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「弥鱈さんって可愛い人ですね」
 
 
 資料を留めるホチキスがまた一度パチンと鳴り、梶の手元には冊子に進化した資料の束と、何とも言えない表情をした弥鱈の「そうですか」が残る。

 定例会議用の資料準備など、本来は立会人の仕事でも、御屋形様の右腕たる梶の仕事でもなかった。大雪の影響で帰宅が困難となり、僕いま暇なんで雑用やりますよ、と名乗り出た梶の後ろを、何も言わないまま弥鱈がひょこひょこついてきた結果始まった事務作業だ。
 梶には弥鱈が自分の後を追ってきた理由が分からなかったし、てっきり資料の作成者か、ないしは会議の進行役なのだろうと予想を立てていた。
 だから「立会人の人って責任感ありますね」と褒めそやした梶をキョトン顔の弥鱈が眺め、「そういった人間が多いとは思いますが、いきなりなんです?」とたずねてきたときには、そこでようやく弥鱈が単純に自分に付いてきただけだったことを悟り、「えっなんで居るんですか弥鱈さん?」と身もふたもない質問をしてしまった。

「僕は雪降っちゃって電車止まってるから帰れないんすけど、弥鱈さんも電車通勤なんです?」
「いえ、私はマイカー通勤です」
「あっそうか分かった、ノーマルタイヤなんだ。滑っちゃうから帰れないんですね?」
「ちゃんとスタッドレス履いてますよ。チェーンも後ろに積んでますし」
「じゃぁ帰れるじゃないすか」
「はぁ」
「なんで居るんです?」
「はぁ」

 追求したものの、弥鱈はのらくらと梶を躱すのみだった。
 印刷物をページ番号を守りながら一つにまとめ、ホチキスで留めて簡易的な本にするだけの簡単な作業を、弥鱈は梶の隣に張り付いて如何にも『早く終わんねぇかな』と言いたげな顔でこなしていく。技術も才能も要らない単純作業を、立会人という才能の塊がひたすら行う姿は梶の目にシュールに映った。元々器用な人物なので、いまいち乗り気でなくとも弥鱈は凄まじいスピードで書類を冊子に変えていく。ぶっすりした仏頂面と繊細かつ丁寧な指先は、直線で結べばほんの三〇センチ程度の狭い空間内に同居していた。嫌なら止めればいいし、そうでなくとも雑にこなすという選択肢だってある。なのに弥鱈はそういった妥協はせず、ただただ嫌そうに、しかし実に丁寧な仕事をしていた。
 最初こそ『なんで居るんだろう』と思っていた梶は、弥鱈の仕事ぶりを見ているうちに口元がニヨニヨとむず痒くなっていくのを感じた。弥鱈がやたらめったら運営管理を任されたり、ことあるごとに貘に絡まれ、厄介ごとを押し付けられている理由が理解出来た気になってくる。一連の動作に滲む弥鱈の器用貧乏が無性に可笑しく思えて、「僕けっこーこういう単純作業好きなんですよね。弥鱈さんは?」とあえて話題をフッた梶は、案の定弥鱈が「嫌いです」と不機嫌そうに返したので、いよいよ耐えられなくなり、冒頭のセリフを口にしたのだった。
 
 
  
  
「───可愛いといわれても、反応に困ります。どうしたものか」

 トントン、と弥鱈が書類の束を整える。
 ホチキスには迷いがなく、そのくせ弥鱈が作った冊子は、どれを見ても同じ位置に同じ角度で針が刺さっていた。

「やーここは『ありがとう』でどうですか? 嫌味とかじゃなくて、僕本当に本心で言ったんで。なんか可愛い一面あるんですね弥鱈さん。良いと思います」
「はぁ、どうも」

 弥鱈が頭を下げる。梶の手前礼は言ったが、おそらく弥鱈自身に納得はいっていないようだった。仏頂面のまま斜め前に頭を倒した姿は、見方によっては訝しんで首を傾げたようでもある。

「あとこれ、自意識過剰かもしれないんで流してくれていいんですけど」梶は続けて、頭に浮かんだ仮説を口にする。「弥鱈さんもしかして、僕のこと最初、車で送ってくれようとしてました?」

 思い返すと、黒服に作業の有無を聞く前から弥鱈は梶と同じ場に居合わせていた。作業を請け負った梶の後ろを黙って着いてきたのも、不本意そうだが進行形で作業を手伝ってくれているのも、仕事が終わった梶を回収するためだと思えば辻褄が合う。
 梶にとって弥鱈悠助という男は、そっけないようでいて困っている人間は放っておけないというか、立会人の中でもわりと人情味があるタイプなイメージである。勿論賭郎勝負中はその限りではないが、仕事上がりに雪で立ち往生している梶を見つけたら、自分の車に乗せるくらいはしてくれそう、という人物評だった。

 たまたま退勤時間の被った梶を車に乗せてやろうとして、しかし梶が事務作業を請け負う姿が見えたので、弥鱈は見捨てたり作業を中断させるのではなく、自分が手伝うことで梶のあがりを早めたのではないか。

 梶は弥鱈と本部で顔を合わせるうちに、不器用だが根が真面目な弥鱈を『いい人だ』と捉えるようになっていた。正直に送迎の話を出さなかったのは、きっと性格がひねくれている弥鱈のことなので、自らの善行を白状することが気恥ずかしかったのだ。

「僕の作業がはやく終わるように、弥鱈さん、手伝ってくれてるんですね」
「まぁそれはそうですね。はい。手は多いほうが早いので」
「いい人だなぁ」
「はぁ。そういう判断って、そんな軽率にしないほうが良いと思いますけどね」

 ほわほわと表情を綻ばせる梶に対し、弥鱈はいっこうに無表情のままだった。手だけは何かに急かされるかのように淀みなく動いているが、伏目から覗く瞳は掴みどころがなく、彼の特徴的な癖である唾玉同様に宙をふわふわ漂っている。

「梶様が仰ったことですが、大枠は当たってますけど、厳密には不正解です」
「え?」
「確かに貴方を拾って本部から出るつもりではいました。ただ貴方を車に乗せて、帰ろうと思っていたのは私の自宅です。折角の雪だし、どうせ朝帰りなら本部で泊まろうと私の部屋に泊まろうと関係ないと思って」
「え、家? 弥鱈さんの?」

 なんで? という梶の呑気な困惑と、弥鱈が最後の書類をトン、と整える音がちょうど重なった。突然飛び出したワードを咀嚼出来ずにいる梶を横目に、弥鱈はパチン、とホチキスを留め、積み上がった冊子を律儀に一〇部ずつの山に分ける。
 不機嫌一辺倒だった弥鱈の表情が僅かばかり緩んでいることに気付き、梶はほっこりすると同時に、なんとなくドキリともした。
 
「先程の言葉に反論します。お言葉ですが梶様、私はそう可愛い人間ではありません。可愛いと貴方が油断してくださるならそれでもかまいませんが、 “騙された” なんて思われたらやりにくいじゃないですか」
 
 気付けば弥鱈によって作業は全て終わり、室内の電気は切られ、梶は誘導されるまま部屋を出ていた。アレ、と梶が思う頃には黒服への連絡まで済んでおり、弥鱈は「直帰する旨を伝えました。車は地下に」と当たり前な顔をして梶を自分の車に乗せようとする。
 退室時に梶の背中を押した手は廊下に出ても梶のシャツに居座り続け、今は心なしか抱き寄せるような手つきで梶の腰辺りに巻き付いていた。梶は鈍くとも察しが悪い人間ではなく、弥鱈が日頃スキンシップを好まないことだって、勿論知っている。

「あ、あのぅ、弥鱈さん」
「はい」
「その、いくつか質問が…」
「はぁ。いくつか、というのは困りますね。端的に、出来たら質問は一つでお願いします」
「え、えぇ……」

 そちらが爆弾を投下してきたくせに、アフターフォローの粗雑さに梶は思わず声を漏らす。梶には弥鱈と自分の、色んな意味で今後の行き先が分からない。到底一つに絞りきれない疑問や混乱が渦巻いていたが、前を向いたままずんずん進む弥鱈には、交渉の余地がないように思えた。
「えと、じゃぁ…」不本意だが弥鱈のペースに合わせるしかない。梶は脳内に乱立する質問から一つを掬い上げ、いつの間にやら横にあった弥鱈の顔にそれを投げた。「や、やりにくいって…?」

「あらぁあ。よりにもよって選んだ質問がそれですか」

 嫌味たらしく間延びした声と、ケケ、と絵本に登場する魔女のような笑い声が梶の頭よりほんの少し高い位置から降ってくる。てっきり即答が返ってくると思っていた梶は、自らは梶に端的性を求めたくせに、素知らぬ顔で梶を揶揄う弥鱈にギョッとした。弥鱈が難しい人間だということは前々から知っていたが、それにしても彼は、こんなに意地悪なことを言う人だっただろうか?
 目を白黒させる梶を、弥鱈はケケケ、と再び魔女の笑顔で見つめる。いかにも捻じ曲がったそれらの反応は、知らなかったが、弥鱈の本来の立ち振る舞いらしかった。
 
 
「聞きますかぁ? 言ってもいいですけど、可愛くはないですよ」