頭ぐちゃぐちゃになるまでおかしくなっても、弥鱈さんは僕のこと可愛いって思いながら、大事だって思いながら触ってくれてるって。
 どれだけ気持ち良くなっても許してもらえると思えば欲も快感も底が抜ける。どこまでも気持ち良くなりたいし、どこまでもおかしくなりたい。弥鱈さんで気持ち良くなりたい。
 二人で気持ち良くなるのも勿論幸せだけど、一方的に与えられて快楽の渦に無理やり頭を突っ込まれるような加虐的な快楽も僕はどうやら好きみたいだった。
 無理やりって気持ち良い。『貴方に無理をさせたくない』って思ってる人の手が与えてくるものは特に。
 
 
「かりかりっ……きもひっ……っア、! きもちぃ! アんっ、かりかりッ、ァ、もっとしてっ、もっとぉ!!」
「うーん……これ以上引っ掻いたら傷になりますよ。痛みも残ると思うんですが」
「ヤぁあ! いいからっ、傷になっても、いいの! いたくても……だからもっと、もっとしてっ、ぁ、あ! もっと、みだらしゃっ……かりかりっ、アあァあ、! んんッ……やあぁッ! ちくびしゅきっ、しゅきぃッ♡♡♡」
「貴方が良くても私は嫌なんですけどぉ~」

 弥鱈さんがムッとして僕にキスをする。指は相変わらずカリカリ容赦なく責めているのに、僕の口の中をなぞる舌は柔らかくて控えめだった。上顎を優しく撫でる舌が『ここまで乳首いじめるのは正直不本意ですよ~』と伝えてきているみたいだ。

 もしかしたら今後弥鱈さんが爪を伸ばす機会はもう無くて、僕と会う予定が出来た途端、これからの弥鱈さんは同じ引き出しを開けて毎回同じ爪切りセットを取り出すようになるかもしれない。「爪を伸ばさない技を体得しました」とか言って、僕がまた痛くなるまで気持ち良いことをおねだりしようとするのを事前拒否するかも。
 ちょっと残念だけど、偏屈な彼の『俺の大事な梶様』になってしまったんだから仕方ない。今日はたっぷり触ってもらって、明日すっかり爪の短くなった弥鱈さんに、小言をいわれながら薬を塗ってもらうことにしようと思った。