3135

  
  
 
 梶が海苔を噛み切るのと、門倉がそれ食っとるやつ初めて見た、と発言するタイミングはほぼ同時だった。パリッと気持ちの良い音の後ろに、梶は門倉の呆れるような声を聞く。
 何スか、何か問題でもあるんですか。
 コンビニで買ったネギトロ巻きをむぐむぐと咀嚼しながら、梶は不服を顔に出す。門倉はしぐれのおにぎりを口に放り込んでいて、梶としては、『しぐれの方が食べてる人少ないでしょ!』と文句を言いたかった。

「人の好物にケチつけないでくださいよ。美味しいじゃないですかネギトロ」
「いやケチつけようと思ったわけじゃないよ。ネギトロは旨い。けどコンビニのやつをわざわざ食おうとは思わんじゃろ」
「思いますよ。だってネギトロってどこで食べても美味しいじゃないですか。コンビニでも回転ずしで食べるのと同じくらい美味しい」
「えーなに、回転ずしと比較しとんの? そらあかんわ。話にならん」

 門倉が被りを振る。あかん、あかん、とワザとらしく口に出し、手袋を外した手が今度は塩むすびに伸びていた。

 普段の門倉は肉食が中心であり、周囲の同年代がメタボを心配してベジファーストを心がけるなか、彼は「しゃらくさ」などと言ってトンカツに添えられたキャベツを最後に食べたりする。外食三昧、粗食とは程遠い食生活を謳歌する門倉であるにも関わらず、彼がコンビニで選ぶおにぎりは意外なほど質素だった。当たり障りが無い、と言っても良い。まるで『仕方がないから腹を満たす為に食べています』と表明するかのように、門倉はコンビニを利用する際は梅やおかかなど素っ気ない具材を二,三選び、いつも無感動に二口で完食していた。

「あんね梶。梶はまだ若いし、経験が無いからそれが一番美味いって信じとるんじゃと思うけど、本当に旨いネギトロってそんなんや無いんよ。全然違う。もはや別もんやね。本物食った後にはなぁ、アホらしくてコンビニで二〇〇円も三〇〇円もかけて紛い物食えんわ」
「さっきからもう何なんですか! 嫌味っぽいなぁ!」

 残っていたネギトロを性急に飲み込み、梶がキッと門倉を見据える。
 勝負外で単なる知人・友人として交流するようになってから、梶はすっかり門倉に気安い態度を取るようになった。別に門倉を舐めているわけではないのだが、立会人という役職から一歩横にズレた『門倉雄大』という男は、梶にとっては豪快で楽しいアニキなのである。ちょっとくらい我儘を言っても許してくれるし、ちょっとくらい嫌なことを嫌と伝えても尊重してくれる。そんな都合良くもたれ掛かれる存在だった。

「別に門倉さんにコンビニのネギトロ巻食べろって言ってるわけじゃないでしょ? 僕の勝手なんだから、放っておいてくださいよ。僕はねぇ、門倉さんと違って貧乏舌なんです! コンビニのネギトロが一番口に合うんですよ!」

 確かに昨今のコンビニ飯は価格高騰が著しいし、梶だって本日レジに持っていった際、合計金額が想像の一,五倍ほど高かったので思わず目を見開いた。でも多少の値上がりを加味したって、コンビニのネギトロ巻はそれでも梶にとって美味しいものなのだ。海苔はあとで巻くからパリパリだし、ねっとりしたトロと主張強めなネギのハーモニーだって良い。ちょっと酢が飛んだ米だって酸味がまろやかだ。いくらでもパクパク気軽に食べられる寿司はそれはそれで価値があると思った。

「門倉さんは回らない高級すしで、僕はコンビニでネギトロ巻を食べる。それで良いじゃないですか。共に生きましょうよ」
「そんな雑なもののけ姫ある? ワシなに、サンなの?」
「いやどう考えても門倉さんはデイダラボッチでしょ」
「あのシーンでもう死んどるんよアイツ」

 正確にはデイダラボッチは命そのものなので死んではいないのだが、面倒なのでこの場は訂正しないことにする。

「ともかくですね? 僕は現状に満足してるし、知らない『本物』ってやつと比較されても困るんですよ。僕なんてギャンブラーで、いつ一文無しになるか分かんないんだから。高級なものをわざわざ覚えなくて良いんです」
「ほぉん。まぁ、梶が良いなら良いんやけどね?」

 ふいに門倉の手から塩むすびが消える。いつのまにか半分になっていたコメの塊は、門倉のぽっかりと空いた口内に消え、ものの数秒で胃袋へと飲み下されていった。

「そんでも一度、これも社会経験じゃろ。ワシに付き合ってみても良いんじゃない?」
  
  
 
 ※※※
 
  
 
「知らなきゃ良かった! 知らなきゃ良かった!」
「わぁーはっはっはっは!」
 
 梶の悲痛な叫びと、門倉の魔王のような高笑いが貸し切りの店内に響く。大将はカウンター越しに暖かい眼差しを梶に向け、ただいま叩いたばかりの身を「わんこネギトロです」と茶目っ気たっぷりに梶に手渡した。

 門倉行きつけの店だという寿司屋は、カウンターのみが数席並ぶ、いかにも高級だと言わんばかりの店構えだった。大将はこの道数十年のベテランらしく、常連を大切にしたいという思いからここ数年は看板も下げて一切の露出を控えているらしい。正に知る人ぞ知る名店というやつで、門倉の年齢でさえ、常連の中では抜きん出て若いそうだった。
 
 
「なに!? え、よ、よく分かんないんですけど!? なんかあの、食べると消えるんです! 口の中で! トロがふぁーって! 消えるのにずっと口の中にトロが居て! そんで米とトロの残った味がマッチして! なんでか米も気付いたら消えてて! えっ!? ま、マジック!? なんか食べた覚えないのに気付いたら食べ終わってるんです! なにこれ!?」
「そうじゃろそうじゃろ! 美味いんよなぁここのネギトロは!」
「なんかこの、最後に乗せてくれてるネギも美味いんですよ! この……か、カイワレ大根のネギバージョン的な? すっごい細いですね。何だろコレ、ネギの苗木?」
「芽ネギというんです」
「めねぎ! 初めて聞いた!」
「葱の苗木! だぁーっはっは!」
「門倉さんうっさい!」
 
 手を叩いて爆笑する門倉に梶がツッコミを入れる。今日の門倉はやけにご機嫌で、席についてからというもの日本酒だけを頼んでチビチビとやっている。これだけの名店なので肴も数多く取り揃えてあるのだが、門倉は酒と少々の塩だけを嗜み、ずっと梶の方を眺めていた。
 
 今日は梶がツマミなんよ、と楽しそうに門倉は言う。いちいちネタに感動する梶の反応が面白く、何を食べなくとも不思議と腹が満ちていくようだった。梶も最初こそ何も食べずにいる門倉に恐縮していたが、今となってはどうでも良い。門倉を横目に寿司だの一品料理だのを貪り、周りに他の客も居ないので、思う存分歓声とぎこちない食レポを繰り出していた。
 
「ほらな? 言うたじゃろ。本物はコンビニのもんとは全然違うんよ」
「いや、ていうか、こんなん教えられても困るんですけど! どうするんですか門倉さん。僕こんな美味しいネギトロ知っちゃって、もうコンビニのやつ食べれないかも……!」
「ええんやない? 金なら持っとるじゃろ。梶は今までが稼ぎのわりに雑なもん食いすぎ」
「だから僕の金なんて全部あぶく銭なんですって! 明日には消えてるかもしれないんです!」
「そしたら門倉さんのとこにおいで。明日も明後日も、美味しいもん食わせたる。ワシは甲斐性あるからねぇ。門倉さんの金で良いもんばっか食べて、楽しいねぇ、ツヤツヤな隆臣くんになりんさい」
 
 門倉の日本酒が尽きる。すかさず大将が新しい癇を付け、梶にはまたもネギトロを手渡していた。
 三連続で同じネタなど普段の大将からすれば珍しい姿だ。よほど梶が気に入ったと思ったか、それとも常連の門倉の意向に沿い、この店に胃袋を縫い付ける気なのかもしれなかった。