「腹減ったな。なんか作るか」
そう言って当たり前のように立ち上がったフロイドに、僕は思わず「えっ」と裏返った声を上げる。
潜伏中のホテルには小さなキッチンがついていて、深めの鍋と、やたらに年季が入った鉄のフライパンが一つずつ戸棚に入っていた。鍋だけあってもお玉がなかったらカップラーメンにお湯入れにくいよねー、なんて話していた昨日が嘘のように、フロイドは慣れた手つきで鍋に水を張り、鞄からガサゴソと食材を取り出す。パスタと塩、それに丸ごとのニンニクとオリーブオイルの瓶が出てきた。その小さい鞄のどこに入ってたんだよとも思うし、一体いつ買ってたんだと不思議にもなる。
フロイドはいつも持ち運んでいる鞄の中身を決して僕に見せようとはしない。いわく、「この中には必要最低限のものしか入っていない。フロイド・リーの中身が圧縮されて詰め込まれてるってことだ。いくら可愛いタカ坊にも、これだけは見せられねぇな」だそう。
その原理で行くと、陰謀王フロイド・リーを圧縮するとパスタと塩とニンニクとオリーブオイルになるらしい。歩くイタリアって感じだ。僕はフロイドのキザったらしい何時もクラッときてメロっとなってしまうけど、だったら仕方ないなと考えを改めることにする。イタリアに抱かれてんなら、日本男児の僕なんかひとたまりもない。
「フロイド飯作れるの? パスタ?」
「パスタ。作るってほどでもねぇが、まぁ食えるものを生成するくらいは出来るな。ペペロンチーノで良いか? ペペロンチーノしか作れねぇ持ち合わせだが」
「えー僕アレ食べたい。アーリオオーリオってやつ」
「お前アーリオ・オーリオが何か知ってるか?」
「知らない。でもなんか美味しそうな名前だなーって思ってた。フロイド知ってる?」
「おう。あれの正式名称アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」
「うわっ」
「天然でそれか? たまんねぇな」
「天然でこれです。わーやだな、なんか普通に恥ずかしい」
困らせるつもりで冗談を言ったのに、蓋を開けたらフロイドの意向に乗りかかる結果になっていた。可愛い子ぶってやろうと計算しての発言なら別に良いけど、素で相手のご機嫌を取るようなことを言っちゃったのは、なんだか素直に居心地が悪い。『別に僕あざとい仕草したいとかじゃないんで』という気持ちを込めてフロイドを見れば、フロイドは一瞬火から離れ、僕にキスをしてキッチンにまた戻っていった。
たっぷりの水にたっぷりの塩が入り、グラグラ煮詰まったお湯にパスタが投入される。パッと手放されたパスタが鍋の形に沿って丸い円を作るので、僕は思わずおぉ、と歓声を上げた。料理番組で見るやつだ。すごい。沈んでいくパスタは川の流れのようでもブロンドの髪のようでもあり、昨日ベッドから見上げた、ワックスの付いてないフ口イドの髪みたいでもあった。
「パスタの茹で時間は?」
「一〇分」
「タイマーかけるよ」
「おー。まぁ茹で時間なんか目安だからな。適当にやる」
「いやタイマーかけるんだからタイマーが鳴るまで待てよ」
「規格化されたルールより、目の前にあるパスタの声に耳を傾けるべきだ」
「パスタの声を聞く」
「そう」
「隣にいる僕の声には耳を傾けてくれないのに?」
「だーもう悪かったよ。一〇分待てば良いんだろ一〇分」
日本人は融通が効かねぇな、とフ口イドがため息を吐く。この場の日本人代表の僕から言われてもらえば、正規の時間を教えてくれるっていうんだから素直に従えば良いのだ。自分の感性しか信じられない、イタリア人代表(暫定)のフ口イドこそひねくれ過ぎだと思った。
グラグラと煮える鍋を横に、フロイドがニンニクを切る。え、結構切りますね? ってくらい切る。一部はスライスして、また一部はみじん切りにしていた。なんで切り方が違うのか聞いたら、みじん切りは最初の香り付けに使い、スライスは最後にトドメの香り付けに使うのだそうだ。いや、香り付けじゃん。結局香り付けじゃん。「だったら最後にドバっと塊入れたら良いじゃん」と指摘する僕に、フロイドは分かってねぇなコイツ、って顔をして力なく首を振った。
部屋中にニンニクのにおいが漂う。鉄のフライパンを手に取ったフロイドは、鉄だか焦げだか分からないもので側面がボコボコしてるフライパンを見て「ちょうど良いデカさだ」とフライパンを讃えた。
「あんまりデカくても扱いにくいんだよな。俺はか弱いから」
フロイドがなんか言っている。僕を抱き抱えてシャワーに連れていってくれた昨晩のことはどうやら頭に無いみたいだった。いや、もしかしたら覚えてる上で言ってるのかもしれない。僕のツッコミ待ちかも。うーん、どうしよっかな。
この手のジョークを言う時のフロイドは結構面倒臭い。歯が浮きそうな台詞を言って、僕が動揺する様を楽しそうに観察するフロイドの姿が早々に頭に浮かんだ。多分フロイドは僕が昨晩のことを言及したりなんかしたら、ケロッとした顔で「お前は軽いだろ。天使には羽が生えてるんだから」とか言ってくる。二〇歳を超えた男の僕に対して、嘘だろって思われるだろうけどマジで言うのだ。この人はこの手のジョークをなんの躊躇いもなく真顔で言う胆力があって、そういう所も含めてやっぱりフロイドは圧縮されたイタリアだった。
オリーブオイルがこれでもかってくらいフライパンに注がれ、香り付けのみじん切りしたニンニクが投入される。何故かポケットから出てきた唐辛子も加われば、一気に食欲をそそられる香りと音が室内に満ちた。
「これでパスタがめちゃくちゃ美味しかったらどうしよう。アンタって実は何でも出来て可愛げが無いんですよ。頭も良いし、僕はまたフロイドと差を感じて凹んじゃうのかな」
「そういうトコあるよなお前。自分と俺を比べて、勝手に悲しそうな顔をする。俺の出来が良ければ良いだけ、そんな俺を骨抜きにしたカジチャンの株が上がるだけだろ。俺を褒めたくなったら自分を誇れ。ダーリン、机に皿を並べといてくれるか?」
フライパンの中でじくじくとニンニクに熱が入っていく。言われるがまま食卓の用意に立ち上がった僕の後ろで、フロイドがタイマーを待たずにパスタを引き上げている気配がした。
※※※
「うっっっっまぁ……!!」
一口食べたっきり頭を抱えだした僕に、フロイドはふふんと鼻を鳴らして「だろうな。得意料理だ」とここにきて衝撃の事実を口にした。
程よい弾力の麺は中までしっかりと塩味が行き届き、オリーブオイルとニンニクのいい匂いがするソースとよく絡んで噛めば噛むほどに美味しい。唐辛子のピリッとした刺激もアクセントになっていて、シンプルなのにびっくりするくらい食べても食べても飽きる気配がなかった。
「いいか、ペペロンチーノはオリーブオイルだ。オリーブオイルで全て決まる。ニンニクは案外安いやつでも香りが強くて美味いんだよ。だがオリーブオイルはダメだ。安いには安いだけの理由があるし、何をしたって決定打に欠けた味になる」
「ほうほう。オリーブオイル」
分かったような顔で頷きもう一口パスタを頬張る。鼻からオリーブとニンニクの香りが抜け、舌には程よい塩分と唐辛子の刺激が乗った。
オリーブオイルがどうとかは正直全然分からないけど、この舌にズシッとくる満足感がオリーブオイル由来の旨味なんだろうか。あんまりイタリアンでは感じたことのない、例えばお吸い物や味ご飯を食べた時に感じるような『出汁』をフロイドのペペロンチーノには感じた。カツオとか昆布とか、全然出汁が出るようなものは入っていないのに、不思議なくらい味に奥行きがある。なるほど、オリーブオイルってすごい。僕はオリーブオイルの凄さを人生で初めて痛感したし、それはそれとして、やっぱりフロイドの鞄にそんな良いオリーブオイルが瓶ごと入ってんのは訳分かんねぇなって思った。
「えぇーうま……ねぇフロイド、これマジで美味いよ。冗談抜きで今まで食べたパスタで一番好き。もうプロじゃん。お店出せるよイタリアで」
「舐めんな。確かに俺は素人にしちゃぁ腕が立つ方だが、あっちさんのプロが作るペペロンチーノはもっと美味いぞ。お前、食ったら泣きだすかもな」
「そんなに!?」
ギョッとして目の前の皿を見る。表面がつやつや光っているパスタは、食べる前よりも輝きを増してる気がした。
確かに素人のフロイドが作るパスタにこれだけ感動するなら、本場のプロが作ったものなんて僕の想像を遥かに超えるのかもしれない。ゴクリ、と生唾を飲み込んだ僕は、再び騒がしく動き出した胃を黙らせるように目の前のパスタにがっついた。ズゾ、と時折啜ってしまう自分に気を付けながら、フロイドが多めに盛ってくれたパスタをひたすら口に詰め込む。
美味しい。
やっぱりめちゃくちゃ美味しい。
たまにスライスされたニンニクを歯が噛み締め、そうするとジュワッてオリーブオイルが染み出して、ニンニクの強い香りと絡み合った。うえええん美味い。美味すぎる。ごめんねフロイド切り方変えなくて良いでしょなんて言って。絶対変えて正解だった。二種類の切り方本当に正しい。
「泣くほど美味しいペペロンチーノも気になるけど、でも僕、こっちで十分だよ。これでもう最高に美味いもん。フロイドが作ってくれたってのも、嬉しいし」
「おっ、可愛いこと言ってくれるじゃねぇかタカ坊。そうそう、結局最後の味の決め手は愛情だからな。この一皿は格別なはずだ」
「いやごめん愛情とかはよく分かんないんだけど」
「おい」
フロイドがムスッとした顔をする。この人がこんなことでイチイチ不機嫌にならないことは分かってるけど、僕に愛情を無下にされた時に取るべきリアクションとして『不機嫌』をチョイスしてくれたことは嬉しかった。
世界におけるフロイド・リーは、僕よりも貘さんとか切間さんに近い立ち位置にいる人だ。雲の上の存在かつ、深淵の更に下に潜っている人。僕なんかじゃ本当は手を伸ばしても肺が潰れるまで潜水しても届かないはずなのに、フロイドが都度僕を迎えに来てくれるから、僕は有難いことに彼と出会い、抱き締め合い、手料理を振舞われている。
食欲の赴くまま食べ進めていたペペロンチーノは、あっという間に皿にあと数本を残すのみになった。結構な量を食べたはずなのに、美味しさとニンニクの香りで馬鹿になった胃袋はもっと食べたい! と暴れて僕の唾液を増やす。
名残惜しく意地汚く、途中から一本ずつちゅるちゅるとパスタを啜っていた僕は、ちらりと盗み見たキッチンに未だ手つかずの乾麺があることに気付いてしまった。
「あのぅ、フロイド……」
おずおずと、一応気まずさと申し訳なさを感じていると相手に伝わるよう表情を作ってフロイドを見る。フロイドもキッチンに視線を移し、「おぉ……まじか」と若干引き気味に状況を飲み込んでいた。
「俺けっこう作ったぞ。最初に。まぁお前がまだ食えるって言うなら作るが」
「うん、僕もなんならいつもより多めに食べたとは思うんだけど……でもその……お、美味しすぎて………」
言いながら僕は空になった皿を恭しくフロイドに差し出す。麺をさらうことは勿論、側面にへばり付いていたトウガラシやニンニク片まで僕はほとんど食べ尽くしてしまっていた。あとには皿にオリーブオイル溜まりだけが残り、照明に反射して皿がキラキラ光っている。
「おかわり……」
「一応言っとくが、オリーブオイルもニンニクも成分は強いぞ。腹壊しても知らねぇからな」
「分かってる……だから今日はもう……フロイドとちゅーするのもえっちすんのも諦めます……!」
「お前それ相談も無しに諦めるなよ」
今度こそフロイドが心底、って感じでムスッと不機嫌な顔になった。渋々と席を立ち、「なんだろうな、勝負に勝ったが負けた気分だ」とのったりした動きで鍋に水を溜める。
「ごめん……でもさ、もとはといえば美味しいパスタ作ったフロイドが悪いと思うんだ」
「何だそれ歌のネタか? 初めて一途になって悪かったなクソが」
「いやそこ通じるのかよ。ほんとフロイドって知識の幅が訳分かんないよね。それで本当にイタリア人なの? 日本人じゃなくて?」
「イタリア人?」
「フロイドってイタリア人なんでしょ?」
「俺にイタリアの血は流れてねぇぞ」
「……嘘!?」
「四代遡ればあるいは入ってるかもしれねぇが、少なくとも知ってる中には居ない」
「歩くイタリアなのに!?」
「何言ってんだお前」
フロイドがニンニクをみじん切りにする。「手がニンニクくせぇ」と文句を言って、それでもフロイドは律儀に二通りの切り方をしたニンニクを用意して、大きさの丁度いいフライパンにはオリーブオイルを、あからさまな溜息と一緒にサラサラと鍋肌に注いでいた。