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 門倉さんが床に突っ伏している。別に寝てるわけでも、古傷が疼くからうずくまっているわけでもない。単純に笑いすぎで立っていられなくなったのだ。正に抱腹絶倒、読んで字のごとくだ。
 僕はそんな門倉さんを冷ややかな目で見降ろしている。口の中には今も魚介の旨味が広がっていて、鼻に抜ける香りたるや、磯が主張しすぎてちょっと胸焼けがするレベルだった。

 こんなに生臭くて商品として成り立つのか。
 いや、成り立つか。そりゃそうか。だって別に僕用に売られてる商品じゃないもんな。

「いつまでそうしてるんすか門倉さん」
「そんなん……! か、梶が、缶詰手に持っとる以上は無理よ。立てん……!」
「そんなこと言ったって! だってまだ半分残ってんですよ? 仕方ないでしょ!」
「なんで仕方ないになるんそれで! えっまさか全部食うつもりか!? 分かったうえで!? なんでそう面白いんじゃおどれは!」

 門倉さんが床の上から叫び、またゲラゲラと何の遠慮も無く笑う。「“今日は猫の日”って広告の下にあったんやろ? 分かれよ!」と門倉さんは言うが、僕だって食品がスーパーの日用品コーナーにポツンと置かれていたら「なんか変だぞ」と感じることが出来たのだ。けど猫の日だから、大特価だからとかで、今日の限って缶詰がレジ近くに配置されていたら、そりゃぁ勘違いしたって仕方ないじゃないか。

 見たことのないデザインは「新商品なのかな」という仮説で簡単に納得がいったし、カツオ味という馴染みのない味の表記も“シシャモとして売ってるシシャモは本当はシシャモじゃないらしい”の豆知識で瞬時に受け入れることが出来た。大体、スーパー側も並びをもうちょっと考えてくれても良かったと思う。乾パンや干し芋なんていう変わり種の保存食たちと同じ並びで置かれていたら、思うじゃないか、「あ、人間の食べ物なんだ」って。今日缶詰安いなって。あーそういえば最近缶詰って食べてないから今日のつまみこれにしよーって。思うよ。あれはスーパー側も悪いだろ。

 門倉さんを見つめたまま箸で缶詰の中身を掬う。マヨネーズと醤油を入れてぐちゃぐちゃに掻き混ぜた即席おつまみは、においがキツい分、粗悪なアルコールの代表格であるストロング系チューハイといやに相性が良かった。
 
 猫用缶詰五八円。このお値段で完全栄養食として成り立ってるらしい。優秀である。
 
 
 
「いやまだ食うんかい。どういう感情で食べとるんソレ? 旨いの?」

 もぐもぐと咀嚼してたら今度は門倉さんが呆れ口調になって尋ねてきた。床の感触に飽きたようで、今は床に胡坐をかき、頬杖をついて僕を物珍しそうに見つめている。

「癖は強いけどわりとイケますよ。ストゼロとの相性良いです」
「その事実に気付いた奴、人間サイドにも猫サイドにも梶以外に居らんやろうね。まぁ曲がりなりにも元々食いもんじゃし、そこまで体に悪いってもんでも無いだろうが。え、本当に食べきるつもりなん?」
「一応。だって食べ物だし。勿体ないし」
「その姿勢は偉いと思うけどねぇ」

 門倉さんが頭を掻く。さっきまで馬鹿笑いしていた門倉さんは、少し冷静になったことで猫缶を普通に食べ続ける僕のへんてこさに気付いてしまったらしい。僕が箸を動かすたびに門倉さんは複雑な表情をして、節の大きな手は何度か『あの、もうその辺で……』と酔っぱらいを止める店の人みたいに宙で固まっていた。言いたいことは山ほどあるけど最初の一言が切り出せない。門倉さんは、そんな顔で僕を見ている。
 門倉さんの目に猫缶を食べる僕の姿はどう映っているんだろう。舌馬鹿や悪食だと引かれているか、もしくは幼少期にろくな飯をもらってこなかった弊害だと憐れみや同情の目を向けられているか。なんならマジで猫缶を食べて育ったと思われてさえいるかもしれない。野良猫が近所のおばさんに貰ってるご飯を興味本位に食べたことがあるので、どれも全否定できないのが悲しいところだった。
 缶詰を食べ進める。口の中が魚臭さでいっぱいになり、飲み込みにくくなってきたのでストゼロで一気に流し込んだ。炭酸が舌を叩き、アルコールの波に乗って魚達は胃袋へと泳ぎ去っていく。ぷはぁと一息ついて、込み上げてきたゲップを喉で殺した。胃から上がってくる魚の風味が強烈で、うへぇと口を開けた僕にゲップの追撃がかかる。ケプッと声が漏れてしまったことを恥ずかしがっていたら、門倉さんが「ゲップは照れるんかい」と今回は小さい声で笑った。

「作り話であるじゃろ。飼っとった猫が人間になるとか、そういうの」
「ありますね」
「あれをね、今見とる気分。人間はいろんなもん食えるんやからどんな御馳走でも用意したるって言っとるのに、『これが良い』ってかたくなに食べ慣れた缶詰を手放さんとモグモグ食べとる猫。今の梶はそんな風に見えるわ」

 門倉さんの例え話に目を見開く。確かにそういう設定や描写は漫画などでよく見るものの、門倉さんの知識の中にその手の設定が『お約束』として定着しているのがなんだか意外だった。漫画なんて読まないか、読んでもミナミの帝王くらいだと思っていたのに。もしかしてミナミの帝王に主人公が猫に切り替わる話があったり? いやいやまさか。それにミナミの帝王の主人公が猫になったところで、食べるのは特売57円の猫缶じゃなくて本マグロを茹でてほぐした一級品だ。たぶん僕みたいなことにはならない。何の話をしてたんだっけ。

「ちなみに門倉さん的には、そういう猫をどう思うんですか?」
「そうねぇ。意地っ張りっちゅうか頑固っちゅうか、不器用やけど可愛いんやない?」
「ふーん」
「あと人間になった姿がタイプでね。可愛えけぇ、ちょっとの奇行は目ぇ瞑るわ」
「へぇー。ほーん」

 箸を缶詰に突き刺す。ぐるぐる掻き混ぜてまた中身を掬う。
 門倉さんは呆れることにも飽きたようで、今は僕を優しい顔で見ていた。飼い猫を見守る飼い主の表情ってこんな感じなんだろうか。門倉さんの順応性にちょっと驚きつつ、僕は猫缶を咀嚼して戯れで「おいしいにゃぁ」と言ってみる。
 美味しいにゃぁ。ご主人の買ってくれた猫缶は最高だにゃ。
 実際は自分で買ってきて自分で味付けして自分で食ってるんだけど、人間になったばかりの猫がそんなこと出来るわけがないので、まぁ設定上少々の事実は改変。すると暫定飼い主の門倉さんは目を見開き、すぅっと柔らかく片目を細めた。

「猫の梶が知らんだけで、人間の飯にはもっと美味いもんがあるよ。食べる?」
「もっと美味いもの? 信じられないにゃ」
「なんでウチの子こんな猜疑心強いん?」

 ご主人を信じんさい、と僕の頭をクシャクシャと撫でて、門倉さんはようやく床から立ち上がる。人間の食事を作るために冷蔵庫の中身を物色しながら、門倉さんが背中越しに「猫缶で腹いっぱいにならんよう、食べるのは一旦ストップなー」と多分本当はいの一番に伝えたかったであろう要望を口にした。