知らない天井ではない。でも、知らない朝ではある。
梶は目を開き、そのまま横に視線をやった。ギョッとするほど美しい白髪の麗人が、涎を垂らして眠りこけている。
「……んごっ」
「んごって」
「ごが……んご……」
「イビキ独特だな。無呼吸症候群とかじゃないよな?」
目を閉じていても依然として人形のように整った容貌だが、その実麗人からは、血の通った人間だけが発しそうな音がする。
梶は昨日この麗人とベッドを共にして、彼が熱っぽい息を吐いたり、心臓が踊りすぎて自分の上で過呼吸になっているところを目の当たりにした。いろんな意味で人外的な魅力を有している麗人は、性を吐き出すその瞬間はビックリするほど情けなく人間だった。精液と鼻血を同時に噴出して、「ごめん、もう出ちゃった」とへんにょり顔を顰めた彼は、そのままベッドに落ちると気絶するように眠ってしまった。人間味に溢れた麗人の一連の姿は見ていて喜ばしかったが、梶は、出来たらもう少し生活習慣を疑わなくても済む健やかな人間味を麗人に出してほしいとも思っている。
覚醒した頭には周囲の情報が次々と飛び込んできて、梶は今が早朝で、最終的に二人が揃って寝落ちしていた状況も続け様に把握した。枕元には昨日土壇場で充電器に差し込んだスマートフォンがあったが、差込口が反対だったようで、結局一晩かけても充電は進んでいない。充電開始の音に気付きもしないなんて、昨日の自分は余程いっぱいいっぱいだったのだ。梶は苦笑して端末の差込を逆にする。「ブォン」とスマートフォンが鳴り、小さな音を目覚ましに、梶の隣で麗人が身じろいだ。
「………おはよ、梶ちゃん」
「おはようございます、貘さん」
「へへ……しちゃったね」
「あはは……そうっすね」
麗人改め、貘が微笑む。口の端の涎を拭う姿さえ画になっていた。
貘の起床を皮切りに、梶はついに決意すると体を伸ばし、自分の全身に不具合がないかを感覚で探る。上半身にはこれといった違和感がなく、初めて口にする液体が滑り落ちていった食道も、荒れるだとか苦みが残るだとか、特筆する点は無かった。ただ下半身は、お世辞にも通常運転とは言えない。前側はいやに清々しいものの、後ろ側はどんよりとした重みが残り、特に窄まりにあたる部分は、淵をぐるっと一周して熱を持っていた。サーモグラフィーで見たらそこだけ赤い輪っかになって表示されそうである。僅かに眉を潜めた梶を目敏く見つけ、貘は気まずそうに「ごめんね」と口にする。
「もうちょい上手く出来たら良かったのに。すっごい痛い? 立てない?」
「やー全然。違和感はまぁあるけど、立てないって感じではないですね。走るとかも出来ますよ。ジム行きます?」
「行かねぇよ。なんでだ」
「だってなんか、平気なとこ見たいかなって」
「いーよ頑張ろうとしないで。痛かったら痛かったって言っていいし、下手くそって思ったんなら下手くそだったって怒っていいんだ。梶ちゃんはそんだけ無理させられたんだよ。俺の気持ちなんて、無視していい」
貘の手が梶に伸びる。頭を撫でくりまわしたあと、手は梶の癖っ毛を柔く梳いた。
元々兄弟と師弟を兼ね合わせたような間柄だったので、貘が梶の頭を撫でるという機会は今までにも幾度かあった。貘は好きな人間に対してスキンップが多くなるタイプだし、梶は表面的なパーソナルスペースが極端に狭いのだ。二人は恋人になる前も恋人になってからも「距離感近すぎでしょ」と同じ台詞で呆れられてきて、けれど梶の記憶上、こんな如何にも『恋人です』という触られ方は初めてだった。
友人時代からベタベタ触り合っていた分、恋人時代に突入しても二人のスキンシップに大きな変化は見られなかった。あえて言うなら選択肢にキスが増えたくらいだ。今更変わりようがないと思っていた箇所に明確な変化を感じ、梶はあぁそうなんだ、と噛み締めるように思う。
別に今までも恋人だった。関係性が未熟だったとか、紛い物だったなんてことは言いたくない。でも昨日と今日の二人はきっと違う。体を重ねるとは、そういうことなのだ。
「俺ね、梶ちゃんとえっち出来て幸せだったよ。君は?」
「すっげぇ幸せでした」
「良いね」
「てかね、貘さん」
「ん?」
「幸せでしたっていうか、幸せなんです。過去形は変ですよ」
梶が胸に擦り寄ると、珍しいことに貘は「ひょえっ」と高い声を上げて固まってしまう。
素肌に寄り添うことも、そういえば昨日までしたことがなかった。つるりとした白肌は近付くと貘本来のにおいがする。
頬ずりをしたい。しかし寝起きは髭が生えてるかもしれない。
「貘さん、ちょっと顔洗ってきて良いですか? 髭剃りたい」
「だっ、ダメ! ダメダメ!」
「えぇ~? なんでっすか」
「俺たち今いちゃいちゃタイムだから! 離れちゃダメなの! や、あと一時間はさ、ベッドから出ない方が良いと思うんだよね! ほら積もる話もあるじゃん? 今後のこととかもさ!」
「そりゃ話すことはたくさんありますけど……裸で一時間、いちゃいちゃ?」
「安心して梶ちゃん。俺は紳士だよ。昨日の今日で梶ちゃんに無理はさせない。見抜きで乗り切る」
貘が自信ありげに宣言し、「だから……」と急に弱弱しい口調になって梶の背中に手を回す。密着した肌は熱く、乾いた汗がお互いに張り付いてベトベトした。昨晩をしっかり引きずった体は痕跡と余韻にまみれていて、梶は(本当に一時間もいちゃいちゃして大丈夫?)と心配になる。
貘よりも、自分の忍耐力に自信が無かった。無理は通せる性分だし、過去形ではなく今も梶は幸せだ。こんな状態で一時間もいちゃいちゃしてしまったら、ヒリつくような痛みを訴える後ろの主張を無視して、梶は貘に、「もっと幸せになりたい」と願い出てしまうような気配があった。